東大阪でそろばん教室を運営しているの先生のブログ 関西珠算瓢箪山教場・石切教場

子供たちから教えられたこと、感じたことを想いのままに綴ります。

自律

2024-06-09 20:49:13 | 日記

 っていうのは難しいものです。特に子供達に「自律学習」をできるようになってもらうのは並大抵のことではありません。

 たとえば、炊事洗濯掃除に代表される「家事」を、自分から進んでする子供はほとんどいないと思います。一人暮らしを始めるとか、家族の誰かが入院するとか、そうした「しなきゃ行けない状況」に追い込まれてようやくやり「はじめる」ものだと思います。

 そろばんや勉強もそうです。子供達が今日この瞬間に勉強しないからといって、いきなり生活が立ちいかなくなることはありません。受験が近づいてきたり、人生の目標が見えてきたときに走り始める子供達がほとんどです。

 私たち「子供達を指導する者」は、こうして走り出したときに応援することはもちろんなんですが、いかにして「走り出したときに持っている貯金を増やすのか」に心を砕いています。そのために必要だと考えることをさせるわけです。

 最近は「アクティブラーニング」という指導が幅を効かせています。私から言わせれば「考えるための基本的な知識」を身につけ「させて」いない状況で、何を考えるんだと思います。小中学生の間に「知識をしっかりと身につける」学習をすることはものすごく大切です。そのためには「無理強いしてでもやらせる」という時期が必ず必要です。次にその知識の「使い方」を指導していくわけです。

 大人からすればかなり細かく分けた(ともすれば「そこまで細かく分けるの?」と感じることもあるでしょう)段階を踏んでもらう。その過程で「知識という自分に身についた武器」の使い方を知っていきます。そしてその武器を使って「未知」へと挑戦を始めます。

この過程を自律という

私はこう考えています。自律学習というのは謳うものではないと考えています。指導過程でどうしても自律学習へと移行することが難しい生徒もいます。誰でも自律的な学習が「同じタイミングで」できるわけではありません。個に応じた負荷をかけながら、自分で動き出すための種を蒔き続けないといけません。

 そのために最近は「対話を重視して叱る回数を減らす」という考え方も良し悪しだなあと思うことが増えました。あえて「叱られる」タイミングを作ること。叱られることで自分の良くない部分を気付き、そして向き合うこと。これを小中学生の間にしっかりと経験しておくことも、自律のために大切だと思うようになってきました。

 

 読み書きそろばん(計算)という基礎的リテラシーを身につけさせる

 

 という、指導の根幹はそろばん教室を開設して23年、一度もブレたことはありませんが、そのための方法論は常に自問自答しながら磨き続けているつもりです。どんなに時代が変わろうとも基礎的リテラシーは絶対に必要です。そしてある程度の負荷(理不尽な場合も)に耐えうるだけの強さと、その負荷をはねのけるための論理的思考力もまた必要です。

 自律学習を謳うことは簡単ですし、自律学習「風」の授業も実は簡単です。でも「本当に力の付く自律学習」は、集団指導の何倍も、下手をすると何十倍も力量が必要ですし、準備にかかる時間も半端な物ではありません(現実問題として、複数の先生方の実践を見せていただきましたが、私が自律学習の教室へ移行するには、最低でも6年(小学生1周)の時間が必要だと感じました。)

 私は「そろばんでの指導」と「塾での集団指導」を通して、自律できるだけの力を養ってもらう。この方針で自分の指導者人生をやり抜く。そんなことを考えている日曜日です。

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臨時休校のお知らせ

2024-06-03 09:17:49 | そろばんに関する中身
本日6月3日(月)・4日(火)は、検定試験明けの休校となっております。

そろばん授業はありません。お問い合わせは受付ております。

よろしくお願い申し上げます。
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ちょっとしたことに

2024-05-31 15:45:00 | 日記

 その方の本性って見え隠れするんですよね。

 たとえば言葉遣い。基本的に教える仕事をしている方で「上から目線」の考え方をしていて指導も優秀という方を寡聞にして知りません。「もともと優秀な子供」を「さらに良くできるようにする」という方ならたくさん聞いたことがありますし、現実にも知っている方が少なくないです。が、今現時点で学力がかんばしくないという子供達を伸ばしている指導者で「上から目線」の方は、本当に見たことがありません。

