関東周辺の温泉入湯レポや御朱印情報をご紹介しています。対象エリアは、関東、甲信越、東海、南東北。
関東温泉紀行 / 関東御朱印紀行
■ 鎌倉市の御朱印-15 (B.名越口-10)
■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 同-2 (A.朝夷奈口)
■ 同-3 (A.朝夷奈口)
■ 同-4 (A.朝夷奈口)
■ 同-5 (A.朝夷奈口)
■ 同-6 (B.名越口-1)
■ 同-7 (B.名越口-2)
■ 同-8 (B.名越口-3)
■ 同-9 (B.名越口-4)
■ 同-10 (B.名越口-5)
■ 同-11 (B.名越口-6)
■ 同-12 (B.名越口-7)
■ 同-13 (B.名越口-8)
■ 同-14 (B.名越口-9)から。
※字数制限の関係上、44.円龍山 向福寺の記事は後ほどUPします。
45.内裏山 霊獄院 九品寺(くほんじ)
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市材木座5-13-14
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
司元別当:(乱橋材木座)三島明神
札所:鎌倉三十三観音霊場第16番、相州二十一ヶ所霊場第9番、小田急沿線花の寺四季めぐり第18番
九品寺は、新田義貞公開基と伝わる浄土宗の古刹です。
鎌倉市観光協会Web、下記史料・資料から縁起沿革を追ってみます。
元弘三年(1333年)新田義貞公の鎌倉攻めの際、本陣をかまえたという場所で、義貞公が京から招いた風航順西和尚を開山に、北条方の戦死者の霊を弔うため創建と伝わります。
創建年は建武三年/延元元年(1336年)と建武四年/延元二年(1337年)の2説あります。
こちら(「鎌倉史跡・寺社データベース」様)には、「もともとは別の場所にあり、かつて乱橋材木座にあった三島明神の別当であったが、荒廃し、後に現在地に移ったという。」とあり、草創が1336年、当地での開山が1337年かもしれません。
(ただし、わずか1年で「荒廃」は解せませんが。)
当山は鎌倉では数少ない新田義貞公ゆかりの寺院です。
義貞公は『太平記』前半の主役といってもいいほど登場回数が多いですが、『太平記』のみ記載の事跡も多く、史実が辿りにくい人物です。
Wikipediaなどから義貞公の略歴を追ってみます。
新田氏の開祖は、八幡太郎源義家公の三男(諸説あり)源義国公です。
義国公は下野国足利荘(栃木県足利市)を本拠とし、足利荘は次子・義康公が継いで足利氏を名乗り、異母兄の義重公は上野国八幡荘を継承し、新田荘を立荘して新田氏を称しました。
新田義貞公(1301-1338年)は、新田朝氏公(新田氏宗家7代当主)の嫡男として 正安三年(1301年)頃に生まれました。(里見氏からの養子説あり)
新田荘がある大間々扇状地は、ふるくは「笠懸野」(かさかけの)と呼ばれたとおり、広大な平地が広がり馬掛けに適した土地柄で、義貞公とその郎党はこの「笠懸野」で弓馬の術を磨きました。
新田氏は河内源氏の名族で鎌倉御家人でしたが、頼朝公の親族として優遇され北条氏とも婚姻関係にあった足利氏にくらべ、幕府内の地位や家格は高いものではありませんでした。
新田宗家4代当主政義公の妻は足利宗家3代当主義氏公の息女で、その子政氏公が新田家嫡流を継ぎ、以降足利氏は新田氏の代々の烏帽子親であったという説があります。
実際、義貞公の烏帽子親は足利氏嫡流で早世した足利高義公で、義貞の「義」は高義の「義」の偏諱とするとされ、鎌倉末期の両氏は対立関係にはなかったとみられています。
文保二年(1318年)、義貞公は新田氏宗家の家督を継承、8代当主となりました。
しかし、その頃の義貞公は無位無官だったとみられ、とくに北条得宗家との関係が悪く鎌倉幕府から冷遇されていたとも。
世良田氏や大舘氏など新田一門も、幕府内で高い地位を得たという記録はありません。
義貞公は得宗被官の安東聖秀の姪を妻として迎えたとされ、北条得宗家への接近もみられますが、鎌倉幕府内で重きをなすことはありませんでした。
一方、足利尊氏公は得宗・北条高時公の偏諱を受けて「高氏」を名乗り、わずか15歳にして官位は従五位下治部大輔でした。
Wikipediaには「15歳での叙爵は北条氏であれば得宗家・赤橋家に次ぎ、大仏家・金沢家と同格の待遇であり、北条氏以外の御家人に比べれば圧倒的に優遇されていた」とあり、幕府内で格別の地位にあったことがわかります。
元弘元年(1331年)8月、倒幕をめざす後醍醐帝と幕府・北条得宗家の間で、いわゆる「元弘の乱」が起こりました。
後醍醐帝は笠置山の戦いで幕府方の大軍に破れ逃亡しました。
幕府は帝が京から逃れるとただちに廃位し、光厳帝を即位させ、捕虜とした後醍醐帝を隠岐に流しました。
元弘二年(1332年)大番役として在京していた義貞公は、幕府の動員令に応じて他の御家人らと後醍醐帝方の楠木正成討伐に向かい 千早城の戦いに参加しています。
元弘三年(1333年)3月、義貞公は病気を理由に河内を退去し新田荘に帰参しました。
『太平記』には元弘の乱の出兵中、義貞公が護良親王と接触して北条氏打倒の綸旨を受けたとありますが、真偽について諸説あるようです。
義貞公の新田荘帰還後、幕府は軍資金として新田氏に膨大な額の納税(有徳銭)を命じ、徴税人(金沢出雲介親連と黒沼彦四郎)を差し向けました。
法外な金額と強引な徴税に憤激した義貞公は、金沢を幽閉し黒沼を斬殺しました。
これを咎めた幕府が新田討伐の軍勢を差し向けるという情報が入り、同年5月、ついに義貞公は倒幕の兵を挙げました。
生品明神社(生品神社)での義貞公決起の名場面は、『太平記』でよく知られています。
この時点の新田軍主力は、義貞公に弟の脇屋義助、大舘宗氏とその一族、堀口貞満、江田行義、岩松経家、里見義胤、桃井尚義などとみられています。
【写真 上(左)】 生品明神社(生品神社)
【写真 下(右)】 生品明神社(生品神社)の御朱印
新田勢は新田を発して上野国八幡荘に入り、越後勢、甲斐源氏、信濃源氏の一派と合流して9,000余の軍勢に膨れ上がったといいます。
5月9日、新田勢は武蔵国に向けて出撃、足利尊氏公(1305-1358年、当初は「高氏」ですが「尊氏」で統一します)の嫡男・千寿王(後の足利義詮公)と久米川付近で合流しました。
これを受けてさらに兵士が集まり、『太平記』では20万7,000騎と記しています。
千寿王の参陣は政治的に大きく、鎌倉攻めの軍勢には義貞公と千寿王の二人の大将がいたとする説があり、千寿王挙兵に義貞公が参陣という説さえあります。
義貞公挙兵の報を受けた幕府方は、桜田貞国を総大将、長崎高重、長崎孫四郎左衛門、加治二郎左衛門を副将とする幕府軍約5万で入間川へと向かい、別働隊として金沢貞将を大将とする上総・下総勢2万が下総の下河辺郷に集結しました。
新田勢は鎌倉街道を南下し、5月11日に小手指原(所沢市小手指)で幕府軍と衝突しました。(小手指原の戦い)
翌12日、義貞公の奇襲により幕府方の長崎・加治軍は撃破され、南方の分倍河原まで退却しました。(久米川の戦い)
分倍河原の幕府軍に北条泰家(得宗北条高時公の弟)を大将とする援軍が加わり15万にもなったといい、幕府方の士気は上がりました。
5月15日、義貞公はこの援軍を知らずに1万の軍で急襲したところ、反撃を受けかろうじて北方の堀兼(所沢市堀兼)まで退却したといいます。(分倍河原の戦い)
しかし、三浦氏一族の大多和義勝、河村・土肥・渋谷・本間らの相模の軍勢8000騎が駆けつけ義貞公に加勢。
勢いをとりもどした義貞勢は5月16日分倍河原に押し出し、北条泰家以下幕府軍は敗走しました。
新田勢の勢いはとまらず、多摩川を渡り霞ノ関(多摩市関戸)で幕府軍に総攻撃をかけ、幕府方は新田勢の猛攻に耐えきれず総崩れとなって鎌倉に潰走しました。(関戸の戦い)
ここに常陸、下野、上総の豪族たちが続々と新田勢に合流、その勢いを駆って一気に鎌倉まで攻め上がりました。
対する幕府方は各切通しと市街要所に軍勢をおき、鎌倉の防備を固めました。
義貞公は軍勢を三手に分け、義貞本隊が金沢貞将守る化粧坂、大舘宗氏・江田行義が大仏貞直守る極楽寺坂、堀口貞満・大島守之が北条守時守る巨福呂坂を攻撃することとしました。
5月18日、新田勢は三方から鎌倉に攻め入りましたが、守りに強い鎌倉ゆえ三方とも攻略はならず、極楽寺坂口の大舘宗氏は討ち死にしました。
義貞公は化粧坂攻撃の指揮を脇屋義助に託し、大舘宗氏を失った極楽寺坂の援軍に向かいました。
5月20日夜半、義貞公は極楽寺坂の海側にあたる稲村ヶ崎へ駆け付けました。
稲村ヶ崎は海が迫る難所ですが、ここを突破されると一気に鎌倉市街まで侵入されます。
稲村ヶ崎進撃を予想していた幕府方は、稲村ヶ崎の断崖下に逆茂木をたて、海には軍船を浮かべて義貞勢の来襲に備えていました。
5月21未明、義貞公率いる軍勢は潮が沖に引いた隙を狙って、稲村ヶ崎の突破に見事成功しました。
この稲村ヶ崎の突破は『太平記』をはじめとする物語や絵画などによって広く知られています。
稲村ヶ崎突破については、干潮を利用したという説が有力ですが、『太平記』では義貞公が黄金作りの太刀を海に投じたところ、龍神が呼応して潮を引かせたというドラマティックな展開が描かれています。
ともあれ難所・稲村ヶ崎を突破した新田勢は由比ヶ浜で幕府軍を撃破し、一気に鎌倉市内に攻め入りました。
このとき新田勢が本陣をおいたのが、現在の九品寺の場所ともいいます。
5月22日、小町葛西谷の北条一族菩提寺・東勝寺で、長崎思元、大仏貞直、金沢貞将らの奮戦むなしく、北条得宗家当主・北条高時公らは自害し鎌倉幕府はここに滅亡しました。(東勝寺合戦)
義貞公の生品明神挙兵からわずか半月という怒濤の進撃でした。
鎌倉を陥落させた義貞公は雪ノ下の勝長寿院に本陣を敷き、足利千寿王は二階堂永福寺に布陣しました。
元弘三年/正慶二年(1333年)、後醍醐帝は隠岐から脱出、伯耆船上山で挙兵されました。帝追討のため幕府から派遣された尊氏公は上洛の途中幕府謀反を決意、船上山の後醍醐帝より討幕の密勅を受け取り、すぐさま六波羅探題を攻めて京を制圧しました。
尊氏公はこの密勅を根拠に、諸国の武将に向けて軍勢催促状を発しました。
新田勢に実子の千寿王を加勢させたことといい、将来への布石を着々と置いていることがわかります。
幕府滅亡後、後醍醐帝は建武の新政を開始
尊氏公は後醍醐帝から「勲功第一」と賞され鎮守府将軍となり、8月5日には従三位に昇叙、武蔵守を兼ねて尊氏と改名しています。
この時点で、後醍醐帝が鎌倉陥落の功労者、義貞公よりも尊氏公を優遇していたことがわかります。
義貞公に付き従っていた武将達は論功行賞のためつぎつぎと上洛し、鎌倉に残った武将たちも尊氏公の子千寿王のもとに集ったといいます。
そのなかで義貞公は千寿王補佐役の細川三兄弟(和氏、頼春、師氏)と諍いを起こし、6月に鎌倉を去って上洛したといい、以降の鎌倉は足利氏が統治したともいいます。
8月5日、義貞公は従四位上に叙され、左馬助に任ぜらて上野守、越後守となり、武者所の長である頭人となりました。
弟の脇屋義助は駿河守、長男の義顕も越後守に任ぜられ、尊氏公には及ばないものの恩賞を手にしました。
後醍醐帝の建武政権では尊氏公と護良親王の争いが起こり、護良親王は失脚しました。
この頃新田一族の昇進が目立ちますが、これは尊氏公の台頭を牽制するために、後醍醐帝が義貞公を対抗馬として取り立てたという見方があります。
建武二年(1335年)7月、信濃国で北条高時公の遺児・時行公を擁立し鎌倉を占領する事件(中先代の乱)が起こりました。
尊氏公は勅許を得ずに鎌倉に下り乱を鎮圧すると、新田一族の所領を他氏に分与し「義貞と公家達が自分を讒訴している」と主張して鎌倉に居座り、10月には細川和氏を使者に立てて後醍醐帝に義貞誅伐の奏状を提出しました。
おそらく、後醍醐帝が自身の対抗馬として義貞公を取り立てた時点で、義貞公と袂を分かったものとみられます。
これに対して義貞公はすぐさま反論の奏状を提出し、尊氏・直義兄弟の誅伐許可を求めたといいます。
義貞奏状で訴えられた足利直義による護良親王殺害が改めて問題となり、11月8日帝は義貞公に尊氏・直義追討の宣旨を発しました。
義貞公は政争に拙いという見方がありますが、このあたりの迅速な対応と要所を衝いた指摘は優れた政治力を感じさせます。
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ここからの義貞公の事跡戦歴は変転をきわめるので、略しつついきます。
官軍(足利討伐軍)の大将となった義貞公は尊良親王を奉じ、大軍を率いて東海道・東山道の二手から鎌倉に進軍、奥州の北畠顕家公も鎌倉へと進軍を開始しました。
官軍は三河国矢作、箱根・竹下で足利勢と戦い軍を進めましたが、鎌倉の手前で尊氏公指揮する足利勢に敗れて西へと逃れ京に戻りました。
尊氏公は躁鬱の気があったとされ、鬱のときはまったく弱気になるものの、躁に転じたときは俄然覇気にあふれて、これに従わない武将はなかったといいます。
今回の鎌倉防衛でも尊氏公が躁をあらわし、一気に劣勢を覆したと伝えます。
その後京に攻め上った足利勢は淀川で官軍を破り、後醍醐帝は西に遷幸、義貞公もこれに供奉しました。
京は尊氏勢に一旦占拠されたものの、奥州から北畠顕家軍、鎌倉から尊良親王軍が京に迫ると形勢は逆転。
義貞公は北畠軍、楠木正成、名和長年、千種忠顕らとともに京に総攻撃を仕掛け、尊氏公を九州へと追い落としました。
建武三年(1336年)2月、義貞公は足利勢を破った功績により正四位下に昇叙。左近衛中将に遷任し播磨守を兼任しました。
しかし義貞勢が尊氏方の播磨の赤松則村(円心)を攻めあぐねているうちに、尊氏勢は九州で勢力を盛り返し、再び東に攻め上ってきました。
尊氏公は、光厳院から得た義貞討伐の院宣をかざしていたともいいます。
5月25日、楠木正成と合流した義貞勢は摂津国湊川で尊氏勢と激突しました。(湊川の戦い)
尊氏勢の猛攻に新田、楠木両軍は分断され、楠木正成は奮戦むなしく湊川で自害しました。
義貞公も奮闘しましたが次第に劣勢となり、近江東坂本まで引きました。
6月14日尊氏公は光厳院を奉じて京に入り、光厳院の院宣を仰いで光明帝を即位させました。
比叡山から吉野に入られた後醍醐帝は自らの退位を否認され、光明帝の即位も認めなかったため、京(北朝)と吉野(南朝)に二帝並立する南北朝体制となりました。
諸戦で多くの配下を失い、楠木正成はすでに亡く、名和長年、千種忠顕らの友将も戦死して、もはや義貞公に以前の勢いはありませんでした。
加えて後醍醐帝と尊氏公で和平交渉が進み、義貞公は後醍醐帝の後ろ盾も失うこととなりました。
和平交渉を知り比叡山に駆け上がった義貞公が、涙ながらに後醍醐帝の変心を責める場面は、多くの物語で語られています。
義貞公は妥協策として恒良親王、尊良親王を推戴のうえ北国への下向を望むと、後醍醐帝はこれを許したといいます。
10月13日、義貞公は両親王を奉戴して越前敦賀の金ヶ崎城に入りました。
両親王は各地の武士へ尊氏討伐の綸旨を送り兵を募ったものの応じる武将は少なく、まもなく足利軍の攻撃を受けました。
義貞勢は奮戦し一度は足利軍を迎撃したものの、建武四年(1337年)1月足利軍の総攻撃を受けて籠城戦となり、兵糧尽きて3月6日ついに金ヶ崎城は陥落しました。
落城にあたり義貞公は越前・杣山城に遁れたとされますが、この時点で義貞公はすでに杣山城に移っていたという説もあります。
8月になると奥州の北畠顕家公が義良親王を奉じて鎌倉攻略の途につき、義貞公の次男新田義興公と、南朝に帰参した北条時行公が合流して12月には鎌倉を落としました。
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九品寺は、建武四年(1337年)に義貞公が北条方の戦死者の霊を慰めるため京より招いた風航順西和尚を開山として創建と伝わります。
しかし、この年義貞公は越前の金ヶ崎城ないし杣山城で足利勢を相手に戦闘・雌伏中で、とても「北条方の戦死者の霊を慰めるため鎌倉に寺院を建立」できる状況ではなかったように思われます。
もし北条氏菩提の目的で寺院を建立するとしたら、元弘三年(1333年)5月22日の北条氏滅亡後が考えられますが、義貞公は同年6月に上洛して以降、戦つづきでそのような余裕はないようにも思えます。
そもそも義貞公はほとんど鎌倉に腰を落ち着けたことはなく、「京より風航順西を招いて開山とし、寺院を創建する」という時間的余裕はないように思われます。
それに元弘三年(1333年)時点では義貞公はまだ上洛も果たしておらず、京・東山の風航順西和尚に知己を得て帰依とは考えにくいです。
などと考えつつ開山の風航順西(暦応四年(1341年)寂)をWeb検索したら、思いがけない記事がヒットしました。(→ 「鎌倉シニア通信」様「九品寺の縁起」)
無断転載不可につき、要旨のみ引用させていただきます。
