今日はお義父様の命日です。
昨夜、写真をきれいにしました。
そして、手を合わせる。
今日は、息子も夫も。
いつもお守りくださっていると思うし、感謝です。
室蘭では長女たち家族も、また次女夫婦も手を合わせておじいちゃんのご冥福を祈ったという。
子どもたちを連れて帰省すれば熊本駅まで迎えに来てくれて、タクシーで宇土の家まで帰った。ずいぶん遠いのに・・・。
ありがたかったなあと思うし、孫を持てば、義父の気持ちがよくわかる。
一緒に動物園や阿蘇や天草やいろいろ行ったけど、もっともっと、いっぱい親孝行、おじいちゃん孝行をすればよかったと思う。
昨日、写真をきれいにおさめ直しながら、なかなかハンサムだな、かっこいいなと思った。
人気あっただろうなと。
義父を慕う多くの子どもたちや教師がいたようであるし、義父は亡くなっていても、熊本に帰省したときに、タクシーに乗って行先の家を言えば「F先生の家ですね」と熊本弁で言われていた。
お義母様と並んだ写真に向かって「いつもお守りくださってありがとうございます。お義母様や私の父や母やご先祖様と楽しくお話してくださいね。F子さんやHお兄様とも・・・ね。また、私達をお守りください・・・」と延々と(お墓参りなどのときに子どもたちに長いといつも言われる)私の義父への話は続くのである。
思い出す。
12月26日の零時25分ごろだった。
義理の姉が(熊本の義兄宅に泊まっていた)ふすまを開けて、静かに「今、お父さんが亡くなりはったって」と言った。
あの年、冬休みになり、寝台車の「はやぶさ」で、子どもたちを連れて帰省した。夫は仕事だ。
義姉たちに「指宿から先に帰ってね」と言われて「えっ、熊本で降りたい」と言ったのだけど、容体のこともあり、いろんな事情があるようで、また、私への思いやりか・・・そう言われて・・・鹿児島に向かった。
でも、熊本を通り過ぎながら、義父がよくなりますようにと祈っていた。
指宿の実家に帰宅して洗濯をしようとしたら(ずっと気になっていた)容体がよくないと聞いたのか、夫が帰省すると聞いたのか、あるいは、やはり熊本に行かなきゃと思ったのか、すぐさま、通り過ぎてきた熊本へまた向かった。
夫も帰ってきていて、義父と病院で会えた。
義父は孫である子どもたち3人とも話ができた。
長女とも息子とも・・・。
次女が3歳になったばかりか・・「ぴよぴよSちゃん」と義父が言って笑った。
義父は夫の兄や姉たちの孫たちに囲まれていた。
いつぞや、息子のことを女の子のように「今、Kはどこにいる?誘拐があるから気をつけて」と心配してくれたのにはびっくりしたし、長女も次女もいるのに、男の子のKを心配するんだと思ったものだ(今の世の中は、特に男女の別もないけど)
長女の名前は義父がつけてくれた。
「もし、まだ決まっていないのなら、Mはどうか」と。
その流れを汲んで、長女Mの名前からCちゃんの名前になっている。
義父の心が伝わっている。
褒め上手な父だった。
中学校長で仕事を終え、メジロを愛し、ピアノを弾いてくれ、文字がとてもきれいで、いい義父だった。
ありがとうの言葉を心を込めて言います。
そして、これからも私たちを見守ってくださいねと・・・。
義父との思い出は数えきれないほどある。
本当に子どもたちを愛してくれて、私たちに優しかった。
それにいくら、こたえられたろうか・・・ごめんなさいと思う。
今は、ただただ、義父に感謝してご冥福を祈るばかりである。
昨夜、写真をきれいにしました。
そして、手を合わせる。
今日は、息子も夫も。
いつもお守りくださっていると思うし、感謝です。
室蘭では長女たち家族も、また次女夫婦も手を合わせておじいちゃんのご冥福を祈ったという。
子どもたちを連れて帰省すれば熊本駅まで迎えに来てくれて、タクシーで宇土の家まで帰った。ずいぶん遠いのに・・・。
ありがたかったなあと思うし、孫を持てば、義父の気持ちがよくわかる。
一緒に動物園や阿蘇や天草やいろいろ行ったけど、もっともっと、いっぱい親孝行、おじいちゃん孝行をすればよかったと思う。
昨日、写真をきれいにおさめ直しながら、なかなかハンサムだな、かっこいいなと思った。
人気あっただろうなと。
義父を慕う多くの子どもたちや教師がいたようであるし、義父は亡くなっていても、熊本に帰省したときに、タクシーに乗って行先の家を言えば「F先生の家ですね」と熊本弁で言われていた。
お義母様と並んだ写真に向かって「いつもお守りくださってありがとうございます。お義母様や私の父や母やご先祖様と楽しくお話してくださいね。F子さんやHお兄様とも・・・ね。また、私達をお守りください・・・」と延々と(お墓参りなどのときに子どもたちに長いといつも言われる)私の義父への話は続くのである。
思い出す。
12月26日の零時25分ごろだった。
義理の姉が(熊本の義兄宅に泊まっていた)ふすまを開けて、静かに「今、お父さんが亡くなりはったって」と言った。
あの年、冬休みになり、寝台車の「はやぶさ」で、子どもたちを連れて帰省した。夫は仕事だ。
義姉たちに「指宿から先に帰ってね」と言われて「えっ、熊本で降りたい」と言ったのだけど、容体のこともあり、いろんな事情があるようで、また、私への思いやりか・・・そう言われて・・・鹿児島に向かった。
でも、熊本を通り過ぎながら、義父がよくなりますようにと祈っていた。
指宿の実家に帰宅して洗濯をしようとしたら(ずっと気になっていた)容体がよくないと聞いたのか、夫が帰省すると聞いたのか、あるいは、やはり熊本に行かなきゃと思ったのか、すぐさま、通り過ぎてきた熊本へまた向かった。
夫も帰ってきていて、義父と病院で会えた。
義父は孫である子どもたち3人とも話ができた。
長女とも息子とも・・・。
次女が3歳になったばかりか・・「ぴよぴよSちゃん」と義父が言って笑った。
義父は夫の兄や姉たちの孫たちに囲まれていた。
いつぞや、息子のことを女の子のように「今、Kはどこにいる?誘拐があるから気をつけて」と心配してくれたのにはびっくりしたし、長女も次女もいるのに、男の子のKを心配するんだと思ったものだ(今の世の中は、特に男女の別もないけど)
長女の名前は義父がつけてくれた。
「もし、まだ決まっていないのなら、Mはどうか」と。
その流れを汲んで、長女Mの名前からCちゃんの名前になっている。
義父の心が伝わっている。
褒め上手な父だった。
中学校長で仕事を終え、メジロを愛し、ピアノを弾いてくれ、文字がとてもきれいで、いい義父だった。
ありがとうの言葉を心を込めて言います。
そして、これからも私たちを見守ってくださいねと・・・。
義父との思い出は数えきれないほどある。
本当に子どもたちを愛してくれて、私たちに優しかった。
それにいくら、こたえられたろうか・・・ごめんなさいと思う。
今は、ただただ、義父に感謝してご冥福を祈るばかりである。