打越通信

日記ふういろいろ

大晦日

2016-12-31 17:12:01 | 日記ふう
まったく!
年末だというのに年賀状にてこずっている。
先週末から久しぶりに自宅のパソコンに座り「さあ、始めるか」と小さな気合いを入れ電源を入れる。
しばらくは肩慣らしのつもりでネットで新聞などを読んでいた。
すると突然例の青い画面が出て<メモリーパリティエラー>が現れる。
なぜ?と頭をひねったのがいけなかったようで、それからパソコンとの格闘が始まった。
メモリーは数枚持っていたので2枚あるスロットに一枚ずつ差し込んでテストを始めた。
メモリーを差し込んで動画をガチャガチャと動かしてメモリーの状態を監視してみた(これしか方法を知らない)
すると数枚のメモリーでなんとか行けそうだったので、その2枚を差し込んでしばらく様子を見ることにした。
しかし結局それもダメだった。



しばらく考えた。
このパソコンのハードディスクはWINDOWS7Pro(32ビット)が入っている、それを差し込んで使っているので、ひょっとするとWindowsの問題かもしれない。
次の日会社に出て予備用のパソコンに差し込んで再インストールをした。
自宅に帰りさっそくハードディスクを入れ替えてテストをしてみたが現象は一緒だった。
しかたなく外付けハードディスクを取り出してバックアップを行った。



そしてWindows7Home premiumのCDをUSBに丸ごと複写して(CD.DVSドライブがないので)インストールした。
やっぱりWindowsの問題だったようでそれから正常に動くようになった。
さあ年賀状だ。
自宅から持ってきたプリンタをWi-Fiにつなぎプリント状態を作った。
さてデザインをどうするか考えたがとりあえず会社関係の裏のデザインを作り、表の住所を書き上げ終了した。
この時点で夜中の2時半近くまでかかった。
次は友人や親せき関係。
セブのオランゴ島で撮った写真をうすくコントラストをあげて背景にした。
文字のイラストと鳥のイラストを張り付けてなんとか出来上がったものの
「なんか喪中ハガキのようだよ」
などと妻と娘が言う。
でももう時間がない。
新年の挨拶と転居の挨拶を入れてなんとかデザインができた。
夜中の3時近くだった。
次の日は住所録のチェックとプリントアウトだった。
それがなかなかスムースにはいかない。
インクが切れて入れ替えたり、用紙をうまく吸い込めず何枚かがダメになった。
やっと出来上がったのが夜中の2時過ぎ。
なんでもっと早くから取り掛からないのか、などと妻の叱咤を受けながらもなんとか終わった。
眠たい顔をしながら晦日を迎え、会社に出て納会も中座して帰省した。
ほんとに慌ただしい年末だったが、今自宅(熊本)に戻り新しい年を迎えようとしている。
日々は常に動いているわけで、特に新しい年になったとしてもそれは変わらないが、けじめとしては意味があるのだろう。

本年もありがとうございました。
良いお年をお迎えくださいませ。

世の中はクリスマス

2016-12-26 22:08:19 | 日記ふう
クリスマスイブの夜に娘がセブから帰ってきた。
当日のテレビのニュースではフランスに留学した女学生が行方不明になったというニュースが流れていて、わが娘も無事に帰ってきて顔を見るまでは安心出来ないぞ、などと妻と話をしていた。
さすが三連休の中日だったので空港は出迎えや見送りで混雑していた。
夜の空港も久しぶりだし、福岡空港は改装工事をしているので以前とは随分と変わっていた。
国内線のターミナルビルの到着口は南と北に分かれていて、迎えの時間だけしかメールして来なかったのでどちらに行けば良いのかわからない。
空港の立体駐車場から北の到着口に出て、南の到着口まで長い長い通路を歩く。
夜の10時ちょっと前だというのにキャリーバッグを押した人たちがウロウロしている。
妻がやっと娘と連絡がついたようで南到着口から再び北到着口まで歩く。
やっとベンチに座って休んでいる娘を発見した。
長袖を羽織り一応冬服の格好をしているが、いかにも寒そうな姿に、妻が持ってきたコートを着せていた。