-------------------(引用はじめ)
建武三年(1337年)に至り新田家戦死の霊魂を吊らはしか為、京都東山に「風航順西和尚」という浄家の僧、義貞公帰依により命じて共に下向し霊魂の得脱回向を懇望し則ちこの地に一宇を創建あり、内裏山霊嶽院九品寺と号す。
千時延文三丙申歳三月 為後代記置之
当寺三世 順妙
-------------------(引用おわり)
ここには当山創建は、(北条一族ではなく)新田家戦死者菩提の為とあります。
そうなると、義貞公が京・東山で浄土宗の風航順西和尚に帰依し、戦で失った新田一族の武将の菩提を懇請したということになるのかもしれません。
『太平記』は、京を舞台に義貞公と勾当内侍(こうとうのないし)との恋物語を伝えます。
であれば、東山の僧に帰依して一族の菩提を依頼するくらいの余裕はあったやもしれません。
ただし上記の「(建武三年(1337年))共に(鎌倉に?)下向し この地に一宇を創建」という記述は、同年の義貞公の事跡と符合しません。
もしも金ヶ崎城の戦いに破れ、落魄の義貞公がいっとき越前杣山城を離れ、鎌倉に入って寺院(九品寺)を建立したとしたら、歴史の一大スクープになるかと思いますが、これを伝える史料類は他に見当たりません。
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建武五年(1338年)1月北畠軍は上洛の途につき、後醍醐帝も各地の南朝勢力に対し顕家公への加勢を促しました。
越前鯖江(もしくは美濃大垣)まできた北畠勢は、しかし杣山城の義貞勢と合流することなく伊勢から奈良へと向かいました。
このとき北畠勢と義貞勢が合流しなかった理由については諸説ありますが、以前から北畠勢と義貞勢の連携はうまくいっていたとはいえず、顕家公と義貞公の間になんらかの確執があったのかもしれません。
その後の北畠勢は苦戦つづきで、5月22日和泉堺浦・石津で足利軍に敗北し顕家公は戦死しました。
建武五年(1338年)閏7月、義貞公は越前国藤島(福井市)の灯明寺畏畷で斯波高経が送った細川出羽守、鹿草公相の軍勢と交戦中に戦死しました。
享年38と伝わります。
義貞公は南朝復権のため再度の上洛を企図して藤島の戦いに臨んだといい、『太平記』には義貞公の凄絶な戦いぶりが描かれています。
義貞公の死は南朝方に大きな痛手となりましたが、年月日不明ながら義貞公は南朝側から正二位を贈位され、大納言の贈官を受けたという記録が残ります。
義貞公の墓所は「牛久沼ドットコム」様によると、当初称念寺(福井県坂井市)にあり、文明年間(1469-1486年)、義貞公の三男・新田義宗の子とされる横瀬貞氏(上州太田金山城主・岩松家純の重臣)が、義貞公の遺骨を称念寺から城内に移して墓を建てました。
この「城内の墓」は金山山麓の金龍寺(金山城主横瀬氏の菩提寺)ともみられ、金龍寺には義貞公の供養塔があります。
戦国中期、横瀬氏6代目の横瀬泰繁の代に横瀬氏は由良氏と名乗り、泰繁の子由良成繁は小田原北条軍に金山城を攻められ降服、嫡男国繁は小田原城に人質となり、由良一族は金山城を明け渡して桐生城へ移り、金龍寺も桐生へと移りました。
天正十八年(1590年)秀吉軍が小田原城を攻撃したとき、由良成繁の未亡人・赤井氏(妙尼印)は城主のごとく活躍したといいます。
北条氏滅亡後、秀吉は妙尼印の器量を称えて赤井氏に常陸国牛久の地と牛久城を与え、妙尼印は領地を子の国繁に相伝、前城主の菩提寺・東林寺に桐生の金龍寺を移して号を改めたといいます。
国繁没後、理由は不明ですが領地は没収となりますが、牛久の金龍寺と義貞公の墓は、幕府の庇護を受けて、寛文六年(1666年)牛久沼の対岸、龍ケ崎若柴の古寺を改修してここに移されたといい、以降、義貞公の墓所は龍ケ崎若柴の金龍寺とされているようです。
【写真 上(左)】 太田金山金龍寺の御朱印
【写真 下(右)】 龍ケ崎若柴金龍寺の御朱印
↑に「幕府の庇護を受けて」とありますが、この根拠とみられるのは神君・徳川家康公の出自です。
家康公は、新田氏の祖・新田義重公の四男得川義季(世良田義季)の末裔を称しました。
(→ 太田市観光物産協会Web)
足利氏の室町幕府で、草創時に敵対した新田一族は冷遇されました。
しかし、家康公が新田一門を公称したことからも、源氏名流たる新田氏の譽れは戦国末期に至ってなお健在だったとみられます。
征夷大将軍の座は源氏の統領のみに許されるという慣例に則り、源姓新田氏流の統領・家康公は征夷大将軍の座につき徳川幕府を開きました。
征夷大将軍の座は、公的には足利氏から新田氏(徳川氏)に移ったことになります。
徳川将軍家は新田氏(得川氏/世良田氏)ゆかりの上州世良田の地に東照宮を勧請して別格扱いとし、租税を軽くするなど住民までも優遇したと伝わります。
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義貞公の死から500年以上のちの明治の世に、義貞公は朝廷に尽しつづけた「忠臣」として顕彰され、明治15年には正一位を贈位されています。
数々の書物で義貞公の義勇忠節ぶりが描かれ、義貞公の「忠臣」としての評価は定まりました。
明治6年発行の国立銀行紙幣二円券の表面には、稲村ヶ崎で太刀を海中に投じる義貞公の姿が描かれています。
九品寺の義貞公ゆかりの事物として、山門の「内裏山」、本堂の「九品寺」の扁額の文字は、義貞公の揮毫を写したものと伝わります。
当山の御本尊は阿弥陀三尊。
寺号の「九品」とは九パターンの極楽往生のあり様をいい、上品、中品、下品それぞれに上生、中生、下生があり、合わせて九品(九軆)の阿弥陀仏がおわし、救われないものはないといいます。
義貞公が人々の菩提を祈り創ったとされる九品寺。
衆生を極楽往生に導く九品(阿弥陀仏)の寺号は、ふさわしいものといえましょうか。
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【史料・資料】
■ 『新編相模国風土記稿』(国立国会図書館)
(亂橋村)九品寺
内裏山靈嶽院と号す、浄土宗 材木座村、光明寺末、三尊の彌陀を本尊とす、中興を卓辨と云へり
■ 山内掲示(鎌倉市)
九品(くほん)とは、九種類の往生のありさまのことをいいます。極楽往生を願う人々の生前の行いによって定められます。上品、中品、下品のそれぞれに、上生、中生、下生があり、合わせて九品とされます。
鎌倉攻めの総大将であった新田義貞が、鎌倉幕府滅亡後に敵方であった北条氏の戦死者を供養するために、材木座に建立しました。
山門の「内裏山」、本堂の「九品寺」の文字は、新田義貞の筆を写したものといわれます。
本尊は阿弥陀三尊です。
■ 『鎌倉市史 社寺編』(鎌倉市)(抜粋)
内裏山靈嶽院九品寺と号する。浄土宗、もと光明寺末、新田義貞の草創で、風航順西を開山と伝える。中興開山は二十一世鏡誉岌故、二十五世台誉卓弁、三十二世楽誉浄阿良澄の三人。
本尊、阿弥陀三尊。
境内地311.95坪。本堂・庫裏・山門あり。
神奈川県重要文化財、石造薬師如来坐像。
寺の『過去帳』によれば、風航順西は暦応四年(1341年)十月十八日に寂している。
岌故は慶安二年(1649年)二月十五日、本尊の御身を再興した。願主は戸塚の吉田四良兵衛とみえている。良澄は弘化二年(1846年)二月、本堂及び三尊像を再興した。(略)
関東大震災にて全潰した。
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小町大路に面してあり、光明寺とならんで材木座海岸にもっとも近い寺院です。
鎌倉のメイン通り、若宮大路の材木座口にもほど近く、稲村ヶ崎から侵入し由比ヶ浜で北条勢を破った義貞公が一旦軍勢を落ち着かせ、本陣をおいたという縁起にふさわしい立地です。
【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 お地蔵さまと寺号標
小町大路に面して参道入口。
手前に地蔵尊立像をおいた寺号標。
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山門扁額
正面は脇塀付き切妻屋根桟瓦葺四脚の山門。
向拝見上げに掲げられている山号扁額は、義貞公の揮毫を移したものと伝わります。
【写真 上(左)】 鎌倉三十三観音霊場札所標
【写真 下(右)】 相州二十一ヶ所霊場札所標
山門手前に鎌倉三十三観音霊場と相州二十一ヶ所霊場の札所標が置かれています。
【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 六地蔵と不動尊
緑ゆたかな山内で、参道沿いには古色を帯びた一体型の六地蔵と不動尊立像が御座します。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝
【写真 上(左)】 斜めからの向拝
【写真 下(右)】 扁額と龍の彫刻
参道正面が本堂。
本堂は入母屋造銅本棒葺流れ向拝。
水引虹梁両端に獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に龍の彫刻を置いています。
御本尊の阿弥陀如来立像は、玉眼を填め込んだ宗元風彫刻として鎌倉市の文化財に指定されています。
本堂のほかに堂宇は見当たらないので、鎌倉三十三観音霊場札所本尊・聖観世音菩薩像、相州二十一ヶ所霊場札所本尊・弘法大師尊像、鎌倉時代作とされ県指定重要文化財の石造薬師如来像はいずれも本堂内に奉安とみられます。
【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 天水鉢
向拝見上げに掲げられている寺号扁額は、義貞公の揮毫を移したものと伝わります。
堂前の天水鉢にはしっかり新田氏の家紋、「新田一つ引き紋」が描かれていました。
御朱印は庫裏にて拝受しました。
御本尊、鎌倉三十三観音霊場、相州二十一ヶ所霊場の御朱印を授与されています。
〔 九品寺の御朱印 〕
【写真 上(左)】 御本尊・阿弥陀如来の御朱印
【写真 下(右)】 鎌倉三十三観音霊場の御朱印
相州二十一ヶ所霊場の御朱印
46.海潮山 妙長寺(みょうちょうじ)
鎌倉公式観光ガイドWeb
鎌倉市材木座2-7-41
日蓮宗
御本尊:三宝祖師(『鎌倉市史 社寺編』)
司元別当:
札所:
本覺寺は、材木座にある日蓮聖人・伊豆法難ゆかりの日蓮宗寺院です。
鎌倉公式観光ガイドWeb、下記史料・資料、山内縁起碑等から縁起沿革を追ってみます。
妙長寺は、正安元年(1299年)に、伊豆で日蓮聖人の命を救った漁師の子、日実(日實)上人が開山したのがはじまりといわれています。
もともとは由比ヶ浜の字沼ヶ浦というところにあり、延享(1744-1748年)以後に現在地に移転とみられています。
日蓮宗神奈川県第二部布教センターのWebには「妙長寺 日蓮聖人伊豆流罪の際(伊豆法難)、日蓮聖人の命を救った漁師「舟守弥三郎」の子「日実」が開山。伊豆流罪の霊跡の一。」とあります。
「Wikipedia」伊豆法難(いずほうなん)とは、弘長元年(1261年)5月12日に日蓮聖人が捕らえられ、伊豆へ流罪となった事件で「日蓮聖人四大法難」の一つです。
日蓮宗Web、久城寺(秋田県秋田市)の公式Web、および伊豆蓮慶寺の現地掲示等によると、日蓮聖人は文応元年(1260年)に世の中の乱れを嘆き『立正安国論』を執筆されましたが、幕府の反感を買って弘長元年(1261年)5月に伊豆流罪となりました。
日蓮聖人は由比ヶ浜の沼ヶ浦というところから伊豆に向けて船出したといいますが、当山の旧地は「由比ヶ濱沼ヶ浦」なので、船出の地のそばに開創とみられます。
【写真 上(左)】 日蓮崎と俎岩
【写真 下(右)】 俎岩
幕府の役人は船を伊東の湊に着けず、なんと烏崎(日蓮崎)の沖にある「俎岩(まないたいわ)」の上に置き去りにしました。
波浪に晒される岩上に置き去りにされた日蓮聖人は、しかしいささかも動じることなくお題目を唱えられていました。
そばで漁をしていた地元の漁師・舩守弥三郎はお題目をきくと、俎岩に船を漕ぎ寄せて日蓮聖人を救出、川奈港奥の御岩屋祖師堂にかくまったといいます。
【写真 上(左)】 連着寺・奥の院の奉納額
【写真 下(右)】 日蓮聖人「袈裟掛の松」
弥三郎夫妻の住居跡に伊東庄の代官今村若狭守が祖師堂(のちの蓮慶寺)を建て、蓮慶寺本堂には日蓮聖人とともに夫妻の像が祀られています。
【写真 上(左)】 連着寺の寺号標
【写真 下(右)】 連着寺
【写真 上(左)】 連着寺の本堂扁額
【写真 下(右)】 連着寺・奥の院
連着寺の御首題
日蓮聖人は伊豆で3年を過ごされ、伊東の佛現寺、佛光寺などゆかりの寺院を残された後、弘長三年(1263年)に赦免され、鎌倉に帰って伝道活動を再開されました。
弥三郎夫妻の子はのちに日蓮聖人の弟子(ないし孫弟子)となり、日実(日實)と号して日蓮聖人船出の地に妙長寺を開創したと伝わります。
天和元年(1681年)の大津波で堂宇が流されたため、第二十一世常徳院日慶上人が廃寺となっていた乱橋村畠中の天目山圓成寺の旧地に妙長寺を移したといいます。
山内縁起碑では移転の年を「同年(天和元年)」とし、『鎌倉市史 社寺編』では「延享三年(1746年)八月の『小鐘銘』には、相州鎌倉沼浦、海潮山妙長寺とあるから、延享(1744-1748年)以後の移転であろう。」としています。
山内縁起碑には天目山圓成寺は「寛文(1661-1673年)ノ頃 不受不施義ヲ唱ヘタルニヨリ廃絶セルカ」とあります。
徳川幕府が不受不施派を禁じ、他派への転派を命じたのは元禄四年(1691年)とされるので、山内縁起碑の圓成寺廃絶はそれより早く、禁令より早く廃されたのかもしれません。
(寛文九年(1669年)、幕府は不受不施派に対して寺請を禁じたという記録があるようです。)
『鎌倉市史 社寺編』の説をとれば、
天和元年(1681年) 大津波で堂宇流失
元禄四年(1691年)以降 天目山圓成寺廃絶
延享三年(1746年)以後 妙長寺、圓成寺跡地に移転
となり時系列は整います。
しかし、この説だと天和元年(1681年)の堂宇流失から延享三年(1746年)以後の移転まで、短くとも65年の空白が開きます。
ただ、山内縁起碑には「祖師堂ノミ難ヲ免レタリ」とあるので、その期間は祖師堂のみで寺を存続したのかもしれず、詳細はわかりません。
山内には「伊豆法難」ゆかりの伊豆法難記念相輪塔があります。
明治時代には小説家の泉鏡花が明治24年の夏に滞在し、このときの経験を題材にした「星あかり」という作品が残されています。
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【史料・資料】
■ 『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
(乱橋村)妙長寺
海潮山と号す 日蓮宗 比企谷妙本寺末
開山は日實と云ふ 元弘元年十月廿三日寂
本尊釋迦を安ず、小名沼浦に当寺の舊地あり、今も除地なりと云ふ、何の頃此に移りしにや
■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
海潮山妙長寺と号する。日蓮宗。もと妙本寺末。
開山は日実と云える。
本尊、三宝祖師。
境内地308.7坪 本堂・庫裏・上行堂・門あり。
材木座小字沼浦から移ったという(『風土記稿』)。
延享三年(1746年)八月の『小鐘銘』には、相州鎌倉沼浦、海潮山妙長寺とあるから、延享(1744-1748年)以後の移転であろう。
■ 山内掲示(縁起、不明瞭箇所あり抜粋転記)
海潮山妙長寺縁起
当山ハモト由比ヶ濱沼ヶ浦ニ在リ 弘長元年(1261年)五月十二日宗祖日蓮大聖人伊豆ニ配流セラルヤ沼ヶ浦ヨリ乗船シ給フ ●子大國阿闍梨日朗上●ニ縋リテ随行ヲモヒシニ 幕吏櫂ヲ揮ツテ日朗上人ノ右臂ヲ打(?)ク 宗祖船上ヨリ●●護持ノ文ヲ唱ヘ給フ ●音海浪ニ遮ラレテ 長短●シカラス所 ●●●●●ココニ起ル 川奈ノ漁師舟守彌三郎 宗祖ヲ俎岩ニ救ヒ奉リ ●●奥に供養ノ●ヲ画シ 一子ヲ宗祖ニ●ス(不明)日實上人是レナリ 弘長三年(1263年)二月二十八日宗祖赦サレテ海路鎌倉ニ●リ●●沼ヶ浦ニ着船ス
宗祖入滅後第十八年正安元年(1299年)日實上人沼ヶ浦二一宇ヲ建立シ海潮山妙長寺ト号シ 父母(不明)発祥ノ地ニ拠リテ 梵音海潮音ノ妙●ヲ長ヘニ使ヘンカタ●ナリ 然ルニ天和元年(1681年)●●ニヨリ堂宇悉ク流失セシカ 但タ祖師堂ノミ難ヲ免レタリ ●ノ中棄マテ(不明)堂實成庵ト称セリ
堂宇流失ノ年第二十一世常徳院日慶上人(不明)ヒテ寺●ヲ亂橋村畠中天目山圓成寺ノ𦾔址ニ移ス 是レ現在ノ地ナリ
圓成寺ハ美濃阿闍梨天目上人ノ開創ニ係ル 寛文(1661-1673年)ノ頃 不受不施義ヲ唱ヘタルニヨリ廃絶セルカ 創建巳来星霜茲ニ六百七十年史實ノ漸ク(不明)トスルヲ●ヘ 本年開●六百五十年遠忌ニ際シ碑ヲ建テ 實ノ●シテ後ニ傳フト云爾
昭和四十四年五月十二日
海潮山四十二世慈徳(?)院日秀謹●
