青い空とわたし

青い空の日  白い雲の帆船をみていると

どこかへ どこまでも Harmonyと

走っていきたくなります

家のアイリス

2014年06月25日 22時10分28秒 | 文芸・アート
6月25日(水)

今朝、朝食の時なにげなく出ていたランチョンマット。

あれっ、これアヤメじゃないかな・・




▲ Irises, 1989   Vincent van Gogh(1853-1890)  と文字が入っている。

iris ・・、アイリス? アイリスはアヤメのことだ

このランチョンマット、確かオランダのゴッホ美術館で買った4枚組の1枚。
知らなかった!我が家にも、菖蒲(アヤメ)があった!(笑) 



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夜、ネットで原画を調べた。 (原画はクリックで拡大)

 Irises

▲ ゴッホが自殺する1年前、自分で耳を切り落とす1か月前に描いた絵らしい。

ゴッホは青色を多用し、この絵にも病的に青~いアイリスが点々と描かれる。
一方で緑の長い葉は、情熱的にうねるように伸びる。
鎮静と不安定のないまぜろ。


ついでだから、モネの連作「睡蓮」の原画も。

 睡蓮

▲ 深~い青の水面(みなも)に、鮮やかなピンクの花々が浮かびあがる・・

いいねー。凡人にも分かりやすい美しさ。



『55歳からのハローライフ』 NHK土曜ドラマは

2014年06月11日 20時41分56秒 | 文芸・アート
6月11日(水)

今週土曜日6月14日より NHK総合で新しいドラマが始まる。 今、宣伝をしているから目に止まった方もおられるだろう。
原作は村上龍「55歳からのハローライフ」(2012年)。確か、発刊された時、図書館でこの本を借りて読んだ。
このドラマはその映像化。





主人公たちは、人生の折り返し点を過ぎて、何とか再出発を果たそうとする中高年だ。体力も弱って来て、経済的にも万全ではなく、そして折に触れて老いを意識せざるを得ない。 そういった人々は、この生きづらい時代をどうやってサバイバルすればいいのか? 

その問いが、作品の中心をなしている。(村上龍)

ドラマも小説と同じく、読み切り5話のオムニバス形式で、毎週土曜日に1話づつ連続放送予定だ。

第1話 キャンピングカー ~ 仕事一筋の人生を見つめ直した男  リリーフランキー

第2話 ペットロス     ~ 行き場のない愛情  風吹ジュン

第3話 結婚相談所    ~ 熟年婚活  原田美恵子

第4話 トラベルヘルパー ~ 老いらくの恋  小林薫

第5話 空を飛ぶ夢よもう一度 ~友との別れ  イッセー尾形


第1話が、なななんと、キャンピングカーだ!







おおー、妻と一緒にキャンカーで全国を周ろうと思って買ったのに、拒否されて・・・ショックだろうなあ。
もう少し働いてと言われたが、再就職もできない。

「オレにはなあ、もうキャンピングカーしかないんだよー
 もうあれしか残ってないんだよー !」 
  と主人公は叫ぶ。

悲惨な、ありそうな話だなあ・・

それで、どうする、どうなるのだろう?

一人での旅の終着点に、希望はあるのだろうか?


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○○○さん、△△△さん このドラマは見なくてはダメです。
我々の「男のロマン」が直面する厳しい現実も(笑)。





▲ リリーさん、このキャンカーはアメ車でしょ? 

こんなばかでかくて高いのを買うからダメなんですよ。トヨタのカムロードかハイエースにしなさい。
(そういう問題ではない?か)




(追記;ちなみに私は54歳9ヶ月で今のHarmonyを買いました)

アンドレアス・グルスキー展を観て(続き)

2013年08月31日 19時12分16秒 | 文芸・アート
8月30日(金)

【続き】

3.自然と人間の対峙 


▲ ツール・ド・フランス 2007 307X218.9

ツールドフランスとは毎年7月にフランスで行なわれる世界的に有名な自転車ロードレース。この映像画は山岳コースにさしかかった時のもののようだ。見物者、報道陣の人とクルマが延々と下から上に伸びているのが良く見える。一般的には、自然の雄大さvs人間のちっぽけさが、我々の好む感動的絵画のテーマによくなる。しかし人間の歴史は、物理的に自然を克服してきた歴史でもある。しかし、その克服・対峙の有り様は、現代の人間群集が一斉に行動を起こすと、神の目といおうか俯瞰(ふかん)的視点からは、なんかこっけいな姿に見えないだろうか?



▲ ライン川Ⅱ 1999 42.9X71.4

大型の映像画が多い中、これは比較的小ぶりの作品。しかし、この作品は2011年11月クリスティーズ・ニューヨークで、現役作家の写真作品としては史上最高額の約433万ドル(当時のレートで約3億4千万円)で落札された!!もの。
水量を一杯にさざ波を立てきらめきながら流れるライン川。緑の土手とコンクリートの道が横に走る。上には薄灰色の空が雲とともに広がる。これも人間の自然との対峙(治水)の有り様を描いたといえる。

グルスキーは、より美しい画面を作りあげるために川の対岸に密集する建築物をデジタル技術によって消し去ったとか。それにより抽象度の高い、グルスキーが到達した崇高な世界が広がったと、パンフレットに書いてある。

しかし、オレだってと思って今日の帰り道に撮った、お茶畑と道路と向こうに小学校と空。これだってグルスキー風だろう? え、自然との対峙が足りないって? じゃ、小学校を削除しようか(笑)。

 お茶畑(拡大クリック)


4.幾何学的な美しさ 



▲ カミオカンデ 2007 228.2X367.2

これは、岐阜県飛騨市の神岡鉱山の地下1000mにあるニュートリノ検出装置、スーパーカミオカンデを題材にしている。地下深く埋められた巨大な円筒形のタンクは、純水を蓄え、内側は光電子倍管とよばれる無数のセンサーで覆われている。円形の空間の中で、黄金色の光が均質的に広がっていく無機質な眺めは、最先端の科学に導かれる現代社会のこれからの有り様を示唆するものではないか。
しかし、圧倒的な幾何学的文様は、それだけで美しい。結晶とか、分子、原子等の自然界の根本的有り様も、幾何学的フォルム。美は幾何学に戻る?



▲ バーレーンⅠ 2005 306X221.5

金に飽かして砂漠の地に作り上げた高速道路。幾何学的文様の極致。しかし、本線と幅広い路肩が複雑に織なし過ぎて、どこがどうなのか判らない。ここを走ったら、ナビも絶対混乱する(笑)。



▲ スキポール空港 1994 61.5X76.4


私も利用したことのある非常に機能的なオランダの空港。空港ビルに入っている顧客との商談のために、日本から日帰り!で往復したことがある。 遠近法が強調された構図。平坦な内部のグリッド状の床。外部に拡がる芝生と滑走路、さらに遠くの風景も自然に右側に収れんしていく。明るく透明感の満ち溢れた空間で、私の大好きなイメージだ。


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■ グルスキー画・魅力の秘密

彼の映像画の特徴として、1.パノラマ的細密性、2.人間集団の重視、3.自然と人間の対峙、4.幾何学的美しさ、の4つに私が便宜的に分類。そのうえで、それぞれの特徴を表す代表的な映像画を、今回展示された65作品の内、公開画像を用いて示してみた。

しかし、彼の映像画が「写真のようであって写真ではない」所以は、写真の被写体(題材)の選び方のユニーク性はもとよりなのだが、むしろそのデジタル処理にある。ネタバレ的になるため、この話題はこの後半に持ち越した。その秘密とは。

