打越通信

日記ふういろいろ

展覧会

2016-05-30 21:03:47 | 日記ふう
働き始めて2ヶ月が経とうとしている。
企業文化の違いがこれほどまで違うとは思ってもいなかった。
休養している間に世間とのずれが生じていたのかも知れなし、または単なる老化による脳の衰退なのかも知れない。
一時期はホントに頭が働くなり、ボーっとした感じで時間が過ぎていった感じだった。
熊本地震の影響も少しはあるのかも知れない。
それでも割と冷静に物事は見えていた。
どうしてみんなこんな事をしているのか?何を考えてこんな事になっているのか?不思議だった。
私の考えがおかしいのか?などと考えていたわけで・・・。
結局みんな何も考えていない、ということがつい最近わかった。
ただ仕事をしているだけなのだ、深く考え過ぎていたようでストレスになった分だけ損をした感じだ。



雨の日曜日、ふとコンビニでみた展覧会の事が頭に浮かんだ。
早々に起きて朝飯を食いに喫茶店のようなところ(星乃珈琲店)に出かけた。
久しぶりに紙の新聞を読み、フレンチトーストにホットコーヒー、軽くジャズがかかっていた。
マンションの狭い部屋ではくつろげない、朝の早い時間を1時間ばかりくつろいだ。
しかしだんだんと客が多くなりざわめき始めたので店を出た。
まだ少し早いかな、と思ったがクルマで市内をしばらくドライブして福岡県立美術館に向かった。
早かったので駐車場は空いていた。
雨が降る中建物の中に入る。
建物自体はそんなに大きくなく古い感じだ。
「色彩の奇跡 印象派展」「セザンヌ、モネ、ルノワール、ゴッホ、ゴーギャン、マティスなど 印象派とその時代の巨匠たち」と長い副題が付いた展覧会だ。
会場には数多くの絵画があり、なかなかなものだった。
前回行ったモネも違った絵が掛かっていた。
すぐにモネとわかる淡い感じの作品だった。
セザンヌなど始めて見る絵だったが何とも引きつけられる。
どんな事を目から感じながら筆を動かしていたのだろう、などと考えていると一つ一つが何かを語りかけてくるような何とも言えない至福の時間だった。



ゴーギャンの独特の色遣い、ルノワールの遠くから眺めるときらりと光る絵、そしてここだけは照明が違うのでは無いかと浮かび上がるゴッホの「アルルの跳ね橋」などだ。
構図の取り方、全体のまとめ方どれもすばらしい絵だった。
写真を少しかじっているモノとしてとても参考になったような感じだった。
やっぱりこんな展示会がすぐ近くで開かれている福岡は良いなあと思う。

旧交

2016-05-28 21:58:44 | 日記ふう
ささやかな飲み会があった。
博多に来た私のために昔の会社の同僚達が席を作ってくれたのだ。
博多駅の地下街の一角で退社以来久しぶりにあうメンバー達と合流した。
退社して1年と10ヶ月かな、そんな時の流れを感じさせない面々だった。
この業界の立ち上がりからの奴もいれば、途中からその流れに参加してきた中堅どころもいる。
まあ数十年と同じ目標に向かってやって来た仲間なので2年くらいの時間は関係ないようだ。
博多にやって来た私の事がホントに珍しいようで、普通だったらゆっくりと暮らせば良い物を何で博多にやって来た、と質問攻めだった。
まあそこのところは、息子達が・・・娘のことが・・・妻が・・・と曖昧な答えで交わした。
前の会社の状況も課長クラスが退社し、10年になる中堅が更に退社という事で、もう知っている人数が新しい社員より少ない状態になっているようだ。
退社した奴らもどうなったかはわからないという。
唯一私の行方がつかめたようでこんな会になった訳だ。
あいも変わらず新しい客をさがし業務用のソフトを開発し苦労の連続だという。
IT企業といっても内情は非常に保守的で新しい事への挑戦に臆病な、というか出来ない状況の中、頑張っている。
そういう意味で立場が変わった状態(私の立場)の話をすると興味深く聞いていた。
彼らと同じ立場の頃は、ズカズカと会社に入り込みその会社の業務をすべて理解したような感覚でいたが、実際その立場になるとそれまでしてきたことがほんの上辺だけの事だということ。
だからもっと深く入り込めばまだまだ十分にビジネスとして成り立つ事を話した。
まあ仕事の話は尽きなかったが、これからの人生設計を考えると定年を間近に控える連中には私の行動はちょっとした参考にはなったのかも知れない。
夜も更け10時を過ぎると下関や門司から来ている連中が、新幹線の時間とその先の乗り継ぎの時間があるようで帰っていった。
残された博多の連中と次の店に向かった。
すると偶然にも今の会社の連中が5,6名飲んでいた。
引っ張られそうになったが挨拶だけして次の店に向かった。
アルコールはいっさい飲まず、語りあかす時間もあっという間に過ぎ、てくてく歩いてアパートに帰った時は午前を過ぎていた。