■ 山内掲示(鎌倉市、抜粋)
泉鏡花は明治24年に鎌倉に来て、この妙長寺に七・八月の二か月滞在した。
その後、十月に思い切って(尾崎)紅葉を訪ね、入門を許された。以後創作に励み、小説家として認められ、数々の名作を残した。
この妙長寺滞在の経験をもとにして、明治31年に小説「みだれ橋」を発表し、後に「星あかり」と改題した。
星あかり(山内説明板より)
もとより何故といふ理はないので、墓石の倒れたのを引摺寄せて、二ツばかり重ねて臺にした。其の上に乗って、雨戸の引合せの上の方を、ガタゝ動かして見たが、開きさうにもない。雨戸の中は、相州西鎌倉亂橋の妙長寺といふ、法華宗の寺の、本堂に隣つた八畳の、横に長い置床の附いた座敷で、向つて左手(ゆんで)に、葛籠、革鞄などを置いた際に、山科といふ醫學生が、四六の借蚊帳を釣つて寝て居るのである。
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小町大路「水道橋」交差点から南に少し行った道沿いにあります。
小町大路から間口と奥行きのある参道を置き、入口には日蓮聖人の尊像が奉安されています。
【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 日蓮上人像
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 斜めからの本堂
山門は脇塀付きの切妻屋根銅板葺の四脚門で、正面に本堂が見えます。
石敷きで開けたイメージの山内です。
浄行菩薩堂には丁寧な浄行菩薩の説明書があり、堂上部奥には大曼荼羅も掛けられていました。
【写真 上(左)】 浄行菩薩堂
【写真 下(右)】 本堂
本堂は寄棟造銅板で向拝柱はなく、向拝見上げに寺号扁額を掲げています。
明るくすっきりとしたきもちのよい向拝です。
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額
山内には「日蓮上人伊豆法難記念」と刻まれた高さ約十メートルの相輪塔があります。
この相輪塔は昭和8年5月に建てられました。
中央の石柱は関東大震災のときくずれた鶴岡八幡宮の二の鳥居の一部を用い、寛文八年(1668年)8月の銘があるそうです。
【写真 上(左)】 縁起碑
【写真 下(右)】 相輪塔と鱗供養塔
他にも立派な寺号標(お題目碑)があり「鱗供養塔」もあります。
「鱗供養塔」は当山で執り行なわれる、材木座海岸沖の放生会にちなむものです。
御首題・御朱印は山内庫裏にて拝受しました。
御首題・御朱印とも、伊豆法難船出の地にかかる揮毫があります。
〔 妙長寺の御首題・御朱印 〕
【写真 上(左)】 御首題
【写真 下(右)】 日蓮大菩薩の御朱印
→ ■ 鎌倉市の御朱印-16 (B.名越口-11)へつづく。
【 BGM 】
■ Angel - Change
■ Hero - David Crosby & Phil Collins
■ Don't Call My Name - King of Hearts -
■ 同-2 (A.朝夷奈口)
■ 同-3 (A.朝夷奈口)
■ 同-4 (A.朝夷奈口)
■ 同-5 (A.朝夷奈口)
■ 同-6 (B.名越口-1)
■ 同-7 (B.名越口-2)
■ 同-8 (B.名越口-3)
■ 同-9 (B.名越口-4)
■ 同-10 (B.名越口-5)
■ 同-11 (B.名越口-6)
■ 同-12 (B.名越口-7)
■ 同-13 (B.名越口-8)
■ 同-14 (B.名越口-9)から。
※字数制限の関係上、44.円龍山 向福寺の記事は後ほどUPします。
45.内裏山 霊獄院 九品寺(くほんじ)
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市材木座5-13-14
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
司元別当:(乱橋材木座)三島明神
札所:鎌倉三十三観音霊場第16番、相州二十一ヶ所霊場第9番、小田急沿線花の寺四季めぐり第18番
九品寺は、新田義貞公開基と伝わる浄土宗の古刹です。
鎌倉市観光協会Web、下記史料・資料から縁起沿革を追ってみます。
元弘三年(1333年)新田義貞公の鎌倉攻めの際、本陣をかまえたという場所で、義貞公が京から招いた風航順西和尚を開山に、北条方の戦死者の霊を弔うため創建と伝わります。
創建年は建武三年/延元元年(1336年)と建武四年/延元二年(1337年)の2説あります。
こちら(「鎌倉史跡・寺社データベース」様)には、「もともとは別の場所にあり、かつて乱橋材木座にあった三島明神の別当であったが、荒廃し、後に現在地に移ったという。」とあり、草創が1336年、当地での開山が1337年かもしれません。
(ただし、わずか1年で「荒廃」は解せませんが。)
当山は鎌倉では数少ない新田義貞公ゆかりの寺院です。
義貞公は『太平記』前半の主役といってもいいほど登場回数が多いですが、『太平記』のみ記載の事跡も多く、史実が辿りにくい人物です。
Wikipediaなどから義貞公の略歴を追ってみます。
新田氏の開祖は、八幡太郎源義家公の三男(諸説あり)源義国公です。
義国公は下野国足利荘(栃木県足利市)を本拠とし、足利荘は次子・義康公が継いで足利氏を名乗り、異母兄の義重公は上野国八幡荘を継承し、新田荘を立荘して新田氏を称しました。
新田義貞公(1301-1338年)は、新田朝氏公(新田氏宗家7代当主)の嫡男として 正安三年(1301年)頃に生まれました。(里見氏からの養子説あり)
新田荘がある大間々扇状地は、ふるくは「笠懸野」(かさかけの)と呼ばれたとおり、広大な平地が広がり馬掛けに適した土地柄で、義貞公とその郎党はこの「笠懸野」で弓馬の術を磨きました。
新田氏は河内源氏の名族で鎌倉御家人でしたが、頼朝公の親族として優遇され北条氏とも婚姻関係にあった足利氏にくらべ、幕府内の地位や家格は高いものではありませんでした。
新田宗家4代当主政義公の妻は足利宗家3代当主義氏公の息女で、その子政氏公が新田家嫡流を継ぎ、以降足利氏は新田氏の代々の烏帽子親であったという説があります。
実際、義貞公の烏帽子親は足利氏嫡流で早世した足利高義公で、義貞の「義」は高義の「義」の偏諱とするとされ、鎌倉末期の両氏は対立関係にはなかったとみられています。
文保二年(1318年)、義貞公は新田氏宗家の家督を継承、8代当主となりました。
しかし、その頃の義貞公は無位無官だったとみられ、とくに北条得宗家との関係が悪く鎌倉幕府から冷遇されていたとも。
世良田氏や大舘氏など新田一門も、幕府内で高い地位を得たという記録はありません。
義貞公は得宗被官の安東聖秀の姪を妻として迎えたとされ、北条得宗家への接近もみられますが、鎌倉幕府内で重きをなすことはありませんでした。
一方、足利尊氏公は得宗・北条高時公の偏諱を受けて「高氏」を名乗り、わずか15歳にして官位は従五位下治部大輔でした。
Wikipediaには「15歳での叙爵は北条氏であれば得宗家・赤橋家に次ぎ、大仏家・金沢家と同格の待遇であり、北条氏以外の御家人に比べれば圧倒的に優遇されていた」とあり、幕府内で格別の地位にあったことがわかります。
元弘元年(1331年)8月、倒幕をめざす後醍醐帝と幕府・北条得宗家の間で、いわゆる「元弘の乱」が起こりました。
後醍醐帝は笠置山の戦いで幕府方の大軍に破れ逃亡しました。
幕府は帝が京から逃れるとただちに廃位し、光厳帝を即位させ、捕虜とした後醍醐帝を隠岐に流しました。
元弘二年(1332年)大番役として在京していた義貞公は、幕府の動員令に応じて他の御家人らと後醍醐帝方の楠木正成討伐に向かい 千早城の戦いに参加しています。
元弘三年(1333年)3月、義貞公は病気を理由に河内を退去し新田荘に帰参しました。
『太平記』には元弘の乱の出兵中、義貞公が護良親王と接触して北条氏打倒の綸旨を受けたとありますが、真偽について諸説あるようです。
義貞公の新田荘帰還後、幕府は軍資金として新田氏に膨大な額の納税(有徳銭)を命じ、徴税人(金沢出雲介親連と黒沼彦四郎)を差し向けました。
法外な金額と強引な徴税に憤激した義貞公は、金沢を幽閉し黒沼を斬殺しました。
これを咎めた幕府が新田討伐の軍勢を差し向けるという情報が入り、同年5月、ついに義貞公は倒幕の兵を挙げました。
生品明神社(生品神社)での義貞公決起の名場面は、『太平記』でよく知られています。
この時点の新田軍主力は、義貞公に弟の脇屋義助、大舘宗氏とその一族、堀口貞満、江田行義、岩松経家、里見義胤、桃井尚義などとみられています。
【写真 上(左)】 生品明神社(生品神社)
【写真 下(右)】 生品明神社(生品神社)の御朱印
新田勢は新田を発して上野国八幡荘に入り、越後勢、甲斐源氏、信濃源氏の一派と合流して9,000余の軍勢に膨れ上がったといいます。
5月9日、新田勢は武蔵国に向けて出撃、足利尊氏公(1305-1358年、当初は「高氏」ですが「尊氏」で統一します)の嫡男・千寿王(後の足利義詮公)と久米川付近で合流しました。
これを受けてさらに兵士が集まり、『太平記』では20万7,000騎と記しています。
千寿王の参陣は政治的に大きく、鎌倉攻めの軍勢には義貞公と千寿王の二人の大将がいたとする説があり、千寿王挙兵に義貞公が参陣という説さえあります。
義貞公挙兵の報を受けた幕府方は、桜田貞国を総大将、長崎高重、長崎孫四郎左衛門、加治二郎左衛門を副将とする幕府軍約5万で入間川へと向かい、別働隊として金沢貞将を大将とする上総・下総勢2万が下総の下河辺郷に集結しました。
新田勢は鎌倉街道を南下し、5月11日に小手指原(所沢市小手指)で幕府軍と衝突しました。(小手指原の戦い)
翌12日、義貞公の奇襲により幕府方の長崎・加治軍は撃破され、南方の分倍河原まで退却しました。(久米川の戦い)
分倍河原の幕府軍に北条泰家(得宗北条高時公の弟)を大将とする援軍が加わり15万にもなったといい、幕府方の士気は上がりました。
5月15日、義貞公はこの援軍を知らずに1万の軍で急襲したところ、反撃を受けかろうじて北方の堀兼(所沢市堀兼)まで退却したといいます。(分倍河原の戦い)
しかし、三浦氏一族の大多和義勝、河村・土肥・渋谷・本間らの相模の軍勢8000騎が駆けつけ義貞公に加勢。
勢いをとりもどした義貞勢は5月16日分倍河原に押し出し、北条泰家以下幕府軍は敗走しました。
新田勢の勢いはとまらず、多摩川を渡り霞ノ関(多摩市関戸)で幕府軍に総攻撃をかけ、幕府方は新田勢の猛攻に耐えきれず総崩れとなって鎌倉に潰走しました。(関戸の戦い)
ここに常陸、下野、上総の豪族たちが続々と新田勢に合流、その勢いを駆って一気に鎌倉まで攻め上がりました。
対する幕府方は各切通しと市街要所に軍勢をおき、鎌倉の防備を固めました。
義貞公は軍勢を三手に分け、義貞本隊が金沢貞将守る化粧坂、大舘宗氏・江田行義が大仏貞直守る極楽寺坂、堀口貞満・大島守之が北条守時守る巨福呂坂を攻撃することとしました。
5月18日、新田勢は三方から鎌倉に攻め入りましたが、守りに強い鎌倉ゆえ三方とも攻略はならず、極楽寺坂口の大舘宗氏は討ち死にしました。
義貞公は化粧坂攻撃の指揮を脇屋義助に託し、大舘宗氏を失った極楽寺坂の援軍に向かいました。
5月20日夜半、義貞公は極楽寺坂の海側にあたる稲村ヶ崎へ駆け付けました。
稲村ヶ崎は海が迫る難所ですが、ここを突破されると一気に鎌倉市街まで侵入されます。
稲村ヶ崎進撃を予想していた幕府方は、稲村ヶ崎の断崖下に逆茂木をたて、海には軍船を浮かべて義貞勢の来襲に備えていました。
5月21未明、義貞公率いる軍勢は潮が沖に引いた隙を狙って、稲村ヶ崎の突破に見事成功しました。
この稲村ヶ崎の突破は『太平記』をはじめとする物語や絵画などによって広く知られています。
稲村ヶ崎突破については、干潮を利用したという説が有力ですが、『太平記』では義貞公が黄金作りの太刀を海に投じたところ、龍神が呼応して潮を引かせたというドラマティックな展開が描かれています。
ともあれ難所・稲村ヶ崎を突破した新田勢は由比ヶ浜で幕府軍を撃破し、一気に鎌倉市内に攻め入りました。
このとき新田勢が本陣をおいたのが、現在の九品寺の場所ともいいます。
5月22日、小町葛西谷の北条一族菩提寺・東勝寺で、長崎思元、大仏貞直、金沢貞将らの奮戦むなしく、北条得宗家当主・北条高時公らは自害し鎌倉幕府はここに滅亡しました。(東勝寺合戦)
義貞公の生品明神挙兵からわずか半月という怒濤の進撃でした。
鎌倉を陥落させた義貞公は雪ノ下の勝長寿院に本陣を敷き、足利千寿王は二階堂永福寺に布陣しました。
元弘三年/正慶二年(1333年)、後醍醐帝は隠岐から脱出、伯耆船上山で挙兵されました。帝追討のため幕府から派遣された尊氏公は上洛の途中幕府謀反を決意、船上山の後醍醐帝より討幕の密勅を受け取り、すぐさま六波羅探題を攻めて京を制圧しました。
尊氏公はこの密勅を根拠に、諸国の武将に向けて軍勢催促状を発しました。
新田勢に実子の千寿王を加勢させたことといい、将来への布石を着々と置いていることがわかります。
幕府滅亡後、後醍醐帝は建武の新政を開始
尊氏公は後醍醐帝から「勲功第一」と賞され鎮守府将軍となり、8月5日には従三位に昇叙、武蔵守を兼ねて尊氏と改名しています。
この時点で、後醍醐帝が鎌倉陥落の功労者、義貞公よりも尊氏公を優遇していたことがわかります。
義貞公に付き従っていた武将達は論功行賞のためつぎつぎと上洛し、鎌倉に残った武将たちも尊氏公の子千寿王のもとに集ったといいます。
そのなかで義貞公は千寿王補佐役の細川三兄弟(和氏、頼春、師氏)と諍いを起こし、6月に鎌倉を去って上洛したといい、以降の鎌倉は足利氏が統治したともいいます。
8月5日、義貞公は従四位上に叙され、左馬助に任ぜらて上野守、越後守となり、武者所の長である頭人となりました。
弟の脇屋義助は駿河守、長男の義顕も越後守に任ぜられ、尊氏公には及ばないものの恩賞を手にしました。
後醍醐帝の建武政権では尊氏公と護良親王の争いが起こり、護良親王は失脚しました。
この頃新田一族の昇進が目立ちますが、これは尊氏公の台頭を牽制するために、後醍醐帝が義貞公を対抗馬として取り立てたという見方があります。
建武二年(1335年)7月、信濃国で北条高時公の遺児・時行公を擁立し鎌倉を占領する事件(中先代の乱)が起こりました。
尊氏公は勅許を得ずに鎌倉に下り乱を鎮圧すると、新田一族の所領を他氏に分与し「義貞と公家達が自分を讒訴している」と主張して鎌倉に居座り、10月には細川和氏を使者に立てて後醍醐帝に義貞誅伐の奏状を提出しました。
おそらく、後醍醐帝が自身の対抗馬として義貞公を取り立てた時点で、義貞公と袂を分かったものとみられます。
これに対して義貞公はすぐさま反論の奏状を提出し、尊氏・直義兄弟の誅伐許可を求めたといいます。
義貞奏状で訴えられた足利直義による護良親王殺害が改めて問題となり、11月8日帝は義貞公に尊氏・直義追討の宣旨を発しました。
義貞公は政争に拙いという見方がありますが、このあたりの迅速な対応と要所を衝いた指摘は優れた政治力を感じさせます。
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ここからの義貞公の事跡戦歴は変転をきわめるので、略しつついきます。
官軍(足利討伐軍)の大将となった義貞公は尊良親王を奉じ、大軍を率いて東海道・東山道の二手から鎌倉に進軍、奥州の北畠顕家公も鎌倉へと進軍を開始しました。
官軍は三河国矢作、箱根・竹下で足利勢と戦い軍を進めましたが、鎌倉の手前で尊氏公指揮する足利勢に敗れて西へと逃れ京に戻りました。
尊氏公は躁鬱の気があったとされ、鬱のときはまったく弱気になるものの、躁に転じたときは俄然覇気にあふれて、これに従わない武将はなかったといいます。
今回の鎌倉防衛でも尊氏公が躁をあらわし、一気に劣勢を覆したと伝えます。
その後京に攻め上った足利勢は淀川で官軍を破り、後醍醐帝は西に遷幸、義貞公もこれに供奉しました。
京は尊氏勢に一旦占拠されたものの、奥州から北畠顕家軍、鎌倉から尊良親王軍が京に迫ると形勢は逆転。
義貞公は北畠軍、楠木正成、名和長年、千種忠顕らとともに京に総攻撃を仕掛け、尊氏公を九州へと追い落としました。
建武三年(1336年)2月、義貞公は足利勢を破った功績により正四位下に昇叙。左近衛中将に遷任し播磨守を兼任しました。
しかし義貞勢が尊氏方の播磨の赤松則村(円心)を攻めあぐねているうちに、尊氏勢は九州で勢力を盛り返し、再び東に攻め上ってきました。
尊氏公は、光厳院から得た義貞討伐の院宣をかざしていたともいいます。
5月25日、楠木正成と合流した義貞勢は摂津国湊川で尊氏勢と激突しました。(湊川の戦い)
尊氏勢の猛攻に新田、楠木両軍は分断され、楠木正成は奮戦むなしく湊川で自害しました。
義貞公も奮闘しましたが次第に劣勢となり、近江東坂本まで引きました。
6月14日尊氏公は光厳院を奉じて京に入り、光厳院の院宣を仰いで光明帝を即位させました。
