関東周辺の温泉入湯レポや御朱印情報をご紹介しています。対象エリアは、関東、甲信越、東海、南東北。
関東温泉紀行 / 関東御朱印紀行
■ 鎌倉市の御朱印-16 (B.名越口-11)
■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 同-2 (A.朝夷奈口)
■ 同-3 (A.朝夷奈口)
■ 同-4 (A.朝夷奈口)
■ 同-5 (A.朝夷奈口)
■ 同-6 (B.名越口-1)
■ 同-7 (B.名越口-2)
■ 同-8 (B.名越口-3)
■ 同-9 (B.名越口-4)
■ 同-10 (B.名越口-5)
■ 同-11 (B.名越口-6)
■ 同-12 (B.名越口-7)
■ 同-13 (B.名越口-8)
■ 同-14 (B.名越口-9)
■ 同-15 (B.名越口-10)から。
47.法華山 本興寺(ほんこうじ)
鎌倉公式観光ガイドWeb
鎌倉市大町2-5-32
日蓮宗
御本尊:三宝祖師(『鎌倉市史 社寺編』)
司元別当:
札所:
本興寺は、大町二丁目の歴史ある日蓮宗寺院です。
鎌倉公式観光ガイドWeb、下記史料・資料から縁起沿革を追ってみます。
本興寺は、延元元年(1336年)「九老僧」の一人天目上人が開基建立し、日蓮聖人が辻説法の途中に休息された地に因んで「休息山本興寺」を号しました。
永徳二年(1382年)、2世日什上人が法華山と改め、開山は日什上人とされています。
日蓮聖人の鎌倉辻説法の由緒地・大町にあるため「辻の本興寺」とも呼ばれます。
当山は宗派的に複雑な変遷をたどっています。
開山・美濃阿闍梨天目上人(1256-1337年)は、日蓮六老僧・日朗上人の弟子「九老僧」の一人で日盛、上法房とも称します。
法華山 本興寺(横浜市泉区)公式Webには
「天目上人は、法華経二十八品のうち、前半十四品の迹門と後半十四品の本門では説相が異なると「迹門不読説」を主張しており、天目上人の弟子達も同じ主張をしておりましたが、日什門流の開祖である日什大正師の教化にふれ改派に至りました。」とあります。
この記述は「本迹勝劣」の概念がわからないと理解できません。
ただし、「本迹勝劣」は法華宗の本義にかかわる重要なことがらなので、Wikipediaの内容に従って概略のみまとめてみます。
・所依の法華経を構成する二十八品(28章)は前半の「迹門」、後半の「本門」に二分される。
・二十八品全体を一体のものとして扱うべきとするのが一致派。(釈尊を本仏とする)
・「本門」に法華経の極意があるとするのが勝劣派。
・勝劣派は「釈尊を本仏とする勝劣派」と「日蓮聖人を本仏とする勝劣派」に分かれる。
・「勝劣五派」とは、日興門流(富士門流、興門派)、日什門流(妙満寺派)、日陣門流(本成寺派)、日隆門流(八品派)、日真門流(本隆寺派)をさす。
天目上人は「迹門不読説」を唱えられ、当山2世の日什上人は「釈尊を本仏とする勝劣派」の日什門流の流祖です。
日什上人(1314年-1392年)について、京都妙満寺公式Webには以下のとおりあります。
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19歳で比叡山に登られ「玄妙」と号され、38歳の時には三千人の学僧の学頭となり、「玄妙能化」と称されました。
故郷の会津に戻られた日什上人は66歳のとき、日蓮聖人の御書『開目抄』『如説修行鈔』に触れられ、直ちに日蓮聖人を師と仰ぎ、名を「日什」と改められました。
下総中山の法華経寺にこもられ、不惜身命の布教を誓われた日什上人は、永徳元年(1381)京に上られ関白・二条良基卿と対面し、「洛中弘法の綸旨」と「二位僧都」の官位を賜わりました。
関東でも、関東管領・足利義満公などに諌暁を繰り返され、宗旨と修行の方軌を示されて日什門流を開かれました。
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日什門流は顕本法華宗(総本山・妙満寺)につながり、顕本法華宗の宗祖は日什上人です。
「鎌倉市史 社寺編」によると、天正十九年(1591年)、徳川家康公は当山に寺領五百五十文を寄進しています。
文明十三年(1481年)、当山16世日泰上人は大旦那酒井清伝によって堂を建立とありますが、「千葉市Web資料」によると酒井清伝は上総国土気の武将です。
Wikipediaには「上総酒井氏の祖は酒井清伝と称される人物で、この人物については、16世紀の東金城主酒井胤敏および土気城主酒井胤治が揃って酒井氏の祖として清伝の名前を挙げている。」とあるので、上総酒井氏の祖(酒井定隆?)とみられます。
酒井清伝(定隆)は法華宗(妙満寺派)の日泰上人に帰依した熱心な法華宗信者で、上総北部の平定後数年で領内のほとんどの寺院を法華宗へと改宗させた(上総七里法華)とする伝説があります。
「上総七里法華」は、江戸時代初期に不受不施を唱えた寺院があるといいます。
永禄二年(1559年)、清伝の子酒井胤治とその子政茂も当山を修造、その費用寄進者には生実御所・足利高基の室もいて、造営のため奥州や越中からも僧が鎌倉に来たとあるので、「上総七里法華」が主体となって大々的に改修が行われたのでは。
『鎌倉市史 社寺編』はまた、当山27世から妙満寺27世となった(Wikipedia)日経上人は、慶長の初年(1596年-)に倒壊した堂を慶長四年(1599年)再興したと記しています。
しかし慶長十三年(1608年)、日経上人は「不受不施」を説いたため、江戸幕府より弾圧を受けました。(慶長の法難)
不受不施派は以降も幕府の厳しい詮議を受けたため、万治三年(1660年)当山30世日顕上人により鎌倉郡飯田村に寺基を移したのが、現在の横浜市泉区上飯田町の本興寺といいます。
寛文十年(1670年)、比企谷妙本寺照幡院日逞上人が宗祖辻説法旧地の衰退を嘆き、徳川家より寺領の寄付を受けて、鎌倉の辻の旧地に本興寺を再興したといいます。
日什門流は「釈尊を本仏とする勝劣派」、妙本寺は日朗門流(比企谷門流)で「釈尊を本仏とする一致派」とされますから、複雑な門流を経由していることがわかります。
なお、日什門流の名刹・飯田本興寺は顕本法華宗本山でしたが、明治政府の宗教政策により日蓮宗と合同し、現在も日蓮宗本山(由緒寺院)の寺格を誇っています。
寛文十年(1670年)といえば将軍家綱公の治世。
名刹妙本寺の末寺で家綱公のお墨付きを得たとなれば、江戸時代の寺院経営は安定していたとみられ、明治の神仏分離も乗り切って、「辻の本興寺」の名跡をいまに伝えています。
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【史料・資料】
■ 『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
(大町村)本興寺
辻町にあり、法華山と号す 本寺前に同じ(妙本寺末)、古は京妙満寺の末なりしが、中興の後今の末となると云ふ
本尊三寶祖師を安ぜり、開山を日什(明徳三年(1392年)二月廿八日寂す)中興を日逞と云ふ(延寶三年(1675年)五月十七日寂す)天正十九年(1591年)十一月寺領五百五十文の御朱印を賜へり
■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
法華山本興寺と号する。日蓮宗。もと妙本寺末。
開山、日什。中興開山、日逞
本尊、三宝祖師
境内地523.82坪。本堂・庫裏・太子堂・渡廊下・山門あり。
もと京都の妙満寺末。日什は明徳三年(1392年)二月廿八日寂、日逞は延寶三年(1675年)五月十七日寂。
天正十九年(1591年)十一月、徳川家康は寺領五百五十文を寄進した。
文明十三年(1481年)六月、当寺十六世日泰は大旦那酒井清伝によって、堂を建立した。(中略)
清伝の子酒井胤治とその子政茂が、永禄二年(1559年)修造した。この時の住持は日芸である。
修理の費用は胤治をはじめその一族がだしたが、その中には生実御所足利高基の室もいて(中略)造営のためには奥州や越中からも僧が鎌倉に来ている。
慶長の初年(1596年-)に再び倒壊した堂を復興するため、日経が僧俗にすすめて(中略)慶長四年(1599年)再興した。
■ 山内掲示(縁起碑)
本興寺略縁起 日蓮大聖人 辻説法之𦾔地
日蓮大聖人鎌倉御弘通の当時 此の地点は若宮小路に至る辻なるにより 今猶辻の本興寺と称す 御弟子天目上人聖躅を継いで又此地に折伏説法あり 實に当山の開基なり 後年日什上人(顕本法華宗開祖)留錫せられ 寺観大いに面目を改む 常楽院日経上人も亦 当寺の第廿七世なり
■ 法華山 本興寺(横浜市泉区)公式Webより
本興寺は、日蓮大聖人の直弟子である天目上人が鎌倉に開創したお寺です。
大聖人が辻説法の途中、休息された地として、『休息山本興寺』と称していました。
天目上人は、法華経二十八品のうち、前半十四品の迹門と後半十四品の本門では説相が異なると「迹門不読説」を主張しており、天目上人の弟子達も同じ主張をしておりましたが、日什門流の開祖である日什大正師の教化にふれ改派に至りました。
その後、弘和2年(1382年)に『法華山 本興寺』と改称しました。
以後、日什大正師を当山の事実上の開祖としております。
また、現在本興寺のある飯田は、弘安5年(1282年)に日蓮大聖人が池上でご入滅後、ご遺骨を身延に奉じる途次、10月20日頃にご一泊された地と伝えられています。
(中略)
万治3年(1660年)に現在の地(泉区上飯田町)にお寺の一切を移されたとされています。
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小町大路が横須賀線を渡る踏切のすぐ北側に参道があり、山内北側は旧車小路に面しています。
参道入口には「日蓮大聖人辻説法之𦾔地」の石碑(縁起碑)が建っています。
【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 縁起碑
【写真 上(左)】 寺号標
【写真 下(右)】 山門
山門手前左手にお題目が刻まれた寺号標。
山門は切妻屋根桟瓦葺の四脚門で、門柱は朱塗りの丸柱です。
【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 本堂
【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 飾り瓦
山内正面が入母屋造桟瓦葺流れ向拝の整った意匠の本堂。
軒上の飾り瓦の獅子の表情がいい味を出しています。
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 鎮守?