報道

2016-05-26 21:57:26 | ネット記事
福岡に来て新聞を取らなくなってしまった。
熊本にいたときは地方紙を取っていたがすぐに辞めてしまった。
あまりにも読むところが無く、学校の壁新聞のような内容にへきへきしたからだ。
母と暮らすようになって読売新聞を一時期取っていた時期があった。
ジャイアンツかぶれの偏向に目をつぶればそれなりにしっかりした内容だったと思う。
新聞も必要かなと思うのだけど、うんざりする広告には困るものだ。
新聞自体も一ヶ月もすれば紙ゴミの山となり、それに広告が凄い量になる。
資源の無駄といえばそれまでなのだが、ネットがこんなにも発達した世の中に必要あるのかなとも思う。
今や自宅で会社でネットは欠かせない道具になっていて、数年前(働いていた時期)と同じように新聞はネットで読んでいる。
読売、毎日、産経,日経など主な新聞だ。
これまた数年前からCNNやロイターなどもお気に入りに入っている。
お隣の韓国の中央日報や朝鮮日報なども入っており、これまた変な意味で面白く読んでいる。
よっぽど日本が気になるようで日本を意識した偏った記事が多い。
反日を煽るような記事が今も続いていてこの国はちょっとおかしいのでは無いのかと疑う記事が多い。
こんなの無視すれば良いものを、日本語版のコメントには多くの日本人(?)のコメントがついている。
そんな偏向した記事の中、今回の熊本地震の記事が載っていた。
被害にあった人々が配給の食糧に列を並んで様子や、狂ったようにわめき散らしたりする様子がほとんど見受けられないといった内容だったと思う。
日本では普通の光景が他国(特に韓国)の人々には信じられないような内容だった。



慰安婦問題でも異常なように謝罪と賠償を叫ぶ、オバマ大統領が広島を訪問となると韓国の原爆被害者達は謝罪と賠償を求めて広島に向かうという。
日本の原爆被害者の大部分が謝罪や賠償を求めないのがこれまた気に入らないような感じなのだ。
まったくおかしな国民性だと思うのだが、こればっかしは議論や話し合いではどうにもならないのだろう。



今回の熊本震災の記事では西日本新聞が結構詳しく報じていた。
情報量が豊富で内容も詳しかったように思う(ただしネット)。

まあ報道機関も世論を煽るような事ばかりでも困るし、あまりに保守的な事ばかりでも機能はしないだろう。
世の不正を暴き質していくのが本来の機能かもしれない。
野党の代議士よりも週刊文春の方が良い仕事をしているのかも知れない。
そういえば「そこまで言って委員会」も近頃つまらなくなってしまった。

アップデート

2016-05-25 20:50:51 | パソコン
Windows7の動作の遅さに対応を追われている。
CPUの負荷が100%に張り付いてマウス動作もままならない状態になったり、WindowsUdateが自動的に起動して黙りになったりといろいろな現象が出ている。
前任者もこの対応に困り果てていた様でそれをそのまま引き継いでしまった様だ。
ひとつにはサーバーのリフレッシュの問題もあるのかなと思っているのだが、なかなかサーバーの電源を落とす事もままならない状況だ。
しかし良く状況を見てみると、ドメインを組んではいるもののファイルを共有したりプリンターを共有するといった単純な利用しかしていないようなのだ。
ファイルへのアクセス制限も管理していないし、各端末への設定もほとんど行っていないようなのだ。
ホームグループ(ワークグループ)で十分では無いのか、というのが今の現状のように思う。
まあ、しかしそうはいってもそれなりのソフト(汎用アプリだったり開発アプリ)が入っているのでこれを壊すことは出来ないでいる。
とりあえず一度サーバーのリフレッシュを行うことにしたい。
問題のWindowsUpdateにしてもドメインで管理しているわけでもなく各端末が自動的に勝手に行っている。
とりあえずウイルス対策ソフトも各端末には入っているし、WindowsUpdateの自動更新を停めて回っている。
ついでにCPU負荷が大きいWindows Defenderも停める事にした。
ところがこのところ頻繁にWindows10への強制的とでもいうべきアップデートが頻繁に出るようになった。
絶対にアップデートに応じないように言ってはいるが気になるところだ。





