青い空とわたし

青い空の日  白い雲の帆船をみていると

どこかへ どこまでも Harmonyと

走っていきたくなります

伊豆稲取の雛のつるし飾りも

2013年02月26日 21時20分06秒 | 青い空の日は旅立(全般)
2月23日(土)

【続き】

河津町で河津桜を見た後、次の春を求めて東の海岸線を北上。東伊豆町・稲取(いなとり)へ来た。

海岸に接した駐車場に停める(無料)。1時近くでお腹が空いたね。すぐ近くの「海の幸」と書いてあった食事処へ入った。

  

満員。食事までに30分以上待ったが、急いでいないので構わないよ。

二人とも注文したのは・・ もちろん伊豆ときたら、金目鯛ですよ。




▲ 金目鯛の煮付け。1600円。アタマのところだから身は少ない。もっと食べたかった(笑)。

大きいキンメの目。ここが美味ということは、聞いている。どんな味がするのだろう? けれど、どちらも目をかぶりつく勇気がない。「おまえやれよ」「あなたが先よ」とかなんとか押し問答したが。結局どっちも食べずに出た(笑)。私達はやはりB級グルマー、ツーになれない。


すぐ近くの文化公園にある雛の館へ行く。



▲ 文化公園には、「雛のつるし飾り 発祥の地」というノボリがはためいている。




▲ 雛の館に入ってみよう。入場料300円。 ここの河津桜は満開だー。





▲ 入るといきなり、雛壇とつるし雛があった。

稲取の雛のつるし飾りは、江戸時代の後期の頃から。女の子のすこやかな成長を願って手作りされ、意味や決まりごとを守りながらこの町独自の和裁細工として現在まで受け継がれてきたとある。

鳥、動物、野菜、魚、家具等を題材にして、布で袋状に縫い上げたものだ。それぞれが縁起の意味を持っているようだ。




▲ 色んな飾りを一本の糸に垂らす。赤色がやはり多いね。




▲ 毎年、コンクール形式で作品を募るようだ。来場者が投票で、気に入った吊るし雛を選ぶようになっていた。美しい伝統が奨励され維持される。









▲ 雛段だけでも華やかなのに、雛のつるし飾りが加わるとあでやかだ。





▲ 這い子人形。 這えば立て、立てば歩めの親ごころ。子供のすこやかな成長を願うとか。





▲ 皆さんも歓声をあげたり、写真をとったり、雛のつるし飾りを楽しんでいるようだった。





▲ 外に出ると、公園のまわりは桜の木が並んでいて、陽もありほんわか春の雰囲気が。

春遠からじ・・・か。

これで次週、水戸の偕楽園に梅を観に行ったりしたら、私は完全にリタイヤ組だ(笑)。
しかし、残念ながらまだそういう余裕もない。

青い空の下での春スキーは、これから。
私の冬は、今年もまだまだ終わらない。


それにしても、肌寒い中でも綺麗にほころんでくれる、伊豆の桜はいいねー。





伊豆の河津桜まつりへ

2013年02月25日 22時08分10秒 | 同上(お祭り)
2月23日(土)

天城越えをして、昨晩は南伊豆の河津町へ到着。
桜祭りの会場駐車場12番で車中泊をした。

▼ 朝食。



decoさんがいると、三種の神器だけでなく、サラダ・フルーツも出てくる(笑)。



▼ 昨晩はHarmony一台だった駐車場。今日の朝には、横にキャンピングカーが2台並んでいる。





朝食も終えて、じゃあ花見に出かけようか。



駐車場の横は河津川の堤防土手が続く。この土手を歩こう。
時刻も9時前に。桜を見に来た人も増えてきた。

おっと。ここで河津桜(かわづざくら)とは何か、ひと講釈。

オオシマザクラとカンヒザクラの自然交配してできた桜。1月下旬から2月にかけて開花する早咲き桜。花は桃色ないし淡紅色で、ソメイヨシノより桃色が濃い。咲いている期間が1か月と長いのも特徴。この、河津町で発見されたことから河津桜と命名されている。





▲ きれいだねー。




▲ 堤防の桜は、ほぼ開花は始まったが咲き具合は1分から3分ぐらいか。




▲ 桜の花に透かして青い空を見ると、気持ちが明るく広がる。


▼ 河津川と両脇の堤防。堤防の桜並木が河津桜の見どころになる。けれど、まだ早いね。
黄色い色は、菜の花だ。



この河津川は、このちょっと下った下手が海への河口になっている。


河口へ歩いていこう。




すぐ河口へ出る。




▲ 早春の海が、光り輝いている。




また、桜並木へ戻ろう。



▲ スイセンも咲いている。


もっと、内陸の方に歩いていくと。河津中学校の裏に神社があった。



▲ そこには、樹齢1000年以上と推定されているクスノキ、国指定天然記念物「大楠」が存在を誇示していた。




▲ 河津町では、ポンカンの実がなっている木もよく見かけた。


そして、河津桜の原木といわれる、飯田家の原木のところまで歩いてきた。



▲ 1955年に飯田勝美さんが、この地で河津桜の新種を発見、これを育てた。これが原木となってこの地に河津桜が広まった。




▲ 原木の全景。 ここも、まだ2分咲きぐらい。


河津桜は1週間後の週末が見ごろだろう。それは分かっていたが、都合が悪くて今日になった。

また、五年後ぐらい経ったら、次は満開の時に来よう。


さあ、隣町の東伊豆町稲取(いなとり)にも、「春めくもの」が見られるので、次はそこへ行こう。


【続きは明日】






伊豆の踊子と天城峠を越えて

2013年02月22日 20時17分01秒 | 文芸・アート
2月22日(金)


