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■ 女性ヴォーカルの力 ~ 歌の女神降臨LIVE ~

むしょうに綺麗なメロディ聴きたくなり、思いつくままに引っ張ってみるとやっぱり女性ヴォーカルばっかりだった。

つらつら聴いていくと、
「優秀な男性ボーカルが10人束になってかかっても、1人の才能ある女性ボーカルには到底及ばない。」
などという音楽格言が想い浮かんでくる。

小室哲哉氏がどうしてハイトーンの女性ヴォーカルをあれだけ追い求めたのか、いま振り返るとわかる気がする。


■ 華原朋美 - LOVE BRACE


■ Every Little Thing - Over and Over

華麗な五十嵐サウンドもまた、持田香織のヴォーカルを必要とした。

■ Yuna Ito(伊藤由奈) - Endless Story


■ KOKIA - 孤独な生きもの


■ 揺れる想い - ZARD



■ 柴山サリー(SARI) - 遠い日のNostalgia


■ 西野カナ - 君って 


■ Sachi Tainaka - Saikou no Kataomoi (最高の片想い)


■ Rina Aiuchi(愛内里菜) - Magic


■ 森高千里 - 渡良瀬橋


■ 今井美樹 - Goodbye Yesterday


■ Kalafina - Mirai 未来
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■ 鎌倉市の御朱印-12 (B.名越口-7)

■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 同-2 (A.朝夷奈口)
■ 同-3 (A.朝夷奈口)
■ 同-4 (A.朝夷奈口)
■ 同-5 (A.朝夷奈口)
■ 同-6 (B.名越口-1)
■ 同-7 (B.名越口-2)
■ 同-8 (B.名越口-3)
■ 同-9 (B.名越口-4)
■ 同-10 (B.名越口-5)
■ 同-11 (B.名越口-6)から。


37.天照山 蓮乗院(れんじょういん)
鎌倉市観光協会Web

鎌倉市材木座6-16-15
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
司元別当:
札所:鎌倉三十三観音霊場第19番、相州二十一ヶ所霊場第11番


蓮乗院は材木座・光明寺の参道右手にある塔頭寺院です。

鎌倉市観光協会Web、下記史料・資料から縁起沿革を追ってみます。

蓮乗院の創立年代・開山は不詳ですが、光明寺開山(寛元元年(1243年))より早い時期からこの地にあり、当初は蓮乗寺と号す真言密寺だったと伝わります。

佐介谷の悟真寺(蓮華寺)がこの地に移転の際(寛元三年(1247年))、良忠上人は伽藍落成まで蓮乗院に入られて建築を督励されたといいます。
光明寺(改号後)の子院となり、浄土宗の蓮乗院と改めたと伝わります。

この沿革にもとづき、光明寺の新住職はまず蓮乗院に入ってから光明寺の本山方丈に入るならわしだったといいます。

蓮乗院が塔頭や僧坊ではなく、「子院」と呼ばれることがあるのもこのような格式によるものかも。

本堂に御座す十一面観世音菩薩は鎌倉三十三観音霊場第19番、弘法大師像は相州二十一ヶ所霊場第11番の札所本尊となっています。

『鎌倉市史 寺社編』には「弘法大師の霊場として大正三年東京東山講(魚河岸の人達)が大師像を作って納め、当二十一ヶ所の十一番とした。」とあり、大正三年に相州二十一ヶ所霊場第11番の札所となったことがわかります。

なお、相州二十一ヶ所霊場については、こちらの「31.金龍山 釈満院 宝戒寺」をご覧くださいませ。

『新編鎌倉志』『新編相模国風土記稿』ともに、蓮乗院の御本尊・阿弥陀如来木像は伝・運慶作で、千葉介常胤の守護佛と伝えます。

千葉介常胤および千葉氏については「鎌倉殿の13人」と御朱印-3/22.阿毘盧山 密乗院 大日寺にまとめていますが転記します。

千葉氏は桓武平氏良文流、坂東八平氏(千葉氏・上総氏・三浦氏・土肥氏・秩父氏・大庭氏・梶原氏・長尾氏)を代表する名族として知られています。

律令制のもとの親王任国(親王が国守に任じられた国。常陸国、上総国、上野国の3国ですべて「大国」)の国守(太守)は親王で、次官として「介」(すけ)がおかれ、実質的な国の長官は「介」ないし「権介」であったとされます。

常陸国の「介」には平家盛、頼盛、経盛、教盛など伊勢平氏(いわゆる「平家」)が任ぜられました。上総国の「介」は早くから坂東に下向した桓武平氏良文流の上総氏、下総国は親王任国ではありませんが、こちらも実質的な長官は「介」ないし「権介」で、良文流の千葉氏が占めて”千葉介”を称し、有力在庁官人としてともに勢力を張りました。