予備の端末(Win7)が2台あったので、一台をLANにつなげアップデートしてみた。
アップデートはそんなに時間もかからずすんなりと終わった。
起動もすんなりと軽く立ち上がるしスタートメニューからの操作もそんなに違和感はない。
サーバーに対するログインもこれまでと変わらない。
これなら使えそうな感じだっが肝心のウイルス対策ソフトが対応していなくインストール出来なかった。



他にもテストはしたかったが現状ではアップデートは無理と判断した。
2016年7月29日まで無償アップデートという事で強制的にアップデートを促しているようだが、気をつけた方が良いのかも知れない。
まあ、個人的なことで使用しているパソコンなら自己責任という事で良いのかも知れない。



今やFirefoxしか使っていないので今のIEがどんなモノか知らないがEdgeはかなり操作性が変わっていた。
無償アップデート製品も本製品とは違うという声もあり、慎重にならざるおえない。

アパート生活

2016-05-24 21:39:30 | 日記ふう
福岡の生活ももう少しで2ヶ月になる。
街にも少しは慣れ、仕事の方もだいぶ落ち着いてきた。
この歳になって新しい生活を始めるのも、まあ悪くは無い。
アパート生活も何十年ぶりだろう、家を建て生活を始めて28年だからそんなものだ。
2ヶ月ちょっと前にはアパート探しで3日間、いろいろな所を探し回っていたのだから、今考えても信じられない。
そのちょっと前は青ガエルの引退などと騒いでいたのだから、随分と昔の事の様に思えてしまう。
まあ、ここ2ヶ月も今思えば緊張の毎日だった。
それに熊本地震まで加わり、今年に入ってまだ半年も過ぎていないのに多くの事があったものだ。
いやいやそういう事を書くつもりではない。
博多の生活というかアパート生活の事だ。
何しろもらうべきものが少ないので、それなりの物件ということで探し回り、今住んでいる9階建てのマンションに決まった。



このマンションには14階建てと私たちが借りている9階建てのマンションが並んで建っている。
博多駅から歩いて15分から20分ということもあり、2DKという間取りで駐車場もセットで割と安い物件だった。
隣の棟の最上階には娘が住んでおり、夕食は毎日の様にやってくる。



周りは美野島商店街もあり、妻は歩いていける買い物に喜んでいる。
ドア一つで世の中と括られ、エレベータで下りればすぐそこは商店街という便利さだ。



最初はとまどった立体駐車場も操作盤の操作と暗証番号を入れればすぐに取り出せる便利さなのだ。
確かに機能的で快適な生活ではあるが、どうも私の感覚では満足とは行かない。
一時期の生活であるならば良いのだけど、このまま一生この生活ではとても耐え慣れないだろう。
やはり庭があり、土いじりが出来、ゆったりとした生活が望ましい。
家を建て、重いローンに苦しみ、やっとローンも終わった頃に再び家賃生活なのだから、なんて馬鹿な事をしているものだとつくづく思う。
福岡の住宅事情もマンションを買うとなればそこそこの高額になる。
ましてや戸建てとなると郊外でなければ手には入らないだろう。
それでも皆さん、高いローンを組みながら生活して行くのだからたいした物だと思う。
せっかく手に入れた住居も今回の様な地震で倒壊してしまえばと思うと何とも切なくなる。
住居も購入した方が良いのか、賃貸が良いのかこれまた意見の分かれる所なのだろう。
せっかくの人生が住居に振り回されている様な気がしてならない。

久しぶりの帰熊

2016-05-23 20:36:07 | 日記ふう
5月の連休以来の帰熊だった。
朝早く高速道に乗ると、高速ではあまり見かけないタクシーが走っていた。
それも数台が連なっていた。