 これは「指導に自信を持っている」とは似て非なるものです。こういう方は、言葉や行動の端々になんとも形容のしがたい謙虚さがにじみ出てくるんですよね。逆に上から目線が染みついている方は、言葉や行動にそういうものを感じませんし、そういう風に一見感じても「嘘くさいせんさー(あえてひらがなです)」が反応してしまいます。

 とたえば「理解」を「理解させる」と「理解してもらう」という表現の違い。これであれば「理解させる」という表現の方がいいと思います。それは「指導者としてゼッタイに必要なこと」だという矜持(きょうじ)が感じられるからです。

 ところが「驚愕」や「感動」のような主観的な言葉で「驚愕(感動させる」と「感動していただける」という表現の違い。これだと「驚愕(感動)させる」という表現は途端に上から目線に感じます。特にSNSで気軽に発信する言葉に、こうした人となりが表れることが多いなと思います。

 あとはブログですよね。更新頻度にこだわって「うっすい中身」を連発してしまうとか、改行で一見長そうな文章に見せてその実中身がスッカスカとか…。自分ができることはさも当たり前にできると自慢するけど、自分ができないことはスルーとかもありますね。

 私ですか? できないことはできないと割と正直にお伝えしているつもりです。ただ、そう言い切れるまで相応の努力とアプローチを子供達にする時間はほしいというのはあります。教育というのは短期間で結果が出にくい(というか出ないとすら思っています)ものですから。今までで私の想いが伝わった最長記録は、小2でお預かりして高2ですから10年くらいですね…

 ちょっとお話が逸れましたが。生徒達から友達がしんどい想いをしていると相談された場合に、結構な頻度で「大人の(特に学校や塾の先生)が上から目線」という原因があるので書いてみました。

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筆圧と学力とそろばん

2024-05-19 12:26:02 | 日記

 そろばん学習は学力向上と相性がいい。特にタブレット学習が急速に根付いてきた昨今だからこそより強くこう思います。

 特に「筆圧と学力」は密接につながっていると思います。小学校低学年で計算がおぼつかない状態だったり、ひらがな・カタカナの読み書きがあやふやだったりする生徒は、例外なく筆圧が弱いものです。

 とはいうものの、筆圧が弱いと必ずお勉強に心配があるわけではありません。ただし、学年があがっても筆圧が弱いままだと、だんだんと読み書き計算に心配が出てきます。

 筆圧は単純に書く回数が多ければ多いほど発達する傾向にあることは、経験則から間違いありません。私は生徒の鉛筆の持ち方について割と声をかけるほうだと思います。低学年の間にある程度鉛筆の持ち方が正しくなって、筆圧がある程度の強さになると読み書き計算の能力も良くなっていく。この経験則を強く持っているので、なおさらに鉛筆の持ち方は気になりますし、機を見ては指導するようにしています。

 ※ここ10年(私の知る限りにおいて)、学校の先生が「手をもって」持ち方を指導することがかなり減っています。またひらがな・カタカナを書く回数も激減していると思います。タブレット端末での学習機会が増え、先生方との接触回数が減ることは、単純に筆圧を下げる方向に働いていると思っています。

 ※鉛筆の持ち方は良いものではない(独特な持ち方)であっても、筆圧が一定できちんとした文字をある程度の速さでかける場合は、持ち方を矯正して書く能力が落ちるよりはそのままの方が良いと判断していることもありますので、一律に持ち方を矯正しているわけでもありません。

 

 さて、ではどうして筆圧と学力がむずびつくのか?私には仮説があります。それは

「脳からの指令と体の動きが一致することで、記憶がより強く定着しやすいから」

というものです。

 

 塾で指導する生徒をそろばんの生徒に限定していなかったころは、学力の思わしくない生徒を中学生の時から預かることも少なくありませんでした。そうした生徒は総じて一定時間同じことをすることが苦痛でした。とくに「書いて覚える」ことを明確に避けました。プリントをじっと見たり。教科書を眺めていたりと。とにかく「書くこと」を極端に嫌がりました。

