今月の薬師詣では下館(筑西市)を歩きました。
南流山でつくばエクスプレス、守谷で関東鉄道へと乗り換えます。
守谷で乗り換えたのは下館行の快速。電車ではなく気動車です。
守谷から四十六分、下館駅で降りました。JR両毛線、真岡鉄道も乗り入れています。
駅前の通りは、土曜日だからか、土曜日なのに、というべきか、歩く人の姿をほとんど見かけませんでした。ふと、まだ身体が動くうちに死期を悟ることができたら、こんな街に引っ越して最期を迎えるのもいいかも、と思いました。
下館駅から二十五分、最初に訪れたのは下館城跡。本丸跡ですが、いまは小さな八幡神社があるだけです。
築城の歴史は古く、五百五十年も前の文明十年(1478年)、水谷(みずのや)勝氏が初代城主として再建し、三代勝之のとき完成、以来水谷氏の居城となりました。濠を三重に巡らせていたので、別名「螺城」とも呼ばれました。
寛永十六年(1639年)、水谷氏が備中成羽に移封後、松平氏、増山氏、黒田氏の治世を経て、享保十七年(1732年)、石川総茂が伊勢国神戸から入封。明治維新に到って、明治二年、廃城となりました。
下館最初の薬師詣では金井薬師堂。下館城跡から徒歩十分。
廃寺となった大徳寺の境内にあります。大徳寺は下館城と同じ文明十年、水谷勝氏が創建。現在の堂宇は元禄四年(1691年)に再建、昭和五十九年に屋根などの修理が施されたものです。
境内の大欅。
金井薬師堂から次の蔵福寺薬師堂へ向かう途中、旧国道50号線にありました。
道を挟んで向かい合う、ともに荒川家住宅。画像上は現在は荒七酒店の洋館と店蔵、下は荒為という卸問屋の主屋と旧店蔵です。ともに国登録文化財。
金井薬師堂から十二分で蔵福寺薬師堂に着きました。由緒については資料がなく、何もわかりません。
蔵福寺本堂。
正中二年(1325年)、下館城跡の北方にあった地蔵堂に時宗一向派二祖の礼智同阿上人が留錫したのが始まりと伝えられています。寛永七年(1630年)、八代下館城主・水谷勝隆が現在地に移転。昭和十七年、本山蓮華寺(滋賀県米原市)が浄土宗に転属したのに伴って浄土宗に。
スズメバチに注意! こんな掲示を見かけてしまったので、早々に退散することにしました。
蔵福寺から十分。小高い丘の上に薬師町の薬師堂がありました。
もと曹洞宗鳳来山慶林寺(明治年間に廃寺)の寺域です。
昭和四十五年に付近で古墳(薬師古墳)が発見されています。人骨二体を合葬し、鉄鏃一八、槍先一、刀子二などが副葬されていました。この古墳から遅れること五年、昭和五十年に同じ筑西市内で発見された野殿(のどの)古墳と同一の構造で、ともに古墳時代後期のものと考えられるということです。
この日の最後に曹洞宗妙西寺を訪ねました。
天正十四年(1586年)、六代下館城主だった水谷政村が母の冥福を祈るために、結城の安養寺から天秀真慧大和尚を開山に迎え、母を開基として創建。山号(祥雲院)と寺号は政村の母の法名(祥雲院殿妙西大姉)に由来しています。それ以前は善陽寺という真言宗の寺であったということです。
安養寺は今年正月の薬師詣でをしたときに参拝しています。
本堂のある境内とは道一本を隔てて、加波山事件志士の墓がありました。加波山事件(1884年)に加わった十九名のうち、平尾八十吉、富松正安、保多駒吉、玉水嘉一の四基の墓碑です。
曹洞宗のお寺なので、本堂に参拝したあとは歴住の墓所に焼香参拝というのが私なりの流儀なのですが、墓地は三か所に分かれていて、それぞれ眺め渡しましたが、卵塔らしき墓石は見当たりません。
帰りの列車の時間が迫っていました。一本逃すと、三十分は待たなければなりません。山門を通して眺められる本堂に「申し訳ありません」と手を合わせて立ち去ることにしました。
→この日、歩いたところ。