もうひとつの親王任国、上野国(現・群馬県)には、平良文公や千葉氏の嫡流・平(千葉)常将公にまつわる伝承が多く残ります。
(ご参考→『榛名山南東麓の千葉氏伝承』

千葉氏の妙見信仰にもかかわる逸話が伝わるので、少しく寄り道してみます。
千葉氏の妙見信仰のはじまりについては諸説がありますが、千葉市史のなかに、上野国の妙見菩薩にちなむとする記載がありました。(『千葉市史 第1巻 原始古代中世編』(千葉市地域情報デジタルアーカイブ))

これによると、桓武天皇四世、平高望公の子・平良文公は武蔵国大里郡を本拠とし、良文公と平将門公が結んで上野国に攻め入り、上野国府中花園の村の染谷川で平国香公の大軍と戦った際に示現された妙見菩薩(花園妙見・羊妙見)が、その信仰のはじまりだというのです。

「染谷川の戦い」は、伊勢平氏の祖・国香公と良文流の祖・良文公、そして関東の覇者・将門公という超大物が相戦うスケール感あふれる戦いですが、複数の伝承があるようで、国香公と将門公の対峙は明らかですが、良文公がどちらについたかが定かでありません。(そもそも史実かどうかも不明)

しかし、この戦いで花園妙見の加護を得た将門公と良文公が実質的な勝利を得、国香公は撤収したとされています。
これに類する逸話は『源平闘諍録』にも記されており、千葉市史はこれにもとづいて構成されたのかもしれません。

また、良文公の嫡流、平(千葉)常将公も、上野国の榛名山麓に多くの逸話を残しています。
上野国に大きな所領を得たわけでもない良文公や常将公の足跡が上野国にのこるのは、やはり房総平氏の妙見信仰が上野国所縁であることを示すものかもしれません。
※関連記事 → ■ 伊香保温泉周辺の御朱印-1(前編A)の6.三鈷山 吉祥院 妙見寺

房総半島に依った桓武平氏は「房総平氏」とも呼ばれ、平忠常公がその始祖とされます。
「房総平氏」の代表格は上総介と千葉介で、鎌倉幕府草創期の当主は上総介広常と千葉介常胤でした。(→千葉氏系図)(千葉一族の歴史と史跡)

石橋山の戦いで敗れ房総で再挙を図った頼朝公ですが、大きな武力をもつ「房総平氏」の上総介と千葉介の協力なくして鎌倉入りは果たせなかったとみられています。
上総介広常は頼朝公に粛清されましたが、頼朝公のサポート役に徹した千葉介常胤はその地位を能く保ちました。

常胤は千葉氏の祖ともされる平常重の嫡男で、保元元年(1156年)の保元の乱では源義朝公の指揮下で戦いました。
治承四年(1180年)、石橋山の戦いで敗れた頼朝公が安房に逃れると、頼朝公は安達盛長を使者として千葉庄(現在の千葉市付近)の常胤に送り、常胤は盛長を迎え入れ、頼朝公に源氏ゆかりの鎌倉に入ることを勧めたとされます。(『吾妻鑑』治承4年9月9日条)

『吾妻鏡』には、同年9月17日に常胤が下総国府に赴き頼朝公に参陣とあります。
この時期、頼朝公が千葉妙見宮を参詣、以降も尊崇篤かったと伝えられ、頼朝公は房総における妙見信仰の大切さを熟知していたのかもしれません。

これに関連して『千葉市における源頼朝の伝説と地域文化の創出に向けて』(丸井敬司氏)には興味ぶかい説が記されています。

頼朝公は鎌倉に入るやいなや鶴岡若宮(現・元八幡宮)を北に遷座(現・鶴岡八幡宮)していますが、同書では「(鶴岡若宮の北遷は)八幡神を道教における四神の玄武と見做したことを意味する。こうした既存の八幡社に妙見の神格を加えるような事例は房総半島には多く確認される。」とし、守谷の妙見八幡、竜(龍)ヶ崎の妙見八幡を例にひいています。

また、「尊光院(現・千葉神社)のように妙見の別当寺を町の北側に建立することで、事実上、八幡社を妙見社とする例もある(こうした八幡に妙見の神格を加えたものを「千葉型の八幡信仰」という)。こうした事例から考えると筆者は、鶴岡若宮は典型的な「千葉型の八幡信仰」の寺院であったと考えている。」とし、鶴岡八幡宮の御遷座に千葉氏の関与ないしは献策があったことを示唆しています。

源平合戦では範頼公に属して一ノ谷の戦いに参加、豊後国で軍功をあげ、奥州討伐では東海道方面の大将に任じられて活躍、鎌倉幕府でも重きをなしたとされています。
頼朝公も常胤を深く信頼し、「(常胤を)以て父となす」という言葉が伝わります。