それにしても大きなキャリーバッグだ。
荷物を受け取るとかなりの重さにびっくりだった。
こんな重い荷物を担いでよくもセブから女一人で帰ってきたものだ。
関空で4時間ばかりの待ち時間があり、朝9時にセブから飛んで夜の10時前に福岡に到着したようだ。
まあ、なんとか無事に帰国できたので良しとしよう。

三連休も中日の土曜日は出社だった。
三連休になると決まって私が当番になるようで、今回は特にクリスマスイブということもあり、若い女の子にとっては特別な日でもあるのだろうから、まあしょうがない事だ。



出社したものの結局はパソコン周りの配線の整理で一日が終わった。
サーバー2台にルータやハブにまつわりつくLANケーブル、UPS(無停電電源装置)からの電源ケーブル、プリンターケーブルなど、すべて取り外し整理する。



わからなくなるのでテプラでケーブルにしるしを書きながらデジカメで写真を撮りながらばらしていく。
整理を終えて再び結線する。
静電埃やゴミを掃除しながらテプラで示した通りに接続を終えテストを始める。
ネット接続が全くダメだった。
すると事務所に置いたケータイ(社内連絡用)に連絡が入る。
「事務所の電話とFAXが反応しない」
という。
接続を確認するが間違いはないのだが・・・。
電話会社に連絡を入れ回線を調べてもらう。
回線は生きているようだが終端の装置までは確認できるという。
工事業者に連絡してもらい、午後から業者がやってきた。



光回線のファイバー線が切れていたようだ。
踏み割らないように気を付けていたのだが、何かの拍子に折れてしまったようだった。
終端装置の手前を10cmほど切って接続をし直し、なんとか復旧した。
細い光ファイバー線だけで電話4,5回線分、ネット、FAX回線をまかなっているわけで、その細い線が切れると全てが不通になってしまうのだ。

そんなこんなで今年のクリスマスは過ぎて行った。

思い起こせばの日々

2016-12-22 21:47:12 | 日記ふう
久しぶりの帰省から再び退屈な日々が始まっている。
年末だからと何も変わりはしない。
自宅マンションから会社に行き、仕事を終えたらまっすぐに帰る。
ちょっと寄り道でもして、博多駅やキャナルではイルミネーションが輝いていて面白そうだと思われるのだが、あまり興味はない。
そんなことより団地のオヤジ達と麻雀したりゴルフに行っていた頃がなぜか懐かしい。
そんなオヤジ達も先日帰った時に会ったけど、みなさん元気そうだった。
孫にすっかり骨抜きになったケイのオヤジ、あいも変わらず淡々とした表情のテラのオヤジ、いつも忙しそうに体を動かしているマーのオヤジ達だ。
町内の名物オヤジ達もいったいどうしているのか、そんなことの方が気になって仕方ない。
町内会もどうなっているのか気にはなっているのだが、風の便りも聞こえて来ない。
2日休みも一日は実家に帰る予定にしていたが、あまりにもあわただしいのでやめにした。
ジローさん夫婦とも久しぶりにゆっくりとした時間が持てたので良しとしよう。
でもやっぱり積もる話は尽きなかった。
もっと時間が欲しいものだ。

さてと年末までいよいよという時期となった。
年賀状もまだ手を付けていない。
毎年のことだけど、今回は何十年ぶりの引っ越しとやらで去年の年賀状探しから始めなければならないし、パソコンもいろいろとあって住所録もどこにあるのだろう。
いつも使うノートパソコンはハードディスクごと入れ替えたしWindows8のパソコンは娘が持って行ってしまっている。
頭の痛い時期なのだ。


このマークも変わっていない

そういえば今日ネットを見ていて思わぬ記事が目に付いた。
静岡県掛川市のヤマハのリゾート「つま恋」が今年のクリスマスを最後に閉館するという。
「つま恋」は社会に出てこの業界(もう引退したが)に入った時、新人研修で1か月以上研修を受けた場所なのだ。
全国から新人が集められ5,6人部屋に押し込まれ、朝早くから夜遅くまで研修を受けた所だった。
屋内プールやゴルフ場、壮大な広場もあった。