比叡山から吉野に入られた後醍醐帝は自らの退位を否認され、光明帝の即位も認めなかったため、京(北朝)と吉野(南朝)に二帝並立する南北朝体制となりました。
諸戦で多くの配下を失い、楠木正成はすでに亡く、名和長年、千種忠顕らの友将も戦死して、もはや義貞公に以前の勢いはありませんでした。
加えて後醍醐帝と尊氏公で和平交渉が進み、義貞公は後醍醐帝の後ろ盾も失うこととなりました。
和平交渉を知り比叡山に駆け上がった義貞公が、涙ながらに後醍醐帝の変心を責める場面は、多くの物語で語られています。
義貞公は妥協策として恒良親王、尊良親王を推戴のうえ北国への下向を望むと、後醍醐帝はこれを許したといいます。
10月13日、義貞公は両親王を奉戴して越前敦賀の金ヶ崎城に入りました。
両親王は各地の武士へ尊氏討伐の綸旨を送り兵を募ったものの応じる武将は少なく、まもなく足利軍の攻撃を受けました。
義貞勢は奮戦し一度は足利軍を迎撃したものの、建武四年(1337年)1月足利軍の総攻撃を受けて籠城戦となり、兵糧尽きて3月6日ついに金ヶ崎城は陥落しました。
落城にあたり義貞公は越前・杣山城に遁れたとされますが、この時点で義貞公はすでに杣山城に移っていたという説もあります。
8月になると奥州の北畠顕家公が義良親王を奉じて鎌倉攻略の途につき、義貞公の次男新田義興公と、南朝に帰参した北条時行公が合流して12月には鎌倉を落としました。
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九品寺は、建武四年(1337年)に義貞公が北条方の戦死者の霊を慰めるため京より招いた風航順西和尚を開山として創建と伝わります。
しかし、この年義貞公は越前の金ヶ崎城ないし杣山城で足利勢を相手に戦闘・雌伏中で、とても「北条方の戦死者の霊を慰めるため鎌倉に寺院を建立」できる状況ではなかったように思われます。
もし北条氏菩提の目的で寺院を建立するとしたら、元弘三年(1333年)5月22日の北条氏滅亡後が考えられますが、義貞公は同年6月に上洛して以降、戦つづきでそのような余裕はないようにも思えます。
そもそも義貞公はほとんど鎌倉に腰を落ち着けたことはなく、「京より風航順西を招いて開山とし、寺院を創建する」という時間的余裕はないように思われます。
それに元弘三年(1333年)時点では義貞公はまだ上洛も果たしておらず、京・東山の風航順西和尚に知己を得て帰依とは考えにくいです。
などと考えつつ開山の風航順西(暦応四年(1341年)寂)をWeb検索したら、思いがけない記事がヒットしました。(→ 「鎌倉シニア通信」様「九品寺の縁起」)
無断転載不可につき、要旨のみ引用させていただきます。
-------------------(引用はじめ)
建武三年(1337年)に至り新田家戦死の霊魂を吊らはしか為、京都東山に「風航順西和尚」という浄家の僧、義貞公帰依により命じて共に下向し霊魂の得脱回向を懇望し則ちこの地に一宇を創建あり、内裏山霊嶽院九品寺と号す。
千時延文三丙申歳三月 為後代記置之
当寺三世 順妙
-------------------(引用おわり)
ここには当山創建は、(北条一族ではなく)新田家戦死者菩提の為とあります。
そうなると、義貞公が京・東山で浄土宗の風航順西和尚に帰依し、戦で失った新田一族の武将の菩提を懇請したということになるのかもしれません。
『太平記』は、京を舞台に義貞公と勾当内侍(こうとうのないし)との恋物語を伝えます。
であれば、東山の僧に帰依して一族の菩提を依頼するくらいの余裕はあったやもしれません。
ただし上記の「(建武三年(1337年))共に(鎌倉に?)下向し この地に一宇を創建」という記述は、同年の義貞公の事跡と符合しません。
もしも金ヶ崎城の戦いに破れ、落魄の義貞公がいっとき越前杣山城を離れ、鎌倉に入って寺院(九品寺)を建立したとしたら、歴史の一大スクープになるかと思いますが、これを伝える史料類は他に見当たりません。
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建武五年(1338年)1月北畠軍は上洛の途につき、後醍醐帝も各地の南朝勢力に対し顕家公への加勢を促しました。
越前鯖江(もしくは美濃大垣)まできた北畠勢は、しかし杣山城の義貞勢と合流することなく伊勢から奈良へと向かいました。
このとき北畠勢と義貞勢が合流しなかった理由については諸説ありますが、以前から北畠勢と義貞勢の連携はうまくいっていたとはいえず、顕家公と義貞公の間になんらかの確執があったのかもしれません。
その後の北畠勢は苦戦つづきで、5月22日和泉堺浦・石津で足利軍に敗北し顕家公は戦死しました。
建武五年(1338年)閏7月、義貞公は越前国藤島(福井市)の灯明寺畏畷で斯波高経が送った細川出羽守、鹿草公相の軍勢と交戦中に戦死しました。
享年38と伝わります。
義貞公は南朝復権のため再度の上洛を企図して藤島の戦いに臨んだといい、『太平記』には義貞公の凄絶な戦いぶりが描かれています。
義貞公の死は南朝方に大きな痛手となりましたが、年月日不明ながら義貞公は南朝側から正二位を贈位され、大納言の贈官を受けたという記録が残ります。
義貞公の墓所は「牛久沼ドットコム」様によると、当初称念寺(福井県坂井市)にあり、文明年間(1469-1486年)、義貞公の三男・新田義宗の子とされる横瀬貞氏(上州太田金山城主・岩松家純の重臣)が、義貞公の遺骨を称念寺から城内に移して墓を建てました。
この「城内の墓」は金山山麓の金龍寺(金山城主横瀬氏の菩提寺)ともみられ、金龍寺には義貞公の供養塔があります。
戦国中期、横瀬氏6代目の横瀬泰繁の代に横瀬氏は由良氏と名乗り、泰繁の子由良成繁は小田原北条軍に金山城を攻められ降服、嫡男国繁は小田原城に人質となり、由良一族は金山城を明け渡して桐生城へ移り、金龍寺も桐生へと移りました。
天正十八年(1590年)秀吉軍が小田原城を攻撃したとき、由良成繁の未亡人・赤井氏(妙尼印)は城主のごとく活躍したといいます。
北条氏滅亡後、秀吉は妙尼印の器量を称えて赤井氏に常陸国牛久の地と牛久城を与え、妙尼印は領地を子の国繁に相伝、前城主の菩提寺・東林寺に桐生の金龍寺を移して号を改めたといいます。
国繁没後、理由は不明ですが領地は没収となりますが、牛久の金龍寺と義貞公の墓は、幕府の庇護を受けて、寛文六年(1666年)牛久沼の対岸、龍ケ崎若柴の古寺を改修してここに移されたといい、以降、義貞公の墓所は龍ケ崎若柴の金龍寺とされているようです。
【写真 上(左)】 太田金山金龍寺の御朱印
【写真 下(右)】 龍ケ崎若柴金龍寺の御朱印
↑に「幕府の庇護を受けて」とありますが、この根拠とみられるのは神君・徳川家康公の出自です。
家康公は、新田氏の祖・新田義重公の四男得川義季(世良田義季)の末裔を称しました。
(→ 太田市観光物産協会Web)
足利氏の室町幕府で、草創時に敵対した新田一族は冷遇されました。
しかし、家康公が新田一門を公称したことからも、源氏名流たる新田氏の譽れは戦国末期に至ってなお健在だったとみられます。
征夷大将軍の座は源氏の統領のみに許されるという慣例に則り、源姓新田氏流の統領・家康公は征夷大将軍の座につき徳川幕府を開きました。
征夷大将軍の座は、公的には足利氏から新田氏(徳川氏)に移ったことになります。
徳川将軍家は新田氏(得川氏/世良田氏)ゆかりの上州世良田の地に東照宮を勧請して別格扱いとし、租税を軽くするなど住民までも優遇したと伝わります。
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義貞公の死から500年以上のちの明治の世に、義貞公は朝廷に尽しつづけた「忠臣」として顕彰され、明治15年には正一位を贈位されています。
数々の書物で義貞公の義勇忠節ぶりが描かれ、義貞公の「忠臣」としての評価は定まりました。
明治6年発行の国立銀行紙幣二円券の表面には、稲村ヶ崎で太刀を海中に投じる義貞公の姿が描かれています。
九品寺の義貞公ゆかりの事物として、山門の「内裏山」、本堂の「九品寺」の扁額の文字は、義貞公の揮毫を写したものと伝わります。
当山の御本尊は阿弥陀三尊。
寺号の「九品」とは九パターンの極楽往生のあり様をいい、上品、中品、下品それぞれに上生、中生、下生があり、合わせて九品(九軆)の阿弥陀仏がおわし、救われないものはないといいます。
義貞公が人々の菩提を祈り創ったとされる九品寺。
衆生を極楽往生に導く九品(阿弥陀仏)の寺号は、ふさわしいものといえましょうか。
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【史料・資料】
■ 『新編相模国風土記稿』(国立国会図書館)
(亂橋村)九品寺
内裏山靈嶽院と号す、浄土宗 材木座村、光明寺末、三尊の彌陀を本尊とす、中興を卓辨と云へり
■ 山内掲示(鎌倉市)
九品(くほん)とは、九種類の往生のありさまのことをいいます。極楽往生を願う人々の生前の行いによって定められます。上品、中品、下品のそれぞれに、上生、中生、下生があり、合わせて九品とされます。
鎌倉攻めの総大将であった新田義貞が、鎌倉幕府滅亡後に敵方であった北条氏の戦死者を供養するために、材木座に建立しました。
山門の「内裏山」、本堂の「九品寺」の文字は、新田義貞の筆を写したものといわれます。
本尊は阿弥陀三尊です。
■ 『鎌倉市史 社寺編』(鎌倉市)(抜粋)
内裏山靈嶽院九品寺と号する。浄土宗、もと光明寺末、新田義貞の草創で、風航順西を開山と伝える。中興開山は二十一世鏡誉岌故、二十五世台誉卓弁、三十二世楽誉浄阿良澄の三人。
本尊、阿弥陀三尊。
境内地311.95坪。本堂・庫裏・山門あり。
神奈川県重要文化財、石造薬師如来坐像。
寺の『過去帳』によれば、風航順西は暦応四年(1341年)十月十八日に寂している。
岌故は慶安二年(1649年)二月十五日、本尊の御身を再興した。願主は戸塚の吉田四良兵衛とみえている。良澄は弘化二年(1846年)二月、本堂及び三尊像を再興した。(略)
関東大震災にて全潰した。
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小町大路に面してあり、光明寺とならんで材木座海岸にもっとも近い寺院です。
鎌倉のメイン通り、若宮大路の材木座口にもほど近く、稲村ヶ崎から侵入し由比ヶ浜で北条勢を破った義貞公が一旦軍勢を落ち着かせ、本陣をおいたという縁起にふさわしい立地です。
【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 お地蔵さまと寺号標
小町大路に面して参道入口。
手前に地蔵尊立像をおいた寺号標。
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山門扁額
正面は脇塀付き切妻屋根桟瓦葺四脚の山門。
向拝見上げに掲げられている山号扁額は、義貞公の揮毫を移したものと伝わります。
【写真 上(左)】 鎌倉三十三観音霊場札所標
【写真 下(右)】 相州二十一ヶ所霊場札所標
山門手前に鎌倉三十三観音霊場と相州二十一ヶ所霊場の札所標が置かれています。
【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 六地蔵と不動尊
緑ゆたかな山内で、参道沿いには古色を帯びた一体型の六地蔵と不動尊立像が御座します。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝
【写真 上(左)】 斜めからの向拝
【写真 下(右)】 扁額と龍の彫刻
参道正面が本堂。
本堂は入母屋造銅本棒葺流れ向拝。
水引虹梁両端に獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に龍の彫刻を置いています。
御本尊の阿弥陀如来立像は、玉眼を填め込んだ宗元風彫刻として鎌倉市の文化財に指定されています。
本堂のほかに堂宇は見当たらないので、鎌倉三十三観音霊場札所本尊・聖観世音菩薩像、相州二十一ヶ所霊場札所本尊・弘法大師尊像、鎌倉時代作とされ県指定重要文化財の石造薬師如来像はいずれも本堂内に奉安とみられます。
【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 天水鉢
向拝見上げに掲げられている寺号扁額は、義貞公の揮毫を移したものと伝わります。
堂前の天水鉢にはしっかり新田氏の家紋、「新田一つ引き紋」が描かれていました。
御朱印は庫裏にて拝受しました。
御本尊、鎌倉三十三観音霊場、相州二十一ヶ所霊場の御朱印を授与されています。
〔 九品寺の御朱印 〕
【写真 上(左)】 御本尊・阿弥陀如来の御朱印
【写真 下(右)】 鎌倉三十三観音霊場の御朱印
相州二十一ヶ所霊場の御朱印
46.海潮山 妙長寺(みょうちょうじ)
鎌倉公式観光ガイドWeb
鎌倉市材木座2-7-41
日蓮宗
御本尊:三宝祖師(『鎌倉市史 社寺編』)
司元別当:
札所:
本覺寺は、材木座にある日蓮聖人・伊豆法難ゆかりの日蓮宗寺院です。
鎌倉公式観光ガイドWeb、下記史料・資料、山内縁起碑等から縁起沿革を追ってみます。
妙長寺は、正安元年(1299年)に、伊豆で日蓮聖人の命を救った漁師の子、日実(日實)上人が開山したのがはじまりといわれています。
もともとは由比ヶ浜の字沼ヶ浦というところにあり、延享(1744-1748年)以後に現在地に移転とみられています。
日蓮宗神奈川県第二部布教センターのWebには「妙長寺 日蓮聖人伊豆流罪の際(伊豆法難)、日蓮聖人の命を救った漁師「舟守弥三郎」の子「日実」が開山。伊豆流罪の霊跡の一。」とあります。
「Wikipedia」伊豆法難(いずほうなん)とは、弘長元年(1261年)5月12日に日蓮聖人が捕らえられ、伊豆へ流罪となった事件で「日蓮聖人四大法難」の一つです。
日蓮宗Web、久城寺(秋田県秋田市)の公式Web、および伊豆蓮慶寺の現地掲示等によると、日蓮聖人は文応元年(1260年)に世の中の乱れを嘆き『立正安国論』を執筆されましたが、幕府の反感を買って弘長元年(1261年)5月に伊豆流罪となりました。
日蓮聖人は由比ヶ浜の沼ヶ浦というところから伊豆に向けて船出したといいますが、当山の旧地は「由比ヶ濱沼ヶ浦」なので、船出の地のそばに開創とみられます。
【写真 上(左)】 日蓮崎と俎岩
【写真 下(右)】 俎岩
幕府の役人は船を伊東の湊に着けず、なんと烏崎(日蓮崎)の沖にある「俎岩(まないたいわ)」の上に置き去りにしました。
波浪に晒される岩上に置き去りにされた日蓮聖人は、しかしいささかも動じることなくお題目を唱えられていました。
そばで漁をしていた地元の漁師・舩守弥三郎はお題目をきくと、俎岩に船を漕ぎ寄せて日蓮聖人を救出、川奈港奥の御岩屋祖師堂にかくまったといいます。
【写真 上(左)】 連着寺・奥の院の奉納額
【写真 下(右)】 日蓮聖人「袈裟掛の松」
弥三郎夫妻の住居跡に伊東庄の代官今村若狭守が祖師堂(のちの蓮慶寺)を建て、蓮慶寺本堂には日蓮聖人とともに夫妻の像が祀られています。
【写真 上(左)】 連着寺の寺号標
【写真 下(右)】 連着寺
【写真 上(左)】 連着寺の本堂扁額
【写真 下(右)】 連着寺・奥の院
連着寺の御首題
日蓮聖人は伊豆で3年を過ごされ、伊東の佛現寺、佛光寺などゆかりの寺院を残された後、弘長三年(1263年)に赦免され、鎌倉に帰って伝道活動を再開されました。
弥三郎夫妻の子はのちに日蓮聖人の弟子(ないし孫弟子)となり、日実(日實)と号して日蓮聖人船出の地に妙長寺を開創したと伝わります。
天和元年(1681年)の大津波で堂宇が流されたため、第二十一世常徳院日慶上人が廃寺となっていた乱橋村畠中の天目山圓成寺の旧地に妙長寺を移したといいます。
山内縁起碑では移転の年を「同年(天和元年)」とし、『鎌倉市史 社寺編』では「延享三年(1746年)八月の『小鐘銘』には、相州鎌倉沼浦、海潮山妙長寺とあるから、延享(1744-1748年)以後の移転であろう。」としています。
山内縁起碑には天目山圓成寺は「寛文(1661-1673年)ノ頃 不受不施義ヲ唱ヘタルニヨリ廃絶セルカ」とあります。
徳川幕府が不受不施派を禁じ、他派への転派を命じたのは元禄四年(1691年)とされるので、山内縁起碑の圓成寺廃絶はそれより早く、禁令より早く廃されたのかもしれません。
(寛文九年(1669年)、幕府は不受不施派に対して寺請を禁じたという記録があるようです。)
『鎌倉市史 社寺編』の説をとれば、
天和元年(1681年) 大津波で堂宇流失
元禄四年(1691年)以降 天目山圓成寺廃絶
延享三年(1746年)以後 妙長寺、圓成寺跡地に移転
となり時系列は整います。
しかし、この説だと天和元年(1681年)の堂宇流失から延享三年(1746年)以後の移転まで、短くとも65年の空白が開きます。