ナンバーを見ると福岡や北九州のタクシーだった。
まさかタクシーが熊本地震のボランティアでも無いだろう、と思ったが定かでない。
九州道もそんな光景もあったが、特別に混んでいる様子もなく、高速を降りた国道も平常に戻った感じだった。
久しぶりに戻った我が家も、長男夫婦の暮らしぶりで綺麗に整理されていた。
さっそく庭に出て芝生の管理、庭木の剪定などで忙しくしていた。
地震の影響も詳しくは調べてない。
とりあえず家の周りを見て回るが特に目立った損傷は無いように見えた。
台所にに行き、床下に潜って柱の損傷や補強の状態を調べて見たが、特に問題ない様に見えた。
ただ気になったのは、コンクリートの台座に柱が少しずれている様な気がした。
家の中では、ピアノの置き場が数センチほど窓側に動いていた。
地震で一番気になっていた所だが、激しく揺れればピアノ自体が壁を壊し、部屋を壊してしまう。
これもラッキーだったというしかない。
屋根裏にも登って見たかったが、登り口の押入に息子達の持ち物が詰め込んであったので出来なかった。
素人のチェックはそれで終わった。
夜は私のお祝いをするというので、城彩苑の向かった。
熊本城のすぐしたにあり、お城の被害の大きさと違い、苑の周辺は被害は無かった様だ。



ささやかな食事会をして、家族そろって画図湖に蛍を見に行った。
画図湖の芭蕉府が生い茂っている場所に蛍が出るということでクルマで湖の縁の細い道を進む。
クルマを止めて少し歩くと、幻想的な蛍が数匹舞っていた。
ちょうどその日は満月という。
息子達夫婦がいうには満月の日に再び大きな地震が発生するという。
どうもその手の情報がSNS場で飛び交っているという。
そういう情報を流す方も流す方だが、それを信じる方も信じる方だ。
そんな感じで、久しぶりの帰熊もあっという間に過ぎてしまった。
<やっぱり熊本は良いなぁ>とつくづく思う。





PS:朝早く起きてラジオ体操に出かけてみた。
ヨネさんをはじめ、いつものメンバー14,5人は皆さん元気そうだった。
高校生の陸上部も早朝練習なのか気合いが入っていた。
震災があったのかと思うほど、みんな元気だったのが印象的だった。

始動そろそろ2ヶ月

2016-05-19 21:23:59 | 日記ふう
背広来て出社する。
1年半ぶりのことだ。
会社までは歩いて15分、4月から新しくなった連続テレビ小説が始まる頃に背広に着替える。
番組はほとんど観ていないが、鼻歌のような気乗りのしない曲を聴きながら<ドラマも主題歌なるものを毎回ながす必要があるのだろうか>などと考てしまう。
火野正平の気だるい「おはようございます」の声を聞いて家を出る。
会社は博多駅の南側にあり、毎日階段を使って5階の事務所まで登る。
地震が怖くてエレベータを使わない訳でなく、ただの田舎者という事だ。
会社がひけたら真っ直ぐにアパートに向う。
たまには博多駅方面にでてブラブラするのも良いのだが人混みがどうも苦手なのでそうしている。
仕事の方もコンピュータの面倒を見るという事だったが、資材関係の発注の仕事もこなさなくてはならない。
資材の名前や見たこともないモノばかり、現場もどこにあるのか名前さえ初めて聞く所ばっかしだ。
それもいろいろなパターンがあり、引き継ぎもそこそこだった。
おまけに5月の飛び石連休も重なり大変だった。
連休明けから現場がモノが入らないと騒ぎ出したのだ。
当然、私に白い目が注がれる。
発注はメールやファックスなのでログをすべてチェックする。
すべて確認し潔白は証明された。
原因は納入業者のミス(納入遅れ)と判明し何とか私のミスでないことが判明された。
発注の明細に数量がゼロというのがあったが、明細があるのに数量がゼロというのはおかしいと先方から連絡があったし、伝票の日付が明治(何でそうなるのかは不明だが)というのがあった。
正式発注の前に気づいたので難は逃れることが出来た。
そんな事などあり、本業の方はほとんど進まないでいる。
サーバーの方もここ数年電源はつけっぱなしで、一度リフレッシュのためにリブートしたいのだが出来ていない。
前任者もそうだが、一度電源を切ったら立ち上がらないのでは、との不安もある。
未だにフロッピーのやりとりがあったり、数年前に前の会社で入社3年目の社員が<ストックフォームって何ですか?>と聞いてきた、そいつも現役でバリバリ頑張っている。
やっと付帯業務(資材)も慣れては来たが、本業の方がもっと凄いことになるのかも知れない。