バベキューガーデンやレストランもあり、研修はきつかったが休みの日などはそれこそリゾート地なので天国だった。
そして全国から集まった同期生たちとの交流がこれまた楽しかった。
一か月もいればそれなりに仲良くなる。
ほのかに恋心が芽生えたりした娘もいたものだ。
終わってからも手紙のやり取りとしていたが、妻との結婚ですべて焼かれてしまったけ。



そして「つま恋」はポプコーンで有名になったところでもあった。
中島みゆきや吉田拓郎、かぐや姫などよくコンサートを行っていた場所でもある。
<一度は行かなきゃ>と思っていた場所だったが残念だ。
それにしても月日の経つのは早いものだ。
と思いにふけっている暇もないのだが・・・。

復興熊本

2016-12-19 22:49:34 | 日記ふう
久しぶりに熊本に帰った。
なんだかんだと2か月ぶりくらいだろうか。
福岡に来て毎月のように帰省はしていたが、ちょいと間が空いてしまった。
震災以来、半年以上の時間が流れた。
家の近くも大きくは変わってはいなかったが、更地が随分と多くなった。
あったはずのアパートが完全になくなって、更地になっていたり、大規模な更地が出来ていて、前は何があったのか思い出せないということもあった。
市中心部の市役所前ではディズニーパレードがあっているようで、市内付近にクルマで出かけた。



市内中心部の駐車場という駐車場はどこも満車で駐車できなかった。
市内からちょっと外れのコインパークまでもが満車の赤い文字になっていた。
スーパーの駐車場も係りの人が立っていて不法な駐車を見回って張り紙を貼って回っていた。
熊本城の三の丸広場の駐車場に行ってみると空車の看板が見えたのでそこにクルマを置き、お城を横切るように城内を歩いてみた。



お城の石垣は震災直後に来た時と大きくは変わっていなかった。
通行の邪魔になる石は綺麗に片づけられていたが、そのほかの場所は震災の時と同じ状態だった。
北側の壁のような石垣には網状の落下防止がかけられている。
しかし石垣のてっぺんの方は普通はまっすぐになっていなければならないのがところどころ落石していて凸凹になっていた。
櫓も震災時のままでまだ手の入れようがないのだろう、今にも落ちそうな状態で立っていた。
城内を走る道も路肩付近は立ち入り禁止になっている。
倒木もそのままの状態でまだ手が付けられていなかった。



それでも工事の人たちが作業をしているようだったが、なかなか進んではいないようだ。
復興にはかなりの時間がかかる様子がうかがえる。
お城を降りて市役所前に行ってみたがパレードは終わったようで、すでに交通規制の撤去作業が始まっていた。



演奏を終えた熊本工業の吹奏楽部の生徒たちが行進をして帰ってきていた。
夜のニュースでは11万人の人出で復興パレードは盛況だったようだ。
そういえば街中でも<がんばれ熊本>の看板が目に付いた。



驚いたのはミスドで復興バインダー(クリアファイル)をいただいた。
街を上げて復興に向かっている姿をしっかりと目に焼き付けて帰ってきた。


黄色のじゅうたん

2016-12-16 22:04:03 | 日記ふう
寒い朝だった。
昨日からの冷たい雨で体はすっかり冷えてしまい、睡眠も浅いまま目覚めてしまった。



早出のため6時半過ぎには家を出て会社に向かった。
冷たい雨と夜中に北風が吹いたのか、銀杏の木も随分と落ちてしまった。
熊本の街だけなのかなと思っていたが、博多の街にも随分と銀杏の木が植えられていた。



一斉に黄色に変わる姿は、ビルの谷間に晩秋の季節を告げるようだ。
先週あたりから撮りためた写真がある。
もうピークは過ぎてしまったが、黄色のじゅうたんが待っていた。
ビルの前では落ち葉をかき集める風景は熊本と同じだった。
銀杏の木が裸になって、黄色いじゅうたんが消えるといよいよクリスマス、年末と時間は流れていく。
白い息を吐きながら会社への道を急ぐ。
何もこんな寒い日に忘年会は無いだろう、そう思いながら完全に冷たくなった体に少し暖かさが戻ってきた。



早出のため、一旦退社した後、忘年会の会場に向かった。
小さな会社のささやかな宴、それでも人間模様はさまざまで、ちょっと嫌気もさすが、無事に終わった。



今年もあと2週間足らず。
無事に年を越せるようふたたび気を引き締めて最後を飾りたい。
さとて、明日から熊本に帰省する。
年賀状に大掃除、まだまだすることはいっぱいあるんだ。