1.複数の焦点を持つ写真の合成

我々の目は、一点を見つめるとそこに焦点が集中して、その周りの対象物は意識に上らないようになっている。カメラは、焦点を合わせたところ以外の周りは映らないわけではないが、焦点はぼけてくる。グルスキーの映像画は、近くも遠くも焦点があっている。即ち細部までが均等にクリアなのだ。これは、おそらく複数のカメラで左右、遠近を同時に撮って、のちに一つに合成しているはずだ。
バンコクでの家具作りの作業場の画像も、実際の作業場はあんなに大きい必要はないし、おそらく巧妙に張り合わせていったのだろうと思う。


2.まったく無いもの追加、有るものの削除、の修正

ストップピットの中央のレースクイーンの二人は恐らく、他のシーンからの切り抜き追加だろう。ストップピットに彼女達が待機している必要性がないからだ。いた方が、もちろん画像としては面白いが。
コレクションでのモデルさん達も、顔、髪型等を子細に眺めると同一人物とみなされる者が数名いる。恐らく、違う写真での同一人物を貼り付けたのだろう。

写真の合成、修正で作り出された画像は現実ではない。恐ろしく手間暇を掛けて作り出された虚構なのだ。「アートは現実をそのまま写し出すべきではない」というグルスキーの言葉は正しいだろう。

3.最終映像画へ至る自らのイメージの独創性

しかし、デジタル写真の合成、修正のコンピューター技術を持っていたところで、彼のような映像画を制作できたであろうか。無理だ。できない。例えば、カミオカンデの制作では、もとの写真には水は張ってなかったという。そこへ、コンピューター技術で水を張り、船頭の乗る船まで浮かばせる思いつきが必要だ。そのことにより、単なるグラフイックアートではない、深淵、神秘的なイメージの物語性を持った画像ができた。

1.俯瞰的センス、2.集団的人間への感度、3.自然の撮りこみ方のセンス、4.幾何学的な美意識等の、事前イメージングセンスがなければできない。

余談ではあるが、グルスキーの集団的人間へのセンス、幾何学的な構造への美意識などは、ドイツ的な特徴ではないかと思う。先日NHKのBS歴史館で、ヒットラーのもとで、ベルリンオリンピックの記録映画等を制作したレニ・リーフェンシュタールの伝記を観た。ナチスの宣伝映画には違いないがその美術的映像の価値は今でも評価が高い。空を背景に躍動する選手へのカメラの追い方は、計算された構図そのものだった。

 民族の祭典


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最後に、アンドレアス・グルスキー氏にご登場願おう。



▲ 1955年に旧東ドイツのライプツイヒで生まれ、幼少期に西ドイツへ移住。
1977年から1980年まで、エッセンのフォルクヴァング芸術大学でヴィジュアル・コミュニケーションを専攻し、その後、1980年から1987年まで、デュッセルドルフ芸術アカデミーで写真界の巨匠ベルトン・ベッヒャーに師事した。
グルスキーは2001年にニューヨーク近代美術館で大規模な個展を開催し、一躍世界にその名が知られるようになった。
現在、ポンピドウセンター(パリ)、テート(ロンドン)、ニューヨーク近代美術館をはじめとする世界の主要美術館が彼の作品を所蔵している。


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さあ、全部観た。出よう。



▲ 出口には、カミオカンデの複製画像が同一サイズで掲げてあり、ここの前だけは写真が撮ることができた。
「そう、そのポーズで・・」 
(となりの若者が言っていた)




▲ 出口の前には、休憩用のチェアが並んでいる。。 

縦・横の無機質の構図に、集団で無言で休む人間たち。背景に青い空がのぞく。
うん、グルスキー的シーンだ!! パシャ。

2階に上ってみる。見下ろすと。。




▲ 点在する丸テーブル。幾何学的文様だ。そこにおもいおもいに座る個々の人間たち。
食事を買い求めるために列をなす人達。上下の距離を感じさせる立体的構図。

うん、これもグルスキー的だ!! パシャ。

オレの感性もインスパイヤーされて、なんか磨かれてきたなあー  (笑)





▲ 国立新美術館を出る。日本で5番目の国立美術館として2007年1月に開館。
黒川紀章の最後の設計だった。

ありがとうよ。初めての美術館、そしてアンドレアス・グルスキーさん。

精進するよ。








アンドレアス・グルスキー展 HP

関連日記 :写真展「梅佳代展 UMEKAYO」を観て

アンドレアス・グルスキー展を観て

2013年08月30日 23時00分00秒 | 文芸・アート
8月30日(金)

今月初めの日経アートレビューに、小説家・平野啓一郎が先般の梅佳代展に引き続いて、また美術展を紹介しているのが目に止まった。

アンドレアス・グルスキー展(7/3~9/16)。ドイツ現代写真を代表する写真家だそうだ。日本でも何度か作品が紹介されてはいたが、個展は日本初だとか。平野氏の批評は、難しいことは省略して 「ただそこに実現された美に呆気(あっけ)に取られるだけである」 と。

梅佳代展も圧倒的に良かったから、平野が言うなら・・。今日は休み、クルマでのお出かけなしなので、猛暑ぶり返しにも負けずに、都心にまた出かけてきた。



▲JR原宿で下りる。久しぶりだ。すると駅の前に・・なんじゃ、これは!




▲ 若い、髪の長いオンナがトラックの上で横たわっている!しかも、白いワンピースの小さい女の子を、手を伸ばして捕まえようとしているではないか!

お前のスマホに、取り憑く。貞子3D・・」 ああ、あの番組の宣伝か。
今晩9時からフジテレビでの「貞子3D」(2012年)の・・録画予約してきたから、すぐ判ったよ。



原宿から千代田線に乗って、乃木坂6番を出ると「国立新美術館」(六本木)に直結していた。



▲ うーん、えらく近代的な建物だと、おのぼりの私は感心しながら美術館へ向かった。

家人に仕事上のお客さんが来るからと、追い立てられるように家を出てきた私だが、もう12時を過ぎている。まず、食事をしようと軽食カフェに入った。



▲ カフェテリア カレ。CARRE か。 カレーじゃない、「四角い」のカレ(仏語)だ。



▲ 丸いテーブルに丸いプレートで持ってきたのは、シーフードスパゲッティ800円。うん、美味しかった。



さあ、グルスキー展に入ってみよう。



▲ 首から下げてまだ電源オンのままのデジカメを見た、入り口の案内嬢からは、「電源を切ってくださいね」と優しく言われた(と思った)。ハイ、分かってます。撮影禁止ね。

ということで、以下は公表されている映像をもとに、きょうの感動と発見を伝えたい。


まだ、未消化のところがあるも、速報性をも重んじる私のブログなので、載せながら振り返っていってみたいと思う。


■ グルスキーの映像画その特徴

グルスキーの、写真のようでいて写真でない不思議な映像画を、その特徴に注目して、私は便宜的に以下の4つに分けてみたいと思う。

1. パノラマ的細密性 


▲ 99セント 1999 207X325

99セントの商品で埋め尽くされたディスカウントショップ。さしずめアメリカ版100均ショップ。手前の棚には、”3FOR99C only" の表示のもとに、Kit Kat、Oreoビスケット、JellyBeans 等々の菓子類の袋物がわんさか積んである。映像画に近づくと、それらの名前が皆判るのだ。はるか奥に並べてある商品ですらアメリカ人ならそれが何なのか判るはずだ。なんせ、この映像画は縦2mX横3mのバカでかいからだ。
棚と柱が縦横に行き交う構図自体の堅牢性、それに守られる形での、細密な部分。全体を俯瞰すれば、商品の並べ方は規則正しく単調、しかし目を凝らしていけば、無限に細かな文様に入り込んでしまいそうな複雑性。これらは、グルスキーの共通の特徴だ。