おる

2016-05-18 21:28:18 | 日記ふう
「こっちに来ていて地震に遭わなくてよかったね」
と周りの人(福岡の人)たちからよく言われる。
自分としてはそういう感覚が全くなく、そういわれるとそうかなと思う。
「ラッキーだったね」
といわれてもあんまりピンと来ない。
震災の時、熊本の打越町に帰ったとき
「あの揺れは凄かった!」
「この世がひっくり返るかと思った」
などという会話が飛び交う。
後々になっても語り継がれれる事だろう。
しかし、そういう話が出るたびに、今後その会話に入れない。
そういう意味では「ラッキー」とは言えない。

福岡に移り住んで早くも2ヶ月になろうとしている。
やっぱり通勤していた時と移り住んでからとはでは、何というのだろう、福岡に対する感覚的なものが全然違う。
通勤していたときはあくまでよその町という感覚でいたが、住んでみるとそれなりに良かったり悪かったり。
しかし言葉(方言)という意味ではそんなに違和感は感じない。
基本的には同じ九州弁で強いていえば博多弁はちょっとスマートな感じがする。



たとえばパン屋に看板が出ている
「美味しかパンが焼けとるバイ」(熊本弁)だとすると「美味しかパンが焼けとうよ」(博多弁)となる。
博多の人はどうも「る」を発音しないようだ。
「取っとると」も「取っとっと」となる。



そういえば先日の新聞に地震災害のボランティアで熊本に来る人向けに方言の資料を提供しているとあった。
さすがにこれはと思う熊本弁が載っていた。
「あとぜき」もそうだし「さしより」など熊本では普通に使われている言葉も隣の県でもまったく通じない言葉もある。

先日行ったボートレース場に「一般席ですので席の上に新聞などを置き場所取りをしない出ください」と貼り紙が出ていた。
しかし席の上には新聞と一緒に「おる」の紙が置いてあった。
この場合は「取っとっと」でなく「おる」なのだ。
博多はこの感覚だな・・・と思った。

※「おる」とは博多弁(というか九州弁)で「いる」の意味。

震災から1ヶ月

2016-05-14 21:10:50 | 日記ふう
「ログを少しでも落としておかないと」と思ってはいるのだが、熊本地震からどうも時間の感覚が変になったようだ。
地震での直接の体験(体感)は受けてはいないが、あの混乱の中やっと繋がったケータイでのやりとりが心に刻み込まれている。
あれから一ヶ月が過ぎようとしている。
余震は相変わらず続いているようで、まだまだ油断は出来ない緊張した状況は変わらない。
そんななか息子夫婦から連絡が入り福岡に来るという。
夫婦そろって休みというのもあまり無く、今回は一日だけだが休日が取れたそうだ。
金曜の仕事が終わってからの移動ということもあり、我が家に到着したのは午前零時(正確には午前一時前)だった。
嫁は私たちの引っ越しの手伝いに来てくれ状況はわかっていたが、息子は初めての訪問だった。
しばらく話をして、狭いアパートに雑魚寝の格好で床に着いた。
息子達も3年近く、この美野島のすぐ隣の住吉に住んでいた事もあり福岡は彼らの方が詳しい。
朝目が覚めてどこに行こうかとなった。
前回の連休で娘が連れて行ってくれた糸島が気にいったのでそこに行こうと誘った。
海の見えるカフェレストランの朝食が人気になっているというので、前回行って気に入ったからだ。
いろいろと準備に時間がかかり美野島を出たのがちょっと遅かった。
都市高速に乗るにはこの美野島は不便なところである。
一般道を糸島に向けてクルマを走らせたが、ブレックファーストの時間には間に合わなかった。


今回食えなかった・・・

それでも福岡市内から一時間近くで、玄界灘を見渡せるすばらしい場所がある事を知らなかったようで感動していたようだ。
結局、帰り道に「天ぷらのひらお」という店で遅い朝食ともつかない昼食だった。
それから息子が行きたいという希望を聞いて、ボートレース場に行った。



初めての場所だったが天神からも近く、立体駐車場にクルマを入れ場内に入った。



初めて観るボートレースにそのボートの速さに感激だった。
私たち夫婦と若夫婦、4人で小銭で舟券を買いしばらくワイワイと騒いだ。
そのうち娘も合流し、レースで娘が14倍の舟券を当てたのだ。
それでボートレース場を後にして、「おおいし」にもつ鍋をみんなで食べに行った。



懐かしい味だったようで息子も嫁も満足そうな感想を言っていた。
夕方7時頃、息子夫婦は熊本に帰って行った。
地震での疲れや不安も少はいやされたのだろうか、再び続く余震の生活に帰っていったのだ。

