今月の薬師詣では千葉県佐倉市にある二か寺を訪れました。
一つは周徳院。ここは四年前の九月八日の薬師詣でで参詣しています。もう一つは初めて参詣する密蔵院の薬師堂です。
出発前に地元の慶林寺に参拝。今日はたまたま門が開けられていました。
佐倉を訪れるのは四度目になります。厳密にいえば、目的地は佐倉ではなかったけれども、電車を降りた駅が佐倉市内にあった、という場合を含めると、五度目ということになります。
北小金から新松戸~西船橋~船橋(京成船橋)と乗り換えて、京成佐倉に着きました。所要時間六十八分。朝のうち、体調が思わしくなかったので、出発が遅くなり、着いたのは昼過ぎになりました。
この日参拝する二か寺の最寄り駅は、この京成佐倉駅ではなく、JRの佐倉駅なのですが、何ゆえに最寄り駅を利用しなかったのかというと、前回訪れたときに、すぐ近くまで行っていながら、入口がわからず、少し離れたところから眺めるだけで、参拝できなかったお寺が京成佐倉駅近くにあるからなのです。
他宗派のお寺なら、入れなくても構わないし、薬師詣での日に、薬師如来をお祀りしているわけでもないお寺へ、わざわざ遠回りして行く必要もないのですが、我が宗派(曹洞宗)の勝全寺というお寺なので、私としてはどうしても寄って参拝して行かなくてはならないのです。
私はお寺巡りをするとき、自分が信じる宗派(曹洞宗)のお寺の前を通りかかれば、お邪魔して本堂に参拝するだけではなく、歴代の住持様のお墓にも参拝するのを常としています。
格別著名なお寺でなくとも、そのお寺を開いた大和尚がいらっしゃって、二世、三世~と受け継がれてきたからこそ釈尊正伝の仏法が伝えられてきた。そのお陰で私の信仰があり、そのうちの一寺が欠けても、正伝の仏法は伝えられなかった、と信じるからです。
勝全寺は京成佐倉の駅から歩いて八~九分のところにあります。
本佐倉城主・千葉介勝胤(1471年-1532年)の三男・幹胤が、天文年間(1540年ごろ)に鹿島山で築城を始めた際に、一寺を建立しました。それが勝全寺であると伝えられています。
その後、勝胤の曾孫・邦胤(1557年-85年)が築城工事を再開したときに、宮小路というところに移され、さらに江戸時代に入ると、土井利勝による佐倉城築城が始まって、現在地に再移転を余儀なくされた、といわれています。
宿願であった歴住の墓所への参拝を終えました。先方(お寺)では、別にきてもらわなくてもいいと思っているでしょうが、私としては折角参拝したのに、あまり整頓された墓所ではなかったことに少しがっかりさせられました。
勝全寺をあとにすると、こんな急な下りの坂道でした。
自分では毎日の散歩を欠かさず、十全とはいえないまでも、それなりに足腰の鍛錬はできていたつもり……でしたが、高所恐怖症も日一日と進行しているようなので、手すりがあれば掴まざるを得なくなっています。下ったところには手すりがありましたが、石段にもほしかった。
坂を下って小路を抜けると、緩いながらもまた上り坂です。上り切ると、正面は佐倉市立美術館前でした。
美術館前を走るのは成田街道。新町という佐倉の中心街です。
美術館の前を右に折れて、先を急ぎます。三日後の日曜日(十一日)には「佐倉・時代まつり」が開かれるので、こんな幟が風にはためいていました。
矢印が示す方向に進めば、案内のとおり、佐倉武家屋敷があり、大聖院という真言宗豊山派のお寺があり、その先には「ひよどり坂」という味わいのある古径があるのですが、四年前に通ったことがあるので、今日は割愛します。このあたりが最初に訪れた勝全寺があった宮小路です。
薬師坂を下ります。かなり急で長い下り坂です。
遺跡は何もありませんが、私がカメラを構えたあたりに、かつては薬師堂があり、そこに祀られていた薬師如来がこれから訪ねる周徳院に祀られているのです。
坂はまだつづきますが、急坂を下り終え、なだらかになったあたりで振り仰いでみました。