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に板蟇股を置いています。
向拝正面は端正な唐桟戸。
山内に御鎮座の朱塗りの一間社流造のお社と石祠は当山鎮守でしょうか。
御首題は、参拝時本堂前におられたご住職からこころよく授与いただけましたが、こちらやこちらの記事によるとご不在が多そうです。
〔 本興寺の御首題 〕
48.由比若宮(鶴岡八幡宮元宮・元鶴岡八幡宮)(ゆいのわかみや)
鎌倉公式観光ガイドWeb
鎌倉市材木座1-7
御祭神:応神天皇
※■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-1でも触れています。
由比若宮は鶴岡八幡宮の元宮で、頼朝公や鎌倉幕府にとってすこぶる重要な神社です。
鎌倉公式観光ガイドWeb、下記史料・資料から縁起沿革を追ってみます。
康平六年(1063年)源頼義公が、奥州安倍氏征伐(前九年の役)にあたり、京の石清水八幡宮に戦捷を祈願されました。
征伐が成り京に帰る帰途、鎌倉に立ち寄られ由比郷鶴岡に源氏の守り神である石清水八幡宮の御祭神を勧請されて創祀といいます。
永保元年(1081年)には、頼義公の子八幡太郎義家公が修復したとも伝わります。
治承四年(1180年)10月7日(11日とも)、鎌倉に入られた源頼朝公は、まず由比郷の鶴岡八幡宮を遙拝され、そののちに鎌倉の経営に着手したといいます。
同月11日、(伊豆山)走湯山の専光坊良暹が鎌倉に到着すると、12日には小林郷北山に建てた宮廟に(由比郷の)鶴岡八幡宮を遷し、同時に良暹を当座の別当としました。
これが現在の若宮(下宮)の始まりで、頼朝公は同社を「鶴岡八幡新宮若宮」と称されました。
つまり、康平六年(1063年)源頼義公創祀の(由比郷)鶴岡八幡宮を、治承四年(1180年)10月に源頼朝公が現在の若宮(下宮)に御遷座ということになります。
【 由比元宮と鶴岡八幡宮の関係 】
両社の関係については、史料によりニュアンスが異なりますが、だいたいつぎのとおりです。
・康平六年(1063年)源頼義公が(由比郷)鶴岡八幡宮を創祀。
・治承四年(1180年)鎌倉に入られた頼朝公が(由比郷)鶴岡八幡宮を今の若宮(下宮)の地に御遷座。
・(由比郷)鶴岡に御鎮座だったが、小林郷北山(現社地)に遷したのちも「鶴岡」を号した。
・建久二年(1191年)11月、若宮(下宮)の上方の地に建てた本宮社殿に石清水八幡宮の御神体を勧請。若宮及び末社等の遷宮も行われた。
『新編相模國風土記稿』の「(山之内庄 鶴岡 五)下ノ宮」の條に意味深な記述があります。
それは「社僧が語った」という内容で、頼義公が由比郷に祀った鶴岡八幡宮は石清水八幡宮からの勧請ながら、私の勧請だったので「別宮」の意味で「若宮」と称している。
これに対して(鶴岡八幡宮)上宮は、頼朝公が勅許を得て(公式に)勧請されたので直に「八幡宮」と称しているというのです。
また、下宮の神躰を上宮に遷して下宮は空殿となったところ、後世「若宮」の称に因んで(応神帝/誉田別命)の御子の仁徳帝(大鷦鷯命)を勧請せしめたとも。
これに対して『新編相模國風土記稿』の著者は、【東鏡】によると建久二年3月に若宮以下火災に罹りしとき、新たに上宮を造立、若宮および末社等もことごとく再建されて10月には上下両宮ともに(石清水八幡宮)から遷宮ありとあるので、「下宮は空殿となった」というのは誤謬であると断じています。
しかし、康平六年(1063年)源頼義公の勧請を多くの史料・資料が「潜かに(ひそかに)」と記しているのは、上記の社僧の「私の勧請」という説明とニュアンスが重なります。
由比元宮と鶴岡八幡宮の関係がわかりにくくなっているのは、「別宮」「新宮」「若宮」の意味が錯綜しているためと思われます。
たとえば「別宮」・「若宮」は、「本宮」(石清水八幡宮)から私に勧請した宮の意で使われています。
「新宮」は「本宮」からの分社で「若宮」も同じ意味に用いられることがあるといいます。
また、八幡社では「本宮」の御祭神・誉田別命(応神帝)に対し「若宮」では御子の仁徳帝(大鷦鷯命)を祀る例が多くみられます。
頼朝公が由比郷から小林郷に遷座された八幡宮を「鶴岡八幡新宮若宮」と称したことが混乱のもととも思えますが、『鎌倉市史 社寺編』に記されている「由比郷に勧請されていた石清水八幡宮の分社のまた分社として鶴岡八幡新宮若宮と称したのであろう。」という見解がわかりやすいように思えます。
この考えをとると、由比郷鶴岡の八幡宮は「鶴岡八幡本宮若宮」になるかとも思いますが、これを記した史料は存在しない模様です。
【 由比若宮の御祭神 】
由比若宮の御祭神を記した史料や公的資料はほとんどありませんが、境内縁起書には「祭神 応神天皇」とあります。
しかし、Web記事ではつぎのふたつの記載がみられます。
1.応神天皇
2.応神天皇、比売神、神功皇后
康平六年(1063年)、源頼義公が由比郷鶴岡に勧請されたのは石清水八幡宮です。
このとき勧請された御祭神は、つぎの2パターンが考えられるので、ここから↑の2説が出てきているかと思います。
1.石清水八幡宮の中御前御祭神:誉田別命(応神天皇)
2.石清水八幡宮の八幡三所大神
(中御前:誉田別命(応神天皇)、西御前:比咩大神(比売神)、東御前:息長帯姫命(神功皇后))
いずれにしても主祭神は応神天皇ですから、この時点では「若宮」は称せず、由比郷鶴岡に御鎮座の八幡宮ということで「鶴岡八幡宮」を称したのではないかと思いました。
しかし、そうではないかもしれません。
石川県白山市若宮に源頼義公建立と伝わる若宮八幡宮があります。
石川県神社庁のWeb資料によると、こちらの御祭神は応神天皇で、由緒に「康平6年(1063)鎮守府将軍 源頼義の建立と言われる。源頼義が奥州を平定し、石清水八幡宮を相州鎌倉郡由比郷鶴岡の地に勧請し、次いでこの加賀松任の地に国守富樫介に造営を命じ」とあります。
由比若宮と同年に源頼義公が建立し、おそらく石清水八幡宮からの勧請で御祭神は応神天皇。そして社号は「若宮八幡宮」です。
こちらの「若宮」の社号は「本宮(石清水八幡宮)から勧請した『若宮』」から来ているとも思われます。
となると、あるいは由比若宮も当初から「若宮」を称していたのかもしれません。
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ここからはほとんど筆者の推測です。
・治承四年(1180年)頼朝公が小林郷に造営し(由比郷)鶴岡八幡宮から御遷座のお社は、石清水八幡宮から勧請したため「若宮」を称した。
・頼朝公が石清水八幡宮からの勧請社を「若宮」を称した以上、由比郷の八幡宮も「(由比)若宮」と称した。(あるいは当初から「若宮」を称していた。)
・康平六年(1063年)頼朝公が造営した「本社」(上社)には、改めて石清水八幡宮から八幡三所大神(中御前:誉田別命(応神天皇)、西御前:比咩大神(比売神)、東御前:息長帯姫命(神功皇后))を勧請。このとき、旧「若宮」の御祭神が合祀?されたかは不明。
・新しい「若宮」(下宮)には石清水八幡宮から仁徳天皇、履中天皇・仲媛命・磐之媛命の四柱を勧請し、ここに(若宮=仁徳天皇)が成立。
となると、気になるのは小林郷北山に御遷座されたのちの由比の鶴岡八幡宮です。
『新編相模國風土記稿』に「旦頼義の勧請する所、石清水の本宮たらば、若宮の称呼ありとも、頼朝祖先の祀る所を廃して、更に勧請すべき謂なし」とあり、頼朝公が祖先の祀る所(頼義公勧請の由比若宮)を廃するいわれはないと断じています。
『新編相模國風土記稿』には「其𦾔地なれば今に祠ありて鶴岡八幡社職の持とす」「由比宮の𦾔地は、由比濱大鳥居の東にあり、今に小社を存し社外の末社に属す」とあり、由比若宮の祠は鶴岡八幡宮の社外末社で鶴岡八幡社職が奉仕していたことを伝えます。
鶴岡八幡宮境内には由比若宮遥拝所があることから、昔もいまも元宮たる神社として尊崇されているものとみられます。
【写真 上(左)】 由比若宮遙拝所(鶴岡八幡宮境内)
【写真 下(右)】 同
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【史料・資料】
■ 『新刊吾妻鏡 巻1』(国立国会図書館)