観戦券の引換券

2016-05-12 21:52:42 | 野球
事務所にも熊本に関係する人が結構多くいて、目の前に座る人は実家が益城町の隣町だという。
つまり出身は熊本の人なのだ。
この人は連休ずっと熊本に里帰りし、後かたづけに大変だったそうだ。
ついに家には黄色い紙が貼られ、修理するか建て替えなければ住めないと涙ぐんでいる。
自分が生まれ育った家の変わりはてた姿を見れば精神的なショックは大きかったに違いない。
隣に座る人(といってもまだ二十歳にもならない娘)はおばあちゃんが熊本市内に住んでいるという。
休日を取って家族総出で後かたづけに行ったという。
そんな事で話をしていると
「ここは博多バイ!熊本弁は禁止!」
と笑った上司の声が聞こえる。
「熊本弁と博多弁の違いがわからんです!」
と前に座る人が笑いながら言う。
そう、私もここが少し気になっていたところだった。
ちょっとした言い回しは確かに違うが、基本形は九州弁タイ!と思っている。



単調な日々が続いているが、昨日は久しぶりにヤフオクドームに対ロッテ戦を見に行った。
職場の人から観戦券の引換券が3枚まわってきたからだ。
妻と娘が先発隊で先に行き、引換券で先に席を確保してくれた。
遅れて博多駅から地下鉄で唐人町まで行きヤフオクドームを目指す。
席は外野席(ヤフオクドームではホームラン席という)の一番奥だった。



すぐ後ろには施設応援団のトラペット軍団と太鼓舞台だった。
試合はすでに3回か4回だった。
妻が先に買っていたハンバーガーを食い、ノンアルコールビールで観戦だ。
ホークスが攻撃になると後ろが騒がしくなる。
太鼓の音と特にトランペットはすぐ耳の横なのだ。
落ち着いて食べれるのはロッテの攻撃の時だけだ。
しかし凡打すると例の気の抜けたトラペットがすぐ後ろで再び鳴り出す。
野球を観るという雰囲気ではとても言えない。



ただ馬鹿騒ぎをしているだけで、馬鹿みたいな7回の風船上げを観て球場を後にした。

ソフトバンクというと球団もそうだが球場も他人が作ったものを巨額な金額で買い上げたところだ。
キャリアもボーダフォンをこれまた巨額な金で買い上げた。
スプリントまで買い上げ、今ではそれがネックになっていると聞く。
初めてプロ野球を観た大阪球場の南海ホークス、野村がまだ現役でキャッチャーをしていた。
ライオンは埼玉に行き、鷹が福岡に帰ってきた、時代も変わったものだと思った。

志賀島

2016-05-11 06:55:43 | 日記ふう
朝起きてネットで地震速報を見るのが恒例になった。
相変わらず余震が続いているようで気になってしょうがないのだ。



「この先一週間くらいは震度6程度の地震に注意してください」
といった気象庁の報道が何週間続いただろう。
未だに余震は続いているようだ。

連休の前半は熊本に帰り地震による後片付けや諸々もあったが、後半は福岡で過ごした。
私たちも3月の後半に、息子達も4月の前半にそれぞれ引っ越しをして新しい生活を始めたばかりの出来事だった。
息子達も引っ越して3日目で震災に遭い、特に嫁にとっては不安がいっぱいだったことだろう。
幸いにもジローさん夫婦や近所の人たちに助けられ、心強い思いだったに違いない。
私たちがあわてて帰ったときも家の中はすでに綺麗に整理され、隅々まで綺麗に掃除されていた。
そんな光景を目にして、私たちが頻繁に帰る事が嫁の負担になってはいけないと思ったからだ。

福岡に来て一ヶ月が過ぎた。
博多の街は一週間もすれば飽きてしまい。
健康のための町中ウォーキングも立ち並ぶビル群や人混みの多さ、または都会独特のドブの臭いがする川などでうんざりした。
町中を把握するためクルマで出かけ、地図との一致もだいたい把握した。
どこを走っても同じ風景が続き、代わり映えしない、というのが印象だ。
そんな中、海をみたいと志賀島に出かけた。
箱崎埠頭から海の中道大橋を渡り、西戸崎から細い海岸線を志賀島に向かう。
結構風が強く、クルマには潮風が降り注いだ。
志賀島の海岸線を走るが、朝が早いのかクルマの姿はほとんど無かった。
国民宿舎前の海岸に出て玄界灘を見る。
砂浜に出てしばらく海を見て過ごした。
ここは新社会人になって研修で数日お世話になったところだ。
しかし当時の思い出はほとんど無かった。
目の前には玄海島が遠目に見える。
ここも西方沖地震で被害が大きかったところだ。
あれから数十年、福岡でも今回の熊本地震の引き合いによく人々から聞く。