春日公園

2016-12-13 21:51:54 | 写真投稿
12月ももうすでに中旬になってしまった。
11月も土曜出社などありあっという間に過ぎてしまったが、それ以上に時間の流れは速いような気がする。
今は空き家になっている実家の事も、熊本の家の事も気にはなっているのだが遠くなってしまった。
とくに実家の山の立ち木が他人の畑に2本ばかり倒れて迷惑をかけている。
地元の森林組合に相談をして撤去作業の見積もりをもらった。
ついでに小川に覆いかかっている木々の下払いの作業も加えて作業をお願いしているが、その後何の連絡もないまま過ぎている。
年内には何とか、という返事だったのだがどうなったのか、作業が済んでいるのであれば手土産などもって畑の地主さんにも挨拶に行こうと思っている。
そんなこともあり、年内には実家に帰らなければならないのだが・・・。
月の初めの休みの日に従兄弟が福岡にやってきた。
彼は熊本のとある市に努めている。
つまり市職員、忘年会を兼ねて福岡で宴会をするという。
宴会の後はそのままホテルに泊まり翌日はフリーになるという。
それで朝から彼を拾って市内観光を申し出た。
しかし博多といってもどこに連れて行けば良いものか考える。
個人的には<糸島>と一番に考えるのだが、少し遠い。



結局、志賀島や博多湾(ポートやクルーズ船)を回った。
食事は市場の食堂に連れて行き、ヤフオクドームにタワーをドライブした。
最後は天神地下街と博多駅で買い物に付き合い、そのまま新幹線で帰って行った。
その次の週は息子夫婦がやってきた。
泊まりで来るのかと思ったが、昼時に来て近くの食堂で昼飯だけ食って帰って行った。
そんなわけでせっかくの休みも一日は何にもすることが無い。
こちらに来てからというもの、ジョギングにウォーキング、読書とか写真、ましてはゴルフに釣りなど何にもすることができないでいる。
何かと慣れるのに一生懸命だったようで、それはそれでしょうがない。
そんな休日、春日公園に出かけてみた。
出張のたびに、その昔にリレーつばめから眺めていた春日公園だ。
車窓から眺める広大な敷地や野球場、その隣にある立派な施設などどんなところだろうと思っていた。
ナビにセットして自宅マンションから30分程度だった。
まあ、立派な公園で、公園のほぼ中央には立派な噴水がある。
日本式の庭園なども造ってはあるが鯉もいなければ草花も植えられてはいなかった。



残念だがそこまで手入れは行き届いてはいない。
中央の噴水もただあるだけで水が出ているわけでもない。
それでも公園内はジョギングをする人、ウォーキングで汗をかく人たちでにぎわっていた。
陸上競技場ではサッカーの試合らしきものがあっているようで応援の声が響いていた。
児童公園では子供たちが遊具で黄色い声を上げていた。





広場はきれいに刈りあげてありボール遊びをする人や弁当を広げる人、犬の散歩をする人たちだった。
公園のベンチに座り、しばし音楽を聴いてそんな光景を見ていた。
すこし風もあり寒かったが日も差して気持ちよく眠ってしまった。