千葉氏における常胤の存在の大きさは、常胤以降、嫡流は諱に「胤」の一字を受け継ぐことが通例となったことからもうかがわれます。

また、千葉市Web千葉市立郷土博物館Webでも、千葉氏が大きくとりあげられ、この地における千葉氏の存在の大きさが感じられます。

これは千葉氏が単なる豪族にとどまらず、房総に広がる妙見信仰と深くかかわっていることもあると思われ、実際、千葉市公式Webには「千葉氏と北辰(妙見)信仰」というコンテンツが掲載されています。

常胤の6人の息子の子孫は分家を繰り返しながら全国に広がり、のちに「千葉六党(ちばりくとう)」(千葉氏、相馬氏、武石氏、大須賀氏、国分氏、東氏)と呼ばれる同族勢力を形成しています。

千葉介常胤は真言宗ともゆかりがふかく、あるいは真言密寺の旧・蓮乗寺は千葉介常胤とゆかりがあり、旧・蓮乗寺の御本尊が蓮乗院の御本尊に奉安されたのかもしれませんが、史料類は詳細を伝えていません。

千葉介常胤絡みで当山を訪れる人は多くはないと思いますが、ふたつの霊場の札所なので、こちらの巡拝者の参拝は多いと思われます。


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【史料・資料】

『新編鎌倉志 鎌倉攬勝考』(国立国会図書館)
蓮乗院
総門を入右にあり。光明寺草創以前に、真言宗の寺あり。蓮乗寺と云ふ。今の蓮乗院是なり。開山此寺に居て、光明寺を建立す。故に今に住持入院の時は、先づ此院に入て後方丈に入。古例なりと云ふ。当院の本尊阿彌陀木像、腹内に書付あり。貞治二年(1363年)三月十五日、修復之とあり。伝へ云、運慶が作にて、千葉介常胤が守本尊なりと。

『新編相模国風土記稿』(国立国会図書館)
(材木座村)塔頭 蓮乗院
総門を入て右にあり、当院は本坊草創已前密刹にて蓮乗寺と号せり、開山良忠此寺に居て光明寺を建立す 故に今に住持入院の時は先此院に入て後方丈に入る古例なりと云ふ、
本尊は彌陀の雕像にて肚裏に紙片あり貞治二年(1363年)三月十五日修復之の十二字を記す、是運慶が作にて千葉介常胤が守護佛なりと伝ふ


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光明寺の参道・山門の左手にあります。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山門扁額

山門は脇塀付き切妻屋根桟瓦葺のおそらく薬医門かと思います。
見上げに院号扁額。

山内は広くはないものの、しっとりと落ち着きがあります。
相州二十一ヶ所霊場第11番の札所標もありました。


【写真 上(左)】 相州二十一ヶ所霊場札所標
【写真 下(右)】 (光明寺の?)鐘楼堂

墓域の方に見える斗栱をダイナミックに組み上げた鐘楼堂は、光明寺のものでしょうか。


【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 本堂

本堂は寄棟造桟瓦葺流れ向拝。
向拝の張り出しが大きく、なんとなく入母屋造的イメージもありますが、寄棟造平入りかと思います。
シンプルな屋根構成ながら軒上にはしっかり飾り瓦を置いています。



【写真 上(左)】 飾り瓦
【写真 下(右)】 向拝

水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、中備に卍紋付きの板蟇股を置いています。
繋ぎ虹梁はないものの、向拝まわりは朱塗りで華やかなイメージのある本堂です。

本堂の扉はわずかに開くので、堂内を拝することができます。
阿弥陀如来、釈迦如来、十一面観世音菩薩、善導大師像、法然上人像、弘法大師像などが安置され、うち十一面観世音菩薩は鎌倉三十三観音霊場第19番、弘法大師像は相州二十一ヶ所霊場第11番の札所本尊となっています。


【写真 上(左)】 観音霊場札所板
【写真 下(右)】 天水鉢

鎌倉三十三観音霊場の札所標も置かれていました。
板ふすま絵や絢爛たる天井絵は逸品とされます。

堂前の天水鉢には月星紋が置かれています。
月星紋は千葉氏の家紋のひとつとされるので、当山と千葉氏のゆかりを示すものかもしれません。


御朱印は本堂右手庫裏にて拝受しました。


〔 蓮乗院の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 御本尊の御朱印
【写真 下(右)】 鎌倉三十三観音霊場の御朱印