人間は、全体を分かりたいという欲求と、細部にもこだわりたいという両面の心理的追及欲を持つと思う。グルスキーの映像画は、共に満たしてくれるところに大きな魅力がある。

更に、グルスキーの映像体は現代的メッセージ性を持つことが多い。この↑映像なら、消費者はとにかく安く買いたい、販売者はとにかく多く売りたいという大量消費時代下の熾烈な攻めぎ合いを感じさせる映像、ということになろうか。




▲ 図書館 1999 43.2X69.6

どこかの開架式の図書館。2段目の右寄りの所には青いリュックを背負ったた読者が立っている。お、1段目にも左寄りに背広姿の人がいる。



▲ パリ、モンパルナス  1993 187X427.8

パリのモンパルナス地区のアパルトマン。どちらかといえば低所得者向けのアパートだろう。しかし、個々の生活は厳然と有る。近寄って観ると、カーテンは皆さまざまに付けている。家具も色々かいまみられる。しかしまあ、全体を俯瞰すれば、アリの巣みたいに、せせこましく、そこで何を何のために守ろうとしているのか、という思いにふと、かられる。



2. 人間集団の重視 


▲ ピョンヤン 2007 307X215.5

北朝鮮の年に1度のマスゲーム大会。国威発揚のために、こんな大規模に動員できるのは、唯一残された全体主義国家の北朝鮮だけ。後ろの花模様も人文字だよ。しかし、君よ笑うなかれ。人間は集団的生物。集団で徒党を組むことで生き抜いてきた種なんだ。日本だって、いつなんどき集団自決で崖から飛び降り始めるか知れんよ。
救いは、この子たちの顔を子細に、近づいて見てごらん。疲れたような顔の子も、少しふてくされたような顔の子も混じっている、やはり個々の違いはあるようなんだ。



▲ バンコク (だったと思う)

な、なんだ。と思う大映像。上から下まで、人人。ミケランジェロの最後の審判、みたいだ。竹細工みたいなもの、家具の制作に従事している。横に走る黒い何本もの線は、天井に張られた蛍光灯の電線のようだ。しかしまあ、皆オレンジ色の制服を着て・・。




▲ F1 ピットストップⅣ 2007 186.8X506.5

左側のチームの背中にはTOYOTAの文字が、右側のチームの背にはHONDAの文字が読み取れる。真ん中には二人のレースクイーンが、セクシーな格好で立っている。上部の段には、ギャラリーが思い思いのポーズで、下のピットストップを眺めている。かたや、ピットストップの面々は、こんなに要員が必要なのかと思うほど多人数が、クルマに群がるように整備している。ピット要員の目的は全員同じ。できるだけ早く正確に整備すること。共通目的を持つと人間はこんなにも協働するのか、と思わしめられる。しかし、目的を共有しないギャラリーは傍観的・・。メッセージは、共通目的の支配力の強さだろう。



▲ V&R 2011 104X205.15

どこかでのコレクションだろう。モデルが独特の表情で両方向から歩いてくる。上のストップピットが男の世界の集団で血道をあげている様子とすれば、これは女の世界。女の最大関心事、自分をいかに美しく見せるかの世界で、同じように腰をひねりながら歩いてアピールすることに熱心になっている。観客もまた食い入るように見入る。

全体主義国家では、国家維持のためにマスゲームに熱をあげ、低開発諸国では食うために家具を一斉に作り、先進国ではどーでもいいことに(笑)みんなで熱中する皮肉・アイロニー、ということだろう。
人間は集団的行動をとることで、生き延びてきたのだが、そしてそのDNAはなくならないだろうが、これからの集団的行動の意味は何なのだろうか、というメッセージか。




▲ このモデルさん達の映像体は出口に掲げてあった。


まだ、3、4の考察が続くが、疲れたのでまた明日。

宮崎駿・映画「風立ちぬ」を観て

2013年07月22日 16時26分02秒 | 文芸・アート
7月22日(月)

宮崎駿(みやざきはやお)監督の最新作、「風立ちぬ」が先週土曜日7月20日から一般公開された。

今日は、休暇日であったので、さっそく映画(アニメ)を近くのシネマコンプレックスに観に行った。
観客は平日だからか若い人が大半だった。



主人公・堀越二郎は太平洋戦争での戦闘機ゼロ戦を設計した実在の技師。映画は彼の生涯を元にして宮崎駿が物語を創作したもの。


【あらすじ】

 二郎

二郎は、空の上を自由に飛ぶ美しい飛行機を夢見て勉学のため上京する。その途中遭遇する関東大震災の中で、生涯の女性・菜穂子と出会う。二郎は、大学卒業後飛行機設計技師として抜群の頭角を現し、大空への夢を実現していく。

 菜穂子

そんな時、避暑地(軽井沢)で再び菜穂子と出会い結婚を約束する。しかし、菜穂子は結核を病み二郎に「あなたは生きて」と言い残して亡くなる。ここは、堀辰雄の小説「風立ちぬ」の筋書きを下敷きにしている。敗戦後、二郎は空を翔ける飛行機の夢も菜穂子も失うが、荒井由美の「ひこうき雲」 YOU TUBEのメロディーをバックに、「生きねば」という決意を新たにする。


【感想】

この映画は極めて理念的だと思う。宮崎駿が理想とする考え方を、既存の文芸プロット(筋書)をつなぎ合わせて、全部詰め込んだ感じがする。
空を飛ぶことは、風の谷のナウシカ、紅の豚等、彼の作品に頻出する、彼の本源的な夢だ。その同じ夢を追った堀越二郎をいつか作品にしたかったのだろう。
愛する者の理不尽な死、愛と死、も頻出するテーマ。これを抒情的に美しく描いた堀辰雄の「風立ちぬ」とのドッキングは、絶好の筋書きと、美しい野山シーンを可能にした。最後に流れるユーミンの「ひこうき雲」自体、空に憧れを持って早逝した女同級生を悼んだ初期の歌であり、できすぎのようなコラボとなった。
また、宮崎駿は、自立し自ら運命を選び取っていく女性像を理想として描くことが多い。菜穂子もまた自ら結核療養所を出て、二郎と結婚し一時的にしろ結婚生活を経たあと、書置きとともに療養所へ戻るといった具合に、自分の死に当たっても自立的に行動する女性として描かれる。
さらに、宮崎駿はとにかく美しいシーン、絵画的な場面を追求してきた。アニメの利点は理想的な美しさを自由に創作できること。吐血のシーンはあるが、他は美しく青い空と雲、緑の草原が今回も目いっぱい表現された。

この映画の副題は、
  堀越二郎と堀辰雄に敬意を込めて。 「生きねば。」

とある。

繰り返しになるが、彼の理想とするものを、彼はこの作品にすべて集約的に込めたかったかのではないだろうか。試写会を観て宮崎駿は号泣されたと伝えられるが、その集大成感からだろうか。だとすれば年齢からしても、彼の最後の作品になるような気がする。
私自身は、「生きねば」を最後のテーマにするならば、オリジナルな描き下ろしのストーリーにしてほしかった気もする。しかしそれは、堀辰雄の原作の筋運びとの違い等に、どうしても私がこだわってしまうからだろう。もし、予備知識を持たずにこの映画を見れば、もっと素直に初めての「風たちぬ」として楽しめるかもしれない。
それとも、予備知識があるならむしろ、既存の小説、楽曲との合作の妙(本歌取りの妙?)をそのまま楽しめば、いいだけなのかもしれない。

この映画をどう評価するかは、ロールシャッハテストみたいなもの。その人の性格や価値観を反映して、見る人によって絵は変わる。残念ながら私には、納得感のある絵には見えなかった。