はっと目が覚めたら目に太陽が入ってきた。
熊本では癒しの場というモノを何か所か持ってはいたが、こうしてまだ慣れぬ地でここもそのコレクションになるのかもしれない。

師走恒例の年忘れ行事

2016-12-11 20:49:06 | 日記ふう
酒を全く飲まなくなって2年が経過した。
つまり緊急入院から2年が過ぎたことになる。
医師からはとりあえず3年は我慢しましょうと言われているわけだ。
入院とほぼ同時に右腕の腱鞘炎を患ってしまった。
一時期は痛くて眠れず、痛み止めと眠剤を飲んでいた時期もあったけ。
加齢のせいか怪我や病気からの回復力というか治癒力が落ちてしまって、全治までの時間はかなりかかるのだろう、右手はまだ少し痛みが残っている。
肝臓の方も毎月の血液検査では正常値を示し続けてはいるものの、脂肪肝はCTやMRI検査しか確認できないのでそろそろ検査を行う必要がある。
この2年の間、母の3回忌、甥っ子の結婚式、そして息子の結婚式など場もそれとなくこなし、今の会社への入社、そして宴会など酒の場でも一切避けてきた。
会社の人間には<ドクターストップ>ということを言っているので、気を遣いあまり酒のお誘いは無い。
しかしそれでも月に1度や2度は腕を引かれ居酒屋などには顔を出す。
さて、師走に入りボーナスも出て何かとあわただしくなると忘年会ということになる。
「○○さんは飲めませんが、ぜひ出席してくれませんか」
と誘いを受ける。
今の会社にはあまり深入りしたくないと思ってはいるが、やはりコミュニケーションだけはしておかないと自分だけ蚊帳の外というわけにもいかない。
「ただ○○さんには内緒で」
と言う。
○○さんとは前の会社からの私の先輩で、彼の紹介で今の会社に入った。
話を聞くと参加する人の中にどうも相性が良くない人達がいるようでそれに気を使っているようだ。



場所は博多駅近くのしゃれたイタリアンだった。
ビールも普通のビールではなく、青い洒落た小瓶が並ぶようなところだ。
まだ出来て新しいようで若い女性客が多い店だった。



オープンスペースではバーベキューもできるようになっていて、大型のストーブも用意してあった。



料理もなかなか凝った料理が出ておいしかった。
ただノンアルコールビールが置いてなかったのは残念だったが、食う方は満足だった。
酔いが入ってくると話の内容にも熱が入ってくる。
さっそく仕事の話になってくる。
そして人の非難話が始まるのだ。
まあこれも良くあることで、いい加減な気持ちで聞いていた。
<よくまあ、こんな小さな会社なのに(いやいや小さな会社だからか)人間関係は複雑怪奇だ>
そしたら例の先輩の話になった。
適当に相槌を打ちながら聞いていた。
ただ何も言わなかった。
これって、ひょっとして飲んだ勢いで先輩の悪口を言おうものなら、それが回りまわって先輩の耳に入るってことだ。
酒の怖さはそういった微妙なところを狂わせることなんだろうな、と思った。
約2時間で一時会は終わり、やっと解放かと思ったが、駅前で催事があっているというのでみんなで行くことになる。



駅前広場はイルミネーションで飾られ、広場にはバーが設けられていた。
ホットワインなどを注文し、特設の舞台ではショーが繰り広げられていた。
やっと解放されたのは終電近くの時間だった。
いつもは歩いて帰るのだが、行き先が同じ人がいて少し酔っていた。
足元がふらついていたので一緒にバスに乗り、私は2つ目のバス停で降りたのだった。

名曲の夕べ

2016-12-08 21:01:45 | 日記ふう
真夏のセブから真冬の福岡に帰ってきた。
ふたたび味気ない日々の始まりかと思っていたら
「今日は何の日でしょ」
と妻が言う。
そういえばセブに行く前に、セブンのチケット販売機の前で
「もうすでに完売だよ。」
と言う。
「B席ならまだ空とるかもよ」
と返した次の日
「取れたよ」
やっぱりクラシックのコンサートというのは(クラシックに限らないか)S席やA席という一番良い席から売れていくのだろう。
そういうわけで、仕事が終わり博多駅のひかり広場で妻と待ち合わせた。
地下鉄に乗り天神に向かった。
アクロス福岡など初めて行くところで駅の案内板にしたがって地下道を進む。



建物に入ると巨大な吹き抜けに田舎者はびっくりする。
福岡シンフォニーホールを探すがすぐにわかった。
開演前なのにすでに多くの人でいっぱいだった。
少し時間があったのでファストフード店で軽い食事をとった。
私たちの席は3階席でそれも舞台に向かって右側の席だった。