治承四年(1180年)十月十一日庚寅
卯尅御臺所入御鎌倉 景義奉迎之 去夜自伊豆國阿岐戸郷 雖令到着給 依日次不宜 止宿稻瀬河邊民居給云々 又走湯山住侶專光房良暹 依兼日御契約参着 是武衛年來御師檀也
治承四年(1180年)十月十二日辛卯
快晴 寅尅 為崇祖宗 點小林郷之北山搆宮廟 被奉遷鶴岳(岡)宮於此所 以專光房暫為別當職 令景義執行宮寺事 武衛此間潔齋給 當宮御在所 本新両所用捨 賢慮猶危給之間 任神鑒 於寳前自令取鬮給 治定當砌訖 然而未及花搆之餝 先作茅茨之営 本社者 後冷泉院御宇 伊豫守源朝臣頼義奉勅定 征伐安倍貞任之時 有丹祈之旨 康平六年秋八月 潜勧請石淸水 建瑞籬於當國由比郷 今号之下若宮 永保元年二月 陸奥守同朝臣義家加修復 今又奉遷小林郷 致●繁礼奠云々
■ 『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
下宮𦾔地
下宮𦾔地は、由比濱大鳥居の東にあり、【東鏡】に、頼朝卿、鎌倉に入給ふ時、先遙に鶴岡の八幡宮を拝み奉るとあるは、此所に有し時也。此所に有し社を、今の若宮の地に遷し奉らん為に、本・新両所の用捨を、賽前にて籤を取、今の若宮の地に治定し給ふ。本と有は此所の事、新とあるは今の若宮の事なり。爰を鶴岡と云ゆへに、小林へ遷して後も、鶴岡の若宮と云なり。鶴岡の條下と照し見るべし。
■ 『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
鶴岡八幡宮
鶴岡八幡宮は、【東鏡】に、本社は、伊豫守源頼義、勅を奉て、安倍貞任征伐の時、丹新の旨有て、康平六年(1063年)秋八月、潜に石清水を勧請し、瑞籬を当國由比郷に建。今此を下宮の𦾔跡と云也。永保元年(1081年)二月、陸奥守源義家、修復を加ふ。其後治承四年(1180年)十月十二日、源頼朝、祖宗を崇めんがために、小林郷の北の山を點じて宮廟を構へ、鶴岡由比の宮を此所に遷し奉る。(中略)
由比濱下の宮の𦾔地を、昔しは鶴が岡と云なり。【東鏡】に、治承四年(1180年)十月七日、頼朝先遙に鶴岡の八幡宮ををがみ奉るとあるは、由比濱の宮なり。小林郷に遷して後も、又鶴岡の八幡宮と云傳へたり。
■ 『鎌倉攬勝考』(国立国会図書館)
若宮𦾔地
由比濱大鳥居の東の方にあり、此邊を往昔は鶴岡と号しける𦾔地なり。右大将家、治承四年(1180年)十月鎌倉に入給ふ最初、まづ遙に八幡宮を拝み奉るとあるは、爰に鎮座の宮殿をいふ。是則天喜年中(1053-1058年)、源頼義朝臣当所へ初て勧請の社頭なり。頼朝卿、今の地へ移し給はんとせらるゝ砌、本新両所決しかたく、神前にて籤を取給ふとあるも此地にて、本といふは爰の𦾔地をさし、新とは今の社地をさす。神監に任て、今の地に治定せしと云云。
■ 『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
(大町村)下若宮
辻町の西にあり、往昔当所を鶴岡と号す 今𦾔号を失ふ
康平六年(1063年)八月、頼義潜に石清水の神官を模して此所に勧請ありしを治承四年(1180年)頼朝鎌倉に入て当所の宮を小林松ヶ岡に遷し、夫より彼地も鶴岡と号す、其𦾔地なれば今に祠ありて鶴岡八幡社職の持とす 事は鶴岡八幡宮の條に詳載す
■ 『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
(山之内庄 鶴岡)鶴岡八幡宮
康平六年(1063年)八月、伊豫守源頼義、石清水の神を勧請して、瑞籬を当郡由比の郷に建 【東鑑】治承四年(1180年)十月十二日條曰、本社者、後冷泉院御宇、伊豫守源朝臣頼義、奉勅定征伐安倍貞任之時、有丹新之旨、康平六年(1063年)秋八月、潜勧請石清水建瑞籬於当国由比郷、原注に今号之下若宮とあり、按ずるに由比宮の𦾔地は、由比濱大鳥居の東にあり、今に小社を存し社外の末社に属す 永保元年(1081年)二月、陸奥守源義家修理を加ふ 治承四年(1180年)十月、右大将源頼朝鎌倉に到り、由比の宮を遥拝し 七日條曰、先奉遙拝鶴岡八幡宮給 同月、此地を點じて假に宮廟を構へ、由比の宮を遷せり 今の下宮是なり 建久二年(1191年)三月四日神殿以下、悉く回禄に罹る、四月頼朝、下宮後背の山上に、新に寶殿を営作す、是別に八幡宮を、勧請せしが為なり 今の上宮是なり、十一月上下両宮及末社等に至まで、造営成就して、遷宮の儀を行はる、是より両宮となれり
■ 『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
(山之内庄 鶴岡 五)下ノ宮
若宮と称す
社僧云、若宮とは本社より別ちて、他所に勧請せし宮を号す。蓋頼義、由井(ママ)郷に祀りしは、石清水八幡宮なれど、【東鏡】に載する如く、私に勧請する所なれば、則別宮の義に取り、若宮と称せり、又頼朝上宮を勧請せしは、勅許を得たる事なれば、直に八幡宮と号す、故に此時下宮の神躰を、上宮に遷し、下宮は空殿となりしかば、後世若宮の唱へに因て、仁徳帝を勧請せしなりと、按ずるに、【東鏡】に建久二年(1191年)三月若宮以下火災に罹りし時、新に上宮を造立し、若宮及末社等、悉く再建ありて、十月上下両宮共に、遷宮ありしと見ゆ、然れば下宮、空殿となりしと伝は謬なり、旦頼義の勧請する所、石清水の本宮たらば、若宮の称呼ありとも、頼朝祖先の祀る所を廃して、更に勧請すべき謂なし、社僧の説信じ難し(中略)
治承四年(1180年)十月、源頼朝由比郷より移して建立ありし社なり
■ 『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
(山之内庄 鶴岡 五)由比若宮
由比ノ濱大鳥居の東、辻町(大町村属)にあり、下宮の原社なり、康平六年(1063年)八月頼義の勧請せしより治承四年(1180年)十月、頼朝下宮の地に移せし事は社の総説に見えたり 【東鑑】仁治二年(1241年)四月由比大鳥居邊の拝殿、逆浪の為に流失せし由載せたるは 即当社の拝殿なるべし 我覺院管す
■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
治承四年(1180年)十月七日、源頼朝は鎌倉に入り先ず由比郷に鎮座していた鶴岡八幡宮を遙拝してから鎌倉の経営に着手したようである。
十一日に(伊豆山)走湯山の専光坊良暹が鎌倉に到着すると、十二日には小林郷の北山に建てた宮廟にこの鶴岡八幡宮を遷し、同時に良暹を当座の別当とし大庭景義に宮寺のことを執行わせた。
これが現在の若宮の始まりで、その位置も大体今と同じと考えてよかろう。
そして、頼朝は同社を鶴岡八幡新宮若宮と称している。
鶴岡八幡新宮若宮の称は寿永二年(1183年)の頼朝の寄進状に見える。新宮は本宮に対する分社をいうのであるが、若宮も同じ意に用いられることがある。
由比郷に勧請されていた石清水八幡宮の分社のまた分社として鶴岡八幡新宮若宮と称したのであろう。
遡って由比郷にあった鶴岡八幡宮というのは、源頼義が勅定を奉じて陸奥の安倍貞任を征伐のとき、石清水八幡宮に祈願をこめたが、その効験あって征討の目的を果たすことが出来たので、康平六年(1063年)八月、潜かにかの石清水八幡宮を勧請することとし、由比郷に瑞籬を営んだことに始まる。それから十八年を経た永保元年(1081年)二月に、頼義の子義家がこれに修復を加えたと伝えており、その位置は大町字西町にある由比若宮の地であるといわれている。
建久二年(1191年)三月四日、鎌倉は大火となり、社域にも延焼しすべてが灰燼と化してしまった。
八日には頼朝監臨のもとに、若宮仮殿の造営が始められたが(中略)これを機会に頼朝は改めて石清水八幡宮を勧請しようとして、鶴岡若宮の上の地に社殿の営作を始めたが(中略)これが現在の本宮の起りで大体現在の位置であろう。
十一月二十一日になると本宮に石清水八幡宮の神体が勧請され、若宮及び末社等の遷宮が行われたのである。
これよりのち本宮を鶴岡八幡宮或は鶴岡八幡宮寺などと称し、更にこれを上宮と呼び、鶴岡若宮の社殿は若宮或は下宮と称せられるようになった。
ここに新に石清水八幡宮の神体を勧請したのは、鶴岡を石清水に模するためであったようである。そのため鶴岡若宮の社殿には八幡宮の摂社としての若宮(仁徳天皇以下祭神四座)の神体が勧請されたものと考えられる。