相州二十一ヶ所霊場の御朱印


38.天照山 千手院(せんじゅいん)
鎌倉市観光協会Web

鎌倉市材木座6-12-8
浄土宗
御本尊:確認中
司元別当:
札所:札所:鎌倉三十三観音霊場第20番

千手院は光明寺の参道・山門の左手にある光明寺の塔頭寺院です。

鎌倉市観光協会Web、下記史料・資料から縁起沿革を追ってみます。

開山・縁起等は不明です。

材木座への光明寺移転は寛元三年(1247年)とされるので、寺僧寮である千手院の創立もそれ以降とみられますが、史料類は明示していません。

『新編相模国風土記稿』には「按ずるに、【鎌倉志】専修院に作る、当時しか書記せしにや、詳ならず」とあり、『新編鎌倉志』記載の専修院を千手院とみていますが、「詳ならず」と付記しています。

奉安する千手観世音菩薩は、鎌倉三十三観音霊場第20番の札所本尊です。
「Wikipedia」によると千手観世音菩薩像は、天文元年(1532年)恢誉上人により奉安と伝わるとのこと。

なお、『鎌倉市史 社寺編』には「本尊、千手観音」とあり、拝受した御朱印には「本尊 阿弥陀如来」とあったので、御本尊については不明です。

当初は各地から集まった学僧の修行道場ないし寮でしたが、江戸期には学僧の数も減ったため、近所の子供たちに読み書きなどを教える寺子屋としての役割も果たしたといいます。


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【史料・資料】

『新編鎌倉志 鎌倉攬勝考』(国立国会図書館)
専修院
総門を入左にあり。此二箇院(蓮乗院・専修院)、共に光明寺の寺僧寮なり。

『新編相模国風土記稿』(国立国会図書館)
(材木座村)千手院
僧門を入て、左にあり(按ずるに、【鎌倉志】専修院に作る、当時しか書記せしにや、詳ならず、)千手観音を本尊とす

■ 山内掲示
千手院は浄土宗で、天照山千手院と号し、光明寺の塔頭の一つであり、もとは光明寺の寺僧寮であったと伝えられる。
本尊は千手観音、江戸時代から寺子屋のあった所で、境内には梅の古木があった。

■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
天照山千手院と号する。
『新編鎌倉志』には専修院とあり、『光明寺志』には千手院とある。浄土宗。
もと光明寺の寺僧寮という。開山不詳。本尊、千手観音。


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光明寺の参道・山門の左手にあります。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 院号板


【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 観音霊場札所標

山門は脇塀付き切妻屋根桟瓦葺のおそらく四脚門かと思われます。
「赤門寺」と呼ばれそうな鮮やかな朱色の山門です。
門柱に院号板、見上げに院号扁額を掲げ、門前には鎌倉三十三観音霊場第20番の札所標を置いています。


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 参道

山内はかなりの奥行きがあり、緑が多く落ち着いたたたずまい。
参道は本堂前で左手に曲がり、その前の覆屋内には子恵地蔵尊が御座します。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝

本堂の様式は不詳ですが、宝形造桟瓦葺の流れ向拝かと思います。
水引虹梁は軒下に連接し両端に角形の木鼻、身舎側に繋ぎ虹梁を伸ばしています。
全体にシンプルでスクエアなイメージがあります。

見上げには鎌倉三十三観音霊場の札所板が掲げられていました。
鎌倉三十三観音霊場の第19番蓮乗院・第20番千手院は光明寺の子院・塔頭、第27番妙高院・第29番龍嶺院は建長寺の塔所、結願第33番佛日庵は円覚寺の塔頭で、とくに妙高院・龍嶺院は一般拝観不可で、原則観音霊場巡拝者のみ山内立ち入り・参拝が許されています。
大寺も多くメジャー霊場のイメージがありますが、意外にマニアックな霊場かもしれません。
(→ 霊場札所リスト(「ニッポンの霊場」様)


【写真 上(左)】 観音霊場札所板
【写真 下(右)】 芭蕉句碑

境内には、当院の定賢和尚(明治25年寂)の教え子の田中氏が建立したという松尾芭蕉の句碑があります。

 春もやヽ 気しきとヽのふ月と梅 

かつてあったという梅の古木にちなんで選句したともみられています。


御朱印は山内右手の庫裏にて拝受しました。
比較的メジャーな鎌倉三十三観音霊場の札所なので、ご対応は手慣れておられます。


〔 千手院の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 阿弥陀如来の御朱印
【写真 下(右)】 鎌倉三十三観音霊場の御朱印


39.石井山 長勝寺(ちょうしょうじ)
公式Web
鎌倉市観光協会Web

鎌倉市材木座2-12-17
日蓮宗
司元別当:
札所:札所:

長勝寺は日蓮聖人開山とも伝わる日蓮宗の名刹です。

鎌倉市観光協会Web、下記史料・資料から縁起沿革を追ってみます。

開山・縁起等については諸説ある模様です。
長勝寺は、妙法寺・安国論寺とともに日蓮聖人が鎌倉に入られ最初に営まれた小庵(松葉ヶ谷御小庵の法華堂)の旧地ともみられています。