初めて来る福岡シンフォニーホールだ。
熊本の県立劇場とはこれまた違ったつくりでシンフォニー専用のつくりになっている。
舞台までは県劇と違いかなり近い気がする。
一部と二部の構成で一部は「ベートーベンのピアノ協奏曲5番<皇帝>」二部は「チャイコフスキーの交響曲4番」だった。
会場はほぼ満席で私たちの3階席まで埋まっていた。
一部の演奏が始まる。
<皇帝>は聞きなれた曲だが生演奏で聞くのは初めてだった。
やはり女性ピアニストだからなのかオーケストラはかなり抑えた演奏だった。
それでもコンサートマスターは一所懸命に演奏していた。
優しさなのだろう。
そして2部のチャイコフスキーの交響曲4番は始まった。
CDでも聞いたことのない曲だったがチャイコフスキーらしくゆっくりとした感じで曲が始まった。
2楽章、3楽章に進むにつれ曲が激しくなっていく。
しばし目を閉じて「こういう音が聞けるオーディオがあれば良いのだが」と思ったりもした。
会場の上の段の端っこだったけど音の響きは素晴らしく、反響音も無く、舞台からの距離感もあまり感じられない。
魂のこもった読売日本交響楽団(読響)と小林研一郎(コバケン)の演奏会だった。
クライマックスを迎え音は最大限まで響き、演奏は終わった。



会場からは割れんばかりの拍手の渦、これが生演奏の素晴らしい所なのだろう。
アンコールは<ダニーボーイ>だった。
興奮した気持ちを優しく落ち着けてくれる曲でコンサートは終了した。



会場を出て、興奮した気持ちを落ち着かせるため、中洲を歩いて帰ることにした。
屋台は相変わらず賑わっており、キャナルはすっかりクリスマス・イルミネーションで着飾っていた。
コンサートを聴き、歩いて帰れるのだからこんな幸せな夜は無い。
すっかりクラシックにはまってしまい、近頃はコレルリや トレルリのクリスマス協奏曲などを聞いている。
でもやはり生演奏にはどうしても勝てないのだ。

セブ最終日

2016-12-04 18:58:42 | 旅行
電池が切れたという話だったが、記事も途中で切れてしまったようだ。
最初にコンデジの電池が切れ、ケータイで写真を撮っていた。
だからこれ以前のほとんどがケータイの写真だ。
ケータイも切れかかり、ビデオのキャプチャーでしか撮れ無くなってしまった。

まあ娘との再会は果たせて、オランゴ島まで娘が案内してくれたわけだ。
現地のタクシーも観光客相手にいろいろと交渉してくる。
まずタクシーに乗り行き先を言うと<遠いから500ペソ>と要求してくる。
すると娘は<100ペソにメータ料金>と交渉する。
つまりメータに関係なく500ペソというわけだが、娘はメータ料金に100ペソ上乗せするという。
運転手は考える、すると娘は<ストップ>つまりクルマを止めろという。
運転手は仕方なく<OK!>と言い交渉は成立するのだ。
<最初から500ペソで交渉とタクシー会社で決まっているんだろうね>などと娘は言っていた。
そんな交渉でセブ市内からマクタン島のボート乗り場までは片道400ペソ足らず、往復でも800ペソ、現地のバイクのおじさんにいくら払ったか知らないが500ペソも払っていないだろう。
それに船賃に自然保護区の入場料に食事代、しめて3,000ペソくらいではないのだろうか。
オプショナルツアーだと一人当たり6,000ペソくらいの料金は取られるから、3人で3,000ペソはかなり安く上がったわけだ。(レートで1ペソ=2.3円くらい)
そんな現地の強い味方の娘は、明日からマレーシア(クアラルンプール)に旅行に出かけるという。
せっかく親が娘に会いに訪ねてきたのに、なんて娘なのだろう。
セブ滞在もあとが少なくなり、時期的にも料金的にもこの時期しか無いようだ。
マレーシアにはセブから1万円くらいで行けるようで、申し訳ないがあと一日(私たちの滞在)は2人で過ごせと言う。
フライトは夜中の2時半くらいだ、ホテルのチェックアウトが午前11時、空港までの迎えが来るのが夜の10時だった。
つまりホテルをチェックアウトしてから迎えに来る夜の10時まで時間をつぶさなければならない。
オプショナルツアーを探し、夜景を見るツアーがあった。
地元の日本語がわかる旅行会社に電話しようにもケータイの充電がほとんどない。
ホテルはビジネスパークにあるビジネスホテルのなので日本語ができるスタッフはいない。

恐怖の11時間の始まりだった。
とりあえずチェックアウトをして荷物をクロークに預ける。
ここまでは何とか片言の英語で通じた。
ホテルを出て近くにあるアヤラ・ショッピングモールに行く。
まあ巨大なショッピングモールでキャナルの数倍はありそうなモールだった。