この結果、八幡宮の分社としての鶴岡若宮が、摂社としての若宮の性格を帯びることとなった。
■ 現地掲示(由比若宮 御由緒)
鶴岡八幡宮境内末社。
前九年の役で奥州を鎮定した源頼義が、康平六(1063)年、報賽の意を込め、源氏の守り神である石清水八幡宮を由比郷に潜かに勧請したことに始まる。
鶴岡八幡宮の元となったことから元八幡とも称される。
祭神 応神天皇
例祭日 四月二日 毎月三日
由比若宮創建以前、鎌倉は郡衙が置かれるなど古代東国の要地で、源頼義以来、源家相伝の地としてあった。
源頼義は勅諚により奥州安倍貞任を征伐した時、丹祈の心あって潜かに康平六(1063)年秋に石清水八幡宮を勧請し、瑞籬をを営み、永保元(1081)年には源義家が修復を加えた。
その後治承四(1180)年十月、源頼朝公が鎌倉に入ると、この社を遙拝し、神意を伺って、現在の鶴岡八幡宮の場所である小林郷北山に遷した。
社頭には義家旗立松があり、近くには石清水の井がある。
■ 現地掲示(鶴岡八幡宮境内、抜粋)
御祭神 応神天皇 比売神 神功皇后
当宮は源頼義公が前九年の役平定後、康平六年(1063)報賽のため由比郷鶴岡の地に八幡大神を勧請したのに始まる。
治承四年(1180)源頼朝公は源氏再興の旗を挙げ、父祖由縁の地鎌倉に入ると、まず由比郷の鶴岡八幡宮を遙拝し「祖宗を崇めんが為」小林郷北山(現在地)に奉遷し、京に於ける内裏に相当する位置に据えて諸整備に努めた。
■ 国土交通省資料(PDF)
由比若宮
由比若宮は鎌倉の八幡信仰の発祥の地です。
「元八幡」とも呼ばれるこの宮は、京の帝に武将として仕えた源頼義 (988–1075) が1063 年に創建しました。
1051 年、頼義は侍の謀反を制圧するため東北地方へと送られます。京を発つ際、頼義は源氏の守護神で祖先でもある八幡大神に必勝を祈願しました。
12 年におよぶ戦いを制した頼義は京へ帰る途中鎌倉に立ち寄り、そのとき八幡大神への感謝のしるしとして祀ったのが由比若宮です。
その1世紀以上のちの1180年、頼義の子孫である源頼朝 (1147–1199) が新たに打ち立てた幕府の拠点を鎌倉に置きました。頼朝は町を広げ、その信仰の中心として鶴岡八幡宮を創建しました。
こうして信仰の中心地は鶴岡八幡宮へと移り、頼義が祀った簡素な神社は創建当時と同じ場所に残されました。
■ 観光庁Web資料
由比若宮
由比若宮は鎌倉の八幡信仰の発祥の地です。
京の帝に武将として仕えた源頼義 (988–1075) が1063年に創建しました。1051年、頼義は侍の謀反を制圧するため東北地方へと送られます。京を発つ際、頼義は源氏の守護神で祖先でもある八幡大神に必勝を祈願しました。12年におよぶ戦いを制した頼義は京へ帰る途中鎌倉に立ち寄り、そのとき八幡大神への感謝のしるしとして祀ったのが由比若宮です。
その1世紀以上のちの1180年、頼義の子孫である源頼朝 (1147–1199) が鎌倉に拠点を置き、町を切り開いてその中心に鶴岡八幡宮を建てました。
引き続き八幡大神を源氏の守護神として崇めた頼朝は、京の朝廷を支配していた敵の平氏に対抗すべく兵力を集めます。頼朝は5年にわたった源平合戦に勝利して、日本で初めての武士による政権を鎌倉に打ち立てました。
由比若宮は今も、鶴岡八幡宮参道の東側、海に近い材木座地区の創建当時と同じ場所に建っています。
「元八幡」とも呼ばれるこの宮は、鎌倉の歴史の中で源氏が果たした大きな役割を今に伝える遺産となっています。
■ 石川県神社庁Web(抜粋)
若宮八幡宮
御祭神
応神天皇(境内社より合祀 綿津見神 大山祇神 日本武尊 豊受比売神 大田神)
鎮座地
白山市若宮1丁目100
由緒
康平6年(1063)鎮守府将軍 源頼義の建立と言われる。
源頼義が奥州を平定し、石清水八幡宮を相州鎌倉郡由比郷鶴岡の地に勧請し、次いでこの加賀松任の地に国守富樫介に造営を命じ富樫介の臣であった山上新保介はその命をかしこみ、誠をもって社殿の建立の事にあたると共に新たに武内社守六社の境内社を勧請しました。
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小町大路が横須賀線を渡る踏切のすぐ南側の路地を西側に入ったところです。
あたりは住宅地で、鶴岡八幡宮の元宮がこのような目立たない住宅地の一画に御鎮座とはある意味おどろきです。
むろん、神社が先にあったわけですが。
【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 参道入口の社号標
【写真 上(左)】 全景
【写真 下(右)】 境内入口
参道入口には社号標、境内入口にも社号標があります。
住宅地のなかにまとまった社叢を配して神さびた空気感。
【写真 上(左)】 境内入口の社号標
【写真 下(右)】 境内
【写真 上(左)】 手水舎
【写真 下(右)】 参道
朱塗りの一の鳥居抜けると参道左手に「源義家公旗立の松」で、その先に朱塗りの二の鳥居。
すみません。源義家が源氏の白旗を立てて武運長久を願ったとされる「源義家公旗立の松」のUP写真がなぜかありません。
二基の鳥居はいずれも亀腹、転び、貫、額束、島木、笠木、反増を備える明神鳥居系ですが、楔はありません。
【写真 上(左)】 拝殿前
【写真 下(右)】 拝殿
拝殿前に石灯籠一対。
階段をのぼると拝殿です。
拝殿は銅板葺の一間社流造と思われ、身舎、向拝とも朱塗りで華やいだイメージの社殿です。
賽銭箱に刻まれた紋は「鶴の丸(つるのまる)紋」で、鶴岡八幡宮の神紋です。
朱塗りの木柵に囲まれた拝殿前は荘厳な空気が流れ、さすがに鶴岡八幡宮の元宮です。
御朱印は、たまたまご縁があって拝受できましたが、ご不在も多そうです。
境内に書置ありとのWeb情報もありますが、筆者は未確認です。
〔 由比若宮の御首題 〕
→ ■ 鎌倉市の御朱印-17 (B.名越口-12)へつづく。
【 BGM 】
■ True To Life - Roxy Music (1982)
■ A Clue - Boz Scaggs (1977)
■ After All This Time - Think Out Loud (1988)
■ 同-2 (A.朝夷奈口)
■ 同-3 (A.朝夷奈口)
■ 同-4 (A.朝夷奈口)
■ 同-5 (A.朝夷奈口)
■ 同-6 (B.名越口-1)
■ 同-7 (B.名越口-2)
■ 同-8 (B.名越口-3)
■ 同-9 (B.名越口-4)
■ 同-10 (B.名越口-5)
■ 同-11 (B.名越口-6)
■ 同-12 (B.名越口-7)
■ 同-13 (B.名越口-8)
■ 同-14 (B.名越口-9)
■ 同-15 (B.名越口-10)から。
47.法華山 本興寺(ほんこうじ)
鎌倉公式観光ガイドWeb
鎌倉市大町2-5-32
日蓮宗
御本尊:三宝祖師(『鎌倉市史 社寺編』)
司元別当:
札所:
本興寺は、大町二丁目の歴史ある日蓮宗寺院です。
鎌倉公式観光ガイドWeb、下記史料・資料から縁起沿革を追ってみます。
本興寺は、延元元年(1336年)「九老僧」の一人天目上人が開基建立し、日蓮聖人が辻説法の途中に休息された地に因んで「休息山本興寺」を号しました。
永徳二年(1382年)、2世日什上人が法華山と改め、開山は日什上人とされています。
日蓮聖人の鎌倉辻説法の由緒地・大町にあるため「辻の本興寺」とも呼ばれます。
当山は宗派的に複雑な変遷をたどっています。
開山・美濃阿闍梨天目上人(1256-1337年)は、日蓮六老僧・日朗上人の弟子「九老僧」の一人で日盛、上法房とも称します。
法華山 本興寺(横浜市泉区)公式Webには
「天目上人は、法華経二十八品のうち、前半十四品の迹門と後半十四品の本門では説相が異なると「迹門不読説」を主張しており、天目上人の弟子達も同じ主張をしておりましたが、日什門流の開祖である日什大正師の教化にふれ改派に至りました。」とあります。
この記述は「本迹勝劣」の概念がわからないと理解できません。
ただし、「本迹勝劣」は法華宗の本義にかかわる重要なことがらなので、Wikipediaの内容に従って概略のみまとめてみます。
・所依の法華経を構成する二十八品(28章)は前半の「迹門」、後半の「本門」に二分される。