「道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨脚(あまあし)が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓(ふもと)から私を追って来た。
私は二十歳、高等学校の制帽をかぶり、紺飛白(こんがすり)の着物に袴(はかま)をはき、学生カバンを肩にかけていた。」




「伊豆の踊子」のこの書き出しに引かれて、とうとう今日は、天城峠まで来てしまった(笑)。

私はSora。ここは、旅の踊子たちと私が、湯ヶ島から南伊豆へ下る前に通り抜けた、旧天城トンネルだ。


***************



「伊豆の踊子」は、先の「雪国」とともに川端文学の双璧を成す作品。



そのあらすじは、新潮文庫のカバー書きによると;


二十歳の旧制高校生である主人公が孤独に悩み、伊豆へのひとり旅に出かけるが、途中旅芸人の一団と出会い、一行中の踊子に心を惹かれてゆく。人生の汚濁から逃れようとする青春の潔癖な感傷は、清純無垢な踊子への想いをつのらせ、孤児根性で歪んだ主人公の心をあたたかくほぐしてゆく。雪溶けのような清冽な抒情が漂う美しい青春の譜である。


孤独に悩み、ひとり旅にでかけるか・・、私みたいじゃないか(笑)。

今週末は、伊豆地方もずっと晴れ。じゃあ、踊子の歩みめぐりと、南伊豆の河津桜の二つを観てこようと今日の朝、8時半に出立。
同行者は、当ブログ専属モデルのdecoさん(笑)。

小田原厚木道路、箱根新道を乗り継いで、中伊豆の修禅寺温泉、湯ヶ島のいわば踊子街道を経て、道の駅「天城越え」に着いたのが、午後3時を過ぎていた。小田原厚木道路での事故渋滞で大幅に遅れてしまった。


 道の駅天城越え

▲ 天城湯ヶ島のあたりは、清い水を活かしてのワサビ栽培が盛ん。
道の駅の特産物も、ワサビ関連が多かった。



▲ この寒いのに、ワサビソフトを買う。生ワサビをバニラソフトに乗せただけのもの。
いつもは、ソフトが垂れてくるのですぐペロペロやるのだが、いつまでたっても溶けず、形がくずれない。

(ここの店は「オリジナルわさびソフト」。後でわかったが、隣の店は「元祖わさびソフト」。後者はソフトにワサビを溶かし込んであり、緑色のソフトになっている。後者の方がワサビソフトにふさわしい。)

踊子たちと主人公「私」が天城越えをしたトンネルは、この道の駅から近い。下田街道(天城街道)414号を、左脇にそれる細い林道を上っていく。(見落としやすい)



▲ 旧天城トンネルへ至る林道は舗装されていない。対向車が来たら、キャンピングカーではアウト。すれ違いも、バックも難しいだろう。
今日は季節はずれで平日だから、走り上がっただけ。夏のシーズンは絶対止めた方がよい。



▲ ということで、ブログトップの旧天城トンネル北口へ来たわけだ。

田方郡天城湯ヶ島町と賀茂郡河津町をつなぐこのトンネル(正式名・天城山随道)は、明治38(1905)年に完成。これで北伊豆と南伊豆の距離は一挙に短縮し、難所の天城越えは解消したとのこと。

長さ446m、高さ横幅ともに、3.5m。

高さ3.5m? おっ、Harmonyの車高は3.3mだから、通れるじゃあないか!

もっと、よく見てみよう。




「暗いトンネルに入ると、冷たい雫(しずく)がぽたぽた落ちていた。南伊豆への出口が前方に小さく明るんでいた。」

小説どおりだね。トンネルの向こう側に出口が小さく見える。




▲ 中に入る。電燈がぽつぽつと大きな間隔で、点いてはいるが。 ほぼ真っ暗だ。
いったん、入り口に戻ろう。


戻るや、私はHarmonyをトンネルの中へ、突入させていた(笑)。

Harmonyの車幅は2m弱だから、対向車が来たら絶対すれ違いはできない。
ビームを点けて、向こうの出口へ私の進入を知らせながら進行した。「来るなよっ。絶対!」



▲ やった、抜けられた!! 良かった! 

