1560年の桶狭間の戦いで討たれ命を絶った今川義元武将
そのお墓は
当然、殺害された場所、桶狭間古戦場公園にあったり
駿河の武将ですから、運ばれて??静岡県静岡市葵区にあったり
桶狭間と駿府の途中…で遺体を落としちゃった訳ではないでしょうが…豊川市牛久保町の大聖寺に胴塚があったり…
まあ、胴体と首を切り離して切り離してしまっているため、全国各地、愛知県から静岡県の間に他にも、お墓となっているところがいくつもあるんですが…
実は、東海市にもあるのよ!!
この周辺は、織田信長の勢力下であったはずなのに…
東海市の横須賀小学校の近くにあるのよ!!
この今川集会所のすぐ隣…
…の辻に木製の鳥居がありまして…
この木製の鳥居をくぐると…
ほら、その奥の石碑には…
じゃじゃーん!!
はっきりと…
今川義元公のお墓とはっきりと
奥には
祠が…今川義元公を祀ってあるのでしょうか…
その左側には
供養塔
復元…とあります…ホンモノは破壊されちゃったのでしょうか…
他にも取り壊されてしまったのか…ここに永代常夜燈があったことを標す石碑が…
なんでも、噂では…桶狭間の戦いで敗れた残党が…この横須賀の村へ逃げてきて、今川義元の遺体のなにか…たとえば髪の毛とか指とか…爪とかを持ち込んで、現在はここにない永昌寺に義元の遺体の一部を葬ったらしいのよ…
フツーなら、駿河の国へ逃げていきそうに思うけど…グーグルマップもない世界…私のような方向音痴の落ち武者であったなら…苦笑…十分に考えられる!!
その落ち武者は、ここに棲みつき、今川義元公をここで供養した…うん、十分に考えられる!!
でも、この周辺は織田信長の勢力下
堂々と今川義元公の供養をする訳にはいかなかったのか…
こちらの歴史を感じる墓碑には
あの今谷要蔵と刻まれた石碑の左側の墓碑ね…そこには
「今川義基墳」と漢字を変えて刻まれているのよ
碑の文字が「義基」となっているのは敵に見つかるのを防ぐためであったと伝えられているらしいけど…
織田信長軍の方がこれをみれば
「今川義元」を「今川義基」に替えたくらいではすぐにみつかっちゃうんじゃないかと思うんだけど…
ここは、なんなら「今川義元」をコテコテの「今川吉本」くらいにしておかないと……
織田信長の配下に建立されちゃってる墓碑をみて
で、辻本茂雄ふうに…茂造じいさんふうに
「許してやったらどうや」
といえば、なんの問題もなかったかも…
ああ、ボケがマニアック…汗
ちなみに1864年(元治元年)には,今谷要蔵という船頭が, 伊勢の海で難破しかけたとき,日頃から信仰していた「今川さん」に助けられたとして, 塚の周辺の地を買い取り、祠を建てたという話も残っているとか…
そのときの石碑でしょう…
当時は信長公が義元の首実験を行なっているので、実際、指1本でも義元の遺体を持ち出すなんて事は不可能なんじゃないかな…
とも思いつつも…生前に抜けてたのを拾った髪の毛くらいは、持っていたのかも知れない…いや、なにも持っていなくても、忠誠心だけは、この地に持ち帰ったのかもしれない…
でも、織田信長公にみつからないようにするには
やっぱ
「今川義元」と刻む名をコテコテの「今川吉本」くらいに変えとかないと…
チャーリー浜ふうに、織田信長がやってきて
「ごめんくさい、今川義元じゃあーりませんか」
とツッコまれたんじゃないかと…苦笑
今回のブログの〆も池乃めだかふうに
「今日はこれぐらいにしといたるわ」