・二十八品全体を一体のものとして扱うべきとするのが一致派。(釈尊を本仏とする)
・「本門」に法華経の極意があるとするのが勝劣派。
・勝劣派は「釈尊を本仏とする勝劣派」と「日蓮聖人を本仏とする勝劣派」に分かれる。
・「勝劣五派」とは、日興門流(富士門流、興門派)、日什門流(妙満寺派)、日陣門流(本成寺派)、日隆門流(八品派)、日真門流(本隆寺派)をさす。
天目上人は「迹門不読説」を唱えられ、当山2世の日什上人は「釈尊を本仏とする勝劣派」の日什門流の流祖です。
日什上人(1314年-1392年)について、京都妙満寺公式Webには以下のとおりあります。
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19歳で比叡山に登られ「玄妙」と号され、38歳の時には三千人の学僧の学頭となり、「玄妙能化」と称されました。
故郷の会津に戻られた日什上人は66歳のとき、日蓮聖人の御書『開目抄』『如説修行鈔』に触れられ、直ちに日蓮聖人を師と仰ぎ、名を「日什」と改められました。
下総中山の法華経寺にこもられ、不惜身命の布教を誓われた日什上人は、永徳元年(1381)京に上られ関白・二条良基卿と対面し、「洛中弘法の綸旨」と「二位僧都」の官位を賜わりました。
関東でも、関東管領・足利義満公などに諌暁を繰り返され、宗旨と修行の方軌を示されて日什門流を開かれました。
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日什門流は顕本法華宗(総本山・妙満寺)につながり、顕本法華宗の宗祖は日什上人です。
「鎌倉市史 社寺編」によると、天正十九年(1591年)、徳川家康公は当山に寺領五百五十文を寄進しています。
文明十三年(1481年)、当山16世日泰上人は大旦那酒井清伝によって堂を建立とありますが、「千葉市Web資料」によると酒井清伝は上総国土気の武将です。
Wikipediaには「上総酒井氏の祖は酒井清伝と称される人物で、この人物については、16世紀の東金城主酒井胤敏および土気城主酒井胤治が揃って酒井氏の祖として清伝の名前を挙げている。」とあるので、上総酒井氏の祖(酒井定隆?)とみられます。
酒井清伝(定隆)は法華宗(妙満寺派)の日泰上人に帰依した熱心な法華宗信者で、上総北部の平定後数年で領内のほとんどの寺院を法華宗へと改宗させた(上総七里法華)とする伝説があります。
「上総七里法華」は、江戸時代初期に不受不施を唱えた寺院があるといいます。
永禄二年(1559年)、清伝の子酒井胤治とその子政茂も当山を修造、その費用寄進者には生実御所・足利高基の室もいて、造営のため奥州や越中からも僧が鎌倉に来たとあるので、「上総七里法華」が主体となって大々的に改修が行われたのでは。
『鎌倉市史 社寺編』はまた、当山27世から妙満寺27世となった(Wikipedia)日経上人は、慶長の初年(1596年-)に倒壊した堂を慶長四年(1599年)再興したと記しています。
しかし慶長十三年(1608年)、日経上人は「不受不施」を説いたため、江戸幕府より弾圧を受けました。(慶長の法難)
不受不施派は以降も幕府の厳しい詮議を受けたため、万治三年(1660年)当山30世日顕上人により鎌倉郡飯田村に寺基を移したのが、現在の横浜市泉区上飯田町の本興寺といいます。
寛文十年(1670年)、比企谷妙本寺照幡院日逞上人が宗祖辻説法旧地の衰退を嘆き、徳川家より寺領の寄付を受けて、鎌倉の辻の旧地に本興寺を再興したといいます。
日什門流は「釈尊を本仏とする勝劣派」、妙本寺は日朗門流(比企谷門流)で「釈尊を本仏とする一致派」とされますから、複雑な門流を経由していることがわかります。
なお、日什門流の名刹・飯田本興寺は顕本法華宗本山でしたが、明治政府の宗教政策により日蓮宗と合同し、現在も日蓮宗本山(由緒寺院)の寺格を誇っています。
寛文十年(1670年)といえば将軍家綱公の治世。
名刹妙本寺の末寺で家綱公のお墨付きを得たとなれば、江戸時代の寺院経営は安定していたとみられ、明治の神仏分離も乗り切って、「辻の本興寺」の名跡をいまに伝えています。
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【史料・資料】
■ 『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
(大町村)本興寺
辻町にあり、法華山と号す 本寺前に同じ(妙本寺末)、古は京妙満寺の末なりしが、中興の後今の末となると云ふ
本尊三寶祖師を安ぜり、開山を日什(明徳三年(1392年)二月廿八日寂す)中興を日逞と云ふ(延寶三年(1675年)五月十七日寂す)天正十九年(1591年)十一月寺領五百五十文の御朱印を賜へり
■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
法華山本興寺と号する。日蓮宗。もと妙本寺末。
開山、日什。中興開山、日逞
本尊、三宝祖師
境内地523.82坪。本堂・庫裏・太子堂・渡廊下・山門あり。
もと京都の妙満寺末。日什は明徳三年(1392年)二月廿八日寂、日逞は延寶三年(1675年)五月十七日寂。
天正十九年(1591年)十一月、徳川家康は寺領五百五十文を寄進した。
文明十三年(1481年)六月、当寺十六世日泰は大旦那酒井清伝によって、堂を建立した。(中略)
清伝の子酒井胤治とその子政茂が、永禄二年(1559年)修造した。この時の住持は日芸である。
修理の費用は胤治をはじめその一族がだしたが、その中には生実御所足利高基の室もいて(中略)造営のためには奥州や越中からも僧が鎌倉に来ている。
慶長の初年(1596年-)に再び倒壊した堂を復興するため、日経が僧俗にすすめて(中略)慶長四年(1599年)再興した。
■ 山内掲示(縁起碑)
本興寺略縁起 日蓮大聖人 辻説法之𦾔地
日蓮大聖人鎌倉御弘通の当時 此の地点は若宮小路に至る辻なるにより 今猶辻の本興寺と称す 御弟子天目上人聖躅を継いで又此地に折伏説法あり 實に当山の開基なり 後年日什上人(顕本法華宗開祖)留錫せられ 寺観大いに面目を改む 常楽院日経上人も亦 当寺の第廿七世なり
■ 法華山 本興寺(横浜市泉区)公式Webより
本興寺は、日蓮大聖人の直弟子である天目上人が鎌倉に開創したお寺です。
大聖人が辻説法の途中、休息された地として、『休息山本興寺』と称していました。
天目上人は、法華経二十八品のうち、前半十四品の迹門と後半十四品の本門では説相が異なると「迹門不読説」を主張しており、天目上人の弟子達も同じ主張をしておりましたが、日什門流の開祖である日什大正師の教化にふれ改派に至りました。
その後、弘和2年(1382年)に『法華山 本興寺』と改称しました。
以後、日什大正師を当山の事実上の開祖としております。
また、現在本興寺のある飯田は、弘安5年(1282年)に日蓮大聖人が池上でご入滅後、ご遺骨を身延に奉じる途次、10月20日頃にご一泊された地と伝えられています。
(中略)
万治3年(1660年)に現在の地(泉区上飯田町)にお寺の一切を移されたとされています。
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小町大路が横須賀線を渡る踏切のすぐ北側に参道があり、山内北側は旧車小路に面しています。
参道入口には「日蓮大聖人辻説法之𦾔地」の石碑(縁起碑)が建っています。
【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 縁起碑
【写真 上(左)】 寺号標
【写真 下(右)】 山門
山門手前左手にお題目が刻まれた寺号標。
山門は切妻屋根桟瓦葺の四脚門で、門柱は朱塗りの丸柱です。
【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 本堂
【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 飾り瓦
山内正面が入母屋造桟瓦葺流れ向拝の整った意匠の本堂。
軒上の飾り瓦の獅子の表情がいい味を出しています。
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 鎮守?