関連過去記事 : 「風たちぬ いざ生きめやも」 2012年9月8日投稿

(私の過去記事↑は、ここ数日、私のブログ記事でもトップ記事になってしまった。これは明らかにこのジブリ映画を契機に一般の方が原作を検索し、私の上記記事を読んでくださる方が増えたためと思われます。私にも思い入れのある記事の一つのため、非常にうれしいことです。ありがとうございます。)



写真展 「梅佳代展 UMEKAYO」 を見て

2013年06月15日 00時00分52秒 | 文芸・アート
6月14日(金)

昨日の日経新聞アートレビュー欄で、作家・平野啓一郎が 梅佳代(うめ かよ) 氏の写真展を紹介していた。
梅佳代?  だれかよー? 笑



「日常をユニークな視点で切り取った写真集『うめめ』で第32回木村伊兵衛写真賞を受賞し、個性派の若手写真家として注目される梅の個展。初期の『男子』『女子中学生』シリーズから新作まで紹介する。」 (日経新聞)

普通の批評家の紹介なら気にも止めないが、平野啓一郎の「空白を満たしなさい」を今読んでいるところなので、オヤっ?

それに、こうして写真中心のブログをアップしている私としては、写真にはやはり興味がある。
「新宿だし、行ってみるか」と、(生まれて初めて)写真展というものに行ってみた。




▲ 新宿西口から初台の方へ20分ほど歩いて、東京オペラシティビルのアートギャラリー3Fに来た。
埼玉のいなかもんの私は、もちろんこんなところは初めて。受付で入場料1000円を払った。




▲ 展示場への回廊には、入り口にもあった、幼児が空を見上げて、ポテトスティック(じゃがりこ?)をバラバラこぼしている大きな写真が。
(キミも、青い空に驚くよね?)



▲ 展示場は5つのセクションに分かれていた。大阪での写真専門学校時代に仲よくなった近所の『女子中学生』と小学生『男子』を撮ったシリーズ。 郷里石川県能登の『能登』そして祖父を中心に家族を撮った『じいちゃんさま』。 そして、梅の本領が発揮するストリートスナップ 『シャッターチャンス』シリーズだ。


1 『女子中学生』



▲ この写真↑はなんてことはないのだが、性への関心をあっけらかんとパフォーマンス化した写真が多数出展されていた。見る方は、常識的に一瞬ぎょっとしたあと、笑ってしまったりするのだが。当時、梅も10代。年齢の近さからくる性への共通の好奇心が、撮る者と撮られる者の間で共振して可能になった、青春おバカ写真記念碑。(どういうパフォーマンスか知りたい人は、見に来るか写真集を買うこと・笑。 でも親御さんは嘆いているだろうな・笑)


2 『男子』





小学生の男子はもっと単純。大人の反応を期待して、自分の「例外性」を記録してもらいたくて、ヘンな顔をして変わったパフォーマンスを、梅の前で繰り広げる。カメラを向ける梅は「うめかよー」つまりUMEKAYOと男子に慕われたようだ。この年代の男子の機微に共感しつつも、冷静で爽やかな梅の視点、関係性が浮かび上がってくる。私も小学生のころが一番ヤンチャで、突拍子もないパフォーマンスをやって、先生に叱られた。そうしたかった時代。


3 『能登』 『じいちゃんさま』



▲ 母校の生徒、現地の隣人を撮る。
さわやかな光と風にのせるようにして、能登の自然と人を展示場に運んでくる。




▲ 郷里に残してきた妹、弟達の祖父(じいちゃんさま)への愛情表出の日常を、梅もまた愛情を込めてシャッターを切って残そうとする心情が伝わってくる。1998年から2013年1月の祖父の写真が展示されている。当年93歳。初期の祖父の表情は、うれしそうに孫のポーズ要求を受け入れているが、最近の祖父の表情は無表情。歳とともに感情が枯渇したところまで、カメラは冷徹に映し出してくる。そこまで読み込むと、切なくなる。




▲ 故郷の飼い犬も生き物として被写体になる。
この犬はカメラを構える梅を見つめる。もう一匹のリード線がおのれの頭上にひっかかっても気に留めずに、こちらを見つめる。もう一匹は、そばにいる梅にまったく無頓着。この瞬間、二人(人vs犬か・笑)だけの関係性・存在が永遠に記録される。


5 『シャッターチャンス』

日常のなかのちょっとしたアクシデントを、もう一度冷静に見直すと、なんとも奇妙なアンバランスな風景がそこに起きている。そこに気づいたときに、湧き上がるなんともいえぬ可笑しみ。そのような可笑しい場面を切り取るセンスは、梅は抜群だ。このセクションではあちこちでこぼれ笑いが聞かれた。ここの写真はお宝、必見だけにネット上でも制限されているようで、これ↓以外ご紹介できないのが残念。



▲ コインロッカーの前に、おじちゃん、おばちゃんが集まって。「じいちゃんは、どんくさいわね。ここはこうして、ああして開けるんよ。ほらやったげる。」まわりのおばちゃんも、一応関心ある振りして見守っているけど、心のうちは、「はよせんかい」かも。(笑)右から2番目のおばちゃんの、黒のロングスカートと白のソックスが、なんともお歳を現していると思いませんか?

とまあ、梅の切り取るストリートスナップは、じっと見ていると、そしてその被写体の関係性を考えていると、おかしみが込み上げてくる。そして、さらにじっと見ていると、そこに切り取られた場面の可笑しさは、今度は自分に語りかけてきて、被写体と自分の関係性をも問うてくるのだ。
「笑うな年寄。オマエが通る道。」じゃないか? といった具合に・・



いくつか気づいたこと  

1.梅は、単なる風景写真は撮らない。人か生き物が中心。われわれの最大の関心はやはり、愛情を注ぎ、注がれることを求める『人間』だからだろう。実は私が好んで撮る自然も、人間が片隅にでも写ると、写真が生き生きしてくることは感じていた。

2.その写真から、被写体となった人物のその瞬間(とき)の「思い」が浮かび上がってくるような写真、時には思いの食い違いすら想像しうるような写真が最高に面白い。

3.撮影者の撮影意図、訴求点が推し量られる写真も、高度な楽しみになる。もっとも、その隠された意図は一般に受容できるものでないと、逆効果だろうが。

4.梅は、その写真に日時、時刻を刻印している。私と同じだ。恐らく、写真に瞬間(とき)の記録性を重視するのだろう。


最後に、梅佳代氏ご本人に出ていただこう。



▲ 梅佳代(うめ かよ) 1981年石川県生まれ

キャノンEOS5のストラップを頭からぶら下げてくれて、ご本人もパフォーマンス精神にあふれているのが可笑しい。
能登の海岸だろうか。


午後3時過ぎに入館し、オペラシティアートギャラリーを出たのは5時近くなっていた。



▲ ギャラリー前で

写真は一瞬を封じ込めることで、その瞬間(とき)を永遠なものにしてしまう不思議な力を持つ。
しかも写真は、記録された途端に永遠になると同時に、その瞬間はもはや取り戻すことも修正もできない過去のものとなったことを、強制的に見る者にわからしめる。
そして写真は、往々にして今の自分に問うてくる。今のままでいいのか? と。
(cf. 荒井由美「卒業写真」)


惰性ではなく生き生きとしていると感じる 『今』 を創り出したい、それによって悔いの無い瞬間(とき)の連続を残していきたいと思った。

(今日は格調が高いなあ・笑)



参考出典: 梅佳代展 公式ホームページ
        「卒業写真」YouTube

伊豆の踊子と天城峠を越えて

2013年02月22日 20時17分01秒 | 文芸・アート
2月22日(金)


