長久手の戦いにおける、桧ケ根の戦いで勝利をおさめた秀吉側の堀秀政
堀秀政は桧ケ根にて陣を構え、香流川を前にして、敵を待ち構える…
堀秀政は秀次隊が完敗したため、徳川軍は勢いに乗ってここにも攻撃をしかけてくるだろうとそう予測して…
結果、そのとおりで秀政が予測した通り、徳川軍が攻めてくる…
それを見た秀政は、一斉に、鉄砲での攻撃を仕掛けることに…
徳川軍の武将・本多康重は負傷し撤退
攻めあぐねた徳川軍は退却
秀政隊の攻撃によって、徳川軍は500人もの死傷者が出ることに…
参考までにこのブログ記事もどうぞ!!
長久手の戦いの跡めぐり…桧ケ根公園内の堀久太郎秀政陣跡に行く!!
その頃、家康は長久手を一望できる「色金山」に陣を構えていた…
全然、何の参考にもならないけど、ついでにこの記事もどうぞ!!
色金山歴史公園散策と初詣…
さてさて徳川軍を退却させて有利にみえた堀秀政の目に飛び込んできたのは、この御旗山でみえた家康の馬印である「金扇」であった…
色金山に兵を進めた家康は秀吉方の様子をうかがいながらこの御旗山に進軍し、頂上に金扇の馬印を立てたのである…
馬印とは
主に戦場や行軍で自分の位置を示したり、味方の士気を鼓舞するため、軍旗の他に用いた、木や竹などの柄を付けた装飾物のこと…
この御旗山の頂上にある金扇の馬印をみた堀秀政は戦況が決して有利な立場にあるわけではないことを理解し、ここで兵を引き追撃をやめることにした…勝てる訳がないと思ったようで…無駄な討死を避けたのであろう…
一方、桧ケ根の戦いで、堀秀政の勝利を知った秀吉方の池田恒興隊、森長可隊は攻略したばかりの岩崎城を出発し御旗山へと急いで向かい…御旗山で陣を張った家康と対峙することになる…
両軍の攻防が続く中、秀吉軍の森長可は、徳川軍の鉄砲隊に狙撃されて討死
池田恒興も、徳川軍の永井直勝の槍を受けて討死…
秀吉軍である「池田恒興・森長可」隊は大将が討死され、この合戦は徳川家康の圧勝…
その徳川家康が陣を張った御旗山に登る…
御旗山の山頂は今では「富士社」の拝殿が設けられていました…これは徳川家康が陣を張った後の創建…
1617年の創建、江戸時代になって青山重太夫が富士浅間神社から勧請し建てたのがこの「富士社」
今はこの石段を登れば山頂につくけど…当時は木々の生い茂る中登ったのか、これほど木々は茂っていなかったのか…そんな悠久の古のロマンに想いを馳せながら…ひぃひぃふうふう…石段を上ります…汗
比較的新しい白い石段と社号標だなと思って登ると…二の鳥居は急に歴史を感じる鳥居が現れて
この中腹をぐるっと1周することができます…
実は頂上は木々が生い茂って眺望は全く楽しめないので、この中腹からの眺望がお薦め…
ここで徳川家康気分が味わえます…???
おお、堀秀政のいた桧ケ根はどこだ…???
ちょいと方向は違いますが…木が邪魔で…苦笑
まあ、替わりに??堀秀政が「アピタ」に陣を張ってるような気持ちで眺めてみる???
さあ、徳川家康気分に浸ったところで、歴史の感じる石段を…
今はこの石段を登れば山頂につくけど…当時は木々の生い茂る中登ったのか、これほど木々は茂っていなかったのか…そんな悠久の古のロマンに想いを馳せながら…ひぃひぃふうふう…石段を上ります…汗
実は、そんなにたいして登る訳ではありません!すぐ山頂につきます…山頂というよりも丘に近いかな…
でもこの山に登れば、長久手の街並みが一望できることから、ここに陣を張ったことは相当有利だったでしょう…
富士社
ジミな手水舎…
そして富士社の右側には
御旗山の石標が…
説明看板
残念ながら、ここからの眺望は、生い茂った木が邪魔で
でも、長久手の戦いのときには、徳川家康はここから一望できたはず…
徳川軍はここに陣を敷き、
そのとき、ここに掲げてある金扇の馬印をみた堀秀政は戦況が決して有利な立場にあるわけではないことを理解し秀次を伴い戦場から離脱することを選ぶ…そんな撤退していく堀秀政をもみつめていたことだろうな…
撤退していったと思いきや、今度は秀吉側の別の隊がやってくるのをみて
それが池田・森隊
それを、まさに「上から目線」で待ち構える!!
いやあ、家康の想い、堀秀政の想いに浸れて、私のような妄想歴史マニアにとっては、誰もいなくて…最高に楽しめる??場所でありました…
えい!バシッ!!パシッ!!
この地で私は徳川家康になったつもりで、池田・森隊のように襲い掛かる蚊を討死させたことを最後に記しておく!!!