石井藤五郎長勝が日蓮聖人に帰依し、邸宅を寄進して一寺にしたという伝もあります。
Wikipediaには、石井氏は鎌倉の有力御家人三浦氏(佐原流)の流れといい、石井藤五郎長勝は文応(1260-1261年)の頃、鎌倉松葉ヶ谷付近の地頭職をつとめていたとあります。
また、宝治合戦(1247年)で三浦一族が滅亡の後、出家して日隆と号したとも。

一方、Wikipediaの「大隅石井氏」の項には、大隅石井氏の略系図として「(三浦)義明 - 義澄 - 義村 - 朝村 - 員村 - 盛明 - 義継(石井太郎) - 重義(大隅国に下向)」とあります。
これによると、盛明は宝治合戦(1247年)には誕生しているので、その子石井義継(石井氏初代)は宝治合戦の数十年後には誕生していたことになります。

義継の子石井重義が大隅国(鹿児島県東部)に下向したのは元徳二年(1330年)頃とされるので、石井義継と石井藤五郎長勝は同族関係にあったのかもしれません。
この系譜を信じると、石井藤五郎長勝は佐原流ではなく、三浦義明 - 義澄 - 義村とつながる三浦氏嫡流筋ということになります。

なお、日蓮聖人が名越松葉ヶ谷に草庵を構え布教を開始されたのは建長五年(1253年)といいますから、戦いに敗れ落魄の身にあった長勝が日蓮聖人の教えにふれて出家し、日隆と号したという説は時系列的に符合します。

ただし、戦いに敗れ、出家した三浦一族の身ではおそらく地頭職には就けないので、「文応(1260-1261年)の頃、鎌倉松葉ヶ谷付近の地頭職」というのは、もう少し前のような気がしますが、宝治合戦ののちでも三浦氏傍系の佐原流・三浦盛時(相模三浦氏)は御家人として命脈を保っているので、あるいはその流れで文応の頃でも地頭職を担えたのかもしれません。

この地は、京都・本圀寺の跡地ともいわれます。
Wikipediaには、本国寺(現・本圀寺)が鎌倉から京都へ移ったのは貞和元年(1345年)、四祖日静上人の時とあります。

京都の本圀寺は日蓮宗の大本山(霊跡寺院)で、日蓮宗公式Webには「(本圀寺は)建長5(1253)年、高祖日蓮大聖人が鎌倉松葉ヶ谷に構え22ヵ年住まわれた御小庵の法華堂を前身とします。」とあるので、本国寺が鎌倉から京都に移ったのは確実です。

ただし、鎌倉から移ったのは「松葉ヶ谷の法華堂」(御小庵の法華堂)なので、この法華堂の旧地が問題となります。(諸説あります。)

「御小庵の法華堂」がいまの長勝寺にあったとした場合に、「長勝寺=本圀寺の跡地」説が成り立つことになります。

『新編相模国風土記稿』には「サレド当所ヲ京都本國寺ノ舊蹟ト云ハ疑ベシ。」とあり、『鎌倉市史 社寺編』でも「草創について寺伝は石井長勝が日蓮に帰依して長勝寺をつくるといい、『新編鎌倉志』及び『(新編相模国)風土記稿』もいろいろ書いているが明らかでない。」と、やや突き放した書きぶりです。

『鎌倉市史 社寺編』は、各寺社の縁起や沿革をすこぶる精緻に考証しており、このような書きぶりはめずらしいもの。
とはいえ、同書は「京都に移った本国寺の旧跡に、貞和元年(1345年)日静が寺を再興し石井山長勝寺と名づけた。(『由緒書』)」と、(当山?)由緒書を引用するかたちで「本国寺旧跡」説を紹介しています。

さらに「延徳五年四月二十日付、結城政朝堵状によれば、正行院が、松葉谷法花堂屋地を本国寺の屋地として充行われている。この正行院が長勝寺の塔頭であるとすると、本国寺跡の問題に一つの手がかりとなるであろう。」とし、「御小庵の法華堂」の旧地については名言を避けているようにもみえます。

『新編鎌倉志』と『新編相模国風土記稿』でもややニュアンスが異なり、『新編鎌倉志』では妙法寺や啓運寺まで出てくるので、やはり長勝寺の縁起は一筋縄ではいかないようです。

筆者にはとても「本国寺跡の問題」を整理する力はないので、下記「史料」の原文をご覧ください。(と逃げる。)

なお、山内掲示(鎌倉市)には、「創建:弘長三年(1263年)」とあり、「京都本圀寺の前身と伝えられており、日静の代、貞和元年(1345年)に寺号が京都に移った後、石井山長勝寺と号し今日に至ります。」と記されています。