「道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨脚(あまあし)が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓(ふもと)から私を追って来た。
私は二十歳、高等学校の制帽をかぶり、紺飛白(こんがすり)の着物に袴(はかま)をはき、学生カバンを肩にかけていた。」




「伊豆の踊子」のこの書き出しに引かれて、とうとう今日は、天城峠まで来てしまった(笑)。

私はSora。ここは、旅の踊子たちと私が、湯ヶ島から南伊豆へ下る前に通り抜けた、旧天城トンネルだ。


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「伊豆の踊子」は、先の「雪国」とともに川端文学の双璧を成す作品。



そのあらすじは、新潮文庫のカバー書きによると;


二十歳の旧制高校生である主人公が孤独に悩み、伊豆へのひとり旅に出かけるが、途中旅芸人の一団と出会い、一行中の踊子に心を惹かれてゆく。人生の汚濁から逃れようとする青春の潔癖な感傷は、清純無垢な踊子への想いをつのらせ、孤児根性で歪んだ主人公の心をあたたかくほぐしてゆく。雪溶けのような清冽な抒情が漂う美しい青春の譜である。


孤独に悩み、ひとり旅にでかけるか・・、私みたいじゃないか(笑)。

今週末は、伊豆地方もずっと晴れ。じゃあ、踊子の歩みめぐりと、南伊豆の河津桜の二つを観てこようと今日の朝、8時半に出立。
同行者は、当ブログ専属モデルのdecoさん(笑)。

小田原厚木道路、箱根新道を乗り継いで、中伊豆の修禅寺温泉、湯ヶ島のいわば踊子街道を経て、道の駅「天城越え」に着いたのが、午後3時を過ぎていた。小田原厚木道路での事故渋滞で大幅に遅れてしまった。


 道の駅天城越え

▲ 天城湯ヶ島のあたりは、清い水を活かしてのワサビ栽培が盛ん。
道の駅の特産物も、ワサビ関連が多かった。



▲ この寒いのに、ワサビソフトを買う。生ワサビをバニラソフトに乗せただけのもの。
いつもは、ソフトが垂れてくるのですぐペロペロやるのだが、いつまでたっても溶けず、形がくずれない。

(ここの店は「オリジナルわさびソフト」。後でわかったが、隣の店は「元祖わさびソフト」。後者はソフトにワサビを溶かし込んであり、緑色のソフトになっている。後者の方がワサビソフトにふさわしい。)

踊子たちと主人公「私」が天城越えをしたトンネルは、この道の駅から近い。下田街道(天城街道)414号を、左脇にそれる細い林道を上っていく。(見落としやすい)



▲ 旧天城トンネルへ至る林道は舗装されていない。対向車が来たら、キャンピングカーではアウト。すれ違いも、バックも難しいだろう。
今日は季節はずれで平日だから、走り上がっただけ。夏のシーズンは絶対止めた方がよい。



▲ ということで、ブログトップの旧天城トンネル北口へ来たわけだ。

田方郡天城湯ヶ島町と賀茂郡河津町をつなぐこのトンネル(正式名・天城山随道)は、明治38(1905)年に完成。これで北伊豆と南伊豆の距離は一挙に短縮し、難所の天城越えは解消したとのこと。

長さ446m、高さ横幅ともに、3.5m。

高さ3.5m? おっ、Harmonyの車高は3.3mだから、通れるじゃあないか!

もっと、よく見てみよう。




「暗いトンネルに入ると、冷たい雫(しずく)がぽたぽた落ちていた。南伊豆への出口が前方に小さく明るんでいた。」

小説どおりだね。トンネルの向こう側に出口が小さく見える。




▲ 中に入る。電燈がぽつぽつと大きな間隔で、点いてはいるが。 ほぼ真っ暗だ。
いったん、入り口に戻ろう。


戻るや、私はHarmonyをトンネルの中へ、突入させていた(笑)。

Harmonyの車幅は2m弱だから、対向車が来たら絶対すれ違いはできない。
ビームを点けて、向こうの出口へ私の進入を知らせながら進行した。「来るなよっ。絶対!」



▲ やった、抜けられた!! 良かった! 

「あなた、いつもこんなことばかりしてるの?!」 



旧天城トンネルの反対側、南口の方は比較的広かった。414号へ戻る林道も舗装されており、ところどころにすれ違いエリアがとってあった。したがって、トンネルをクルマで見にくるのなら、南口の方が安全だ。

414号をしばらく下っていくと、七滝ループに来る。



▲ 2層になっているループをクルクル降りてくるのは、ちょっとスリルあるよ。

降り切ってから、少し戻る形で登ると、河津七滝の観光名所へ来る。

河津七滝(ななだる)は、大滝(おおだる)をはじめ七つの滝(たる)が、川津川渓流沿いに点々と在るところ。



▲ 川に沿って遊歩道が整備されており、町営無料駐車場にクルマをおいたあと、川沿いを上っていく。
夏なんかは、気持ちいいだろうね。



▲ 七滝の真ん中ほどにある、初景滝(しょけいだる)には、太鼓を下げた踊子と「私」の記念像があった。

小説では、七滝を二人が見たという記述はどこにもないが、当時の天城越えを想像するには、まあいいか。



▲ 初景滝を前に、decoとPoron。これも小説とまったく関係ないが。


七滝を後にして、次にクルマを停めたのは、同じ414号下田街道沿いの湯ケ野温泉だ。

小説の「私」は、修善寺温泉1泊 ⇒ 湯ヶ島温泉2泊 ⇒ 湯ケ野温泉3泊 ⇒ 下田1泊した後、大島へ向かう踊子たちと分かれる。

湯ケ野での宿泊は一番長く、かつ「私」の踊子へ寄せる気持ちが決定的になる所であり、小説の場面としては重要な場所なのだ。

湯ヶ野は、今も旅館が7軒ほどしかない河津川沿いの小さな温泉場。「私」は川向こうの宿屋に泊まる。



「私達は街道から石ころ路(みち)や石段を一町ばかり下りて、小川のほとりにある共同湯の横の橋を渡った。橋の向こうは温泉宿の庭だった。」

実際、この石の坂道↓を下って行く。



▲ おじいさんが、頭に手ぬぐいを載せて登って来た。下の共同湯からの帰りであろうか。




▲ 確かに、川には木の橋が架かっていて、向こう側には今も宿屋がある。現在の福田屋。
ここに、「私」は泊まった。
一方、踊子たち旅芸人5人は別の「畳や襖(ふすま)も古びて汚なかった」木賃宿へ泊まる。

ここで、小説で最も印象的な場面の一つが展開される。それは、踊子へのやるせない思いでろくに眠れなかった「私」が、翌朝9時過ぎに部屋から、川向うの共同湯に踊子の姿を見た時のシーンだ。


「『向こうのお湯にあいつらが来ています。ほれ、こちらを見つけたと見えて笑っていやがる。』
 彼に指ざされて、私は川向こうの共同湯の方を見た。湯気の中に七八人の裸体がぼんやり浮んでいた。
 仄暗(ほのぐら)い湯殿の奥から、突然裸の女が走り出して来たかと思うと、脱衣場の突鼻(とっぱな)に川岸へ飛び降りそうな恰好(かっこう)で立ち、両手を一ぱいに伸ばして何か叫んでいる。手拭もない真裸だ。それが踊子だった。若桐のように足のよく伸びた白い裸身を眺めて、私は心に清水を感じ、ほうっと深い息を吐いてから、ことこと笑った。子供なんだ。私達を見つけた喜びで真裸のまま日の光の中に飛び出し、爪先きで背一ぱいに伸び上る程に子供なんだ。私は朗らかな喜びでことこと笑い続けた。頭が拭われたように澄んで来た。微笑がいつまでもとまらなかった。」