モールのフードコートのようなところに行き、現地の料理を数点選んで食事をした。
ビーフのスープのような料理はなかなかうまい。
料金は2人で300ペソ程度、だから600円から700円くらいだった。
持ってきたガイドブックを広げたが何せ8年も前の中古本だった。
その本から地図がのったページだけ切り取ってポケットにしまいこんだ。
その地図には泊まったホテルすら乗ってない。
モールを出てもう一つの巨大モール(シューモール<)まで歩くことにした。
ガードマンに地図を見せ方向を確認する。
タクシーに乗れと言ってるようだ。
だけど歩くことにした。



距離にして1km位の距離だったが、道を歩く人はほとんどいない。
大通りから横道に入るとちょっと怖い。
現地の人と何回かすれ違ったが<チャイニーズ>などの言葉が聞こえる。
たった1kmほどの距離に教会が2か所あった。





教会では日曜日と言うこともありミサが行われていた。
しばらくそこで休憩を取りながらもなんとかシューモールとやらに着いた。
これは長い長いモールで一直線に1kmくらいはありそうなモールだった。
その中にスーパーマーケットのような場所があったのでそこに入りお土産を買った。



マンゴーのチップのようなものとチョコレートだった。
しばしそこで時間をつぶし、タクシーに乗った。
タクシーに乗るなり<ジャパニーズか?>と聞かれた。
そうだと言うと、チャイニーズやコリアンとは違う、やっぱりそうか、と言うようなことを話していた。
そういえばシンガポールでもタクシーを止めたとき<コリアン?>と聞かれたことがあった。



<ジャパニーズ>と言うとOKと言って乗せてくれたことを思い出した。
運転手のおっじさんは話好きのようで渋滞した道からこれは左折(日本の右折)できないだろうという渋滞の中を割り込みながら話をしてくる。
近道のようでスラム街に入る。
ここが一番のスラム街のようなことを言った。
こちらから大統領のドテルテの話をした。
そしたら運転手は興奮して、日本でもドテルテはポピュラーなのかとしきりに聞いてくる。
私は<フェイム>というが彼は<ポピュラー>かとしきりに言う。
しまいには、そうか日本でもドテルテは知られているのか!と興奮気味で万歳をするのだ。
片言の英語だけど何とか話はできるものだ。
タクシーを降りて再びアヤラ・ショッピングモールに入る。
そうそう、モールやちょっとした店に入るには必ずガードマンが立っている。
それも腰には拳銃を携帯している。
そこで必ず荷物検査を受けなければならない。
泊まっていたホテルでもそうだった。
まあ、荷物の中を見せるだけで特に広げて検査するわけではないので、慣れてしまえばどうってことはない。
夜にはなったが時間まではまだ時間がある。
妻はマッサージをしたいようで、残りのお金を計算すると足らないようだ。
両替所を探し1万円分の両替をした。





生バンドがいるちょっとしたレストランで食事をした。
妻は牡蠣料理に渡しはロースビールのダブルを頼んだ。
それでも合わせて800ペソくらいだった。
ゆっくりと時間をかけ食事をしてマッサージに行った。
30分で100ペソだというので1時間みっちりマッサージを受けた。
全身を椅子に座ったまま受ける。
マッサージが終わるとちょうど時間になったのでホテルに戻った。

街中で良く<メトロ・セブ>と言う看板を見かけた。
セブ市の人口は90万人ほどの都市だが、メトロとは都市圏のようで近郊の都市の合わせた人口はなんと250万人以上とも言われる。
今後も人口は増える傾向にありあっという間に500万人の都市になるそうで、様々な問題(上下水処理やゴミ問題、渋滞が激しい交通の問題、貧困の差が激しいこと)をどうするのか、開発が急がれているという。
来る前はちょっと怖いイメージだったが、確かに貧困の問題は街中を見るとよくわかる。
しかし人々はフレンドリーでそんなに怖い思いもしなかった。
ジプニーのような乗合のバスも思ったところで乗り、思ったところで降りれるのでなかなか現地の人たちにとっては都合の良い乗り物のようだ。