『新編鎌倉志』『新編相模国風土記稿』ともに「日朗・日印・日靜と次第して居す。日靜は、源(足利)尊氏の叔父なるゆへに、此寺を京都に移し本國寺と号す。」と記しています。

貞和元年(1345年)、日静上人(日隆上人とも)が復興し、石井長勝の名にちなんで長勝寺と名付けたといいます。

本圀寺は「六条門流」の中心寺院です。
六条門流は釈尊を本仏とする一致派の一派とされ、日静門流とも呼ばれます。

日静上人(1298-1369年)は、Wikipediaに「父は藤原北家の末裔上杉頼重、母は足利氏の娘と言われ、姉の上杉清子が征夷大将軍足利尊氏の生母であるため尊氏の叔父とされる。字は豊龍。号は妙龍院。出身は駿河国(現在の静岡県)。六条門流の祖。」とあり、史料類の「日靜は源尊氏の叔父」という記述と一致します。

貞和元年(1345年)3月、本国寺を鎌倉から京都へ移した日静上人は、みずから住していた鎌倉の本国寺旧地を寺院として残したのでは。
ここから、日静上人復興説が出ているのだと思います。

『新編鎌倉志』に中興開山は日際とありますが、詳細は不明です。

天正十九年(1590年)、関東を平定した豊臣秀吉公より寺領四貫三百文の御朱印を賜わったといい、この寺領は江戸時代も承継されたようです。

現在は、2月11日の建国記念日に、市川市中山の法華経寺で百日間堂に籠もり荒行を遂げた僧たちが、寒水を浴びて世界平和と諸人開運を祈祷する「大国祷会成満祭」のお寺として知られています。

また、鎌倉厄除開運帝釋天のお寺としても有名ですが、これは日蓮聖人が松葉ヶ谷法難の際、帝釋天のお使いである白猿に助けられたことを由縁とされているようです。


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【史料・資料】

『新編鎌倉志 鎌倉攬勝考』(国立国会図書館)
長勝寺 附石井
長勝寺は、石井山と号す。名越坂へ通る道の南の谷にあり。寺内に岩を切抜たる井あり。鎌倉十井の一なり。
故に俗に石井の長勝寺と云ふ。法華宗也。
当寺は、洛陽本國寺の舊蹟なり。今は却て末寺となる。寺僧語て曰く、此地に昔日蓮、菴室を卜て居せり。後日朗・日印・日靜と次第して居す。
日靜は、源尊氏の叔父なるゆへに、此寺を京都に移し本國寺と号す。跡の長勝寺を弟子日叡に相続して住せしむ。日叡寺号を妙法寺と改む。本日叡を妙法坊と云しを以てなり。
其後大倉塔辻へ移し。又其後辻町へ移す。寺僧云、今の辻町の啓運寺なり。近来妙法寺と啓運寺の寺号を●たり。辻町の啓運寺は、元妙法寺なるを、今は啓運寺と云ひ、名越の妙法寺は、元啓運寺なるを、今妙法寺と云ふ。其謂を不知。
今の長勝寺は、荒地なりしを、中比日際法師と云僧、舊地を慕ひ一寺を立、又寺号を長勝寺と号す。故に日際を中興開山と云也。
日際は、房州小湊の人なりと云ふ。其再興の年月、幷に日際の死期も不知。
寺領四貫三百文あり。豊臣秀吉公幷に御当家、代々の御朱印あり。
本尊は釋迦なり。
鐘楼 堂の東にあり。銘あり。

日蓮乞水
名越切通の坂より、鎌倉の方一里半許前、道の南にある小井を云なり。
日蓮、安房國より鎌倉に出給ふ時、此坂にて水を求められしに、此水俄に涌出けると也。
水斗升に過ぎざれども、大旱
にも涸ずと云ふ。甚冷水也。土人云。鎌倉に五名水あり。曰く金龍水、不老水、銭洗水、日蓮乞水、梶原太刀洗水なりと。