屈折した「私」の自我が、天真爛漫、無垢な踊り子によって、溶かされていくのだ。

川端文学では、人生の徒労感・虚無感から抜け出す手立てとして、女性の一途な美しさ、清純さに精神の救いを求めていくのが共通している。その救いを感じられなくなった時、自ら生を絶たざるを得なかった。



川向こうの共同湯とは、ここ↓。



▲ 丸印のところだ。今も共同湯だが、当時は建物の中ではなく、露天風呂みたくなっていたのであろう。

一応、共同湯の建物の前に行ってみる。



▲ 女湯と男湯。外来者はお断りの表示が。地元の人だけの共同湯として今も存続している。


さあ、坂道を上って、クルマを停めた駐車場に戻る。

 湯ヶ野温泉入り口

▲ 414号沿い、右側にJA河津がある。ここの駐車場を使わせてもらった。福田屋、共同湯へは歩いていくしかない。

湯ヶ野を出発。



「湯ヶ野を出外れると、また山にはいった。海の上の朝日が山の腹を温めていた。私達は朝日の方を眺めた。河津川の行手に河津の浜が明るく開けていた。」

小説では、河津へ出るのではなくて山間の414号を越えて直接に下田へ向かう。私は、「楽な本街道」で河津へ向かう。下田は、また来ることもあろう。今回は河津桜を見るという、もう一つの目的がある。


河津の町へ入った。河津町では、早咲きで有名な「河津桜まつり」を2月5日から3月10日まで行う。

河津川に隣接して、浜にも一番近い臨時駐車場12番(500円)へ入る。午後6時過ぎだった。
係員さんに誘導されるが、私のクルマのみだ。

夜桜ライトアップは午後7時からだというので、まず夕食に行こう。
私は、せっかく海辺に来ているので海鮮モノを食べたかったが、decoさまは暖かいうどんがいいという。

歩いていた女子高生に尋ねると、河津駅前にあります、と愛想よく答えてくれた。ありがとう、君は河津を愛してるね。

小さい町だから、すぐわかった。

 そば屋

先ず、板付きかまぼこにワサビを添えた「いたわさ」をいただく。

 いたわさ

▲ かまぼこの他に、わさび漬けと菜の花の煮たものが付いていた。
かまぼこに、わさびを乗せて食べる。おうっ、うまっ。でも鼻につーん。涙が出た。




▲ 私は、あなご南天そば↑を。 decoは、鍋焼きうどんを食べて満足。


駐車場に戻って、土手沿いの夜桜を楽しみに行こう。



▲ 歩いている人は、ほとんどいない(笑)。 これは、やはり2,3分咲だな。

ライトも、今一つ明るくないからか、桜自体がまだ寂しい咲き方なのか、パッとしないねー。

となると、



▲ 花より団子(笑)。
人が少ないので、店じまいをしかけていた団子屋さんで、花だんごと草餅だんごを買った。
おにいさんが、ていねいに焼き上げてくれて、ホットで美味しかった。


ブログも巻頭の写真だけアップして、今日はもう寝よう。

明日の、陽の下での花見に期待だ。



関連日記 : 雪国めぐり3 「雪国」を歩く

雪国めぐり3 川端康成の「雪国」を歩く

2013年02月03日 21時16分49秒 | 文芸・アート
2月2日(土)

きのうの湯沢は快晴で、ほんとうにスキー日和だった。
だが、きょうは朝から小雨が続いている。残念ながら天気予報どおりだ。

ま、雨であっても、駒子と島村のあゆみを訪ねて、「雪国」を文学散歩するには、さしつかえはないが。
ところで、あらためて川端康成著「雪国」とは。

新潮文庫 362円(税別)


「親譲りの財産で、きままな生活を送る島村は、雪深い温泉町で芸者駒子と出会う。許婚者の療養費を作るため芸者になったという。駒子の一途な生き方に惹かれながらも、島村はゆきずりの愛以上のつながりを持とうとしない----。冷たいほどにすんだ島村の心の鏡に映される駒子の烈しい情熱を、哀しくも美しく描く。ノーベル賞作家の美質が、完全な開花を見せた不朽の名作。」
(文庫カバーの内容紹介より)


という概略で、当面十分だろう。

駐車場を11時ごろに出て、温泉通りを長靴をはいて傘をさして、歩き始めた。



▲ 左側には、温泉通りに平行して新幹線が走る。無粋な風景になるが、しょうがない。

まもなく、昨日の布場(ぬのば)スキーゲレンデ近くへ来た。



▲ 「ゆきぐに」とか「島村」とかの民宿名が出てくる。
徐々に「雪国」の世界へ入っていく(笑)。

もちろん、こんな名物も。




まずは、湯沢町歴史民俗資料館「雪国館」へ行って、情報を集めてこよう。



▲ 階段を上がって入館すると、そこは2階。

 2F

▲ 湯沢の懐かしの、囲炉裏端(いろりばた)等を紹介するコーナーも、もちろんある。
けど、私の関心はあくまで小説。3階の書籍・閲覧コーナーへ。

 3F

▲ ここでは、「雪国」に関連する書籍類、パネル展示があった。

興味深かった写真2点、ご紹介しよう。



▲ 山袴(さんばく)をはいたスキー姿の松栄(まつえ)さん(左側)。松栄は駒子のモデルになった女性だ。山袴は、小説に何度も記述があるが、要はモンペのことだと思う。


「(島村が駒子に尋ねる)やっぱりスキイ服を着て(滑るの)。」
「山袴。ああいやだ、いやだ、お座敷でね、では明日またスキイ場でってことに、もう直ぐなるのね。今年は辷(すべ)るの止そうかしら。・・」


いかにも湯沢らしい、客の口説き方だ(笑)。



▲ 高半旅館から、湯沢の町並みを眺めた当時の興味深い写真。
左手に諏訪社の杉木立。中央は湯沢の町並み。右手は布場スキー場。
地形はもちろん、今も変わっていないが、現在は杉木立の手前から向こうまで新幹線が走っている。
当時の湯沢は、まさに田舎だったことがよく分かる。

雪国館の1Fにも、「雪国」資料が満載だった。

1F入り口



▲ 「雪国」は過去、何度か映画化されている。入り口の壁には1957年の池辺良(島村)、岸恵子(駒子)主演の映画ポスター。映画を回顧して池辺良が語った記事がクリップしてあった。

島村が最初芸者を呼んだが、肌の浅黒い骨ばったいかにも山里の芸者が来て、帰すのに苦労する場面があるが、その山里芸者を演じたのが市原悦子とか。いかにも、適役っぽく私は笑ってしまった。

また、川端先生はスタッフとの打ち合わせのあいだじゅう、岸恵子の手をさすっていたとか。言行一致の川端だ。



▲ 「国境の長いトンネル」とは、昭和6年全通の単線清水トンネル


さらに、ここには駒子のモデル松栄が住んだ置屋「豊田屋」での部屋を移築し、再現したものがあった。



▲ 小説の駒子の部屋は、繭倉を改造した屋根裏、低い明り窓が南に一つあるきり、となっているのでモデルの実部屋とは少し違うようだ。

窓の外の写真を拡大すると、



となる。先ほどの、高半旅館から眺めた湯沢町並み写真と同じだ。位置的にもおかしな風景になるが、拡大されて、湯沢風景がよりよくわかる。


さあ、雪国館での下調べは終わった。次は、島村が下り立った越後湯沢駅へ行こう。



▲ 温泉通りを少し歩く。にぎやかになってくる。



▲ 越後湯沢駅へ到着。中へ入ってみると、びっくり。中は大きい商店街だ。




▲ 「CoCoLo湯沢がんぎどおり」という地元のお土産品を取りそろえたショップ街があった。
有名な「笹団子」はもとより、魚沼産コシヒカリを原材料にした米菓の類、もちろん地酒の数々、種類が豊富。
長年湯治客向けに、豊かな食文化が発達したようだ。decoがいたらお土産選びに半日必要だろう。