「あなた、いつもこんなことばかりしてるの?!」 



旧天城トンネルの反対側、南口の方は比較的広かった。414号へ戻る林道も舗装されており、ところどころにすれ違いエリアがとってあった。したがって、トンネルをクルマで見にくるのなら、南口の方が安全だ。

414号をしばらく下っていくと、七滝ループに来る。



▲ 2層になっているループをクルクル降りてくるのは、ちょっとスリルあるよ。

降り切ってから、少し戻る形で登ると、河津七滝の観光名所へ来る。

河津七滝(ななだる)は、大滝(おおだる)をはじめ七つの滝(たる)が、川津川渓流沿いに点々と在るところ。



▲ 川に沿って遊歩道が整備されており、町営無料駐車場にクルマをおいたあと、川沿いを上っていく。
夏なんかは、気持ちいいだろうね。



▲ 七滝の真ん中ほどにある、初景滝(しょけいだる)には、太鼓を下げた踊子と「私」の記念像があった。

小説では、七滝を二人が見たという記述はどこにもないが、当時の天城越えを想像するには、まあいいか。



▲ 初景滝を前に、decoとPoron。これも小説とまったく関係ないが。


七滝を後にして、次にクルマを停めたのは、同じ414号下田街道沿いの湯ケ野温泉だ。

小説の「私」は、修善寺温泉1泊 ⇒ 湯ヶ島温泉2泊 ⇒ 湯ケ野温泉3泊 ⇒ 下田1泊した後、大島へ向かう踊子たちと分かれる。

湯ケ野での宿泊は一番長く、かつ「私」の踊子へ寄せる気持ちが決定的になる所であり、小説の場面としては重要な場所なのだ。

湯ヶ野は、今も旅館が7軒ほどしかない河津川沿いの小さな温泉場。「私」は川向こうの宿屋に泊まる。



「私達は街道から石ころ路(みち)や石段を一町ばかり下りて、小川のほとりにある共同湯の横の橋を渡った。橋の向こうは温泉宿の庭だった。」

実際、この石の坂道↓を下って行く。



▲ おじいさんが、頭に手ぬぐいを載せて登って来た。下の共同湯からの帰りであろうか。




▲ 確かに、川には木の橋が架かっていて、向こう側には今も宿屋がある。現在の福田屋。
ここに、「私」は泊まった。
一方、踊子たち旅芸人5人は別の「畳や襖(ふすま)も古びて汚なかった」木賃宿へ泊まる。

ここで、小説で最も印象的な場面の一つが展開される。それは、踊子へのやるせない思いでろくに眠れなかった「私」が、翌朝9時過ぎに部屋から、川向うの共同湯に踊子の姿を見た時のシーンだ。


「『向こうのお湯にあいつらが来ています。ほれ、こちらを見つけたと見えて笑っていやがる。』
 彼に指ざされて、私は川向こうの共同湯の方を見た。湯気の中に七八人の裸体がぼんやり浮んでいた。
 仄暗(ほのぐら)い湯殿の奥から、突然裸の女が走り出して来たかと思うと、脱衣場の突鼻(とっぱな)に川岸へ飛び降りそうな恰好(かっこう)で立ち、両手を一ぱいに伸ばして何か叫んでいる。手拭もない真裸だ。それが踊子だった。若桐のように足のよく伸びた白い裸身を眺めて、私は心に清水を感じ、ほうっと深い息を吐いてから、ことこと笑った。子供なんだ。私達を見つけた喜びで真裸のまま日の光の中に飛び出し、爪先きで背一ぱいに伸び上る程に子供なんだ。私は朗らかな喜びでことこと笑い続けた。頭が拭われたように澄んで来た。微笑がいつまでもとまらなかった。」


屈折した「私」の自我が、天真爛漫、無垢な踊り子によって、溶かされていくのだ。

川端文学では、人生の徒労感・虚無感から抜け出す手立てとして、女性の一途な美しさ、清純さに精神の救いを求めていくのが共通している。その救いを感じられなくなった時、自ら生を絶たざるを得なかった。



川向こうの共同湯とは、ここ↓。



▲ 丸印のところだ。今も共同湯だが、当時は建物の中ではなく、露天風呂みたくなっていたのであろう。

一応、共同湯の建物の前に行ってみる。



▲ 女湯と男湯。外来者はお断りの表示が。地元の人だけの共同湯として今も存続している。


さあ、坂道を上って、クルマを停めた駐車場に戻る。

 湯ヶ野温泉入り口

▲ 414号沿い、右側にJA河津がある。ここの駐車場を使わせてもらった。福田屋、共同湯へは歩いていくしかない。

湯ヶ野を出発。



「湯ヶ野を出外れると、また山にはいった。海の上の朝日が山の腹を温めていた。私達は朝日の方を眺めた。河津川の行手に河津の浜が明るく開けていた。」

小説では、河津へ出るのではなくて山間の414号を越えて直接に下田へ向かう。私は、「楽な本街道」で河津へ向かう。下田は、また来ることもあろう。今回は河津桜を見るという、もう一つの目的がある。


河津の町へ入った。河津町では、早咲きで有名な「河津桜まつり」を2月5日から3月10日まで行う。

河津川に隣接して、浜にも一番近い臨時駐車場12番(500円)へ入る。午後6時過ぎだった。
係員さんに誘導されるが、私のクルマのみだ。

夜桜ライトアップは午後7時からだというので、まず夕食に行こう。
私は、せっかく海辺に来ているので海鮮モノを食べたかったが、decoさまは暖かいうどんがいいという。