『新編相模国風土記稿』(国立国会図書館)
(大町村)長勝寺
松葉谷ノ南方ニアリ。石井山ト号ス。日蓮宗。京都本國寺末。寺伝ニ当所ハ。日蓮菴室ノ地ナリ。其後一寺トナシ。日朗。日印。日靜次第シテ住ス。
靜ハ将軍尊氏ノ叔父ニテ。当寺ヲ京都ニ移ス。今ノ本國寺是ナリ。故ニ当寺ヲ本國寺舊蹟ト称ス。後僧日際(平安元年九月晦日寂ス。)其舊蹟タルヲ追慕シ。更ニ一寺ヲ●建セリ。
際ハ俗稱石井藤五郎長勝ト云ヘリ。故ニ寺ヲ長勝寺ト名ヅク。因テ際ヲ中興開山ト称セリト云フ。サレド当所ヲ京都本國寺ノ舊蹟ト云ハ疑ベシ。
寺寶宗祖ノ筆蹟二幅アリテ。一ハ建長六年。石井藤五郎長勝ヘ授與ノ物。一ハ文應元年九月。松葉谷石井長勝屋鋪、法華堂ニテ書セシ物ト云ヘバ。当所長勝ガ宅地ニテ。日蓮此邊小菴ニ在リシ頃。長勝帰依シテ。爰ニ堂舎ヲ営ミ。其後一寺トナシ。長勝寺ト号セシナラン。
日靜カ本國寺ヲ京都ニ移セシハ。貞和元年ナレバ。夫より四十六年已前。正安元年ニ寂セシ日際。当時本國寺舊蹟ニ一寺ヲ建ト云フモノ。年代事暦合期シ難ク。其訛論スベカラズ。
鎌倉志ニ。長勝寺ハ荒地ナリシヲ。中頃僧日際舊地ヲ慕ヒ一寺ヲ立。又寺号トヲ長勝寺ト號ス。故ニ日際ヲ中興開山ト云フナリ。
際ハは、房州小湊ノ人ト云フ。再興ノ年代。際カ死期モシレズ云々。トアルニ據レバ。当時長勝入道日際。当寺ヲ開基セシガ。本國寺京都に移転ノ後。当寺モ一旦廃寺トナリシヲ。其後日隆再建エリシヨリ。妙法寺ト同ジク。本國寺舊蹟ノ訛傳ハ起リシナルベシ。
天正十八年。小田原陣ノ時。豊臣太閤制札ヲ出セリ。寺領四貫三百文ハ同十九年十一月。御朱印ヲ賜ヘリ。
本尊釋迦ヲ安ス。本堂ハ小田原北條氏ノ臣。遠山因幡守宗爲ガ建立ト云フ。

寺寶
日蓮書二幅 一ハ建長六年正月元日。石井藤五郎長勝授與之トアリ。一ハ文應元年九月三日。松葉谷石井長勝屋鋪法華堂ニテ。御認ナリト書記セリ。
鬼子母神像一軀 長一尺五寸。立像。傳教作。
釋迦像一軀 唐木。長九寸二分。座像運慶作。
大黒像一軀 長一尺四分。日蓮作。
寶陀觀音像一軀 長一尺七寸五分。座像。道潤作。新羅三郎義光。守本尊ト云フ。
山王像一軀 立像。長八寸二分。菅家作ト云フ。
八幡像一軀 金體立像。長一寸八分。将軍賴朝判アリ。
日蓮眞骨塔一基 同歯骨塔一基 古文書二通
釋迦堂 本尊ハ立像ナリ。長一尺九寸。
祖師堂 中央に日蓮。左右に日朗日印ノ像ヲを安ス。
鐘樓 鐘ニ寛永元年鑄造ノ序銘ヲ彫ス。
銚子井 東方ニアリ。日蓮ノ供水ト云フ。寺伝ニハ。日蓮乞水ト唱フトイヘド。是ハ近キアタリ。同名ノ小井アルヲ。混ジ訛レルラン。鎌倉志ニハ。当寺境内ニ。岩ヲ穿チシ井アリ。石井ト号ス。鎌倉十井ノ一ナリト記ス。此井の事歟。今詳ナラズ。
表門 妙法華庵ノ額ヲ扁ス。
駒留木

■ 山内掲示(鎌倉市)
宗派 日蓮宗
山号寺号 石井山長勝寺
創建 弘長3年(1263)
開山 日蓮大聖人
開基 石井長勝

伊豆に配流されてたいた日蓮が鎌倉に戻り、この地にあった石井長勝の邸内に庵を結んだことが当寺の発祥です。
京都本圀寺の前身と伝えられており、日静の代、貞和元年(1345年)に寺号が京都に移った後、石井山長勝寺と号し今日に至ります。
境内の建物と、法華堂は県指定重要文化財。室町時代末期の造営と推定されています。
また、日蓮大聖人の銅像は、鎌倉辻説法を写しています。
毎年二月十一日には、國祷会といわれる厳しい寒さの中で冷水を浴びる荒行が行われます。