薬師坂を振り仰いだところに、子育地蔵を祀る御堂がありました。
このあと参拝する周徳院はこの地蔵堂の右にある小径へ折れればよかったのですが、そうとは知らぬ私は左へと進みます。
周徳院門前に着きました。
本日、まさに「薬師まつり」があるという掲示がありました。午前十時からという法要にはとても間に合いませんでしたが、御開帳は午後六時までと書かれているので、薬師如来を見ることができるかもしれません。
前回参拝したとき、この建物だけを見て、お寺には違いないようだが、どうもお寺らしくないな、お賽銭もあげたいが、賽銭箱がないのでは致し方ないな、と思い、合掌だけして引き上げたのです。
その後、折に触れて周徳院の写真を見る機会がありました。
たとえばグーグルマップに掲載されている写真を見ると、私が見た建物とは明らかに違う建物がありました。ガンガンと鰐淵を鳴らすためにぶら下がっている太い紐(鈴紐)の下がっている建物が掲載されているのです。
ハテ? と訝りつつ、飼い犬殿に吠えられながら境内を歩いていると、まさにその建物を見つけました。
賽銭箱にお賽銭を投げ入れると、中から「どうぞお上がり下さい」と声をかけてもらいましたが、この日の私は紐式のチャッカブーツを履いていたので、紐を解いて上がり、帰るときにはまた紐を結ぶという面倒が頭をよぎったものですから、思わず臆してしまいました。一足のパンプスが脱いであったので、女性の先客が訪れているのがわかりました。
本堂右の少し高くなったところに墓域があり、歴住の墓所はさらに一段高いところにありました。細い石段を上らなければならなかったので、焼香は割愛することにして、下から拝礼。
赤い山門があるのが見えたので、帰りはそちらから退出しました。こんなゆかしき山門があって、こちらが正式な入口であったとは思ってもみませんでした。この山門を背にして真っ直ぐ歩いて行くと、先ほどの地蔵堂前に出るのです。
竜灯橋という橋で鹿島川を渡ります。これから訪ねる密蔵院の薬師如来はこの鹿島川に流されていた、と伝えられています。
ところどころにこんな石柱が建てられていました。
これから訪ねる密蔵院は、十五世紀なかばごろにあった寺崎城の城跡でもあったといわれているので、かつての城下町らしい、と思えなくもないのですが、これらの石柱はすべて高さ30メートルほどの坂を一気に上って行く途中にあります。
ゼイゼイハアハアと息を弾ませながら歩いていると、初めて密蔵院関連のものを目にすることになりました。
密蔵院観音堂跡です。背後は墓地になっていますが、遺構らしきものは何もありませんでした。
密蔵院に着きました。山門から薬師堂下まで歩く途中の展望です。
寺崎城は千葉城を落とし、主家千葉氏を乗っ取った馬加康胤が康生元年(1455年)に入ったところと伝えられています。
主郭の北西端には、櫓台と思われる土塁の高まりがあります。高さ5メートルほどで、5メートル四方ほどの広さです。ここからは佐倉市を一望の下に見下ろすことができます。
二郭入り口付近には切り通し道となっているところがあります。このへんが虎口になるのか、あちこちに土塁や堀の跡が見受けられます。
寺崎城は市販の地図などにも載っていますが、ここは城ではなかったという説もあります。理由は次のようなことです。
①馬加康胤の子孫が平山から「長崎」に移ってきたという「長崎」を「寺崎」の誤りでここのことであろうとしているのだが、「長崎」に移ったというのだから、ここではなく、どこかの「長崎城」であるはず。
②城郭遺構といえるはっきりとした遺構がない。
③城郭関連の地名がない。
④この集落は近世以降のもので、先端の櫓台らしきものも近世の塚であると思われる。
といったところです。
しかし、街道を押さえる台地先端部のこの位置はいかにも城を造るのにふさわしい位置取りで、周囲の崖も削崖したようになっており、切り通しの部分など、城郭遺構と見てもよさそうな部分があちこちに見られる、といったことから、一応城址として見ておく、という説が根強いのだそうです