歩いていた女子高生に尋ねると、河津駅前にあります、と愛想よく答えてくれた。ありがとう、君は河津を愛してるね。

小さい町だから、すぐわかった。

 そば屋

先ず、板付きかまぼこにワサビを添えた「いたわさ」をいただく。

 いたわさ

▲ かまぼこの他に、わさび漬けと菜の花の煮たものが付いていた。
かまぼこに、わさびを乗せて食べる。おうっ、うまっ。でも鼻につーん。涙が出た。




▲ 私は、あなご南天そば↑を。 decoは、鍋焼きうどんを食べて満足。


駐車場に戻って、土手沿いの夜桜を楽しみに行こう。



▲ 歩いている人は、ほとんどいない(笑)。 これは、やはり2,3分咲だな。

ライトも、今一つ明るくないからか、桜自体がまだ寂しい咲き方なのか、パッとしないねー。

となると、



▲ 花より団子(笑)。
人が少ないので、店じまいをしかけていた団子屋さんで、花だんごと草餅だんごを買った。
おにいさんが、ていねいに焼き上げてくれて、ホットで美味しかった。


ブログも巻頭の写真だけアップして、今日はもう寝よう。

明日の、陽の下での花見に期待だ。



関連日記 : 雪国めぐり3 「雪国」を歩く

高坂SAでまた車中泊

2013年02月18日 22時06分52秒 | Harmony のこと
2月17日(日)

昨晩同僚Yさんと別れたあと、ここ関越道・高坂SAから自宅へ向けて出発するのも面倒になり、ここでお泊りした。



▲ ゆっくり、7時過ぎまで就寝。今日は、朝から快晴。

天気予報をみると信州エリアも、晴れているようだ。
いっそ、もう一度ここから出かけて、滑ってこようかとも思ったが。

朝食をここで、食べてから帰ろう。

キャンカーの中での過ごし方についてレポしてほしい、とKさんからリクエストを頂いた。
そこで私の朝食について少し。

【朝食パターン】

 

通常の水タンクの他に、飲み水用のポリタンクをキッチンの横に手作り設置している。(左写真)

ここから、水を出して隣のカセットコンロで、先ずお湯を沸かす。(右写真)
coffeeとか、インスタントスープのためだ。


 三種の神器

▲ そして、上に用意したのが、私のクルマの中での典型的な朝食。

1.Coffee  深煎り、ストロングタイプのフレンチローストがお気に入り。たいていスタバで買う。先日は薦められるままにVeronaという銘柄にしてみた。「チョコレートとの相性がいいですよ、バレンタインの前にどうぞ」。確かに、フレンチローストほど苦味がなく軽めだから、苦く強い味のチョコとは、味が合った。

2.オールブラウン・フルーツミックス  シリアルが好き。簡単に食べられるし飽きない。中でも色んなナッツ、ドライフルーツを混ぜたものが気に入っている。お腹が空くと、そのままでもかじっている。

3.菓子パン 一番好きなのは、レーズン入りデニッシュ。coffeeと良く合うから。今日は、高坂SAにはなくて、メープルシュガーパンにした。

この三つが、いわば私の朝食の三種の神器。これさえ揃えば、ハッピーモーニング。

外の景色を眺めながら、Coffeeをすすりながら、ゆっくりと自分の好きなものを食べる。
Soraの至福の時。

(きみは安上がりの人だね)


さあ、朝食も終わったし家に戻ろう。

********

下り高坂SAからさらに先の東松山ICへ進んだ。降りようとETC出口に入ると、バーが上がらず。



四輪STOP停車 の掲示板が。女性の係員さんがとんできて、料金所脇に誘導された。

近距離区間を24時間以上滞在していると、事情を尋ねるためにストップがかかるとのこと。
係員さんは、「疲れて休まれたのですね」と聞くので「はいそうです」。「登録ナンバーを控えさせてください」「はい、構いませんよ」。
止める趣旨は何ですか、と私が問うと、一つの事情を言ってくれた。オフレコにしてくれということだったのでここには記さない。

突然バーが上がらず進行できないと、後続車に追突される危険もある。ブログに書くなら、24時間を超えたらETCゲートでなくて一般の料金所へあらかじめ行くようにお仲間に言ってほしい、とのことだった(笑)。ホント。

「全国のー、車中泊愛好の諸君! 24時間超えたら一般出口へ行けよ」  これでいいかな。

東松山ICでUターンし、再度上り関越道で自宅へ向かった。

10:00AMごろ、帰着。





雪と寒さの志賀・焼額山スキー

2013年02月17日 14時28分59秒 | 同上 (スキー)
2月17日(土)



▲ スタイリッシュなヨーロピアン車だ。

彼のクルマに乗って志賀高原・焼額山(やけびたいやま)ゲレンデ・プリンスホテル東館駐車場に着いたのが8:30AM。

長野ICを過ぎてから、ずっと粉雪が舞っていた。志賀高原の入り口、丸池あたりから前方がよく見えないホワイトアウト状況に見舞われながらの到着だった。




▲ 「よしっ、行くぞ!」 
焼額山2009mトップまでゴンドラで一気に上がって、気合の入る40代前半の同僚Yさんと、歳数だけはもっと豊富なSoraのコンビ。

いきなりオリンピックコースを降りる。平日も仕事のあと、ジムに通うYさん。準備体操は要らないようだ。




▲ すぐ、いつもと状況の違いが判った。まず、寒い! 
フェイスマスクもネックウオーマーもしていない素肌の私は(笑)、粉雪と寒さで頬がひりつく。イテーと思ったけれど、どうしょうもできない。