ただ、山内縁起碑には「祖師堂ノミ難ヲ免レタリ」とあるので、その期間は祖師堂のみで寺を存続したのかもしれず、詳細はわかりません。
山内には「伊豆法難」ゆかりの伊豆法難記念相輪塔があります。
明治時代には小説家の泉鏡花が明治24年の夏に滞在し、このときの経験を題材にした「星あかり」という作品が残されています。
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【史料・資料】
■ 『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
(乱橋村)妙長寺
海潮山と号す 日蓮宗 比企谷妙本寺末
開山は日實と云ふ 元弘元年十月廿三日寂
本尊釋迦を安ず、小名沼浦に当寺の舊地あり、今も除地なりと云ふ、何の頃此に移りしにや
■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
海潮山妙長寺と号する。日蓮宗。もと妙本寺末。
開山は日実と云える。
本尊、三宝祖師。
境内地308.7坪 本堂・庫裏・上行堂・門あり。
材木座小字沼浦から移ったという(『風土記稿』)。
延享三年(1746年)八月の『小鐘銘』には、相州鎌倉沼浦、海潮山妙長寺とあるから、延享(1744-1748年)以後の移転であろう。
■ 山内掲示(縁起、不明瞭箇所あり抜粋転記)
海潮山妙長寺縁起
当山ハモト由比ヶ濱沼ヶ浦ニ在リ 弘長元年(1261年)五月十二日宗祖日蓮大聖人伊豆ニ配流セラルヤ沼ヶ浦ヨリ乗船シ給フ ●子大國阿闍梨日朗上●ニ縋リテ随行ヲモヒシニ 幕吏櫂ヲ揮ツテ日朗上人ノ右臂ヲ打(?)ク 宗祖船上ヨリ●●護持ノ文ヲ唱ヘ給フ ●音海浪ニ遮ラレテ 長短●シカラス所 ●●●●●ココニ起ル 川奈ノ漁師舟守彌三郎 宗祖ヲ俎岩ニ救ヒ奉リ ●●奥に供養ノ●ヲ画シ 一子ヲ宗祖ニ●ス(不明)日實上人是レナリ 弘長三年(1263年)二月二十八日宗祖赦サレテ海路鎌倉ニ●リ●●沼ヶ浦ニ着船ス
宗祖入滅後第十八年正安元年(1299年)日實上人沼ヶ浦二一宇ヲ建立シ海潮山妙長寺ト号シ 父母(不明)発祥ノ地ニ拠リテ 梵音海潮音ノ妙●ヲ長ヘニ使ヘンカタ●ナリ 然ルニ天和元年(1681年)●●ニヨリ堂宇悉ク流失セシカ 但タ祖師堂ノミ難ヲ免レタリ ●ノ中棄マテ(不明)堂實成庵ト称セリ
堂宇流失ノ年第二十一世常徳院日慶上人(不明)ヒテ寺●ヲ亂橋村畠中天目山圓成寺ノ𦾔址ニ移ス 是レ現在ノ地ナリ
圓成寺ハ美濃阿闍梨天目上人ノ開創ニ係ル 寛文(1661-1673年)ノ頃 不受不施義ヲ唱ヘタルニヨリ廃絶セルカ 創建巳来星霜茲ニ六百七十年史實ノ漸ク(不明)トスルヲ●ヘ 本年開●六百五十年遠忌ニ際シ碑ヲ建テ 實ノ●シテ後ニ傳フト云爾
昭和四十四年五月十二日
海潮山四十二世慈徳(?)院日秀謹●
■ 山内掲示(鎌倉市、抜粋)
泉鏡花は明治24年に鎌倉に来て、この妙長寺に七・八月の二か月滞在した。
その後、十月に思い切って(尾崎)紅葉を訪ね、入門を許された。以後創作に励み、小説家として認められ、数々の名作を残した。
この妙長寺滞在の経験をもとにして、明治31年に小説「みだれ橋」を発表し、後に「星あかり」と改題した。
星あかり(山内説明板より)
もとより何故といふ理はないので、墓石の倒れたのを引摺寄せて、二ツばかり重ねて臺にした。其の上に乗って、雨戸の引合せの上の方を、ガタゝ動かして見たが、開きさうにもない。雨戸の中は、相州西鎌倉亂橋の妙長寺といふ、法華宗の寺の、本堂に隣つた八畳の、横に長い置床の附いた座敷で、向つて左手(ゆんで)に、葛籠、革鞄などを置いた際に、山科といふ醫學生が、四六の借蚊帳を釣つて寝て居るのである。
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小町大路「水道橋」交差点から南に少し行った道沿いにあります。
小町大路から間口と奥行きのある参道を置き、入口には日蓮聖人の尊像が奉安されています。
【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 日蓮上人像
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 斜めからの本堂
山門は脇塀付きの切妻屋根銅板葺の四脚門で、正面に本堂が見えます。
石敷きで開けたイメージの山内です。
浄行菩薩堂には丁寧な浄行菩薩の説明書があり、堂上部奥には大曼荼羅も掛けられていました。
【写真 上(左)】 浄行菩薩堂
【写真 下(右)】 本堂
本堂は寄棟造銅板で向拝柱はなく、向拝見上げに寺号扁額を掲げています。
明るくすっきりとしたきもちのよい向拝です。
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額
山内には「日蓮上人伊豆法難記念」と刻まれた高さ約十メートルの相輪塔があります。
この相輪塔は昭和8年5月に建てられました。
中央の石柱は関東大震災のときくずれた鶴岡八幡宮の二の鳥居の一部を用い、寛文八年(1668年)8月の銘があるそうです。
【写真 上(左)】 縁起碑
【写真 下(右)】 相輪塔と鱗供養塔
他にも立派な寺号標(お題目碑)があり「鱗供養塔」もあります。
「鱗供養塔」は当山で執り行なわれる、材木座海岸沖の放生会にちなむものです。
御首題・御朱印は山内庫裏にて拝受しました。
御首題・御朱印とも、伊豆法難船出の地にかかる揮毫があります。
〔 妙長寺の御首題・御朱印 〕
【写真 上(左)】 御首題
【写真 下(右)】 日蓮大菩薩の御朱印
→ ■ 鎌倉市の御朱印-16 (B.名越口-11)へつづく。
【 BGM 】
■ Angel - Change
■ Hero - David Crosby & Phil Collins
■ Don't Call My Name - King of Hearts -
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■ 鎌倉市の御朱印-14 (B.名越口-9)
■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 同-2 (A.朝夷奈口)
■ 同-3 (A.朝夷奈口)
■ 同-4 (A.朝夷奈口)
■ 同-5 (A.朝夷奈口)
■ 同-6 (B.名越口-1)
■ 同-7 (B.名越口-2)
■ 同-8 (B.名越口-3)
■ 同-9 (B.名越口-4)
■ 同-10 (B.名越口-5)
■ 同-11 (B.名越口-6)
■ 同-12 (B.名越口-7)
■ 同-13 (B.名越口-8)から。
43.南向山 帰命院 補陀落寺(ふだらくじ)
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市材木座6-7-31
真言宗大覚寺派
御本尊:十一面観世音菩薩
司元別当:(材木座)諏訪神社(鎌倉市材木座)
札所:鎌倉三十三観音霊場第17番、相州二十一ヶ所霊場第10番、新四国東国八十八ヶ所霊場第81番
補陀落寺は源頼朝公開基、文覚上人開山とも伝わる古義真言宗の古刹です。
鎌倉市観光協会Web、下記史料・資料から縁起沿革を追ってみます。
補陀落寺は養和元年(1181年)源頼朝公が文覚上人を開山として建立、源頼朝公の御祈願所であったとも伝わる名刹です。
中興は、鶴岡八幡宮の供僧佛乗房浄國院賴基大夫法印(文和四年(1355年)寂)と伝わります。
もと京都仁和寺の直末で、その後鎌倉手広の青蓮寺の末寺となりましたが、後に京都大覚寺の直末となったようです。
補陀洛寺は別名を「竜巻寺」ともいい、幾度も竜巻や火災に遭っているようで寺伝類の多くは失われたといいますが、それでもいくつかの寺宝が伝わります。
「平家の赤旗」は、平家の総大将平宗盛が最後まで持っていたものとされ、頼朝公による奉納と伝わります。
平家の赤旗は春の「鎌倉まつり」期間中、公開されている模様です。
御本尊の十一面観世音菩薩立像は伝・平安時代作、薬師如来および両脇侍像(中尊は行基、脇侍は運慶作との伝あり)、伝・文覚上人裸形像などの尊像が伝わり、明治元年の火災でも仏像類がすべて無事であったといいます。
御本尊の十一面観世音菩薩は鎌倉三十三観音霊場第17番札所本尊、木造弘法大師坐像(秘鍵大師)は南北朝時代の作と伝わり相州二十一ヶ所霊場第10番の札所本尊です。
また、奉安の千手観世音菩薩は新四国東国八十八ヶ所霊場第81番の札所本尊です。
鎌倉三十三観音霊場の巡拝者はそれなりにいると思いますが、相州二十一ヶ所霊場、新四国東国八十八ヶ所霊場はどちらかというと「知る人ぞ知る」霊場で巡拝者は多くないと思います。
新四国東国八十八ヶ所霊場は川崎から横浜、そして逗子、鎌倉、藤沢と巡拝する神奈川県の弘法大師霊場(八十八ヶ所)です。
初番・発願は川崎大師(平間寺)、第88番の結願は鎌倉・手広の青蓮寺。
番外や掛所はなく、八十八の札所はすべて真言宗寺院です。
札所一覧は→こちら(「ニッポンの霊場」様)
新四国東国霊場はすこぶる情報が少なく、ガイドブックはおろかリーフレットさえみたことがありません。
そのわりにしっかりとした札所標が設置されていたりして、どうもナゾの多い霊場です。
新四国東国霊場で面白いのは、ふつう弘法大師霊場では御本尊ないし弘法大師が札所本尊となりますが、新四国東国霊場では別尊や境内仏が札所本尊となる例がみられることです。
当山でも新四国東国霊場の札所本尊は、寺院御本尊(十一面観世音菩薩)ではなく千手観世音菩薩となっています。
新四国東国霊場の鎌倉市内の札所はつぎの7箇寺で、宗派は真言宗大覚寺派、真言宗泉涌寺派、高野山真言宗と古義真言宗系です。
観光寺院はほとんどなく、この点からも新四国東国霊場が「知られざる霊場」であることがわかります。
第81番 南向山 帰命院 補陀洛寺 鎌倉市材木座6
第82番 泉谷山 浄光明寺 鎌倉市扇ヶ谷2
第83番 普明山 法立寺 成就院 鎌倉市極楽寺1
第84番 龍護山 満福寺 鎌倉市腰越2
第85番 小動山 松岩院 浄泉寺 鎌倉市腰越2
第86番 加持山 宝善院 鎌倉市腰越5
第88番 飯盛山 仁王院 青蓮寺 鎌倉市手広
詳細は■ 新四国東国八十八ヶ所霊場の御朱印-1をご覧くださいませ。
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「希代の怪僧」ともいわれる文覚上人の開山とあっては、触れないわけにはいきません。
長くなりますが文覚上人の事績を追ってみます
【神護寺】
文覚上人を語るとき、神護寺は外すことができません。まずはここから始めます。
和気清麻呂は、天応元年(781年)頃、国家安泰を祈願して河内に神願寺、山城に和気氏の私寺として高雄山寺を建立しました。
和気氏は仏教への帰依篤く、伝教大師最澄、弘法大師空海を相次いで自らの高雄山寺に招きました。
その縁もあってか弘法大師は唐から帰国の三年後、大同四年(809年)に京入りを果たされ、高雄山寺に入られました。
弘仁三年(812年)、弘法大師は高雄山寺で有名な金剛界結縁灌頂、胎蔵灌頂を開壇されるなど、弘法大師と高雄山寺は深い所縁があります。
天長元年(824年)和気氏は神願寺と高雄山寺を合併し、寺号を神護国祚真言寺(略して神護寺)と改め、弘法大師の保護もあって真言宗の名刹として寺勢を強めました。
しかし正暦五年(994年)と久安五年(1149年)の二度の火災で寺勢衰微し、文覚上人の頃には、わずかに御本尊の薬師如来を風雨に晒しながら残すのみであったといいます。
【文覚上人】 (以下「文覚」と記します。)
文覚の生没年は不詳ですが、源頼朝公(1147-1199年)と同時代の人です。
父は左近将監(遠藤)茂遠、俗名を遠藤盛遠といい、出自は摂津源氏傘下の渡辺党とみられています。
北面の武士として鳥羽天皇の皇女統子内親王(上西門院)に仕えていましたが、19歳で出家したといいます。
出家の理由として、同僚の源渡の妻・袈裟御前に恋慕し、誤って彼女を殺したのが動機といいますが、史実として疑う説もあるようです。
文覚は弘法大師を深く崇敬したといい、出家ののち諸国の霊場を遍歴・修行しました。
その修行は苛烈をきわめ「文覚の荒行」「荒法師文覚」として世に知られていたようです。
安達太良山や那智滝などに文覚荒行伝説が残ります。
仁安三年(1168年)、文覚は30歳のころ弘法大師所縁の神護寺の荒廃を嘆き、再興を決意して神護寺に入り、草庵を結び、薬師堂を建てて御本尊を安置し、弘法大師住坊跡である納凉殿、不動堂等を再建したといいます。
しかし、復興が意のままに進まなかったため、承安三年(1173年)文覚は意を決して後白河法皇の法住寺殿におもむき、荘園の寄進を強訴しました。
この強訴は法皇の逆鱗にふれ、文覚は伊豆に流されました。
ところで、どうして文覚の配所が伊豆だったのでしょうか。
この件についてはこちらの記事で興味ある説を展開されていますので、こちらも参考にしつつ考えてみます。
文覚が後白河法皇の逆鱗にふれて捕縛され、預けられたのは源仲綱ともいいます。
源仲綱は源三位源頼政を父とする摂津源氏で、文覚が出たという渡辺党の主家筋です。
源三位頼政は後白河天皇の皇子・以仁王と結んで平家打倒の兵を挙げたものの戦いに敗れ、宇治平等院で自害しました。
しかし、諸国の源氏に平家打倒の令旨を伝えたのは頼政で、平家打倒・源氏挙兵に大きな道筋を拓きました。
【文覚と源頼朝公】
折しも伊豆には平治の乱で清盛の義母池禅尼の助命により辛うじて斬罪を免れた源頼朝公が隠栖され、源仲綱はその頃伊豆守となっていました。
文覚はこの様な背景から伊豆に配流されたという見方があります。
つまり、後白河法皇-以仁王-源三位頼政-源仲綱という平家打倒・源氏挙兵をもくろむラインがあって、このラインの総意により文覚は伊豆の源頼朝公のもとに送り込まれたという説です。
そうでもなければ、河内(清和)源氏とさほど近しくもない文覚が、頼朝公に熱心に源家再興を説いた動機がわかりません。
文覚は近藤四郎国高に預かりとなって、韮山東部の「奈古屋寺」に籠居しました。
ここは現在の天長山 国清寺の山手で、いまでも「文覚上人流寓之跡」として石碑が残されています。
このそばには頼朝公が文覚に建てさせたという毘沙門堂(安養浄土院/瑞龍寺授福寺)があり、いまは「国清寺の毘沙門堂」といわれています。
また、国清寺の御本尊・聖観世音菩薩は、奈古屋寺の御本尊であったとも伝わります。
【写真 上(左)】 国清寺
【写真 下(右)】 国清寺の御朱印
奈古屋寺と頼朝公の配所・蛭ヶ小島はほど近く、文覚が足繁く頼朝公を訪れたという逸話もうなづけます。
ともかくも頼朝公と文覚は親交を深め、文覚は頼朝公に源家再興を強く促したといいます。また、頼朝公は源家再興の暁には神護寺復興を約したとも。
治承二年(1178年)、中宮徳子の皇子出産による恩赦で文覚は赦免されました。
その後の数年間の消息が明らかでなく、いくつかの逸話が遺る由縁となっています。
すぐさま帰京し、後白河法皇の許しを得て治承四年(1180年)平氏追討の院宣を介して頼朝公に挙兵を促したという説もあります。
この類似パターンとして、『愚管抄』は治承四年(1180年)当時福原京にいた藤原光能を文覚が訪れ、頼朝公の上奏を後白河法皇に取りつぎ清盛公追討の院宣を出させるように迫ったとの伝聞を記していますが、『愚管抄』の筆者(慈圓僧正)はこれを否定しています。
一度は逆鱗にふれ伊豆に流された文覚ですが、後白河法皇に敬愛の念をいだいていた節があり、治承二年(1179年)平清盛公が法皇を幽閉したのを憤り、(院宣の有無はさておき)頼朝公に平家打倒を督促したという見方もあるようです。
寿永元年(1182年)後白河法皇の蓮華王院御幸の折、文覚は推参して直訴し、ついに正式に法皇の御裁許を得ました。
法皇は翌年、荘園を寄進せられ、寿永三年(1184年)には頼朝公も丹波国宇都荘ほかを寄進、文覚の神護寺再興はここに成ったともいいます。
『吾妻鏡』には、寿永元年(1182年)頼朝公の命により文覚が江ノ島の岩屋に弁財天を勧請とあるので、頼朝公の支援を得て東国でもいくつかの寺院を開創している可能性があります。
元暦二年(1185年)、今後の神護寺のあり方を定めた『(文覚)四十五箇條起請文』を起草して法王に上奏しました。
その内容は強訴を是認する内容を含むものでしたが、法王はこれを咎めることはなかったともいわれ、文治六年(1190年)には高雄山寺に法皇の御幸がありました。
文覚は神護寺復興と並行して東寺の復興、高野山大塔の復興にも関わったとされています。
建久三年(1192年)後白河法皇が崩御され、正治元年(1199年)に頼朝公が没すると文覚はその後ろ盾を失いました。
建久九年(1198年)、権大納言源(土御門)通親は文覚が東寺講堂の諸仏を勝手に動かしたとして咎め、佐渡に流しました。
この流罪はいわゆる「三左衛門事件」に絡むものとみられています。
この事件は正治元年(1199年)頼朝公逝去の直後、遺臣・一条能保・高能父子が源通親の襲撃を企てたとして逮捕された事件です。
