朝から雨がしとしとと降っている。
天気予報で云っていた通りになった。
釣り用のカッパとゴルフ用のカッパ、それに折りたたみ傘をクルマに積み込み妻と出かけた。
途中で娘(息子嫁)を拾い浜線バイパスに出た。
五家荘への道は砥用(ともち)から二本杉峠へ出る道、中央町から氷川ダムの横を抜ける道、宮原から東陽村を抜け五木から入る道しか知らない。
砥用から二本杉峠への道はこの雨だし、四駆で無い新しいクルマでは、と思い氷川ダム経由で入る事にした。
毎年とは言わないが今の季節何度かこの地へ紅葉狩りに出かける。
泉町の総合支所からいよいよ山に入る。
釈迦堂経由で二本杉峠を目指すがどこかで道を間違えてしまった。
細い道には枯葉が積もりスリップする。
急勾配の道で曲がりくねったところでアクセルをふかし、ハンドルが利かない危ない場面もあった。
やっとのことで二本杉峠の休憩所に着いた。
一休みして梅ノ木轟を目指す。
このあたりは紅葉が素晴らしい場所なのだが、時すでに遅し、といった感じだった。
妻と娘はつり橋をはしゃぐように渡っている。
茶小屋のご主人と話していると
「今年は温暖でおまけに肝心なときに雨が降って落ちてしまっている」
とおっしゃっていた。
ちょっと寄り道をして樅木の平家の里に寄ってみた。
またこれがすごい道で、高い山と切れ込んだ谷の細い道を進む。
平家の里ではわずかに紅葉が残っていて、藁葺き屋根の休憩所といい感じだった。
資料館のようなところがあり、入って見るとガイドのおじさんが一所懸命に説明をしていた。
思わず耳を傾け緒方家と左座家の説明を受ける。
壇ノ浦の戦いから約900年もの年月だ。
緒方家は平清盛の直系の子孫で現在49代目と言う。
平清盛の木像(ケヤキだったか檜だったか)が堂々と展示されていた。
一方、左座家の方は菅原道真の末裔だそうで大宰府天満宮とのかかわりが深いそうだ。
大宰府といえば梅、この地にも飛梅なるものが送られたという。
この2家が樅木、仁田尾、葉木、久連子、椎原の地区を支配して五家荘と言うそうだ。
全国に散らばった平家の落人でこの秘境の五家荘が何故世に知られるようになったかである。
「塩を求め海岸近くまで行った」
事で知られてしまったとガイドの人は言っている。
伝説では塩売り勘兵衛という人物がいて、塩をこの地で毛皮などに換え裕福な生活をしていたそうで、それを不審に思い問いただし発覚したとされている。
空気、水、野菜に鹿や熊の食い物には不自由しなかったが、生活にもっとも必要な塩が無かったわけだ。
この説明で五家荘のもやもやが解決した気になった。
栴檀轟(せんだんとどろ)を横目に深い山を抜ける。
この時期、天気が良いと日差しが強いのでコントラストが強い。
こんな曇りの日が良いのかと思ったが、山の靄(もや)でかすむ。
栴檀轟からトンネルを抜けしばらく走ると、雲海のような景色が広がる。
真下には集落(岩奥地区)があり、山々には雲海のように靄が出ている。
夕暮れ時のそんな風景を見ていると、こんな山深いところで生活していた平家の落人の生命力を感じる。
生きる力と言うか、古代の人たちのロマンそのものだ。