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に板蟇股を置いています。
向拝正面は端正な唐桟戸。
山内に御鎮座の朱塗りの一間社流造のお社と石祠は当山鎮守でしょうか。
御首題は、参拝時本堂前におられたご住職からこころよく授与いただけましたが、こちらやこちらの記事によるとご不在が多そうです。
〔 本興寺の御首題 〕
48.由比若宮(鶴岡八幡宮元宮・元鶴岡八幡宮)(ゆいのわかみや)
鎌倉公式観光ガイドWeb
鎌倉市材木座1-7
御祭神:応神天皇
※■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-1でも触れています。
由比若宮は鶴岡八幡宮の元宮で、頼朝公や鎌倉幕府にとってすこぶる重要な神社です。
鎌倉公式観光ガイドWeb、下記史料・資料から縁起沿革を追ってみます。
康平六年(1063年)源頼義公が、奥州安倍氏征伐(前九年の役)にあたり、京の石清水八幡宮に戦捷を祈願されました。
征伐が成り京に帰る帰途、鎌倉に立ち寄られ由比郷鶴岡に源氏の守り神である石清水八幡宮の御祭神を勧請されて創祀といいます。
永保元年(1081年)には、頼義公の子八幡太郎義家公が修復したとも伝わります。
治承四年(1180年)10月7日(11日とも)、鎌倉に入られた源頼朝公は、まず由比郷の鶴岡八幡宮を遙拝され、そののちに鎌倉の経営に着手したといいます。
同月11日、(伊豆山)走湯山の専光坊良暹が鎌倉に到着すると、12日には小林郷北山に建てた宮廟に(由比郷の)鶴岡八幡宮を遷し、同時に良暹を当座の別当としました。
これが現在の若宮(下宮)の始まりで、頼朝公は同社を「鶴岡八幡新宮若宮」と称されました。
つまり、康平六年(1063年)源頼義公創祀の(由比郷)鶴岡八幡宮を、治承四年(1180年)10月に源頼朝公が現在の若宮(下宮)に御遷座ということになります。
【 由比元宮と鶴岡八幡宮の関係 】
両社の関係については、史料によりニュアンスが異なりますが、だいたいつぎのとおりです。
・康平六年(1063年)源頼義公が(由比郷)鶴岡八幡宮を創祀。
・治承四年(1180年)鎌倉に入られた頼朝公が(由比郷)鶴岡八幡宮を今の若宮(下宮)の地に御遷座。
・(由比郷)鶴岡に御鎮座だったが、小林郷北山(現社地)に遷したのちも「鶴岡」を号した。
・建久二年(1191年)11月、若宮(下宮)の上方の地に建てた本宮社殿に石清水八幡宮の御神体を勧請。若宮及び末社等の遷宮も行われた。
『新編相模國風土記稿』の「(山之内庄 鶴岡 五)下ノ宮」の條に意味深な記述があります。
それは「社僧が語った」という内容で、頼義公が由比郷に祀った鶴岡八幡宮は石清水八幡宮からの勧請ながら、私の勧請だったので「別宮」の意味で「若宮」と称している。
これに対して(鶴岡八幡宮)上宮は、頼朝公が勅許を得て(公式に)勧請されたので直に「八幡宮」と称しているというのです。
また、下宮の神躰を上宮に遷して下宮は空殿となったところ、後世「若宮」の称に因んで(応神帝/誉田別命)の御子の仁徳帝(大鷦鷯命)を勧請せしめたとも。
これに対して『新編相模國風土記稿』の著者は、【東鏡】によると建久二年3月に若宮以下火災に罹りしとき、新たに上宮を造立、若宮および末社等もことごとく再建されて10月には上下両宮ともに(石清水八幡宮)から遷宮ありとあるので、「下宮は空殿となった」というのは誤謬であると断じています。
しかし、康平六年(1063年)源頼義公の勧請を多くの史料・資料が「潜かに(ひそかに)」と記しているのは、上記の社僧の「私の勧請」という説明とニュアンスが重なります。
由比元宮と鶴岡八幡宮の関係がわかりにくくなっているのは、「別宮」「新宮」「若宮」の意味が錯綜しているためと思われます。
たとえば「別宮」・「若宮」は、「本宮」(石清水八幡宮)から私に勧請した宮の意で使われています。
「新宮」は「本宮」からの分社で「若宮」も同じ意味に用いられることがあるといいます。
また、八幡社では「本宮」の御祭神・誉田別命(応神帝)に対し「若宮」では御子の仁徳帝(大鷦鷯命)を祀る例が多くみられます。
頼朝公が由比郷から小林郷に遷座された八幡宮を「鶴岡八幡新宮若宮」と称したことが混乱のもととも思えますが、『鎌倉市史 社寺編』に記されている「由比郷に勧請されていた石清水八幡宮の分社のまた分社として鶴岡八幡新宮若宮と称したのであろう。」という見解がわかりやすいように思えます。
この考えをとると、由比郷鶴岡の八幡宮は「鶴岡八幡本宮若宮」になるかとも思いますが、これを記した史料は存在しない模様です。
【 由比若宮の御祭神 】
由比若宮の御祭神を記した史料や公的資料はほとんどありませんが、境内縁起書には「祭神 応神天皇」とあります。
しかし、Web記事ではつぎのふたつの記載がみられます。
1.応神天皇
2.応神天皇、比売神、神功皇后
康平六年(1063年)、源頼義公が由比郷鶴岡に勧請されたのは石清水八幡宮です。
このとき勧請された御祭神は、つぎの2パターンが考えられるので、ここから↑の2説が出てきているかと思います。
1.石清水八幡宮の中御前御祭神:誉田別命(応神天皇)
2.石清水八幡宮の八幡三所大神
(中御前:誉田別命(応神天皇)、西御前:比咩大神(比売神)、東御前:息長帯姫命(神功皇后))
いずれにしても主祭神は応神天皇ですから、この時点では「若宮」は称せず、由比郷鶴岡に御鎮座の八幡宮ということで「鶴岡八幡宮」を称したのではないかと思いました。
しかし、そうではないかもしれません。
石川県白山市若宮に源頼義公建立と伝わる若宮八幡宮があります。
石川県神社庁のWeb資料によると、こちらの御祭神は応神天皇で、由緒に「康平6年(1063)鎮守府将軍 源頼義の建立と言われる。源頼義が奥州を平定し、石清水八幡宮を相州鎌倉郡由比郷鶴岡の地に勧請し、次いでこの加賀松任の地に国守富樫介に造営を命じ」とあります。
由比若宮と同年に源頼義公が建立し、おそらく石清水八幡宮からの勧請で御祭神は応神天皇。そして社号は「若宮八幡宮」です。
こちらの「若宮」の社号は「本宮(石清水八幡宮)から勧請した『若宮』」から来ているとも思われます。
となると、あるいは由比若宮も当初から「若宮」を称していたのかもしれません。
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ここからはほとんど筆者の推測です。
・治承四年(1180年)頼朝公が小林郷に造営し(由比郷)鶴岡八幡宮から御遷座のお社は、石清水八幡宮から勧請したため「若宮」を称した。
・頼朝公が石清水八幡宮からの勧請社を「若宮」を称した以上、由比郷の八幡宮も「(由比)若宮」と称した。(あるいは当初から「若宮」を称していた。)
・康平六年(1063年)頼朝公が造営した「本社」(上社)には、改めて石清水八幡宮から八幡三所大神(中御前:誉田別命(応神天皇)、西御前:比咩大神(比売神)、東御前:息長帯姫命(神功皇后))を勧請。このとき、旧「若宮」の御祭神が合祀?されたかは不明。
・新しい「若宮」(下宮)には石清水八幡宮から仁徳天皇、履中天皇・仲媛命・磐之媛命の四柱を勧請し、ここに(若宮=仁徳天皇)が成立。
となると、気になるのは小林郷北山に御遷座されたのちの由比の鶴岡八幡宮です。
『新編相模國風土記稿』に「旦頼義の勧請する所、石清水の本宮たらば、若宮の称呼ありとも、頼朝祖先の祀る所を廃して、更に勧請すべき謂なし」とあり、頼朝公が祖先の祀る所(頼義公勧請の由比若宮)を廃するいわれはないと断じています。