■ 『鎌倉市史 社寺編』(鎌倉市)(抜粋)
石井山長勝寺と号する。日蓮宗。京都本国寺の旧地。
開山、日蓮聖人 本尊、日蓮聖人
境内地1017.69坪。
祖師堂、帝釈堂、客殿、尊神堂、龍神堂、石井稲荷社、鐘楼、山門あり。
この寺は本国寺の旧跡と称する。
草創について寺伝は石井長勝が日蓮に帰依して長勝寺をつくるといい、『新編鎌倉志』及び『(新編相模国)風土記稿』もいろいろ書いているが明らかでない。
京都に移った本国寺の旧跡に、貞和元年(1345年)日静が寺を再興し石井山長勝寺と名づけた。(『由緒書』)
天正十八年、秀吉の小田原征伐にあたり、北条氏が当寺の鐘を徴発したため、寛永にいたって、鐘を住持寿仙院日桑が新鋳したという(『新編鎌倉志』)。(中略)
本堂は小田原北条氏の臣遠山因幡守宗為の建立という。
昭和三十三年十月、山門の位置を変更して現在のところに改めた。
延徳五年四月二十日付、結城政朝堵状によれば、正行院が、松葉谷法花堂屋地を本国寺の屋地として充行われている。この正行院が長勝寺の塔頭であるとすると、本国寺跡の問題に一つの手がかりとなるであろう。


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鎌倉大町のはずれ、名越切通への登り口辺にあります。
住所は材木座ですが、材木座海岸からは一山越えたところにあるので、大町に近いです。
大町市街から横須賀線を挟んだ山際にあり、奥まった感じの場所ですが、安国論寺や妙法寺にもほど近いところです。

大町方面から横須賀線の名越踏切りを渡り、道を一本横切るとその先が長勝寺の山内です。
山内入口に真新しい寺号標が建っています。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 山門

参道が直角に曲がったところに山門。
脇塀付き切妻屋根桟瓦葺の四脚門で、水引虹梁両端に獅子漠の木鼻、その上にボリューム感ある四連の斗栱を置く堂々たるつくりです。


【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 お題目塔

ここから正面の本堂(帝釋堂)に向けて、真っ直ぐに参道が伸びています。
参道途中のお題目塔には「松葉谷」「宗門根本法華堂本圀寺𦾔地」とあります。



【写真 上(左)】 六地蔵
【写真 下(右)】 本堂前

本堂前に日蓮聖人像、その尊像を取り囲むように持国天(東方)、増長天(南方),広目天(西方)、多聞天(北方)の四天王立像が御座します。
いずれも精緻なブロンズ像で迫力があります。

5像すべてかはわかりませんが、少なくとも日蓮聖人像は上野の西郷隆盛像造立で有名な彫刻家・高村光雲(1852-1934年)の作といいます。


【写真 上(左)】 水行の場
【写真 下(右)】 水行肝文

持国天の奥手に水行の場があり、こちらで「大国祷会成満祭」の水行が行われます。
覆屋には「水行肝文」が掲げられていました。
その奥には、「久遠」の扁額が掛かる六角堂。


【写真 上(左)】 六角堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂向拝

本堂は屋根頂部の基盤に宝珠を置き、宝形造銅板葺とも思われますが、堂宇の規模が大きく確定できません。
三連の扉を置いた向拝の見上げに「帝釋尊天」の扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 法華堂参道

本堂向かって左手の高みには重要な堂宇が並びます。
山門寄り階段を上った先に法華堂(祖師堂)。
小田原の後北条氏の家臣・遠山因幡守宗為による室町時代末の建立とみられ、県唯一の中世五間堂として神奈川県指定重要文化財に指定されています。


【写真 上(左)】 法華堂
【写真 下(右)】 法華堂向拝

桁行五間梁間六間寄棟造銅板葺で、向拝には端正な禅宗様の桟唐戸が並び、質素ながら落ち着きのある意匠です。
向拝見上げに「法華堂」の扁額。


【写真 上(左)】 法華堂扁額
【写真 下(右)】 本師堂

その本堂寄りには鐘楼と本師堂。
本師堂は銅板葺、頂部に立派な火焔宝珠を置く八角堂で、向拝には「本師堂」の扁額が掲げられています。
御本尊は釈迦尊像のようです。


【写真 上(左)】 本師堂向拝
【写真 下(右)】 本師堂扁額

その上手には伝説の映画俳優・赤木圭一郎(1939-1961年)の胸像があります。
赤木の記念碑が当山・材木座霊園にあるため、これにちなみ「赤木圭一郎を偲ぶ会」が造立したとのことです。


御首題・御朱印は本堂向かって左手の庫裏にて拝受しました。
御首題と大帝釋天の御朱印を授与されています。


〔 長勝寺の御首題・御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 御首題
【写真 下(右)】 御朱印


■ 鎌倉市の御朱印-13 (B.名越口-8)へつづく。



【 BGM 】
■ David Foster and Olivia Newton-John - The Best Of Me (Official Music Video)


■ Natalie Cole - Split Decision


■ Jon and Vangelis - BESIDE
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