それに、サラサラ新雪だ。さらにコースのサイドは深雪。こりゃ、(前日まで悩んでいた)八海山にいく必要はない。

ホワンホワンと深雪を跳躍しながら滑り降りるYさんに、滑り方を聞いた。

後傾にする必要はない。前面の雪の圧を感じたらスキーが自然に上向くように、上向いたら回るようにすればいいのです。
と、スポーツ万能のYさん、長嶋さん風に教えてくれた。




▲ 冒険心に富む私達は、焼額から志賀高原の右側へ移動、ジャイアントまで行こうと計画した。

一の瀬、タンネの森まで滑りながら南征してきたが、どこへ行っても寒く、風雪が襲ってきた。
一の瀬では、団体の生徒さんがリフトを占拠していて、我々は行く手をしばらく阻まれた。

さらにタンネの森では、隣の高天原への連絡リフトが休止中で、それ以上南進できないことが判明。
で、やむなくタンネで昼食にした。

今日は、土曜日なのだからリフトをフル稼働してもおかしくないのだが・・。今日は天候が悪いこともあってか、一般客はそれほど多くなかったが、各ゲレンデが来たお客さんを囲い込もうとしているのかなあ。


 

▲ で、また焼額山へ戻ってきた。
いつもは、昼食以外にお茶タイムなんか設けなくて、ただ滑走に努めるSoraだが、この日はギブアップ。

「お、お茶にしよ」 と自分から提案。

頬(ほお)が、紅顔(X厚顔)の美少年みたいに赤く腫れ上がるし、ほぼインナーだけなので寒い。奥歯がガタつきながら滑るなんて今まであり得なかった。ここのところ、晴天体験しかなかったので甘くみていたなー、雪山を。気温はずっとマイナス12~13度!

プリンスホテルで、ホットココアで少し息をついた。

陽が、かいま見えることもあったがほんの一瞬のこと。一日中乾いた雪が降っていた。「乾雪」の天気どおりだった。しょうがない。Yさんは、奥さんが怖いのではなくて、奥さん思いだから・・。




▲ 最後に、これも避けていたのではなく忘れていたこのコース。

お願い:「この先最大斜度39度の急斜面が続きます上級者のみご滑走ください」

90度じゃ、ないんだろ。オレはSAJ2級だ。(それ中級者じゃない?)





▲ Yさんが、果敢に、何も言わずに、新雪に板をもぐらせながら滑走開始。
ここでも私自身の写真がないが、Yさんのイメージに私をだぶらせて結構です。




▲ なんなく、一気に滑りおりてきたエキスパートのYさん。

どうして、Soraが下から写真を撮っているかって?

そりゃあ、私の方が先に滑り降りたから。

(私が滑り出しに、ガケみたいな斜面をころげ落ちたあと、彼が自身の判断で中途で見ていることはあったようだが・笑)


今回は寒い思いをした志賀高原スキーだったが、Yさんに、新雪、コブの滑り方を教えてもらった。
非常に参考になった。地道に練習しようと思い直した。




▲ 志賀高原を降りて、信州中野ICへ乗る前に温泉地、湯田中へ。湯田中駅前のYさん行きつけの立ち寄り湯へ。

ソープ付きで(ボディソープ、シャンプー備え付きの意だよ)300円、安い。雪が降り落ちる露天風呂にもゆっくり入って、ああよかった。


横川SAで夕食と、指定のあった土産物を買う。


上り高坂SAに戻ったのは8:30PMごろ。私のスキー、荷物を下り高坂SAに駐車させてあるHarmonyへ移し替えた。

Yさんとは、ここでお別れだ。Yさん、ありがとう。


寒くて、胸中のデジカメを出せなくて、いつもと比べると写真枚数は極端に少なかったけれど、朝5時からの共同行動で、いつもの独り言でなくて、実際の会話も多くて、なんかぎっしり詰まった感じの残る、長い一日だった。へんなものだ。



高坂SAで待機してます

2013年02月15日 21時31分00秒 | 同上 (スキー)
2月15日(金)

午前中は定期メディカルチェックに。コレステロール、血糖値等々、各種数値はコントロール下におかれていた。
(野菜もご推薦のサプリメントも摂ってるよー)

「先生、今年はもう4回スキーに行ってます。今晩も出かけるのですが。」
「運動はいいことです。運動を定期的にしていたほうが体の変調も早く気づきやすいですよ。」

今回は、会社の同僚Yさんと明日スキーに出かける。今までも彼とは何回か行っている。
行く先は、志賀高原の焼額山(やけびたいやま)に昨日決定した。

お天気は、皆さんご存じのとおり、今週末土曜日は雪、日曜日は晴れだ。日曜日がいいに決まっている。
しかし、Yさんは日曜日は奥さんと約束があるからダメだということだ。
自由人、日和見主義のSoraにはあり得ないことだが、やむを得ない。

いつもスキーの日は、私が年長ということだけで、彼が私の家に迎えに来てくれたが、それも申し訳ないので、今回からは高坂SAで落ち合って、彼のアウディに私が同乗して行くことにした。