『新編相模國風土記稿』には「其𦾔地なれば今に祠ありて鶴岡八幡社職の持とす」「由比宮の𦾔地は、由比濱大鳥居の東にあり、今に小社を存し社外の末社に属す」とあり、由比若宮の祠は鶴岡八幡宮の社外末社で鶴岡八幡社職が奉仕していたことを伝えます。
鶴岡八幡宮境内には由比若宮遥拝所があることから、昔もいまも元宮たる神社として尊崇されているものとみられます。
【写真 上(左)】 由比若宮遙拝所(鶴岡八幡宮境内)
【写真 下(右)】 同
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【史料・資料】
■ 『新刊吾妻鏡 巻1』(国立国会図書館)
治承四年(1180年)十月十一日庚寅
卯尅御臺所入御鎌倉 景義奉迎之 去夜自伊豆國阿岐戸郷 雖令到着給 依日次不宜 止宿稻瀬河邊民居給云々 又走湯山住侶專光房良暹 依兼日御契約参着 是武衛年來御師檀也
治承四年(1180年)十月十二日辛卯
快晴 寅尅 為崇祖宗 點小林郷之北山搆宮廟 被奉遷鶴岳(岡)宮於此所 以專光房暫為別當職 令景義執行宮寺事 武衛此間潔齋給 當宮御在所 本新両所用捨 賢慮猶危給之間 任神鑒 於寳前自令取鬮給 治定當砌訖 然而未及花搆之餝 先作茅茨之営 本社者 後冷泉院御宇 伊豫守源朝臣頼義奉勅定 征伐安倍貞任之時 有丹祈之旨 康平六年秋八月 潜勧請石淸水 建瑞籬於當國由比郷 今号之下若宮 永保元年二月 陸奥守同朝臣義家加修復 今又奉遷小林郷 致●繁礼奠云々
■ 『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
下宮𦾔地
下宮𦾔地は、由比濱大鳥居の東にあり、【東鏡】に、頼朝卿、鎌倉に入給ふ時、先遙に鶴岡の八幡宮を拝み奉るとあるは、此所に有し時也。此所に有し社を、今の若宮の地に遷し奉らん為に、本・新両所の用捨を、賽前にて籤を取、今の若宮の地に治定し給ふ。本と有は此所の事、新とあるは今の若宮の事なり。爰を鶴岡と云ゆへに、小林へ遷して後も、鶴岡の若宮と云なり。鶴岡の條下と照し見るべし。
■ 『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
鶴岡八幡宮
鶴岡八幡宮は、【東鏡】に、本社は、伊豫守源頼義、勅を奉て、安倍貞任征伐の時、丹新の旨有て、康平六年(1063年)秋八月、潜に石清水を勧請し、瑞籬を当國由比郷に建。今此を下宮の𦾔跡と云也。永保元年(1081年)二月、陸奥守源義家、修復を加ふ。其後治承四年(1180年)十月十二日、源頼朝、祖宗を崇めんがために、小林郷の北の山を點じて宮廟を構へ、鶴岡由比の宮を此所に遷し奉る。(中略)
由比濱下の宮の𦾔地を、昔しは鶴が岡と云なり。【東鏡】に、治承四年(1180年)十月七日、頼朝先遙に鶴岡の八幡宮ををがみ奉るとあるは、由比濱の宮なり。小林郷に遷して後も、又鶴岡の八幡宮と云傳へたり。
■ 『鎌倉攬勝考』(国立国会図書館)
若宮𦾔地
由比濱大鳥居の東の方にあり、此邊を往昔は鶴岡と号しける𦾔地なり。右大将家、治承四年(1180年)十月鎌倉に入給ふ最初、まづ遙に八幡宮を拝み奉るとあるは、爰に鎮座の宮殿をいふ。是則天喜年中(1053-1058年)、源頼義朝臣当所へ初て勧請の社頭なり。頼朝卿、今の地へ移し給はんとせらるゝ砌、本新両所決しかたく、神前にて籤を取給ふとあるも此地にて、本といふは爰の𦾔地をさし、新とは今の社地をさす。神監に任て、今の地に治定せしと云云。
■ 『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
(大町村)下若宮
辻町の西にあり、往昔当所を鶴岡と号す 今𦾔号を失ふ
康平六年(1063年)八月、頼義潜に石清水の神官を模して此所に勧請ありしを治承四年(1180年)頼朝鎌倉に入て当所の宮を小林松ヶ岡に遷し、夫より彼地も鶴岡と号す、其𦾔地なれば今に祠ありて鶴岡八幡社職の持とす 事は鶴岡八幡宮の條に詳載す
■ 『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
(山之内庄 鶴岡)鶴岡八幡宮
康平六年(1063年)八月、伊豫守源頼義、石清水の神を勧請して、瑞籬を当郡由比の郷に建 【東鑑】治承四年(1180年)十月十二日條曰、本社者、後冷泉院御宇、伊豫守源朝臣頼義、奉勅定征伐安倍貞任之時、有丹新之旨、康平六年(1063年)秋八月、潜勧請石清水建瑞籬於当国由比郷、原注に今号之下若宮とあり、按ずるに由比宮の𦾔地は、由比濱大鳥居の東にあり、今に小社を存し社外の末社に属す 永保元年(1081年)二月、陸奥守源義家修理を加ふ 治承四年(1180年)十月、右大将源頼朝鎌倉に到り、由比の宮を遥拝し 七日條曰、先奉遙拝鶴岡八幡宮給 同月、此地を點じて假に宮廟を構へ、由比の宮を遷せり 今の下宮是なり 建久二年(1191年)三月四日神殿以下、悉く回禄に罹る、四月頼朝、下宮後背の山上に、新に寶殿を営作す、是別に八幡宮を、勧請せしが為なり 今の上宮是なり、十一月上下両宮及末社等に至まで、造営成就して、遷宮の儀を行はる、是より両宮となれり
■ 『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
(山之内庄 鶴岡 五)下ノ宮
若宮と称す
社僧云、若宮とは本社より別ちて、他所に勧請せし宮を号す。蓋頼義、由井(ママ)郷に祀りしは、石清水八幡宮なれど、【東鏡】に載する如く、私に勧請する所なれば、則別宮の義に取り、若宮と称せり、又頼朝上宮を勧請せしは、勅許を得たる事なれば、直に八幡宮と号す、故に此時下宮の神躰を、上宮に遷し、下宮は空殿となりしかば、後世若宮の唱へに因て、仁徳帝を勧請せしなりと、按ずるに、【東鏡】に建久二年(1191年)三月若宮以下火災に罹りし時、新に上宮を造立し、若宮及末社等、悉く再建ありて、十月上下両宮共に、遷宮ありしと見ゆ、然れば下宮、空殿となりしと伝は謬なり、旦頼義の勧請する所、石清水の本宮たらば、若宮の称呼ありとも、頼朝祖先の祀る所を廃して、更に勧請すべき謂なし、社僧の説信じ難し(中略)
治承四年(1180年)十月、源頼朝由比郷より移して建立ありし社なり
■ 『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
(山之内庄 鶴岡 五)由比若宮
由比ノ濱大鳥居の東、辻町(大町村属)にあり、下宮の原社なり、康平六年(1063年)八月頼義の勧請せしより治承四年(1180年)十月、頼朝下宮の地に移せし事は社の総説に見えたり 【東鑑】仁治二年(1241年)四月由比大鳥居邊の拝殿、逆浪の為に流失せし由載せたるは 即当社の拝殿なるべし 我覺院管す
■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
治承四年(1180年)十月七日、源頼朝は鎌倉に入り先ず由比郷に鎮座していた鶴岡八幡宮を遙拝してから鎌倉の経営に着手したようである。
十一日に(伊豆山)走湯山の専光坊良暹が鎌倉に到着すると、十二日には小林郷の北山に建てた宮廟にこの鶴岡八幡宮を遷し、同時に良暹を当座の別当とし大庭景義に宮寺のことを執行わせた。
これが現在の若宮の始まりで、その位置も大体今と同じと考えてよかろう。
そして、頼朝は同社を鶴岡八幡新宮若宮と称している。
鶴岡八幡新宮若宮の称は寿永二年(1183年)の頼朝の寄進状に見える。新宮は本宮に対する分社をいうのであるが、若宮も同じ意に用いられることがある。
由比郷に勧請されていた石清水八幡宮の分社のまた分社として鶴岡八幡新宮若宮と称したのであろう。