外孫・土御門天皇を擁立して権勢を手にした源通親は、頼朝公の嫡子・頼家公の左中将昇進の手続きを強引に進めたところ騒動となり、後藤基清・中原政経・小野義成が頼家公の雑色に捕らえられ、文覚も検非違使に身柄を引き渡され、佐渡へ配流となりました。
しかし、「三左衛門事件」の連座で佐渡配流はいささか罪科が重すぎる感じがあります。
それに文覚佐渡配流は建久九年(1198年)、「三左衛門事件」は正治元年(1199年)とされるので、文覚の佐渡配流は「三左衛門事件」より前で、別の理由も考えられます。
Wikipediaには「『延慶本平家物語』には文覚が守貞親王擁立を企て、頼朝に働きかけたが実現しなかったという記述がある。(中略)通親に対する守貞親王派の不満が噴出したもので、頼朝死後の幕府首脳部は後鳥羽上皇との関係改善のために、守貞親王派の持明院家、一条家、文覚を切り捨てたのではないかと推測」「文覚の勧進事業で寄進されていた神護寺領が事件後に後鳥羽上皇に没収され、承久の乱で後鳥羽上皇が配流されると、今度は鎌倉幕府を介してその所領を与えられた後高倉院(守貞親王)が直ちに上覚(文覚の弟子で師の没後に神護寺再建の中心人物となった)へ返還されていることから、文覚を首謀者とする守貞擁立構想は実際に存在したとする見解も」などの記述があります。
文覚が守貞親王擁立を企て失敗して佐渡へ配流という説もあるようで、この説の方が遠流という重罪に見合っている感もありますが、真相は闇のなかです。
頼朝公は建久六年(1195年)あたりから息女・大姫の入内(後鳥羽天皇への輿入れ)を源通親と丹後局(後白河帝の側室)に画策しましたが、 建久八年(1197年)夏の大姫逝去によりその企ては潰えました。
このあたりの機微にも文覚が絡んでいたのかもしれません。
また、源通親は後白河天皇の第六皇女・宣陽門院の領する広大な長講堂領を実質的に管理していたとみられ、長講堂領を巡るさまざまな駆け引きに文覚が一枚噛んでいたのかも。
佐渡配流3年後の建仁元年(1202年)源通親が没すると、文覚は許されて京に帰りましたが、その間に文覚が保護していた平高清公(六代御前)が処刑されたため、文覚佐渡配流と六代御前処刑の因果関係を示唆する説もあります。
【文覚と平高清公(六代御前)】
寿永二年(1183年)、源義仲の攻勢を受けて平氏が都落ちをしたとき、平維盛公は妻子を都に残して西走しました。
維盛公の嫡子・高清公(六代御前、平正盛公から直系六代目で清盛公の曾孫)は母(藤原成親の息女、新大納言局)とともに京の大覚寺北に潜伏していましたが、平氏滅亡後の文治元年(1185年)に北条時政の捜索で捕らえられました。
平家の嫡流ゆえ、鎌倉に送られて斬首となるところ、文覚の助命嘆願が功を奏して処刑を免れ、身柄は文覚に預けられたといいます。
文治五年(1189年)六代御前は剃髪して妙覚と号し、建久五年(1194年)には文覚の使者として鎌倉を訪れ、大江広元を通じて鎌倉府に対して異心ないことを伝えました。
頼朝公は平治の乱後、六代御前の祖父・平重盛公が自身の助命に尽力してくれた恩として、六代御前をしかるべき寺の別当に任命しようと申し出たと伝わります。
(文覚は、六代御前を神護寺に保護したという説あり。)
六代御前は頼朝公-文覚上人の保護下にありましたが、正治元年(1199年)頼朝公逝去からほどなく処刑されたことになります。
なお、逗子市桜山8丁目に六代御前の墓と伝えられる塚があり、逗子市史跡指定地となっています。
【文覚と頼朝公の関係】
頼朝公は大江広元・中原親能はもとより、九条兼実、源通親ら有力公卿との関係も築き、朝廷ないし後白河法皇とのとりもち役として文覚を頼ったとは考えにくいです。
頼朝公は尊大な人物やアクの強い武将をしばしば粛清しており、この流れからすると個性が強すぎる文覚はすぐにも逆鱗にふれそうです。
また、文覚が保護した六代御前は平家嫡流の遺児ですから、猜疑心の強い頼朝公であれば平家再興の芽を摘むために真っ先に抹殺しているはずです。
ところが文覚も六代御前も頼朝公存命中は咎を受けず、むしろ頼朝公が保護していた感があります。
となると、頼朝公が損得勘定を度外視して文覚に惹かれるなにか、たとえば人間的な魅力とか、卓越した験力とか、そういうものが文覚には備わっていたのかもしれません。
【文覚と後鳥羽上皇】
建仁二年(1202年)「三左衛門事件」に連座して佐渡に配流されたという文覚を赦免し、召還したのは後鳥羽上皇とも目されます。
文覚は後鳥羽院政下で一時はポジションを得たともみられますが、建仁三年(1203年)後鳥羽上皇によって対馬国へ流され、途中、鎮西で客死したとも伝わります。
文覚対馬配流の理由については「文覚が上皇に暴言を吐き怒りを買った」「上皇より謀叛の疑いをかけられた」「文覚が後鳥羽上皇の政を批判した」などいろいろな説が見られますが定説はないようです。
後鳥羽天皇はすこぶる多才で果断な人物と伝わり、同様の個性をもつ文覚とはどうしても感情的に相容れなかったのかもしれません。
文覚の墓所とされる場所は神護寺裏山山頂のほか、隠岐や信州高遠など全国各地にあり、怪僧文覚の神出鬼没ぶりがうかがわれます。
晩年の文覚の活動はさながら「政僧」の趣で、その活動と人脈はあまりに複雑で整理がつかなくなるのですが、後ろ盾だった後白河法皇が没し、正治元年(1199年)に頼朝公が没するとその立場はきわどいものとなったことは容易に想像がつきます。
そして後鳥羽院政下で、その力を失ったことになります。
後白河法皇、後鳥羽上皇、源頼朝公、そして平家嫡流六代御前・・・。
動乱の時代をきらびやかな人脈のなかで生きた文覚は、『平家物語』の数々の名場面でも描かれ、その強烈な個性もあいまっていまも歴史のなかで光芒を放っています。
ながながと辿ってきましたが、源頼朝公開基、文覚上人開山とも伝わる補陀落寺は源平騒乱の歴史に彩られています。
『吾妻鏡』には、寿永元年(1182年)頼朝公の命により文覚が江ノ島の岩屋に辨財天を勧請とあるので、養和元年(1181年)創建の補陀落寺は江ノ島に先立つ開山とみられます。
養和元年(1181年)は、前年の富士川の戦いで平家軍と干戈を交え、これから平家軍との本格的な戦いがはじまるというタイミングです。
この時点での頼朝公の「祈願」が平家調伏、源氏戦捷であったことは容易に想像できるところで、これは『新編相模国風土記稿』の補陀落寺の項に「本尊不動(長三尺智證作、平家調伏の像と云ふ)」「卓圍(祭壇布)一張 頼朝の寄附にて、平家調伏の打敷(仏壇の荘厳具)と云ふ」とあることからも裏付けられます。
江の島岩屋の辨財天も、養和二年(1182年)頼朝公の奥州藤原氏征伐祈願のために文覚が勧請という縁起が伝わり、文覚による祈祷はいずれも験を顕したことになります。
このような文覚の験力も、頼朝公の信任を高めたとみられます。
補陀落寺の梵鐘(観応元年(1350年)鋳造)は、いまは松岡(北鎌倉)の東慶寺にあり、これは農民が当地の土中から掘り出したものといいます。
また、東慶寺の旧梵鐘は、韮山の日蓮宗本立寺にあるといいます。
材木座の補陀落寺の梵鐘が、かなり離れた松岡(北鎌倉)の土中から掘り出されるとは不思議なはなしですが、とにかくそういうことになっています。
東慶寺の梵鐘
また、当山の鎮守・寶満菩薩像(見目明神)は、五社神社と所縁をもつともいわれています。
いまは住宅地のなかにひっそりと佇む補陀落寺ですが、文覚を巡る物語や鎌倉幕府草創の歴史に思いを馳せ、巡ってみるのもまた一興ではないでしょうか。
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【史料・資料】
■ 『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
補陀落寺は南向山帰命院と号す 材木座の東、民家の間にあり。
古義の真言宗にて、仁和寺の末寺なり。開山は、文覺上人なり。
勧進帳の切たるあり。首尾破れて、作者も年号も不知。其中に文覺、鎌倉へ下向の時、頼朝卿、比来の恩を報ぜんとて、此寺を立られしとあり。
其後頽廃せしを、鶴岡の供僧頼基中略せしとなり。(中略)
本尊薬師・十二神、運慶作也。文覺上人の位牌あり。開山権僧正法眼文覺尊儀とあり。頼朝の木像あり。鏡の御影と云ふ。白旗明神と同じ體なり。同位牌あり。征夷大将軍二品幕下頼朝神儀とあり。
寺寶
八幡画像壱幅 束帯にて袈裟をかけ、数珠を持つしむ。冠より一寸ばかり上に日輪をゑかく。
寶満菩薩像一軀 八幡の姨なり。鶴岡にもあり。社家にては見目明神(ミルメ)と云ふ。
平家調伏の打敷壱張
平家赤旗壱流 幅二布、長三尺五分あり。九萬八千軍神と、書付てあり。(中略)
鐘楼跡
今跡のみ有て鐘もなし。当寺の鐘は、松岡東慶寺にあり。農民、松岡の地にて掘出したりと云ふ。銘を見れば、当寺の鐘なり。兵乱の時、紛散したるなるべし。
●東慶寺(松岡)
鐘楼
山門外、右にあり。此寺の鐘は、小田原陣の時失して、今有鐘は、松岡の領地にて、農民ほり出したりと云う。銘を見るに補陀落寺の鐘なり。故に此鐘の銘は補陀落寺の條下に記す。
■ 『新編相模国風土記稿』(国立国会図書館)
(材木座村)補陀落寺
南向山帰命院と号す 古義真言宗 往昔京都仁和寺に属せしが、今は手廣村青蓮寺末たり 開山は文覺にて養和元年(1181年)頼朝祈願所として創建あり
按ずるに、当寺に勧進帳の切あり、首尾破れて詳ならず、其中に文覺鎌倉へ下向の時、頼朝比来の恩を報ぜんとて、此寺を建られしとあり、思ふに此勧進帳の文は、中興の僧、頼基の作なるべし
其後頽廃せしを鶴岡の供僧頼基(鶴岡供僧次第に、佛乗房浄國院頼基大夫法印、文和四年(1355年)二月二日寂す、千田大僧都と号すとあり)中興せり(中略)
本尊不動(長三尺智證作、平家調伏の像と云ふ、按ずるに、【鎌倉志】には、本尊薬師とあり)及び薬師(長三尺七寸行基作)日光・月光・十二神(長各二尺八寸、共に運慶作)十一面観音(長三尺八寸許行基作、往昔の本尊なりと云ふ)地蔵二軀(一は鐡佛、長一尺許、門前の井中より出現せしと云ふ、一は弘法作、長一尺七寸)大黒(長尺許傳作)大日(長八寸許)賓頭盧(長三尺已上弘法作)等の像を置く、又頼朝の木像あり(長八寸許四十二歳の自作と云ふ)鏡の御影と称せり、同位牌あり 征夷将軍二品幕下神儀とあり文覺の書と云ふ)開山文覺の牌もあり(開山権僧正法眼文覺尊儀とあり)
【寺寶】
八幡画像一幅 束帶にて袈裟をかけ、數珠を持しむ、冠より一寸ばかり上に、日輪を畫
寶満菩薩像一幅 應神帝の姨にて、見目明神と称すとなり
卓圍(祭壇布)一張 頼朝の寄附にて、平家調伏の打敷(仏壇の荘厳具)と云ふ、孔雀鳳凰の繍文あり
旗一流 平家赤旗と称し、文字は相國清盛の筆と傳ふ(中略)
牛頭天王見目明神合社 大道寺源六周勝社領二貫三百文及び寺内修補の料を寄附せし事所蔵文書に見えたり
住吉社
鐘楼蹟
𦾔観應年間の古鐘あり。兵乱の為に亡失せしを後松岡ヶの農民地中より掘出し同所東慶寺に収むと云ふ。今尚あり。
■ 『鎌倉市史 社寺編』(鎌倉市)(抜粋)
南向山帰命院補陀落寺と号する。古義真言宗。もと京都仁和寺末。のち青蓮寺末。現在京都大覚寺末。開山は文覚上人、開基は源頼朝と伝える。後、鶴岡八幡宮供僧頼基が中興した。
本尊、十一面観音。もとの本尊は薬師如来。日光・月光、ほかに不動明王あり。
境内地163坪。本堂・門・庫裏あり。(中略)
開基は仏乗坊の八代及び十代で、建武三年六月に還補されているから、この寺の鐘ができた観応元年(1350年)には供僧であったこととなる。(中略)
『新編鎌倉志』は鐘銘及び寺号によって、本尊は観音であったはずであるといっている。
従うべきであろう。(中略)
当寺が頼朝と関係があることは前述の勧進帳に見えるのを初見とするが(中略)頼朝の供養をここですることになっていたらしい。(中略)
明治初年の火災で殆ど烏有に帰したが、その時誰も出した覚えがないのに、仏像類は全部無事であったという。大正十二年震災で全壊し、現在の本堂は大正十三年の建立である。
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材木座の巨刹、光明寺にもほど近い住宅街にあります。
【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 石碑
山内入口に門柱で、その手前に「源頼朝公御祈願所●●補陀落寺」と彫られた石碑があります。
【写真 上(左)】 門柱
【写真 下(右)】 山内
山内は広くはないですが閑雅な落ち着きがあり、「荒法師開山」のイメージはあまりありません。
【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 本堂
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 寺号板
本堂はおそらく切妻造桟瓦葺平入りで、右手に寄せて流れ向拝を置いています。
向拝の柱や虹梁はシンプルですが、向拝柱に寺号標を掲げています。
【写真 上(左)】 庫裏への道
【写真 下(右)】 同 紫陽花
御朱印は庫裏にて拝受しました。
鎌倉三十三観音霊場、相州二十一ヶ所霊場、新四国東国八十八ヶ所霊場いずれの御朱印も拝受していますが、現況の授与状況は不明です。
〔 補陀落寺の御朱印 〕
【写真 上(左)】 弘法大師の御朱印(ご縁日)
【写真 下(右)】 鎌倉三十三観音霊場の御朱印
【写真 上(左)】 相州二十一ヶ所霊場の御朱印
【写真 下(右)】 新四国東国八十八ヶ所霊場の御朱印
44.円龍山 向福寺(こうふくじ)
公式Web
鎌倉市材木座3-15-13
時宗
御本尊:阿弥陀三尊
司元別当:
札所:鎌倉三十三観音霊場第15番
向福寺は一向俊聖上人開山と伝わる時宗寺院です。
公式Web、下記史料・資料、現地掲示から縁起沿革を追ってみます。
向福寺は弘安五年(1282年)、開山を一向俊聖上人として創建されました。
一向俊聖上人(1239年?-1287年?)は、鎌倉時代の名僧で時宗一向派の祖です。
儀空菩薩とも呼ばれます。
「新纂 浄土宗大辞典」および「Wikipedia」を参考にその足跡を追ってみます。
伝承によれば、筑後国竹野荘西好田(福岡県久留米市)の御家人草野永泰の次男として生まれたといいます。
永泰の兄草野永平は浄土宗鎮西派の聖光上人(弁長)に帰依し、建久三年(1192年)に久留米善導寺を建立した大檀越でした。
寛元三年(1245年)、播磨国書写山圓教寺に入寺して天台教学を志し、建長五年(1253年)に剃髪受戒して名を俊聖としました。
翌年夏に書写山を下り、奈良興福寺などで修行されるも悟りを得られず、鎌倉蓮華寺(光明寺)の然阿良忠上人の門弟となりました。
一向専念の文より号を一向と改め、文永十年(1273年)から各地を念仏聖として遊行回国し、踊り念仏(踊躍念佛)、天道念仏(天童念佛)を修して道場を設けました。
後年は遊行と踊り念仏で民衆を教化し、弘安一〇年(1287年)11月、近江国番場蓮華寺(滋賀県米原市)で立ち往生したと伝わります。
俊聖上人の教えは時宗一向派(天童派)として各地に広く伝わったため伝承も多く、ナゾの多い僧ともいわれます。
実在していないという説さえありましたが、近年山形県天童市の高野坊遺跡より出土した墨書の礫石経により、その実在が立証されています。
ただし、法統については諸説あり、浄土宗鎮西義の然阿良忠上人のほか、浄土宗西山深草派西山三派の祖・証空門下の顕性に師事したという説もあります。
一向俊聖上人を祖とする(時宗)一向派は時宗十二派の一つで、番場時衆、時宗番場派とも呼ばれ、本山は番場蓮華寺(滋賀県米原市)です。
「一向派」の呼称は、元禄一〇年(1697年)成立の時宗触頭・浅草日輪寺吞上人著の『時宗要略譜』が初見とされます。
『一向上人血脈譜』によると、上人には「十五戒弟」と称する弟子があり、東北、関東、甲信越を中心に布教をすすめて全盛期には末寺一七四箇寺を数えたといいます。
とくに山形県天童市の仏向寺は一向俊聖上人開山で、番場蓮華寺とならぶ中心寺院となっています。
江戸幕府の宗教政策により時宗遊行派の傘下に編入され、派内の本末論争などもあって衰勢となりました。
当初「一向宗」とし、江戸時代に「時宗」に吸収されたとする資料もみられます。
「新纂 浄土宗大辞典」には、明治36年時宗内で一向派の立場を認める『時宗宗憲宗規』が制定されましたが、昭和16年の一宗一管長制により、翌17年には一向派97箇寺中57箇寺が時宗より浄土宗に転宗、残る41箇寺は時宗にとどまったとあります。
向福寺は、おそらく時宗一向派(あるいは一向宗)から時宗となった寺院のひとつとみられます。
公益財団法人住友財団の公式Webによると、御本尊の阿弥陀三尊木像は中世(現地掲示資料では南北朝時代)作。檜材、割矧ぎ造ないし寄木造りで玉眼を嵌入しています。
脇侍の観世音菩薩、勢至菩薩とともに鎌倉市指定文化財に指定されています。
また、『鎌倉札所巡り』(メイツ出版)・現地掲示によると、当山本堂南側の部屋は、『丹下左膳』で知られる作家・林不忘(長谷川海太郎、1900年-1935年)が関東大震災前に新婚生活を送ったところです。
