週末になるとこの季節、桜を求めて熊本城付近は人でごった返すことになる。
お城付近の駐車場は何処も満車なので辛島町から船場橋の中間のコインパーキングにクルマを入れた。
それもわずか1台しか空いてなかった。
クルマを降りて歩き出すと、今はもう閉店してしまった県民百貨店の白い建物が見える。
その横には交通センター(バスセンター)がある。
歩道橋はあるものの地下街を通ったほうが便利なのだ。
地下街の入口には3月31日で閉店の看板がかかっていた。
中に入ると地元熊本の主要な報道会社のカメラマンたちがウロウロしていた。
この地下街も今日で閉店し今年8月ころから解体が始まるという。
その昔、父に連れられて県南の実家からバス(当時快速バスといった)に乗りここでバスを乗り換えて叔父が住むところまでのバスに乗り換えていた。
今の辛島町公園あたりがバス乗り場だったと思う。
しばらくして交通センタが出来、同じく父とこの地下街でうどんやカレーをよく食ったのものだ。
その当時テレビコマーシャルが流れていた。
哀愁のある曲で<泉の広場で会いましょう・・・ 最後のバスはもうすぐ来るのに、いつまでもいつまでも センタープラザ>だった。
今でも店内では流れている。
学生時代に親は矢部町(いまの山都町)に住んでいた。
新幹線で博多駅でのりかえ熊本駅に着きバスで交通センターまで来た。
当時、赤バス(熊本バス)の乗り場は辛島町ロータリーから世継橋方に少し行ったビルの一階にあった。
交通センターからそこまで重い荷物を抱えながら歩かなければいけなかったことを思い出す。
今では赤バスも交通センターを利用していて赤バス専用のターミナルはなくなっている。
学校を卒業して就職して最初の赴任地が天草の本渡だった。
本渡からも快速バスだった。
熊本駅、次はこの交通センタそして県庁前を経由して熊本空港までのバスだった。
その頃、両親は実家近くの高校の校長宿舎にいた。
再びここでバスに乗り換えたっけ。
国鉄(現JR)を使う場合は熊本駅で乗り換えた。
熊本駅の前に丸い形の2階建てのビルがあり一階がバス乗り場だった。
しかしクルマに乗るようになり、熊本駅もこの交通センタも利用する機会がなかった。
娘が福岡に行くとき、実家の佐世保に帰るなど、たまにしか利用する事はなかった。
まだ熊本事務所があったとき一時バス通勤をしていた頃があった。
その時期は毎日のように33番乗り場を利用したものだ。
隣の乗り場でバスを待つ関係会社の人とバッタリ出会い、センタープラザで一杯などと思いでもある。
そしてセンターボール、県内でも公式レーンを36持ったボウリング場だ。
公式戦を見に来たり練習で何度か投げた事はあるが、公式戦で投げたことは無かった。
そんなボウリング場も今回の再開発で無くなることになってしまう。
46年という一つの時代が終わろうとしている。
そして数年後には新しい時代が始まる。
そんなやって移り変っていくのだ。
お城付近の駐車場は何処も満車なので辛島町から船場橋の中間のコインパーキングにクルマを入れた。
それもわずか1台しか空いてなかった。
クルマを降りて歩き出すと、今はもう閉店してしまった県民百貨店の白い建物が見える。
その横には交通センター(バスセンター)がある。
歩道橋はあるものの地下街を通ったほうが便利なのだ。
地下街の入口には3月31日で閉店の看板がかかっていた。
中に入ると地元熊本の主要な報道会社のカメラマンたちがウロウロしていた。
この地下街も今日で閉店し今年8月ころから解体が始まるという。
その昔、父に連れられて県南の実家からバス(当時快速バスといった)に乗りここでバスを乗り換えて叔父が住むところまでのバスに乗り換えていた。
今の辛島町公園あたりがバス乗り場だったと思う。
しばらくして交通センタが出来、同じく父とこの地下街でうどんやカレーをよく食ったのものだ。
その当時テレビコマーシャルが流れていた。
哀愁のある曲で<泉の広場で会いましょう・・・ 最後のバスはもうすぐ来るのに、いつまでもいつまでも センタープラザ>だった。
今でも店内では流れている。
学生時代に親は矢部町(いまの山都町)に住んでいた。
新幹線で博多駅でのりかえ熊本駅に着きバスで交通センターまで来た。
当時、赤バス(熊本バス)の乗り場は辛島町ロータリーから世継橋方に少し行ったビルの一階にあった。
交通センターからそこまで重い荷物を抱えながら歩かなければいけなかったことを思い出す。
今では赤バスも交通センターを利用していて赤バス専用のターミナルはなくなっている。
学校を卒業して就職して最初の赴任地が天草の本渡だった。
本渡からも快速バスだった。
熊本駅、次はこの交通センタそして県庁前を経由して熊本空港までのバスだった。
その頃、両親は実家近くの高校の校長宿舎にいた。
再びここでバスに乗り換えたっけ。
国鉄(現JR)を使う場合は熊本駅で乗り換えた。
熊本駅の前に丸い形の2階建てのビルがあり一階がバス乗り場だった。
しかしクルマに乗るようになり、熊本駅もこの交通センタも利用する機会がなかった。
娘が福岡に行くとき、実家の佐世保に帰るなど、たまにしか利用する事はなかった。
まだ熊本事務所があったとき一時バス通勤をしていた頃があった。
その時期は毎日のように33番乗り場を利用したものだ。
隣の乗り場でバスを待つ関係会社の人とバッタリ出会い、センタープラザで一杯などと思いでもある。
そしてセンターボール、県内でも公式レーンを36持ったボウリング場だ。
公式戦を見に来たり練習で何度か投げた事はあるが、公式戦で投げたことは無かった。
そんなボウリング場も今回の再開発で無くなることになってしまう。
46年という一つの時代が終わろうとしている。
そして数年後には新しい時代が始まる。
そんなやって移り変っていくのだ。