密蔵院本堂。阿弥陀如来を本尊とする真言宗豊山派の寺院です。
本堂の左、急な石段の上に薬師堂があり、人々が集っているのが見えました。
こんな急な石段は高所恐怖症持ちの私には上れっこありません。下から見上げると、薬師堂前の径は右手にある本堂前へ繋がっているようです。
ぐるりと廻って薬師堂前に着きました。付近の集落の人々総出という趣きです。堂内では読経の最中でした。
日光山密蔵院は鏑木町にある大聖院の末寺でした。
境内の高台にある堂が薬師堂です。現在は鉄板葺きに改修されている入母屋造の屋根ですが、本来は草葺きだったということです。
薬師堂には寛永年間(1624年-44年)に鹿島川の薬師淵に漂着していたのを引き上げたとされる薬師瑠璃光如来が祀られています。御堂の建築年代は明らかではありませんが、各部に付けられた彫刻や、若葉や波の文様を彫り込んだ虹梁(こうりょう)などの技法の特徴によって、宝永年間(1704年-11年)に建てられたと推測されているそうです。
参拝を終え、これにて本日の予定は終了。
くるときに降りた京成佐倉の駅からはあまりにも遠いところまできてしまっています。帰りはJR佐倉駅に出ることにしました。
「位置」というスマートフォンのアプリケーションを頼りに、恐らく佐倉駅への最短距離を歩いていると、密蔵院の旧本堂跡という標識にぶつかりました。上ってみましたが、遺跡らしいものは何もありませんでした。
左の上り坂の先にあるのが旧本堂(多分)、右が佐倉駅への下り坂です。
密蔵院をあとにするとき、スマートフォンの「乗換案内」というアプリケーションを開きました。佐倉駅まで何分で辿り着けるかわかりませんでしたが、時間が経過するのに連れて、乗車できる電車が変わってくるので、スマートフォンを初めて手にしてからまだ二か月少々の私は、じつに便利だワイと感心しながら歩みを進めていました。
この日の佐倉の最高気温は20・4度。この季節としては異例の暖かさ(暑さ)でした。歩き疲れもあったのかもしれません。このあと、ちょっとしたミスを犯します。
佐倉は総武本線と私が乗るべき成田線の分岐点なのですが、暑さと疲れで、すっかり疲弊していた私の頭の中には、そんな考えはてんでありませんでした。
プラットホームで待っているところに電車がやってきました。乗換案内で認識していた時刻より少し早かったので、この駅でしばらく停車するのだろうと思い、なんの疑問も懐くことなく乗ってしまいました。
行き先のアナウンスはあったはずだと思います。が、それも聞いていません。高校生たちの下校時間に遭遇して、ワイワイガヤガヤと騒々しかったことも災いしました。
佐倉を出ると、電車は南酒々井、榎戸、八街と進みました。成田へ向かう電車なら、次は「南」のない酒々井なのですが、馴染みのないところなので、「南」の次は「南」のない酒々井なのだろうと思っていて、乗る電車を間違えたとはまだ気づいていません。
「次は~榎戸ォ」という車内アナウンスが流れたときは、たまたま車輪の騒音で聞き取れませんでした。さらに八街、と知らされたときは落花生で有名な町であり(私は落花生は食べませんが)、成田近辺にあることは知っていたので、そろそろ成田かと思っています。
八街を出ると、次は日向(ひゅうが)です。初めてくるところでも、帰り途に出てくる駅名ではない、ということがわかりました。八街で高校生の多くが降りて、車輪のカラカラと鳴る音が軽やかになり、車内アナウンスがハッキリと聞き取れて、初めて乗る電車を間違えた、と気づきました。
幸い上り電車がすぐやってくる時刻だったので、あまり遅くなることなく帰ることができましたが……。
→この日歩いたところ。
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