砂浜に出て地面すれすれにコンデジをセットして砂浜と玄海島の写真を撮った。
しかし大きな波が来てコンデジがその波をかぶってしまった。
しばらくは正常に動いていたが、その後レンズエラーでダメになってしまった。
これが最後にとった写真になってしまった。

熊本城下町の被害

2016-05-08 17:32:46 | 日記ふう
連休もいよいよ終わり。
思考が停止してしまったようで、何をするにもかったるい日々が続いている。
そういえば連休の3日目に熊本城に地震被害の状況を見に行った。
その後、罹災した熊本城の姿をブログに載せるかどうか随分と迷った。
地震の被害を受けた熊本城を後にしてかつて事務所があった古町に行ってみた。
熊本城下町と言われる古町、新町だ。
昔風の町屋といわれる古い建物が建ち並ぶところだ。
古町には3年くらい通った事務所があった。
事務所の入ったビルは特に被害は無いようだった。
しかしその近くに、軒下に葡萄の木を這わせた靴屋さんがあった。
完全に倒壊して道をふさいでいた。
そのあたりの被害が一番ひどかったようで、四つ角になった反対側のビルにも亀裂が入り黄色い札が這われていた。
しばらく古町、新町を歩いて写真を撮った。
よく昼飯を食いに行っていた「たけした」も家全体が斜めに傾いていて、玄関には赤紙が貼ってあった。
元気だった女将さんに若女将、料理人だったご主人、家族で食堂をされていたが今どうされているのだろう。
この細工町の通り、呉服町から祇園町にわたる電車通りの古い建物(町屋ふう)は倒壊こそしていなかったがほとんどに赤紙か黄色い紙が貼られていた。



唐人町通りにも古い建物が多いが赤紙が目立った。
市内の城下の広い範囲で被害を確認した。
今後、この熊本城下がどのように復興して行くのか、被害の大きさに言葉を失ってしまった。

家に戻り、息子達がお風呂を借り、また救援物資などを頂き世話になったジローさん夫婦と食事をする事になった。
お礼のつもりだったのが高価な牛肉をいただき、かえって負担をかけさせてしまった。
食事を一緒にしながら団地での被害状況の話になった。
特にこの団地では大きな被害は無かったが、テラのオヤジの家の瓦が被害を受けた。
よく見るとテラのオヤジの家から、ジローさんちの駐車場にわずかな亀裂があるとジローさんが言う。
よく話を聞くと、この団地の造成の時に埋め立てた場所のようだ。
小高い山になっていたこの団地も造成時に池があった場所などの埋め立てが行われたと言う。
この話を聞いて、熊本市内も熊本城の付近は坪井川や白川の流れを変えるため、かなりの土木工事がされている。
今回の地震でその影響も関係しているのかと思った。

罹災熊本城

2016-05-03 22:08:29 | 写真投稿
前日も早めに床に入ったが、余震で夜中に2度ほど目が覚めた。
夜中の2時半からは寝付けず4時前にはとうとう床を出た。
朝日で周りが明るくなっていたのでカメラを担いで家を出た。
とりあえず熊本城に行ってみる事にした。
坪井川に沿いNHK熊本放送局横から熊本城に出た。
目の前には崩落した石垣が見える。
もの凄い規模で崩れ落ちていた。



市内方向に進むと神社が巨大な石の数々で押しつぶされている。



上を見ると青い空が無情に顔を見せていた。
櫓(矢倉)群が崩れ落ちていた。



不開門だろうか、かろうじて建っていた。
北側に進んでみた。
長い坂道があり、散歩の人たちが行き来をしていた。
坂の入り口には立ち入り禁止のテープがあったが、あとは自己責任と思いその坂を登ってみた。



あちこちに崩落の後があり、木々ごと下の堀に崩れている
加藤神社に行ってみた。
加藤神社からの大小の天守閣が見えた。



天守閣の頂上の瓦、鉾などが無くなっている。
宇土櫓も原型はとどめているがかなり痛んでいた。
崩れてはいないが石垣が浮いているようにも見える。
頬当御門方面に行こうとしたが警備の方から注意を受け行くことが出来なかった。
観光客が最初に通る西大手門も大きく崩れていた。
植物園から二の丸広場に行ってみた。



