城址マニアの私が今回紹介する城跡シリーズ…
今回は
名鉄山王駅から歩いて…名古屋市中区松原の辺りにあったとされる
日置城跡に行く!!
といっても…石垣も土塁もなく…
それどころか、ここが城址だったことを示す…石標や案内看板もなく…
そこには大きなクスノキが1本あるだけ…
フェンスで囲まれてて、中へは、立ち入り禁止になっています…
案内板があったと思ったら
ここは松原緑地ですよー!!と言ったことを示す案内説明板
その案内説明文によると、大きなクスノキは弘法大師が植えたとのこと…樹齢1000年以上とも言われる大クスノキ
ここは、雲龍神社の跡地であったらしい…
この大クスノキを御神体として雲龍神社が置かれ「くすのきさん」と呼ばれて信仰されていたそうな…
しかし1945年の名古屋大空襲でこの御神木が焼かれて幹の大部分を失い、枯れかけていたが、その後、新しい芽が出て生き延びていた事もあって、本来は、名古屋市がこのクスノキを伐採して土地を売却することを地元に通達したものの、市民からの反対の声があがり、神社は廃されたものの「松原緑地」としてこの大クスノキは、こうして遺されたそう……
この石段は…その神社だったころのものでしょうか…
この穴は名古屋大空襲で焼かれた跡なのでしょうか…
さすがに樹齢1000年以上の御神木
支えが必要になっていました…
さてさて遺構なんぞ、このクスノキ以外何も残っていない日置城跡ですが…
平安時代には日置荘の拠点があったようですが、築城年などは不明
城主は織田寛定と織田忠寛の二説が存在してまして…
織田寛定は織田大和守家に生まれた室町時代の人で、応仁の乱以降は尾張の南東部を支配していたお方…
織田忠寛は田楽織田家の当主である織田寛貞の子として生まれ、織田信長と信雄に仕えている人物…
案内説明板に、1560年桶狭間の戦いに向け、織田信長が清州城を出発し、進軍の途中でこの大クスノキに戦勝祈願をしてたと記されてたけど
ここの割と近くにある日置神社にも立ち寄って戦勝祈願を行ったという話が残っていて
織田信長が必勝祈願で立ち寄った…日置神社を参拝する!
織田信長は、必勝祈願として、日置城跡(雲龍神社)に立ち寄ったのか、果たして日置神社に立ち寄ったのか、両方立ち寄ったのか…真実は時空を超えて織田信長にきいてみないと分からないかも…
とりあえず妄想の中で織田信長にきいてみる???
必勝祈願として、日置城跡(雲龍神社)に立ち寄ったの??
「そぉだ!そおだ!」
じゃあ必勝祈願として、日置神社に立ち寄ったの??
「そぉだ!そおだ!」
妄想の中では、どっちも頷く織田信長さん!???
私の想像では、両方立ち寄ったとみた…???
細い路地を隔てて向かい側は公園になってまして…
ここも日置城の一部だったんだろうか…と古のロマンに想いを馳せて、ぼーっと佇んでいたら…
あの…別にやましいこと、何ひとつしてないんですけど…
歴史に関連付けて、妄想してただけですよ!!!???
ところで、どうして「中警察署長」限定??
「中警察官」でいいのに…どうして中警察「署長」???
フツーの中警察官にみられててもビビんないけど…「中警察署長」さんにみられるとヤバッと思うのかな…
だとすれば…ここで行われてた悪事は…相当な内容のものだったんでしょうか…???
いやあ妄想が広がる!広がる!!!
そんな…(どんなやねん!)…日置城跡だったのでした!!