 高坂SA(向こうが上りの駐車場)

自宅を夜8時に出て高坂SAに9時にトウチャコ。私はここで車中泊。明日の朝、5時に落ち合う段取りだ。
Yさんに、一応メールする。

「高坂に待機しました」 すると

「はやいですね。これから帰ります。」

スミマセン。早く寝よう。


雪国めぐり3 川端康成の「雪国」を歩く

2013年02月03日 21時16分49秒 | 文芸・アート
2月2日(土)

きのうの湯沢は快晴で、ほんとうにスキー日和だった。
だが、きょうは朝から小雨が続いている。残念ながら天気予報どおりだ。

ま、雨であっても、駒子と島村のあゆみを訪ねて、「雪国」を文学散歩するには、さしつかえはないが。
ところで、あらためて川端康成著「雪国」とは。

新潮文庫 362円(税別)


「親譲りの財産で、きままな生活を送る島村は、雪深い温泉町で芸者駒子と出会う。許婚者の療養費を作るため芸者になったという。駒子の一途な生き方に惹かれながらも、島村はゆきずりの愛以上のつながりを持とうとしない----。冷たいほどにすんだ島村の心の鏡に映される駒子の烈しい情熱を、哀しくも美しく描く。ノーベル賞作家の美質が、完全な開花を見せた不朽の名作。」
(文庫カバーの内容紹介より)


という概略で、当面十分だろう。

駐車場を11時ごろに出て、温泉通りを長靴をはいて傘をさして、歩き始めた。



▲ 左側には、温泉通りに平行して新幹線が走る。無粋な風景になるが、しょうがない。

まもなく、昨日の布場(ぬのば)スキーゲレンデ近くへ来た。



▲ 「ゆきぐに」とか「島村」とかの民宿名が出てくる。
徐々に「雪国」の世界へ入っていく(笑)。

もちろん、こんな名物も。




まずは、湯沢町歴史民俗資料館「雪国館」へ行って、情報を集めてこよう。



▲ 階段を上がって入館すると、そこは2階。

 2F

▲ 湯沢の懐かしの、囲炉裏端(いろりばた)等を紹介するコーナーも、もちろんある。
けど、私の関心はあくまで小説。3階の書籍・閲覧コーナーへ。

 3F

▲ ここでは、「雪国」に関連する書籍類、パネル展示があった。

興味深かった写真2点、ご紹介しよう。



▲ 山袴(さんばく)をはいたスキー姿の松栄(まつえ)さん(左側)。松栄は駒子のモデルになった女性だ。山袴は、小説に何度も記述があるが、要はモンペのことだと思う。


「(島村が駒子に尋ねる)やっぱりスキイ服を着て(滑るの)。」
「山袴。ああいやだ、いやだ、お座敷でね、では明日またスキイ場でってことに、もう直ぐなるのね。今年は辷(すべ)るの止そうかしら。・・」


いかにも湯沢らしい、客の口説き方だ(笑)。



▲ 高半旅館から、湯沢の町並みを眺めた当時の興味深い写真。
左手に諏訪社の杉木立。中央は湯沢の町並み。右手は布場スキー場。
地形はもちろん、今も変わっていないが、現在は杉木立の手前から向こうまで新幹線が走っている。
当時の湯沢は、まさに田舎だったことがよく分かる。

雪国館の1Fにも、「雪国」資料が満載だった。

1F入り口



▲ 「雪国」は過去、何度か映画化されている。入り口の壁には1957年の池辺良(島村)、岸恵子(駒子)主演の映画ポスター。映画を回顧して池辺良が語った記事がクリップしてあった。

島村が最初芸者を呼んだが、肌の浅黒い骨ばったいかにも山里の芸者が来て、帰すのに苦労する場面があるが、その山里芸者を演じたのが市原悦子とか。いかにも、適役っぽく私は笑ってしまった。

また、川端先生はスタッフとの打ち合わせのあいだじゅう、岸恵子の手をさすっていたとか。言行一致の川端だ。



▲ 「国境の長いトンネル」とは、昭和6年全通の単線清水トンネル


さらに、ここには駒子のモデル松栄が住んだ置屋「豊田屋」での部屋を移築し、再現したものがあった。



▲ 小説の駒子の部屋は、繭倉を改造した屋根裏、低い明り窓が南に一つあるきり、となっているのでモデルの実部屋とは少し違うようだ。

窓の外の写真を拡大すると、



となる。先ほどの、高半旅館から眺めた湯沢町並み写真と同じだ。位置的にもおかしな風景になるが、拡大されて、湯沢風景がよりよくわかる。


さあ、雪国館での下調べは終わった。次は、島村が下り立った越後湯沢駅へ行こう。



▲ 温泉通りを少し歩く。にぎやかになってくる。



▲ 越後湯沢駅へ到着。中へ入ってみると、びっくり。中は大きい商店街だ。




▲ 「CoCoLo湯沢がんぎどおり」という地元のお土産品を取りそろえたショップ街があった。
有名な「笹団子」はもとより、魚沼産コシヒカリを原材料にした米菓の類、もちろん地酒の数々、種類が豊富。
長年湯治客向けに、豊かな食文化が発達したようだ。decoがいたらお土産選びに半日必要だろう。