私も、そろそろお腹が空いてきた。



▲ 「魚沼田舎料理のお惣菜」「ランチバイキング」800円!
よし、これにしよう。



▲ 12種類以上のお惣菜から、好きなだけとる。プラスご飯、味噌汁。



▲ この皿を3回替えた。
(野菜ちゃんと食べてるよ・野菜太りにならないかな)


食事のあと、歩きを再開。来た道を戻って高半旅館へ向かう。



▲ 布場ゲレンデの側にあるスキー神社。紋がスキー板だ。 右の向こうに、高半旅館が見える。


高半旅館への、つづら折りの登り口を「湯坂」と呼ぶ。この湯坂の中途右手に、「山の湯」がありもう少し上がると、昔は高半旅館の入り口になったという。

 「湯坂」

湯坂を上がりきったところが、小説に「裏山」とよばれる山がある。



▲ なんでもない山だが、裏山。


「島村は宿の玄関で若葉の匂いの強い裏山を見上げると、それに誘われるように荒っぽく登って行った。・・ほどよく疲れたところで、くるっと振り向きざま浴衣の尻からげして、一散に駆け下りて来ると、足もとから黄蝶が二羽飛び立った。蝶はもつれ合いながら、やがて国境の山より高く、黄色が白くなってゆくにつれて、遥かだった。」

飛び立つ二羽の黄蝶とは、島村と駒子の出会いと別れを暗示する。印象的な場面だ。


当時の高半旅館と裏山の写真はこれだ。



▲ 赤印が高半旅館。右端の杉林が、諏訪社。


さらに、当時の高半旅館がこれ。



▲ 丸印が、川端が逗留し松栄が通った部屋。これが島村と駒子の物語に代わっていった。

この旅館は建て替えられて、現在の高半ホテル↓になる。

 高半ホテル玄関


では、高半ホテルに今も保存されている二人の部屋、「かすみの間」(小説では「椿の間」)へ行ってみよう。



▲ 川端の、このかすみの間で交わされる駒子と島村の情感の描写は、精緻だ。
窓からの折々の景色の美しい表現のみならず、島村の五感を通して駒子の、愛、なげき、怒りの心理が細やかに表現されていく。


「私はなんにも惜しいものはないのよ。決して惜しいんじゃないのよ。だけど、そういう女じゃないの。きっと長続きしないって、あんた自分で言ったじゃないの。」

「『つらいわ。ねえ、あんたもう東京へ帰んなさい。つらいわ。』と、駒子は火燵の上にそっと顔を伏せた。つらいとは、旅の人に深はまりしてゆきそうな心細さであろうか。またはこういう時に、じっとこらえるやるせなさであろうか。女の心はそんなにまで来ているのかと、島村はしばらく黙り込んだ。」


「駒子のすべてが島村に通じて来るのに、島村のなにも駒子には通じていそうにない。駒子が虚しい壁に突きあたる木霊(こだま)に似た音を、島村は自分の胸の底に雪が降りつむように聞いた。このような島村のわがままはいつまでも続けられるものではなかった。」

しかし、その島村の生き方の限界が駒子に理解され、駒子を絶望に陥(おとしい)れるのであるが。



▲ 細かい部屋の見取り図が残されている。
朝、旅館の女中と顔を合わせるのを避けて駒子が隠れた押入れ、の説明もある。


他の展示物とともに、駒子=松栄の写真も展示されていた。



▲ 右端が松栄さん。

松栄さんは、無断で川端が自分をモデルにした小説を書いたことにやはり当惑した。川端は雪国初稿の生原稿を松栄さんに届けて謝ったことが伝えられている。その後松栄さんは、芸者を辞めて湯沢を離れる時、その生原稿や自分がつけていた日記を全部焼いて、新潟の結婚相手のところへ向かったことが伝えられている。


さて、高半旅館はこれくらいにして、さらに小説の舞台となった周囲を散策しよう。

旅館を辞して、下に下ったところに、置屋の豊田屋跡がある。



▲ 今は木造集合住宅になっている。ここに松栄が住んでいた芸者置屋(といっても彼女一人だったが)豊田屋跡。その部屋の復元が、朝の雪国館1Fにあったもの。

この豊田屋跡の少し上が、もうひとつのスポット、「社」(やしろ)という表現で出てくる、村の鎮守、諏訪社だ。



▲ 雪に埋まっている諏訪社。ここで、島村と駒子はしみじみと会話をする場面が続く。


「女はふいとあちらを向くと、杉林のなかへゆっくり入った。彼は黙ってついて行った。神社であった。苔のついた狛犬の傍の平らな岩に女は腰をおろした。『ここが一等涼しいの。真夏でも冷たい風がありますわ。』・・」


今は、狛犬も腰を下ろした岩も、残念ながら雪の下だ。

松栄さんが、生原稿と日記を焼いたのも、この社だった。


さあ、これで見たいところは回ったかな。時間も3時を過ぎた。
駐車場へ戻ろう。



▲ 駐車場から、もう一度振り返る。
左に諏訪社の杉林がある。右に駒子が島村に早く会いたい一心で、朝露に濡れた熊笹を押し分けて登ったという高半旅館が見えた。



********************

帰りに、「駒子の湯」へ。この温泉浴場は、平成に入ってから出来たもので、「駒子」が入浴した筈もない。しかし歩いて汗ばんだ私には、(川端が駒子を描写するとき何度も「清潔」という表現を使うが)この清潔な浴場は、ちょうど心地よかった。

 駒子の湯


これで、すべて予定が終わった。

湯沢ICから、関越道にのった。まだ小雨で景色がけむっている。
雪の夕景色の鏡に、二日間の思いがぼんやり映る。


さようなら、駒子・・・。




別れは、一つの旅立ちだ。

このトンネルを抜ければ、夕方8時ごろには家に帰れるな。






南木佳士著 「草すべり」を読んで

2012年09月20日 22時46分28秒 | 文芸・アート
9月20日(木)

 6月下旬に浅間山へ登った時は、この本のことをすっかり忘れていました。
南木佳士(なぎけいし)著の「草すべり」 文春文庫2008年です。

    表紙カバーはトーミの頭ですね

 南木さんは群馬県生まれ。長野県佐久市在住の医師・芥川賞作家です。佐久に住んでられる方なら、だれでも知ってる佐久総合病院の内科医師を長年勤められました。

 この本は南木さん自身とも重なり合う50代の医師が主人公です。数多くの死を見つめすぎたせいで心身ともに疲弊した時期をへて、人生の折り返し点を過ぎた主人公は、山を登り始めます。

 高校の同級生だった女性(沙絵)から手紙が届き、40年ぶりに再会して登った浅間山での一日。かってはまぶしかったひと。しかし、女性も主人公も多くの事を経ての再会であり、浅間山登山に抱く意味も違う。さて、二人は浅間山の頂を目指す以外に、共有する思いを見つけるでしょうか。(今回はネタバレなし)

 表題の「草すべり」はもちろん、浅間山の外輪山・黒斑山の横から降りる急峻なこの坂道↓のこと。



 黒斑山と前掛山に挟まれたこのカルデラ状草原地帯は、今もまだ緑でいっぱいだと思いますが、どうでしょうか。(草もみじ状かな)