 書かないと仕方がない課題が出ている場合、数分に一度は手を何度も振って「手が疲れた」と言いました。集中すれば15分もかからないはずの課題に1時間くらいかけている場合もありました。

 

 塾の生徒をそろばんの生徒に限定してからは、こうしたことがずいぶん減りました。それは「そろばん学習が手を、指を動かし答えを書かないと先へ進まない」という「アナログ」な側面を強く持っているからだと思っています。そしてこの「アナログ」な側面が、子供たちの筆圧、ひいては「書く力」を鍛え育てていると思うのです。

 そしてこの「アナログ的な良さ」が学力を下からしっかりと支えてくれている。そんなことを考えています。そろばん学習をしてくれている期間が長いほど、取得したそろばん・あんざんの級位が上がるほど、明確に学力が上がっている生徒を見ていると、特に強くそう思うのです。

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懇談

2024-05-15 12:24:48 | 日記

 私の教室は毎月ご希望される保護者の皆様と「懇談会」を実施しております。「そろばん」はもちろんのこと、「お子様についての不安や悩み」または「学校での勉強に対する心配事」など、お子様に関すること全般についてお話しさせていただいております。

 そろばんを習い始めて最初の懇談でほぼお聞きするのが「こんなに深く懇談してもらえると思っていなかった」というものです。私からすれば「え?」という感じなのですが、、、。

 私個人の考え方なのかもしれませんが、お子様に関する情報を共有しないで指導をしていくというのは難しいと思うのです。こちらはプロですから「私情を一切挟まない」で目の前のお子様に対して指導することもできます。でもそれでは「お子様の成長の瞬間」を見逃すことになるかもしれません。お子様が出している「ちょっとしたSOS」に気がつかないかもしれませんし、「気がついてもめんどくさいから見過ごしておく」なんてことになるかもしれません。

 昨今、学校でトラブルが起きたときの先生方の対応に不満があるとか、こんな対応はありえないといったお話を聞くことが多くなりました。先生方の能力が落ちていることを否定はしません。これは社会学的な一般論としてのお話ですが、教員採用試験の倍率は下がり続けています。倍率が下がるということは志願者が減っているということですから、すなわち「優秀な人材を選抜する」という採用試験が上手く機能していなくなりつつあるということです。そうすると「一般論として」本来合格できない能力の人材も合格してしまうということが起こるのです。

 これは避けようのない事実です。でも「先生方の能力」が機能不全を起こすような状態では無いと思うのです。むしろたくさんのトラブルやクレームに繰り返し直面することで「先生方も見て見ぬふりをした方が楽だ」という感覚になってしまうのは必然だと思うのです。こうしたことがたくさん起ることで、先生方の対応が「浅いモノ」になってしまっている。これが先生方の能力が「落ちているように見える」原因の一つとしてある。私はこんな風に考えています。

 だからこそ「懇談」が必要だと思うのです。クレームを入れるのではなくて「子供についての悩み事・心配事を共有しておく」「先生なりの解決方法や対応方法を聞いておく」「家庭でできる学校との・先生との連携を取り筒の対応方法を模索する」などなど。

 私は保護者の皆様の悩み事・心配事に対して私自身の考え方や対応方法をお話しします。ご家庭でも「こんなことをしてみてはいかがですか?」と提案する場合もありますし、「それは求めすぎではありませんか?まずは今できていることをしっかりと喜んでほしいです」とブレーキをかけることを提案することもあります。

 これは「お子様を大切に見ているけれども、保護者ではない大人の視線で見守っている」からこそできることであると思っています。この想いは学校の先生も、習い事の先生も同じものを持っているはずだと信じています。でも、お話ししてみて「違う」と感じれば別の方とお話しすればいいとも思います。

 懇談というのは「情報交換」。その情報をもとにしてよりよい接し方を模索していく。そのためには懇談はした方がいい。こんなことを常々考えているというお話でした。

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