私も、そろそろお腹が空いてきた。



▲ 「魚沼田舎料理のお惣菜」「ランチバイキング」800円!
よし、これにしよう。



▲ 12種類以上のお惣菜から、好きなだけとる。プラスご飯、味噌汁。



▲ この皿を3回替えた。
(野菜ちゃんと食べてるよ・野菜太りにならないかな)


食事のあと、歩きを再開。来た道を戻って高半旅館へ向かう。



▲ 布場ゲレンデの側にあるスキー神社。紋がスキー板だ。 右の向こうに、高半旅館が見える。


高半旅館への、つづら折りの登り口を「湯坂」と呼ぶ。この湯坂の中途右手に、「山の湯」がありもう少し上がると、昔は高半旅館の入り口になったという。

 「湯坂」

湯坂を上がりきったところが、小説に「裏山」とよばれる山がある。



▲ なんでもない山だが、裏山。


「島村は宿の玄関で若葉の匂いの強い裏山を見上げると、それに誘われるように荒っぽく登って行った。・・ほどよく疲れたところで、くるっと振り向きざま浴衣の尻からげして、一散に駆け下りて来ると、足もとから黄蝶が二羽飛び立った。蝶はもつれ合いながら、やがて国境の山より高く、黄色が白くなってゆくにつれて、遥かだった。」

飛び立つ二羽の黄蝶とは、島村と駒子の出会いと別れを暗示する。印象的な場面だ。


当時の高半旅館と裏山の写真はこれだ。



▲ 赤印が高半旅館。右端の杉林が、諏訪社。


さらに、当時の高半旅館がこれ。



▲ 丸印が、川端が逗留し松栄が通った部屋。これが島村と駒子の物語に代わっていった。

この旅館は建て替えられて、現在の高半ホテル↓になる。

 高半ホテル玄関


では、高半ホテルに今も保存されている二人の部屋、「かすみの間」(小説では「椿の間」)へ行ってみよう。



▲ 川端の、このかすみの間で交わされる駒子と島村の情感の描写は、精緻だ。
窓からの折々の景色の美しい表現のみならず、島村の五感を通して駒子の、愛、なげき、怒りの心理が細やかに表現されていく。


「私はなんにも惜しいものはないのよ。決して惜しいんじゃないのよ。だけど、そういう女じゃないの。きっと長続きしないって、あんた自分で言ったじゃないの。」

「『つらいわ。ねえ、あんたもう東京へ帰んなさい。つらいわ。』と、駒子は火燵の上にそっと顔を伏せた。つらいとは、旅の人に深はまりしてゆきそうな心細さであろうか。またはこういう時に、じっとこらえるやるせなさであろうか。女の心はそんなにまで来ているのかと、島村はしばらく黙り込んだ。」


「駒子のすべてが島村に通じて来るのに、島村のなにも駒子には通じていそうにない。駒子が虚しい壁に突きあたる木霊(こだま)に似た音を、島村は自分の胸の底に雪が降りつむように聞いた。このような島村のわがままはいつまでも続けられるものではなかった。」

しかし、その島村の生き方の限界が駒子に理解され、駒子を絶望に陥(おとしい)れるのであるが。



▲ 細かい部屋の見取り図が残されている。
朝、旅館の女中と顔を合わせるのを避けて駒子が隠れた押入れ、の説明もある。


他の展示物とともに、駒子=松栄の写真も展示されていた。



▲ 右端が松栄さん。

松栄さんは、無断で川端が自分をモデルにした小説を書いたことにやはり当惑した。川端は雪国初稿の生原稿を松栄さんに届けて謝ったことが伝えられている。その後松栄さんは、芸者を辞めて湯沢を離れる時、その生原稿や自分がつけていた日記を全部焼いて、新潟の結婚相手のところへ向かったことが伝えられている。


さて、高半旅館はこれくらいにして、さらに小説の舞台となった周囲を散策しよう。

旅館を辞して、下に下ったところに、置屋の豊田屋跡がある。



▲ 今は木造集合住宅になっている。ここに松栄が住んでいた芸者置屋(といっても彼女一人だったが)豊田屋跡。その部屋の復元が、朝の雪国館1Fにあったもの。

この豊田屋跡の少し上が、もうひとつのスポット、「社」(やしろ)という表現で出てくる、村の鎮守、諏訪社だ。



▲ 雪に埋まっている諏訪社。ここで、島村と駒子はしみじみと会話をする場面が続く。


「女はふいとあちらを向くと、杉林のなかへゆっくり入った。彼は黙ってついて行った。神社であった。苔のついた狛犬の傍の平らな岩に女は腰をおろした。『ここが一等涼しいの。真夏でも冷たい風がありますわ。』・・」