遡って由比郷にあった鶴岡八幡宮というのは、源頼義が勅定を奉じて陸奥の安倍貞任を征伐のとき、石清水八幡宮に祈願をこめたが、その効験あって征討の目的を果たすことが出来たので、康平六年(1063年)八月、潜かにかの石清水八幡宮を勧請することとし、由比郷に瑞籬を営んだことに始まる。それから十八年を経た永保元年(1081年)二月に、頼義の子義家がこれに修復を加えたと伝えており、その位置は大町字西町にある由比若宮の地であるといわれている。
建久二年(1191年)三月四日、鎌倉は大火となり、社域にも延焼しすべてが灰燼と化してしまった。
八日には頼朝監臨のもとに、若宮仮殿の造営が始められたが(中略)これを機会に頼朝は改めて石清水八幡宮を勧請しようとして、鶴岡若宮の上の地に社殿の営作を始めたが(中略)これが現在の本宮の起りで大体現在の位置であろう。
十一月二十一日になると本宮に石清水八幡宮の神体が勧請され、若宮及び末社等の遷宮が行われたのである。
これよりのち本宮を鶴岡八幡宮或は鶴岡八幡宮寺などと称し、更にこれを上宮と呼び、鶴岡若宮の社殿は若宮或は下宮と称せられるようになった。
ここに新に石清水八幡宮の神体を勧請したのは、鶴岡を石清水に模するためであったようである。そのため鶴岡若宮の社殿には八幡宮の摂社としての若宮(仁徳天皇以下祭神四座)の神体が勧請されたものと考えられる。
この結果、八幡宮の分社としての鶴岡若宮が、摂社としての若宮の性格を帯びることとなった。
■ 現地掲示(由比若宮 御由緒)
鶴岡八幡宮境内末社。
前九年の役で奥州を鎮定した源頼義が、康平六(1063)年、報賽の意を込め、源氏の守り神である石清水八幡宮を由比郷に潜かに勧請したことに始まる。
鶴岡八幡宮の元となったことから元八幡とも称される。
祭神 応神天皇
例祭日 四月二日 毎月三日
由比若宮創建以前、鎌倉は郡衙が置かれるなど古代東国の要地で、源頼義以来、源家相伝の地としてあった。
源頼義は勅諚により奥州安倍貞任を征伐した時、丹祈の心あって潜かに康平六(1063)年秋に石清水八幡宮を勧請し、瑞籬をを営み、永保元(1081)年には源義家が修復を加えた。
その後治承四(1180)年十月、源頼朝公が鎌倉に入ると、この社を遙拝し、神意を伺って、現在の鶴岡八幡宮の場所である小林郷北山に遷した。
社頭には義家旗立松があり、近くには石清水の井がある。
■ 現地掲示(鶴岡八幡宮境内、抜粋)
御祭神 応神天皇 比売神 神功皇后
当宮は源頼義公が前九年の役平定後、康平六年(1063)報賽のため由比郷鶴岡の地に八幡大神を勧請したのに始まる。
治承四年(1180)源頼朝公は源氏再興の旗を挙げ、父祖由縁の地鎌倉に入ると、まず由比郷の鶴岡八幡宮を遙拝し「祖宗を崇めんが為」小林郷北山(現在地)に奉遷し、京に於ける内裏に相当する位置に据えて諸整備に努めた。
■ 国土交通省資料(PDF)
由比若宮
由比若宮は鎌倉の八幡信仰の発祥の地です。
「元八幡」とも呼ばれるこの宮は、京の帝に武将として仕えた源頼義 (988–1075) が1063 年に創建しました。
1051 年、頼義は侍の謀反を制圧するため東北地方へと送られます。京を発つ際、頼義は源氏の守護神で祖先でもある八幡大神に必勝を祈願しました。
12 年におよぶ戦いを制した頼義は京へ帰る途中鎌倉に立ち寄り、そのとき八幡大神への感謝のしるしとして祀ったのが由比若宮です。
その1世紀以上のちの1180年、頼義の子孫である源頼朝 (1147–1199) が新たに打ち立てた幕府の拠点を鎌倉に置きました。頼朝は町を広げ、その信仰の中心として鶴岡八幡宮を創建しました。
こうして信仰の中心地は鶴岡八幡宮へと移り、頼義が祀った簡素な神社は創建当時と同じ場所に残されました。
■ 観光庁Web資料
由比若宮
由比若宮は鎌倉の八幡信仰の発祥の地です。
京の帝に武将として仕えた源頼義 (988–1075) が1063年に創建しました。1051年、頼義は侍の謀反を制圧するため東北地方へと送られます。京を発つ際、頼義は源氏の守護神で祖先でもある八幡大神に必勝を祈願しました。12年におよぶ戦いを制した頼義は京へ帰る途中鎌倉に立ち寄り、そのとき八幡大神への感謝のしるしとして祀ったのが由比若宮です。
その1世紀以上のちの1180年、頼義の子孫である源頼朝 (1147–1199) が鎌倉に拠点を置き、町を切り開いてその中心に鶴岡八幡宮を建てました。
引き続き八幡大神を源氏の守護神として崇めた頼朝は、京の朝廷を支配していた敵の平氏に対抗すべく兵力を集めます。頼朝は5年にわたった源平合戦に勝利して、日本で初めての武士による政権を鎌倉に打ち立てました。
由比若宮は今も、鶴岡八幡宮参道の東側、海に近い材木座地区の創建当時と同じ場所に建っています。
「元八幡」とも呼ばれるこの宮は、鎌倉の歴史の中で源氏が果たした大きな役割を今に伝える遺産となっています。
■ 石川県神社庁Web(抜粋)
若宮八幡宮
御祭神
応神天皇(境内社より合祀 綿津見神 大山祇神 日本武尊 豊受比売神 大田神)
鎮座地
白山市若宮1丁目100
由緒
康平6年(1063)鎮守府将軍 源頼義の建立と言われる。
源頼義が奥州を平定し、石清水八幡宮を相州鎌倉郡由比郷鶴岡の地に勧請し、次いでこの加賀松任の地に国守富樫介に造営を命じ富樫介の臣であった山上新保介はその命をかしこみ、誠をもって社殿の建立の事にあたると共に新たに武内社守六社の境内社を勧請しました。
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小町大路が横須賀線を渡る踏切のすぐ南側の路地を西側に入ったところです。
あたりは住宅地で、鶴岡八幡宮の元宮がこのような目立たない住宅地の一画に御鎮座とはある意味おどろきです。
むろん、神社が先にあったわけですが。
【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 参道入口の社号標
【写真 上(左)】 全景
【写真 下(右)】 境内入口
参道入口には社号標、境内入口にも社号標があります。
住宅地のなかにまとまった社叢を配して神さびた空気感。
【写真 上(左)】 境内入口の社号標
【写真 下(右)】 境内
【写真 上(左)】 手水舎
【写真 下(右)】 参道
朱塗りの一の鳥居抜けると参道左手に「源義家公旗立の松」で、その先に朱塗りの二の鳥居。
すみません。源義家が源氏の白旗を立てて武運長久を願ったとされる「源義家公旗立の松」のUP写真がなぜかありません。
二基の鳥居はいずれも亀腹、転び、貫、額束、島木、笠木、反増を備える明神鳥居系ですが、楔はありません。
【写真 上(左)】 拝殿前
【写真 下(右)】 拝殿
拝殿前に石灯籠一対。
階段をのぼると拝殿です。
拝殿は銅板葺の一間社流造と思われ、身舎、向拝とも朱塗りで華やいだイメージの社殿です。
賽銭箱に刻まれた紋は「鶴の丸(つるのまる)紋」で、鶴岡八幡宮の神紋です。
朱塗りの木柵に囲まれた拝殿前は荘厳な空気が流れ、さすがに鶴岡八幡宮の元宮です。
御朱印は、たまたまご縁があって拝受できましたが、ご不在も多そうです。
境内に書置ありとのWeb情報もありますが、筆者は未確認です。
〔 由比若宮の御首題 〕
→ ■ 鎌倉市の御朱印-17 (B.名越口-12)へつづく。
【 BGM 】
■ True To Life - Roxy Music (1982)
■ A Clue - Boz Scaggs (1977)
■ After All This Time - Think Out Loud (1988)
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