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【史料・資料】
■ 『新編相模国風土記稿』(国立国会図書館)
(乱橋村)向福寺
圓龍山と号す 本寺前に同じ(藤澤清浄光寺末) 本尊三尊彌陀を安ず 各立像、安阿彌作
■ 山内掲示(鎌倉市)
公式Webと重複するため略。
■ 『鎌倉市史 社寺編』(鎌倉市)(抜粋)
円龍山向福寺と号する。時宗。藤沢清浄光寺末。
開山、一向。
本尊、阿弥陀如来。
境内地229.7坪。本堂兼庫裏あり
『大正三年明細書』によれば文政九年に再建した本堂・表門があったが、大正大震災で全潰した。今の本堂は昭和五年の再建である。
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小町大路「水道路」交差点から少し南下した右手の路地沿いにあり、あまり目立ちません。
門柱に「時宗 向福寺」となければ、ほとんど民家にしか見えません。
【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 門柱の寺号標
山内は緑が多く、植木鉢もきれいに並べられています。
参道正面の本堂は入母屋造銅板で身舎右手に向拝を附設しています。
本堂は庫裏とつながり、一見寺院建築のイメージはあまりありません。
【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 本堂
向拝は水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、中備に板本蟇股を置いています。
ここまでくるとさすがに寺院本堂の存在感があります。
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 観音霊場の札所板
ガラス格子の扉のうえに鎌倉三十三観音霊場の札所板を掲げています。
文政九年(1826年)再建の本堂は大正の関東大震災で全潰し、いまの本堂は昭和五年の再建とのことですが、そこまで古びた感じはないので手を入れられているかもしれません。
観音堂はなく、本堂向拝に札所板が掲げられているので、鎌倉三十三観音霊場第15番の札所本尊・聖観世音菩薩立像は、御本尊の阿弥陀三尊とともに本堂内に奉安とみられます。
御朱印は庫裏にて拝受しました。
御本尊と鎌倉三十三観音霊場の御朱印を授与されています。
〔 向福寺の御朱印 〕
【写真 上(左)】 御本尊・阿弥陀如来の御朱印
【写真 下(右)】 鎌倉三十三観音霊場の御朱印
→ ■ 鎌倉市の御朱印-15 (B.名越口-10)へつづく。
【 BGM 】
■ Hearts - Marty Balin
■ If I Belive - Patti Austin
■ Late At Night - George Benson Ft. Vickie Randle
■ 同-2 (A.朝夷奈口)
■ 同-3 (A.朝夷奈口)
■ 同-4 (A.朝夷奈口)
■ 同-5 (A.朝夷奈口)
■ 同-6 (B.名越口-1)
■ 同-7 (B.名越口-2)
■ 同-8 (B.名越口-3)
■ 同-9 (B.名越口-4)
■ 同-10 (B.名越口-5)
■ 同-11 (B.名越口-6)
■ 同-12 (B.名越口-7)
■ 同-13 (B.名越口-8)から。
43.南向山 帰命院 補陀落寺(ふだらくじ)
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市材木座6-7-31
真言宗大覚寺派
御本尊:十一面観世音菩薩
司元別当:(材木座)諏訪神社(鎌倉市材木座)
札所:鎌倉三十三観音霊場第17番、相州二十一ヶ所霊場第10番、新四国東国八十八ヶ所霊場第81番
補陀落寺は源頼朝公開基、文覚上人開山とも伝わる古義真言宗の古刹です。
鎌倉市観光協会Web、下記史料・資料から縁起沿革を追ってみます。
補陀落寺は養和元年(1181年)源頼朝公が文覚上人を開山として建立、源頼朝公の御祈願所であったとも伝わる名刹です。
中興は、鶴岡八幡宮の供僧佛乗房浄國院賴基大夫法印(文和四年(1355年)寂)と伝わります。
もと京都仁和寺の直末で、その後鎌倉手広の青蓮寺の末寺となりましたが、後に京都大覚寺の直末となったようです。
補陀洛寺は別名を「竜巻寺」ともいい、幾度も竜巻や火災に遭っているようで寺伝類の多くは失われたといいますが、それでもいくつかの寺宝が伝わります。
「平家の赤旗」は、平家の総大将平宗盛が最後まで持っていたものとされ、頼朝公による奉納と伝わります。
平家の赤旗は春の「鎌倉まつり」期間中、公開されている模様です。
御本尊の十一面観世音菩薩立像は伝・平安時代作、薬師如来および両脇侍像(中尊は行基、脇侍は運慶作との伝あり)、伝・文覚上人裸形像などの尊像が伝わり、明治元年の火災でも仏像類がすべて無事であったといいます。
御本尊の十一面観世音菩薩は鎌倉三十三観音霊場第17番札所本尊、木造弘法大師坐像(秘鍵大師)は南北朝時代の作と伝わり相州二十一ヶ所霊場第10番の札所本尊です。
また、奉安の千手観世音菩薩は新四国東国八十八ヶ所霊場第81番の札所本尊です。
鎌倉三十三観音霊場の巡拝者はそれなりにいると思いますが、相州二十一ヶ所霊場、新四国東国八十八ヶ所霊場はどちらかというと「知る人ぞ知る」霊場で巡拝者は多くないと思います。
新四国東国八十八ヶ所霊場は川崎から横浜、そして逗子、鎌倉、藤沢と巡拝する神奈川県の弘法大師霊場(八十八ヶ所)です。
初番・発願は川崎大師(平間寺)、第88番の結願は鎌倉・手広の青蓮寺。
番外や掛所はなく、八十八の札所はすべて真言宗寺院です。
札所一覧は→こちら(「ニッポンの霊場」様)
新四国東国霊場はすこぶる情報が少なく、ガイドブックはおろかリーフレットさえみたことがありません。
そのわりにしっかりとした札所標が設置されていたりして、どうもナゾの多い霊場です。
新四国東国霊場で面白いのは、ふつう弘法大師霊場では御本尊ないし弘法大師が札所本尊となりますが、新四国東国霊場では別尊や境内仏が札所本尊となる例がみられることです。
当山でも新四国東国霊場の札所本尊は、寺院御本尊(十一面観世音菩薩)ではなく千手観世音菩薩となっています。
新四国東国霊場の鎌倉市内の札所はつぎの7箇寺で、宗派は真言宗大覚寺派、真言宗泉涌寺派、高野山真言宗と古義真言宗系です。
観光寺院はほとんどなく、この点からも新四国東国霊場が「知られざる霊場」であることがわかります。
第81番 南向山 帰命院 補陀洛寺 鎌倉市材木座6
第82番 泉谷山 浄光明寺 鎌倉市扇ヶ谷2
第83番 普明山 法立寺 成就院 鎌倉市極楽寺1
第84番 龍護山 満福寺 鎌倉市腰越2
第85番 小動山 松岩院 浄泉寺 鎌倉市腰越2
第86番 加持山 宝善院 鎌倉市腰越5
第88番 飯盛山 仁王院 青蓮寺 鎌倉市手広
詳細は■ 新四国東国八十八ヶ所霊場の御朱印-1をご覧くださいませ。
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「希代の怪僧」ともいわれる文覚上人の開山とあっては、触れないわけにはいきません。
長くなりますが文覚上人の事績を追ってみます
【神護寺】
文覚上人を語るとき、神護寺は外すことができません。まずはここから始めます。
和気清麻呂は、天応元年(781年)頃、国家安泰を祈願して河内に神願寺、山城に和気氏の私寺として高雄山寺を建立しました。
和気氏は仏教への帰依篤く、伝教大師最澄、弘法大師空海を相次いで自らの高雄山寺に招きました。
その縁もあってか弘法大師は唐から帰国の三年後、大同四年(809年)に京入りを果たされ、高雄山寺に入られました。
弘仁三年(812年)、弘法大師は高雄山寺で有名な金剛界結縁灌頂、胎蔵灌頂を開壇されるなど、弘法大師と高雄山寺は深い所縁があります。
天長元年(824年)和気氏は神願寺と高雄山寺を合併し、寺号を神護国祚真言寺(略して神護寺)と改め、弘法大師の保護もあって真言宗の名刹として寺勢を強めました。
しかし正暦五年(994年)と久安五年(1149年)の二度の火災で寺勢衰微し、文覚上人の頃には、わずかに御本尊の薬師如来を風雨に晒しながら残すのみであったといいます。
【文覚上人】 (以下「文覚」と記します。)
文覚の生没年は不詳ですが、源頼朝公(1147-1199年)と同時代の人です。
父は左近将監(遠藤)茂遠、俗名を遠藤盛遠といい、出自は摂津源氏傘下の渡辺党とみられています。
北面の武士として鳥羽天皇の皇女統子内親王(上西門院)に仕えていましたが、19歳で出家したといいます。
出家の理由として、同僚の源渡の妻・袈裟御前に恋慕し、誤って彼女を殺したのが動機といいますが、史実として疑う説もあるようです。
文覚は弘法大師を深く崇敬したといい、出家ののち諸国の霊場を遍歴・修行しました。
その修行は苛烈をきわめ「文覚の荒行」「荒法師文覚」として世に知られていたようです。
安達太良山や那智滝などに文覚荒行伝説が残ります。
仁安三年(1168年)、文覚は30歳のころ弘法大師所縁の神護寺の荒廃を嘆き、再興を決意して神護寺に入り、草庵を結び、薬師堂を建てて御本尊を安置し、弘法大師住坊跡である納凉殿、不動堂等を再建したといいます。
しかし、復興が意のままに進まなかったため、承安三年(1173年)文覚は意を決して後白河法皇の法住寺殿におもむき、荘園の寄進を強訴しました。
この強訴は法皇の逆鱗にふれ、文覚は伊豆に流されました。
ところで、どうして文覚の配所が伊豆だったのでしょうか。
この件についてはこちらの記事で興味ある説を展開されていますので、こちらも参考にしつつ考えてみます。
文覚が後白河法皇の逆鱗にふれて捕縛され、預けられたのは源仲綱ともいいます。
源仲綱は源三位源頼政を父とする摂津源氏で、文覚が出たという渡辺党の主家筋です。
源三位頼政は後白河天皇の皇子・以仁王と結んで平家打倒の兵を挙げたものの戦いに敗れ、宇治平等院で自害しました。
しかし、諸国の源氏に平家打倒の令旨を伝えたのは頼政で、平家打倒・源氏挙兵に大きな道筋を拓きました。
【文覚と源頼朝公】
折しも伊豆には平治の乱で清盛の義母池禅尼の助命により辛うじて斬罪を免れた源頼朝公が隠栖され、源仲綱はその頃伊豆守となっていました。
文覚はこの様な背景から伊豆に配流されたという見方があります。
つまり、後白河法皇-以仁王-源三位頼政-源仲綱という平家打倒・源氏挙兵をもくろむラインがあって、このラインの総意により文覚は伊豆の源頼朝公のもとに送り込まれたという説です。
そうでもなければ、河内(清和)源氏とさほど近しくもない文覚が、頼朝公に熱心に源家再興を説いた動機がわかりません。
文覚は近藤四郎国高に預かりとなって、韮山東部の「奈古屋寺」に籠居しました。
ここは現在の天長山 国清寺の山手で、いまでも「文覚上人流寓之跡」として石碑が残されています。
このそばには頼朝公が文覚に建てさせたという毘沙門堂(安養浄土院/瑞龍寺授福寺)があり、いまは「国清寺の毘沙門堂」といわれています。
また、国清寺の御本尊・聖観世音菩薩は、奈古屋寺の御本尊であったとも伝わります。
【写真 上(左)】 国清寺
【写真 下(右)】 国清寺の御朱印
奈古屋寺と頼朝公の配所・蛭ヶ小島はほど近く、文覚が足繁く頼朝公を訪れたという逸話もうなづけます。
ともかくも頼朝公と文覚は親交を深め、文覚は頼朝公に源家再興を強く促したといいます。また、頼朝公は源家再興の暁には神護寺復興を約したとも。
治承二年(1178年)、中宮徳子の皇子出産による恩赦で文覚は赦免されました。
その後の数年間の消息が明らかでなく、いくつかの逸話が遺る由縁となっています。
すぐさま帰京し、後白河法皇の許しを得て治承四年(1180年)平氏追討の院宣を介して頼朝公に挙兵を促したという説もあります。
この類似パターンとして、『愚管抄』は治承四年(1180年)当時福原京にいた藤原光能を文覚が訪れ、頼朝公の上奏を後白河法皇に取りつぎ清盛公追討の院宣を出させるように迫ったとの伝聞を記していますが、『愚管抄』の筆者(慈圓僧正)はこれを否定しています。
一度は逆鱗にふれ伊豆に流された文覚ですが、後白河法皇に敬愛の念をいだいていた節があり、治承二年(1179年)平清盛公が法皇を幽閉したのを憤り、(院宣の有無はさておき)頼朝公に平家打倒を督促したという見方もあるようです。
寿永元年(1182年)後白河法皇の蓮華王院御幸の折、文覚は推参して直訴し、ついに正式に法皇の御裁許を得ました。
法皇は翌年、荘園を寄進せられ、寿永三年(1184年)には頼朝公も丹波国宇都荘ほかを寄進、文覚の神護寺再興はここに成ったともいいます。
『吾妻鏡』には、寿永元年(1182年)頼朝公の命により文覚が江ノ島の岩屋に弁財天を勧請とあるので、頼朝公の支援を得て東国でもいくつかの寺院を開創している可能性があります。
元暦二年(1185年)、今後の神護寺のあり方を定めた『(文覚)四十五箇條起請文』を起草して法王に上奏しました。
その内容は強訴を是認する内容を含むものでしたが、法王はこれを咎めることはなかったともいわれ、文治六年(1190年)には高雄山寺に法皇の御幸がありました。
文覚は神護寺復興と並行して東寺の復興、高野山大塔の復興にも関わったとされています。
建久三年(1192年)後白河法皇が崩御され、正治元年(1199年)に頼朝公が没すると文覚はその後ろ盾を失いました。
建久九年(1198年)、権大納言源(土御門)通親は文覚が東寺講堂の諸仏を勝手に動かしたとして咎め、佐渡に流しました。
この流罪はいわゆる「三左衛門事件」に絡むものとみられています。
この事件は正治元年(1199年)頼朝公逝去の直後、遺臣・一条能保・高能父子が源通親の襲撃を企てたとして逮捕された事件です。
外孫・土御門天皇を擁立して権勢を手にした源通親は、頼朝公の嫡子・頼家公の左中将昇進の手続きを強引に進めたところ騒動となり、後藤基清・中原政経・小野義成が頼家公の雑色に捕らえられ、文覚も検非違使に身柄を引き渡され、佐渡へ配流となりました。
しかし、「三左衛門事件」の連座で佐渡配流はいささか罪科が重すぎる感じがあります。
それに文覚佐渡配流は建久九年(1198年)、「三左衛門事件」は正治元年(1199年)とされるので、文覚の佐渡配流は「三左衛門事件」より前で、別の理由も考えられます。
Wikipediaには「『延慶本平家物語』には文覚が守貞親王擁立を企て、頼朝に働きかけたが実現しなかったという記述がある。(中略)通親に対する守貞親王派の不満が噴出したもので、頼朝死後の幕府首脳部は後鳥羽上皇との関係改善のために、守貞親王派の持明院家、一条家、文覚を切り捨てたのではないかと推測」「文覚の勧進事業で寄進されていた神護寺領が事件後に後鳥羽上皇に没収され、承久の乱で後鳥羽上皇が配流されると、今度は鎌倉幕府を介してその所領を与えられた後高倉院(守貞親王)が直ちに上覚(文覚の弟子で師の没後に神護寺再建の中心人物となった)へ返還されていることから、文覚を首謀者とする守貞擁立構想は実際に存在したとする見解も」などの記述があります。
文覚が守貞親王擁立を企て失敗して佐渡へ配流という説もあるようで、この説の方が遠流という重罪に見合っている感もありますが、真相は闇のなかです。
頼朝公は建久六年(1195年)あたりから息女・大姫の入内(後鳥羽天皇への輿入れ)を源通親と丹後局(後白河帝の側室)に画策しましたが、 建久八年(1197年)夏の大姫逝去によりその企ては潰えました。
このあたりの機微にも文覚が絡んでいたのかもしれません。
また、源通親は後白河天皇の第六皇女・宣陽門院の領する広大な長講堂領を実質的に管理していたとみられ、長講堂領を巡るさまざまな駆け引きに文覚が一枚噛んでいたのかも。
佐渡配流3年後の建仁元年(1202年)源通親が没すると、文覚は許されて京に帰りましたが、その間に文覚が保護していた平高清公(六代御前)が処刑されたため、文覚佐渡配流と六代御前処刑の因果関係を示唆する説もあります。
【文覚と平高清公(六代御前)】
寿永二年(1183年)、源義仲の攻勢を受けて平氏が都落ちをしたとき、平維盛公は妻子を都に残して西走しました。
維盛公の嫡子・高清公(六代御前、平正盛公から直系六代目で清盛公の曾孫)は母(藤原成親の息女、新大納言局)とともに京の大覚寺北に潜伏していましたが、平氏滅亡後の文治元年(1185年)に北条時政の捜索で捕らえられました。
平家の嫡流ゆえ、鎌倉に送られて斬首となるところ、文覚の助命嘆願が功を奏して処刑を免れ、身柄は文覚に預けられたといいます。
文治五年(1189年)六代御前は剃髪して妙覚と号し、建久五年(1194年)には文覚の使者として鎌倉を訪れ、大江広元を通じて鎌倉府に対して異心ないことを伝えました。
頼朝公は平治の乱後、六代御前の祖父・平重盛公が自身の助命に尽力してくれた恩として、六代御前をしかるべき寺の別当に任命しようと申し出たと伝わります。