 この本を読んだ時は、再度山歩きができるとは思っていなかったからでしょう。読んだこと自体を、すっかり忘れていましたが、先日ふと思い出して再読してみました。


 おもしろかった箇所二つ、ご紹介します。

 火口

「 浅間に登らぬバカ、二度登るバカ

 古老たちにこういう言い伝えを聞かされる土地に生まれ育った身としては、歩く気力のあるうちに前掛山までは登ってみたい。あわよくば、登山規制を無視して、日本の火山のなかでも活動度が特に高いAランクの火口をのぞきたい。」


 作者は別のところでは、幼少の時から浅間山の予兆なしの噴火を幾度も目撃している、と書いている。したがって、土地に生まれた者としては火口まで一度は見にいくべし、しかし危険を冒してまで二度も見るのは愚かだ、という意味の言い伝えでしょう。

 私が、火口までのぞいたあと、いろいろ読んでみると、匂い、ガスにも遮られず火口の穴まではっきり見えたのは稀らしい。Lucky!  けれど、もう行かない。バカよばわりされたくないから(笑)。


▼ しかし、再度(あなただけに)禁断の火口をお見せしましょう。下部の黒いスポットが火口の中の火口でした。




 パワーポイント

「ここが山のパワーの中心なのよ。前掛山の山頂直下で、釜山のせり上がりと絶壁の立ち上がりを結ぶ線の中心。祖父に教わったのよ。この下にはマグマが満ちているから、座ると下から押し上げてくる火山のパワーが直にからだに入ってくるの。信じる信じないは勝手だけど、座るだけだから、やってみれば。」

 残念。沙絵ちゃんのこの言葉も忘れていて、座ってこなかった(笑)。座ると、ぬくとまる(上州の方言)らしい。



▲ 向こうに見える前掛山の頂上と、手前足元のガレキが火口付近だから、両点を結んだ真ん中の窪地がパワーポイントですよ。

 この文庫本(571円)には「草すべり」の他に、下記3編が収録されています。

 「旧盆」 ~ 浅間山
 「バカ尾根」 ~ 妙義山、浅間山
 「穂高山」 ~ 穂高

 ご関心あれば、お読みください。


 過ぎゆく時のいとおしさが、稜線を渡る風とともに、身の内を吹き抜ける・・・


 山をとおして、自分が見えるかも。




関連投稿記事;
浅間山登山(前編)車坂峠~草すべり~前掛山
浅間山登山(後編)前掛山~Jバンド~黒斑山~車坂峠




風立ちぬ、いざ生きめやも

2012年09月08日 01時21分53秒 | 文芸・アート
9月8日(土)

昨日、長野県諏訪郡富士見町にある富士見高原病院へ行ってきました。

富士見高原病院は、堀辰雄の小説「風立ちぬ」の舞台となったところ。
病院は旧「富士病棟」を取り壊し、6階建て新病棟を14年に完成させるとは8月28日付の新聞で知っていました。しかし一昨日の新聞では9月10日に、もう取り壊すとのことで、急遽出かけました。

堀辰雄は婚約者、矢野綾子の結核療養のために、富士見高原療養所へ付き添いで1935年の6月に入所。しかし、綾子は5か月後の12月に療養所で死去。「風立ちぬ」は彼女との療養生活を元に描かれました(1938年)。




▲ 堀辰雄は1933年逗留先の軽井沢で綾子と知り合い、34年9月に婚約します。堀29歳、綾子24歳。


「風立ちぬ」のモチーフは、死を見つめながら生きる、つかの間の生の、真の強い生命の燃え上りの美しさ、ということになるでしょうか。

1
それは、私達がはじめて出会ったもう2年前にもなる夏の頃、不意に私の口を衝いて出た、そしてそれから私が何んということもなしに口ずさむことを好んでいた、

  風たちぬ、いざ生きめやも。

という詩句が、それきりずっと忘れていたのに、又ひょっくりと私達に蘇ってきたほどの、。。


****

風立ちぬいざ生きめやも、の詩句はポールヴァレリーの詩からの堀の引用で堀の訳です。
「風が吹きかかる」、とは聖書では神が人間に語りかける時という解釈※がありますから、ヴァレリーの詩句はそれを踏まえたのではないかと思います。また仏詩は命令形になっています。ですからこの仏詩を私流に意訳すると、「主は私に言われる、おまえは生きねばならないと」。

(※「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。」創世記2-7が神が風を通じて人間に働きかけた最初の事例です。)

小説では、冒頭で二人が出会ったばかりの頃、「そのとき不意に、どこからともなく風が立った」そして節子(綾子)の描いていた絵の画架を倒す場面があります。その時に、私(堀)がつぶやく詩句として、最初に出てきます。

そして、節子が入所した後;

「私、なんだか急に生きたくなったのね・・・・」
それから彼女は聞こえるか聞こえない位の小声で言い足した。
「あなたのお蔭で・・・・」


という文脈のあと、上記1のくだりが続き、その詩句が再度出てきます。

小説全体が非常にリリカル(抒情的)な中で、モチーフを強める印象的な詩句として、引用されてますね。


松田聖子のヒット曲に「風立ちぬ」があります。昨年、紹介しました。♪風立ちぬー今は秋ーのあの歌はもちろん、堀辰雄のこの小説から着想を得ていると思います。




▲ 私の文庫カバー画。最近の新潮文庫本カバーは療養所の画ですが、私はこの方が「風立ちぬ」のイメージに合って、良いと思います。


さて、私と節子の旧富士見高原療養所を見てまわりましょう。

実は、私は07年8月にも来ています。その時は土曜日で、平日でなかったため建物の中を見学できませんでした。それで、今回中を見たかったのですが、公開は9月2日で終了していました。残念。
で、今回も外観を少し見れただけです。



▲ 富士見高原療養所の本館「富士病棟」(1926年築)正面。これだけが、今に至るまで保存されていました。



▲ 上記富士病棟の右側側面からです。10日取り壊しのため、もう重機が入っています。
9月2日までは、ここから中に入れて、資料展示室も見れたのですが、もう立ち入り禁止。



▲ 病棟の裏側からです。多角形パティオ風の入り口?がレトロですね。



▲ ここからが、病棟の裏へ行く道。小説では、何度も「裏の雑木林」という表現で出てくる所です。小説どおり、少し小高くなっています。手前に、これまた何度も言及される「落葉松林(からまつ)」です。

この雑木林を抜けてさらに上がっていくと。そうです、ここに出ます↓。



▲ 八ヶ岳(南側)が見えてくるのです。何度も小説に出てきます。

2
「それにきょうはとても気分が好いのですもの」
つとめて快活な声を出してそう言いながら、彼女はなおもじっと私の帰ってきた山麓の方を見ていた。
「あなたのいらっしゃるのが、ずっと遠くから見えていたわ」
私は何も言わずに、彼女の側に並んで、同じ方角を見つめた。彼女が再び快活そうに言った。
「此処まで出ると、八ヶ岳がすっかり見えるのね」







▲ 現在の富士見高原病院の正面。1926年設立時は、結核治療のための高原のサナトリウムでしたが、現在は地域医療のための立派な総合病院です。



▲ Harmonyを停めた駐車場には、今も白樺が。。 いいですねー。

「八ヶ岳山麓のサナトリウム」「Fのサナトリウム」は無くなりますが、小説「風立ちぬ」の中に、読者の心の中に、永遠に残ります。

さあ、帰ろう。私も堀辰雄をまねて、つぶやきながら。


  風立ちぬ、いざ生きめやも



テンプレートも今日から、秋バージョンに替えます。