戌井櫓に通じる石垣がほとんど崩落し、戌井櫓がかろうじて建っている。
二の丸広場には人影がぽつりとあるが、早朝と言うこともあり静かだった。
三の丸方面に階段を降りようとしたが崩落が激しく、大きな石をまたぐように降りた。



北側の石垣はこの階段近くを中心に、道をふさぐように大きく崩落していた。
また細川刑部邸の塀も横倒しになり、中は覗けないがここも被害が出ているようだ。
前日、息子から涙が出そうになったと話は聞いていたが、そうの通りだった。
復元にはかなりの時間がかかるだろう。
復元の費用は何とかなるとしても、かつて東陽村を中心とした全国に名を知れた石工達が今はいない。
かつての技術で復元するのか、現代の技術で復元するのか・・・。
でも必ず復元するはずだ、なぜなら熊本復興のシンボルなのだから。

熊本地震から2週間

2016-05-01 20:45:26 | 日記ふう
長い一週間だった。
やっと連休に入り熊本へ向けてアパートを出た。
熊本地震から2週間
連休初日とあり福岡市内は渋滞があちこちで発生していて、都市高速、九州道も混雑している。
どうしようもない、筑紫野を抜けると久留米、八女、山鹿と割と空いていたが結局熊本にたどり着いたのは遅かった。
九州道も全線開通していて熊本市内は前回のような大渋滞では無かった。
坂道から熊本市内の夜景では大きな震災があった町には見えなかった。
我が家につき息子夫婦と水入らずで夕食をともにした。
その日やっとガスが復旧し我が家で風呂を浴びた。
水道は出るようになっていたがまだ飲める状態では無いという。
飲み水や料理に使う水は沖縄から送ってもらったミネラルウォーターを使っていた。
長い時間の運転で疲れたので風呂をいただいてすぐに眠りについた。
しかし夜中に何度も余震があり寝付くことは出来なかった。
朝5時前には目が覚め、久しぶりに坪井川遊水公園に散歩に出た。



1ヶ月前まで毎日のように散歩していた堤防だが、地割れが縦に長く続いていた。



遠目には熊本城も朝日を浴びてそびえていたがどこか変な感じだ。
ところどころ家の屋根にはブルーシートが見え、それ以外はいたって変わりは無かった。



近くの中学校(竜南中)の正門を通りかかると、炊き出しが行われているようで、すでに人影が見かけられた。
ちょっとした道沿いのゴミ捨て場には災害ゴミが道にはみ出すように積まれていた。



これも災害ゴミなのかというブラウン管のテレビまで捨ててある。
ゴミ収集もなかなか手がまわらないようで、こういう風景もあちらこちらに見られた。
午前中の早い時間帯にお見舞いをかねて、長男の嫁の実家に伺った。



途中、倒壊し一階が完全につぶれたマンションを目にする。
それも1棟だけでは無かった。
3棟のマンションの一階部分が完全に潰されていて、余震での倒壊危険のため周りは立ち入り禁止のテープで囲まれていた。
市内の交通量も普段に戻ったようで渋滞はほとんど無い。
マンションの渡り廊下や非常用の階段などが壊れていたが住居そのものには被害は無かったようで安心した。
ご両親の親を避難のため引き取り、今は一緒に生活されていた。
とりあえずご無事を確認し次は妹の家に向かった。
ここは三世代家族、ご両親も高齢のためいざ逃げる時に足手まといにならないようにと車中泊を続けられていると言う。
この家族もけが人も出ず全員の無事を確認したが、ご両親の精神状態を妹は気にしていた。
最後にもう一人の妹が眠るお墓に行ってみた。
墓地に着くと唖然となった。
ほとんどの墓石が倒れていて、倒れなかった墓石も向きが後ろ向きだったり、横を向いていたりしていた。



妹の家の墓石も倒れて地面に落ちていた。
抱えようとしたがとても重くて人の力ではどうしようも無かった。
墓の周りを掃除し、手を合わせるのが誠意いっぱいだった。
実家の方も被害が出ていて、家の周りの外壁はすべて倒れていた。
片付けは終わっていたがお母さんの姿も無かったので近くの避難所に避難されているのだろう。
被害はかなり広範囲に至っていて、被害の大きいところ、少なくて済んだところが入り交じっている。
被害の少なかったところでも家に亀裂が出来ていたり、瓦が落ちていたりとしている。
余震もまだまだ油断が出来ない。
報道では被害の大きかったところが中心に報道されているが、市内のあちこちで被害だ出ている事を確認した。