超人日記・俳句

俳句を中心に、短歌や随筆も登場します。

#俳句・川柳ブログ 

自分と出会うノエルの足音

2019-12-16 20:07:49 | 無題
昨日は知人の多く居る劇団の忘年会に参加した。
皆、俳優だけに宴会芸も構成・演出共にばっちりで、大いに楽しめた。
劇団主宰の脚本、演出の方が私の個性をプラスにとらえて笑顔で迎えてくれた。
劇団恒例の焼きそばとお好み焼きを肴に飲むという宴があり、
ダンスの担当の方々が、即興でダンスを踊って、一段と芸術性を示してくれた。
知り合った方に、あなたのテーマは何ですか?と訊かれ、考えた挙句に
「こころの宇宙」と頭を振り絞って答えた。
その方が見た夢や映像作品と第三の眼の話をするので、夢中で
南方熊楠の「すいてん(萃点)」という頭の道筋のすべての道が通る交点の話をした。
そのほか、ふだんなかなか話す機会のない劇団の人々と嬉しいことばを交わした。
最後に、劇団主宰の方が、参加者全員の今年の講評をお話ししていた。
さすが、劇団の飲み会である。その講評のなかに、部外者の私の講評も入っていた(笑)。
一人も仲間外れにしない、主宰のお人柄である。最後にみな表現者として精進しましょうと乾杯した。
帰って、脚本の「カルテット」、鶴見和子さんの「すいてん(萃点)の思想」、
映像の方イチ押しのトンデモ本の二コラ・テスラの「波動」の本など、会話と関係のある
本を注文した。それと、数日前に頼んだ、角田光代他訳の、プルーストの
「失われた時を求めて・全一冊」(これもある意味で無茶な企画)を待っている。
今日はやっとこ仕事を終えて、ケンプのボックスを引っ張り出して、
平均律クラヴィーアとあんぽ柿で束の間憩っている。

ほんとうはこころの宇宙を探してた自分と出会うノエルの足音
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三多摩の幼少の聖夜

2019-12-13 20:47:01 | 無題
私は幼少時、東京の三多摩に住んでいた。
たまのお出掛けは、吉祥寺の東急百貨店である。
母が洋服を穴の空くまで見て、その間、私は東急内の
本屋で立ち読みや本の物色して過ごした。
最後にパーラーに寄って、パフェかなんかを食べて
帰宅したものである。
最寄りの町は府中駅で、当時は西友と忠実屋が競って
集客していた。
忠実屋は駅から少し歩く。専門店街のようなものだったが、
ポスターとかバッヂとか子どもが好きな雑多なものが
眼を楽しませてくれた。
個人経営の小さなジーンズ店が忠実屋のそばにあって、
よくジーンズを買いに行ったものだ。
また踏切の近くに地方にしては大きなレコード店があった。
最後に買ったのはヒカシューのLPかもしれない。
クリスマス前には、母親が吉祥寺東急の玩具売り場に連れて行き、
ほら、欲しいものを選びなさいと言われて値段と相談して
買って貰っていた。だから家にはサンタクロースは来なかったし、
他の子がサンタさんを信じているとは知らなかった。
クリスマスは、昔の家庭によくあるように、小売店で
ローストチキンを買って、ケチャップご飯と一緒に食べた。
正月はゲーム盤などで遊んだ。
初詣では友人の子どもと大國魂神社によく行った。
元旦の大國魂神社までの道は、今の渋谷並みに混んでいた。
小学5年生ごろ、マクドナルドができ、徐々に近代化した。
府中伊勢丹は成人してから、よくアジオにパスタを食べに行った。
専門店街の壊れた時計がたくさん置いてあるマロコという喫茶も行った。
ディケンズの「クリスマス・キャロル」の夢のように、この時期、記憶がよぎる。

三多摩の子どもが今日まで生きてきて故郷を離れまた聖夜来る
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疲れを忘れ道に除雪車