(文覚は、六代御前を神護寺に保護したという説あり。)
六代御前は頼朝公-文覚上人の保護下にありましたが、正治元年(1199年)頼朝公逝去からほどなく処刑されたことになります。
なお、逗子市桜山8丁目に六代御前の墓と伝えられる塚があり、逗子市史跡指定地となっています。
【文覚と頼朝公の関係】
頼朝公は大江広元・中原親能はもとより、九条兼実、源通親ら有力公卿との関係も築き、朝廷ないし後白河法皇とのとりもち役として文覚を頼ったとは考えにくいです。
頼朝公は尊大な人物やアクの強い武将をしばしば粛清しており、この流れからすると個性が強すぎる文覚はすぐにも逆鱗にふれそうです。
また、文覚が保護した六代御前は平家嫡流の遺児ですから、猜疑心の強い頼朝公であれば平家再興の芽を摘むために真っ先に抹殺しているはずです。
ところが文覚も六代御前も頼朝公存命中は咎を受けず、むしろ頼朝公が保護していた感があります。
となると、頼朝公が損得勘定を度外視して文覚に惹かれるなにか、たとえば人間的な魅力とか、卓越した験力とか、そういうものが文覚には備わっていたのかもしれません。
【文覚と後鳥羽上皇】
建仁二年(1202年)「三左衛門事件」に連座して佐渡に配流されたという文覚を赦免し、召還したのは後鳥羽上皇とも目されます。
文覚は後鳥羽院政下で一時はポジションを得たともみられますが、建仁三年(1203年)後鳥羽上皇によって対馬国へ流され、途中、鎮西で客死したとも伝わります。
文覚対馬配流の理由については「文覚が上皇に暴言を吐き怒りを買った」「上皇より謀叛の疑いをかけられた」「文覚が後鳥羽上皇の政を批判した」などいろいろな説が見られますが定説はないようです。
後鳥羽天皇はすこぶる多才で果断な人物と伝わり、同様の個性をもつ文覚とはどうしても感情的に相容れなかったのかもしれません。
文覚の墓所とされる場所は神護寺裏山山頂のほか、隠岐や信州高遠など全国各地にあり、怪僧文覚の神出鬼没ぶりがうかがわれます。
晩年の文覚の活動はさながら「政僧」の趣で、その活動と人脈はあまりに複雑で整理がつかなくなるのですが、後ろ盾だった後白河法皇が没し、正治元年(1199年)に頼朝公が没するとその立場はきわどいものとなったことは容易に想像がつきます。
そして後鳥羽院政下で、その力を失ったことになります。
後白河法皇、後鳥羽上皇、源頼朝公、そして平家嫡流六代御前・・・。
動乱の時代をきらびやかな人脈のなかで生きた文覚は、『平家物語』の数々の名場面でも描かれ、その強烈な個性もあいまっていまも歴史のなかで光芒を放っています。
ながながと辿ってきましたが、源頼朝公開基、文覚上人開山とも伝わる補陀落寺は源平騒乱の歴史に彩られています。
『吾妻鏡』には、寿永元年(1182年)頼朝公の命により文覚が江ノ島の岩屋に辨財天を勧請とあるので、養和元年(1181年)創建の補陀落寺は江ノ島に先立つ開山とみられます。
養和元年(1181年)は、前年の富士川の戦いで平家軍と干戈を交え、これから平家軍との本格的な戦いがはじまるというタイミングです。
この時点での頼朝公の「祈願」が平家調伏、源氏戦捷であったことは容易に想像できるところで、これは『新編相模国風土記稿』の補陀落寺の項に「本尊不動(長三尺智證作、平家調伏の像と云ふ)」「卓圍(祭壇布)一張 頼朝の寄附にて、平家調伏の打敷(仏壇の荘厳具)と云ふ」とあることからも裏付けられます。
江の島岩屋の辨財天も、養和二年(1182年)頼朝公の奥州藤原氏征伐祈願のために文覚が勧請という縁起が伝わり、文覚による祈祷はいずれも験を顕したことになります。
このような文覚の験力も、頼朝公の信任を高めたとみられます。
補陀落寺の梵鐘(観応元年(1350年)鋳造)は、いまは松岡(北鎌倉)の東慶寺にあり、これは農民が当地の土中から掘り出したものといいます。
また、東慶寺の旧梵鐘は、韮山の日蓮宗本立寺にあるといいます。
材木座の補陀落寺の梵鐘が、かなり離れた松岡(北鎌倉)の土中から掘り出されるとは不思議なはなしですが、とにかくそういうことになっています。
東慶寺の梵鐘
また、当山の鎮守・寶満菩薩像(見目明神)は、五社神社と所縁をもつともいわれています。
いまは住宅地のなかにひっそりと佇む補陀落寺ですが、文覚を巡る物語や鎌倉幕府草創の歴史に思いを馳せ、巡ってみるのもまた一興ではないでしょうか。
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【史料・資料】
■ 『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
補陀落寺は南向山帰命院と号す 材木座の東、民家の間にあり。
古義の真言宗にて、仁和寺の末寺なり。開山は、文覺上人なり。
勧進帳の切たるあり。首尾破れて、作者も年号も不知。其中に文覺、鎌倉へ下向の時、頼朝卿、比来の恩を報ぜんとて、此寺を立られしとあり。
其後頽廃せしを、鶴岡の供僧頼基中略せしとなり。(中略)
本尊薬師・十二神、運慶作也。文覺上人の位牌あり。開山権僧正法眼文覺尊儀とあり。頼朝の木像あり。鏡の御影と云ふ。白旗明神と同じ體なり。同位牌あり。征夷大将軍二品幕下頼朝神儀とあり。
寺寶
八幡画像壱幅 束帯にて袈裟をかけ、数珠を持つしむ。冠より一寸ばかり上に日輪をゑかく。
寶満菩薩像一軀 八幡の姨なり。鶴岡にもあり。社家にては見目明神(ミルメ)と云ふ。
平家調伏の打敷壱張
平家赤旗壱流 幅二布、長三尺五分あり。九萬八千軍神と、書付てあり。(中略)
鐘楼跡
今跡のみ有て鐘もなし。当寺の鐘は、松岡東慶寺にあり。農民、松岡の地にて掘出したりと云ふ。銘を見れば、当寺の鐘なり。兵乱の時、紛散したるなるべし。
●東慶寺(松岡)
鐘楼
山門外、右にあり。此寺の鐘は、小田原陣の時失して、今有鐘は、松岡の領地にて、農民ほり出したりと云う。銘を見るに補陀落寺の鐘なり。故に此鐘の銘は補陀落寺の條下に記す。
■ 『新編相模国風土記稿』(国立国会図書館)
(材木座村)補陀落寺
南向山帰命院と号す 古義真言宗 往昔京都仁和寺に属せしが、今は手廣村青蓮寺末たり 開山は文覺にて養和元年(1181年)頼朝祈願所として創建あり
按ずるに、当寺に勧進帳の切あり、首尾破れて詳ならず、其中に文覺鎌倉へ下向の時、頼朝比来の恩を報ぜんとて、此寺を建られしとあり、思ふに此勧進帳の文は、中興の僧、頼基の作なるべし
其後頽廃せしを鶴岡の供僧頼基(鶴岡供僧次第に、佛乗房浄國院頼基大夫法印、文和四年(1355年)二月二日寂す、千田大僧都と号すとあり)中興せり(中略)
本尊不動(長三尺智證作、平家調伏の像と云ふ、按ずるに、【鎌倉志】には、本尊薬師とあり)及び薬師(長三尺七寸行基作)日光・月光・十二神(長各二尺八寸、共に運慶作)十一面観音(長三尺八寸許行基作、往昔の本尊なりと云ふ)地蔵二軀(一は鐡佛、長一尺許、門前の井中より出現せしと云ふ、一は弘法作、長一尺七寸)大黒(長尺許傳作)大日(長八寸許)賓頭盧(長三尺已上弘法作)等の像を置く、又頼朝の木像あり(長八寸許四十二歳の自作と云ふ)鏡の御影と称せり、同位牌あり 征夷将軍二品幕下神儀とあり文覺の書と云ふ)開山文覺の牌もあり(開山権僧正法眼文覺尊儀とあり)
【寺寶】
八幡画像一幅 束帶にて袈裟をかけ、數珠を持しむ、冠より一寸ばかり上に、日輪を畫
寶満菩薩像一幅 應神帝の姨にて、見目明神と称すとなり
卓圍(祭壇布)一張 頼朝の寄附にて、平家調伏の打敷(仏壇の荘厳具)と云ふ、孔雀鳳凰の繍文あり
旗一流 平家赤旗と称し、文字は相國清盛の筆と傳ふ(中略)
牛頭天王見目明神合社 大道寺源六周勝社領二貫三百文及び寺内修補の料を寄附せし事所蔵文書に見えたり
住吉社
鐘楼蹟
𦾔観應年間の古鐘あり。兵乱の為に亡失せしを後松岡ヶの農民地中より掘出し同所東慶寺に収むと云ふ。今尚あり。
■ 『鎌倉市史 社寺編』(鎌倉市)(抜粋)
南向山帰命院補陀落寺と号する。古義真言宗。もと京都仁和寺末。のち青蓮寺末。現在京都大覚寺末。開山は文覚上人、開基は源頼朝と伝える。後、鶴岡八幡宮供僧頼基が中興した。
本尊、十一面観音。もとの本尊は薬師如来。日光・月光、ほかに不動明王あり。
境内地163坪。本堂・門・庫裏あり。(中略)
開基は仏乗坊の八代及び十代で、建武三年六月に還補されているから、この寺の鐘ができた観応元年(1350年)には供僧であったこととなる。(中略)
『新編鎌倉志』は鐘銘及び寺号によって、本尊は観音であったはずであるといっている。
従うべきであろう。(中略)
当寺が頼朝と関係があることは前述の勧進帳に見えるのを初見とするが(中略)頼朝の供養をここですることになっていたらしい。(中略)
明治初年の火災で殆ど烏有に帰したが、その時誰も出した覚えがないのに、仏像類は全部無事であったという。大正十二年震災で全壊し、現在の本堂は大正十三年の建立である。
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材木座の巨刹、光明寺にもほど近い住宅街にあります。
【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 石碑
山内入口に門柱で、その手前に「源頼朝公御祈願所●●補陀落寺」と彫られた石碑があります。
【写真 上(左)】 門柱
【写真 下(右)】 山内
山内は広くはないですが閑雅な落ち着きがあり、「荒法師開山」のイメージはあまりありません。
【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 本堂
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 寺号板
本堂はおそらく切妻造桟瓦葺平入りで、右手に寄せて流れ向拝を置いています。
向拝の柱や虹梁はシンプルですが、向拝柱に寺号標を掲げています。
【写真 上(左)】 庫裏への道
【写真 下(右)】 同 紫陽花
御朱印は庫裏にて拝受しました。
鎌倉三十三観音霊場、相州二十一ヶ所霊場、新四国東国八十八ヶ所霊場いずれの御朱印も拝受していますが、現況の授与状況は不明です。
〔 補陀落寺の御朱印 〕
【写真 上(左)】 弘法大師の御朱印(ご縁日)
【写真 下(右)】 鎌倉三十三観音霊場の御朱印
【写真 上(左)】 相州二十一ヶ所霊場の御朱印
【写真 下(右)】 新四国東国八十八ヶ所霊場の御朱印
44.円龍山 向福寺(こうふくじ)
公式Web
鎌倉市材木座3-15-13
時宗
御本尊:阿弥陀三尊
司元別当:
札所:鎌倉三十三観音霊場第15番
向福寺は一向俊聖上人開山と伝わる時宗寺院です。
公式Web、下記史料・資料、現地掲示から縁起沿革を追ってみます。
向福寺は弘安五年(1282年)、開山を一向俊聖上人として創建されました。
一向俊聖上人(1239年?-1287年?)は、鎌倉時代の名僧で時宗一向派の祖です。
儀空菩薩とも呼ばれます。
「新纂 浄土宗大辞典」および「Wikipedia」を参考にその足跡を追ってみます。
伝承によれば、筑後国竹野荘西好田(福岡県久留米市)の御家人草野永泰の次男として生まれたといいます。
永泰の兄草野永平は浄土宗鎮西派の聖光上人(弁長)に帰依し、建久三年(1192年)に久留米善導寺を建立した大檀越でした。
寛元三年(1245年)、播磨国書写山圓教寺に入寺して天台教学を志し、建長五年(1253年)に剃髪受戒して名を俊聖としました。
翌年夏に書写山を下り、奈良興福寺などで修行されるも悟りを得られず、鎌倉蓮華寺(光明寺)の然阿良忠上人の門弟となりました。
一向専念の文より号を一向と改め、文永十年(1273年)から各地を念仏聖として遊行回国し、踊り念仏(踊躍念佛)、天道念仏(天童念佛)を修して道場を設けました。
後年は遊行と踊り念仏で民衆を教化し、弘安一〇年(1287年)11月、近江国番場蓮華寺(滋賀県米原市)で立ち往生したと伝わります。
俊聖上人の教えは時宗一向派(天童派)として各地に広く伝わったため伝承も多く、ナゾの多い僧ともいわれます。
実在していないという説さえありましたが、近年山形県天童市の高野坊遺跡より出土した墨書の礫石経により、その実在が立証されています。
ただし、法統については諸説あり、浄土宗鎮西義の然阿良忠上人のほか、浄土宗西山深草派西山三派の祖・証空門下の顕性に師事したという説もあります。
一向俊聖上人を祖とする(時宗)一向派は時宗十二派の一つで、番場時衆、時宗番場派とも呼ばれ、本山は番場蓮華寺(滋賀県米原市)です。
「一向派」の呼称は、元禄一〇年(1697年)成立の時宗触頭・浅草日輪寺吞上人著の『時宗要略譜』が初見とされます。
『一向上人血脈譜』によると、上人には「十五戒弟」と称する弟子があり、東北、関東、甲信越を中心に布教をすすめて全盛期には末寺一七四箇寺を数えたといいます。
とくに山形県天童市の仏向寺は一向俊聖上人開山で、番場蓮華寺とならぶ中心寺院となっています。
江戸幕府の宗教政策により時宗遊行派の傘下に編入され、派内の本末論争などもあって衰勢となりました。
当初「一向宗」とし、江戸時代に「時宗」に吸収されたとする資料もみられます。
「新纂 浄土宗大辞典」には、明治36年時宗内で一向派の立場を認める『時宗宗憲宗規』が制定されましたが、昭和16年の一宗一管長制により、翌17年には一向派97箇寺中57箇寺が時宗より浄土宗に転宗、残る41箇寺は時宗にとどまったとあります。
向福寺は、おそらく時宗一向派(あるいは一向宗)から時宗となった寺院のひとつとみられます。
公益財団法人住友財団の公式Webによると、御本尊の阿弥陀三尊木像は中世(現地掲示資料では南北朝時代)作。檜材、割矧ぎ造ないし寄木造りで玉眼を嵌入しています。
脇侍の観世音菩薩、勢至菩薩とともに鎌倉市指定文化財に指定されています。
また、『鎌倉札所巡り』(メイツ出版)・現地掲示によると、当山本堂南側の部屋は、『丹下左膳』で知られる作家・林不忘(長谷川海太郎、1900年-1935年)が関東大震災前に新婚生活を送ったところです。
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【史料・資料】
■ 『新編相模国風土記稿』(国立国会図書館)
(乱橋村)向福寺
圓龍山と号す 本寺前に同じ(藤澤清浄光寺末) 本尊三尊彌陀を安ず 各立像、安阿彌作
■ 山内掲示(鎌倉市)
公式Webと重複するため略。
■ 『鎌倉市史 社寺編』(鎌倉市)(抜粋)
円龍山向福寺と号する。時宗。藤沢清浄光寺末。
開山、一向。
本尊、阿弥陀如来。
境内地229.7坪。本堂兼庫裏あり
『大正三年明細書』によれば文政九年に再建した本堂・表門があったが、大正大震災で全潰した。今の本堂は昭和五年の再建である。
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小町大路「水道路」交差点から少し南下した右手の路地沿いにあり、あまり目立ちません。
門柱に「時宗 向福寺」となければ、ほとんど民家にしか見えません。
【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 門柱の寺号標
山内は緑が多く、植木鉢もきれいに並べられています。
参道正面の本堂は入母屋造銅板で身舎右手に向拝を附設しています。
本堂は庫裏とつながり、一見寺院建築のイメージはあまりありません。
【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 本堂
向拝は水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、中備に板本蟇股を置いています。
ここまでくるとさすがに寺院本堂の存在感があります。
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 観音霊場の札所板
ガラス格子の扉のうえに鎌倉三十三観音霊場の札所板を掲げています。
文政九年(1826年)再建の本堂は大正の関東大震災で全潰し、いまの本堂は昭和五年の再建とのことですが、そこまで古びた感じはないので手を入れられているかもしれません。
観音堂はなく、本堂向拝に札所板が掲げられているので、鎌倉三十三観音霊場第15番の札所本尊・聖観世音菩薩立像は、御本尊の阿弥陀三尊とともに本堂内に奉安とみられます。
御朱印は庫裏にて拝受しました。
御本尊と鎌倉三十三観音霊場の御朱印を授与されています。
〔 向福寺の御朱印 〕
【写真 上(左)】 御本尊・阿弥陀如来の御朱印
【写真 下(右)】 鎌倉三十三観音霊場の御朱印
→ ■ 鎌倉市の御朱印-15 (B.名越口-10)へつづく。
【 BGM 】
■ Hearts - Marty Balin
■ If I Belive - Patti Austin
■ Late At Night - George Benson Ft. Vickie Randle
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