セブに行くには日本からだとなかなか難しいようだ。
特に福岡からだとマニラ乗換になるようだし、首都圏(成田や関空)からも月に数便しかないようだ。
福岡からは成田や大阪に行くより釜山やソウル(インジョン)に行った方が時間的にも料金的にも安い。



夜中の便にはなるが韓国からは5、6便がセブに直行便が出ている。
それも常に満席のようで、ホテルをおさえるより航空便の席を取るのがなかなか難しいようだ。
今回はツアー会社に頼んだが、ホテルの予約と便をおさえてもらうだけだった。
それだけに料金もひとり5万円ほどで行けた。
韓国の航空会社も良いけど、やはり雰囲気があまり良くない。
マナーにしても彼らの中ではどうしても居心地はよろしくなかった。
日本からもどんどん直行便を出せるようにしてほしいのもだ。

オランゴ島2

2016-12-02 17:36:23 | 旅行
静まり返った広大な環礁に鳥のさえずりだけが響き渡る。
この世の楽園のような場所を後ろ髪をひかれるように後にした。
再びトライシクルに乗り込む。
この小型のバイクに大人4人が乗っているのだからバイクのエンジンもかなり無理をしているのだろう。
水たまりをよけながらゆっくりと細い道を進む。
自然保護区になっているようで立ち入りができないように策が張り巡らされていた。
娘が運転手に何か話しかけ、トライシクルはUターンする。
島にあるレストランに行く前に先に寄りたい場所(私たちを案内したい場所)があるようで、そこを先に回るようだ。



なにか小屋のような場所に着いた。
小屋の看板には<SAN VICENTE MARINE SANCYUARY>とある。
娘が先に行き、受付のような手続きをしていた。
小屋に入ると海に向かって長い長い橋が架かっていた。
橋といっても竹を組んだ狭いつり橋のような橋だ。



マングローブの林の中をゆさゆさと橋を渡ると海が開けていた。
細い橋の先には小屋のような物が見える。
小屋にたどり着くと先ほどバードウォッチの場所にいたスペイン人の人たちが先に来ていた。
そのほかにも中国人らしきカップルとドイツ人のカップルがいた。
ドイツ人のカップルは水着に着替えスノーケルに出かけていた。
小屋は浮小屋のようで小型のバンカーボートが数台つながれていた。
地元の観光案内のような人が船で帰ってきて、取ってきた魚介類を料理していた。
食べないか、と聞いてきた。



気のよさそうなおじさんで、片言の日本語ができるようだ。
妻が流暢な日本語でいろいろなことを聞いていた。
「日本語がペラペラなんだって」
ペラペラとは薄い方のペラのようでなかなか面白いおじさんだ。
日本では大雪が降っているというと驚いた様子を見せる。
しばし話を聞いた。
まだ若そうなのに孫が16人もいるという。
観光のため、日本語、スペイン語、ドイツ語を勉強しているという。
海にはバンカーボートが数台停まっており、シュノーケルダイビングをしているようだ。
その先にはセブの街並みが見える。
おじさんにサヨナラと挨拶をすると笑顔で手を振ってくれた。
再びトライシクルに乗り、少し長い道を走った。
これでも道なのかと思う道を走りついた先はちょっとした海べりの公園のような場所だった。



ホテルと言ってもプールがあり小屋のような建物があるだけだ。
屋根があるだけの建物に4つぐらいのテーブルがある。
メニューをもって女の人が来る。
メニューを見るがよくわからない。
指をさすと<ポーク>と言う。
それにした。



妻は魚の料理のようで、娘はパスタにした。
肉は固く、特性の甘辛いソースを垂らしていただく。
食った後はベンチでゆっくりとした時間を過ごした。



妻はハンモックに揺られ、娘はリラックスできるソファに横になる。
私は海べりのベンチに座り海を眺めてゆっくりとした。



実は困ったことが発生した。
こんなきれいな海なのに一眼レフのカメラはもってこなかった。
娘に会うのが一番の目的でコンデジとケーターにビデオを持ってきたのだが、コンデジとケータイ、ついでにウォークマンの電池が切れてしまったのだ。
この国は200ボルトと聞いていたので充電器を持ってこなかった。
ケータイとコンデジがダメでビデオのキ