2019-12-12 21:26:03 | 無題
クリスマス前のいい季節だが、それを味わう間もなく、仕事場と自宅を往復している。
年末年始に作文を前に進めるつもりだったが、それも叶うかわからない。
でも、最近、難解書も手つかずで、映画も余り見れないが、
小さなことに深い喜びを感じている。
ふとん乾燥機で暖めたふとんに入って、就寝する、とか、
家の湯船に肩まで浸かるとか、
あんぽ柿や柿やりんごを齧って珈琲を啜るとか、
すれ違った人にお辞儀をされるとか、そういう日々のふとしたことが、
無性に嬉しいのである。
忙しくて、難しい本をめくる余裕もないので、
そのぐらいのことしか、楽しみがないとも言えるのだが、
それで結構、ハードデイズナイトをこなせるから不思議だ。
11月に、今年のクリスマス前後のために、と買った、
ワルターのコロンビア録音全集を数枚聞いたり、
岡崎優作画の機動戦士ガンダム全1巻を読み返したり、
食事の合間に娯楽を入れて、降ったり止んだりの雪空の町を
静かに聖夜に向けて歩んでいる。

暖めたふとんや柿と珈琲で疲れを忘れ道に除雪車
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キタキツネとボルシチ

2019-12-09 20:20:53 | 無題
帰宅すると家族がにこにこしている。
どうしたのか聞いてみると、家のそばの川辺の木の下に
キタキツネが居たという。
えっ、キタキツネ?
噂には聞いていたがやっぱりこの辺にも棲息していたのか。
札幌市内と言っても都心から40分離れたこの辺はまだまだ
自然が残っている。
とは言え、私はまだ、キタキツネを見たことがない。
気ままに散歩する暇も余りないもので、北のいたずら者に
遭遇していない。
先日から、犬猫と違う足跡を川辺で見たと言っていたが、
正体は何とキタキツネなのである。
東京にいたときは、キタキツネは北海道の遠くにしか
いないのかと思っていた。
住宅地の近くに棲息しているとは思ってもみなかった。
それと食材店で東欧のボルシチの瓶詰めを久々に
見つけたと言って、ひと瓶300円ぐらいのボルシチを
5つも買って帰ってきた。
北の幸せが思わぬところにちらほらと落ちている。

東京で映画で見てたキタキツネ家の近所の木々にひょっこり
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見出された時を観る

2019-12-08 05:09:06 | 無題
買ってしばらく見る暇がなかった映画を観る。
マルセル・プルーストの「見出された時」の映画版である。
小説「失われた時を求めて」の各・名場面がぎっしりと凝縮されている。
フランス社交界の人間模様が綿々と描かれる。
友人関係、不倫、嫉妬、奇抜な性癖。すべてがすでに過ぎ去った第一次大戦
を中心に話が前後する。
鮮やかな思い出のなかの人々は次々と戦死し、病死し、老衰していく。
図書室のソファで紅茶とマドレーヌでもてなされて、少年時代の記憶が蘇る。
過去は、失楽園になって初めてまざまざと生きてくるのだとマルセルは気づく。
この浮かんでは消える過去を永遠化するのは文学しかない。
そのように、映画の終盤でプルーストの執筆の切っ掛けが描かれる。
社交界の演奏会で思い出の二重奏を聞いて、感傷的になり、涙が止まらない。
彼は最後に少年時代の自分と出会い、言葉を交わす。
「私は何度も死んでいる、あの娘もこの娘も今は昔だ、その度ごとに
私は死んでいる」とマルセルは少年期の自分に言う。
波打ち際に走り去る少年期の自分。それを見守るプルースト。
いちばん印象的だったのは、初恋の少女が不思議な仕草で年下の自分に
指を動かして見せた回想場面。数年後、あなたがかわいかったから気を引こうと
したのよ、と少女はマルセルに言う。
その不思議な指の動きが美しかった。
少年期の自分が海へ駆け出してゆくのを見て、マルセルは自伝小説の執筆を
決意する。
映画の最初と最後に長い記憶の渦を思わせる波のうねりが映って、映画は完。
複雑な人間関係や、ソドムの性癖は原作を知らない私にはよく判らないが、
映される光景がかけがえのない時を思わせ、美しい。原作を読んでなくても
プルーストの美意識の一端が分かる名作映画である。
私も眼を閉じて失われた時に浸りたい思いである。

初恋の少女の指が作り出す謎のサインが追憶に誘う

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