今は、狛犬も腰を下ろした岩も、残念ながら雪の下だ。

松栄さんが、生原稿と日記を焼いたのも、この社だった。


さあ、これで見たいところは回ったかな。時間も3時を過ぎた。
駐車場へ戻ろう。



▲ 駐車場から、もう一度振り返る。
左に諏訪社の杉林がある。右に駒子が島村に早く会いたい一心で、朝露に濡れた熊笹を押し分けて登ったという高半旅館が見えた。



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帰りに、「駒子の湯」へ。この温泉浴場は、平成に入ってから出来たもので、「駒子」が入浴した筈もない。しかし歩いて汗ばんだ私には、(川端が駒子を描写するとき何度も「清潔」という表現を使うが)この清潔な浴場は、ちょうど心地よかった。

 駒子の湯


これで、すべて予定が終わった。

湯沢ICから、関越道にのった。まだ小雨で景色がけむっている。
雪の夕景色の鏡に、二日間の思いがぼんやり映る。


さようなら、駒子・・・。




別れは、一つの旅立ちだ。

このトンネルを抜ければ、夕方8時ごろには家に帰れるな。






雪国めぐり2 湯沢の三つのスキー場・続き

2013年02月02日 23時51分07秒 | 同上 (スキー)
2月1日(金)

【続き】

エーデルワイスで昼食後、もう少し「湯沢高原スキー場」で滑るつもりだった。
しかし、「GALA湯沢」への連絡ゴンドラは午後1時を最終とするアナウンスがあった。
これから、強風が予想されるからだという。

あわてて、ゴンドラ連絡へ滑り込む。ギリギリだった。ここで、三つのスキー場の配置図を。



クルマを停めたのは、真ん中の「GALA湯沢スキー場」
そして、今左手側の「湯沢高原スキー場」へ移動していた。再度、今からGALA湯沢へ戻る。
そのあと、左端の「石打丸山スキー場」へ移動するつもりでいた。
私の購入したチケットは、3スキー場共通券で、どこにも行けるのだ。

GALAへ戻ると、今度はここのリフトは2時で止まるというアナウンスがあった。
ここでも、強風予想からだ。まだ、まったく風は吹いていないのに・・・。

しかし、止まるならしようがない。2時で、GALAから下山する気もないので、石打丸山へ急遽移動。




▲ 石打丸山スキー場は、よかった。
こんな↑中級1枚バーンが、上から下まで多くて、滑り甲斐があった。

何度も何度も得意のコマネズミスタイルで滑った。


石打丸山は、ふもとの道路ギリギリまでコースが接近していた。



▲ それだけ、ふもとに近いわけで、上から下を見下ろすと、町並みの色合いが見えて、モノクロでない温かみのある風景に感じた。
スイスでもいいか(笑)。



珍しく、4時近くまで滑っていたよ。昼のステーキのおかげ?



▲ スロウプを下から上を見やると、もう陽が落ちている。
スキーヤーが小さいシルエットになる。


さあ、3スキー場は一応制覇したから、帰ろうか。
石打丸山から、GALAへ戻るシャトルバスが出ていて4時発に飛び乗った。


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駐車場へ戻る。まだ数台残っている。

さあ、何はともあれ、温泉へ行こう。 ここから歩いて、10分ほどのところにあるはずだ。



▲ 共同湯「山の湯」だ。ここから、少し坂道を左に登っていく。




▲ 先の高半旅館へ登っていく坂道の中途にある「山の湯」
川端康成が「雪国」を高半で昭和10年に執筆した時にも既にあった、由緒ある共同温泉浴場だ。


「雪を積もらせぬためであろう。湯槽(ゆぶね)から溢(あふ)れる湯を俄(にわか)づくりの溝(みぞ)で宿の壁沿いにめぐらせてあるが、玄関先では浅い泉水のように拡がっていた。黒く逞しい秋田県がそこの踏石に乗って、長いこと湯を舐めていた。物置から出して来たらしい、客用のスキイが干し並べてある、そのほのかな黴(かび)の匂いは、湯気で甘くなって、杉の枝から共同湯の屋根に落ちる雪の塊も、暖かいもののように形が崩れた。」

硫黄臭が少しある、こじんまりした浴場は5~6人でいっぱい。珍しくシャワーは付いておらず、熱い湯と水を手加減して、洗った。情緒もいっぱい。疲れた体をほぐした。




▲ お湯のあとは、また長靴で来た道をトボトボ、駐車場へ戻る。




▲ 戻ると、さすがに私のHarmony、1台だけ取り残されていた。

今晩は、ここで野営だ。







雪国めぐり2 湯沢の三つのスキー場

2013年02月01日 19時56分02秒 | 同上 (スキー)
2月1日(金)

国境の長いトンネルを抜けると、そこは青い空いっぱいの雪国であった。




やったあ!! 澄み深まった空、心が躍(おど)る。



8時半ごろに、ガーラ湯沢スキー場に到着。無料駐車場は、湯沢ICから来ると少し分かりにくい所にある。
メインの入り口前の駐車場はもう満車ということで、一段下の駐車場に誘導された。



▲ ガーラスキー場の入り口前。堂々たる建物だね。エレベーターで、2階のメインロビーへ上がる。



▲ チケット売り場のカウンター。カウンター数は、10以上ある。空港のチケット売り場みたい。



▲ ガーラ湯沢スキー場のウリは、JR上越新幹線のホームと直結していること。
駅の名はもちろん、「がーらゆざわ駅」だ。
チケット売り場の真向いの「改札口」からは、若い男女がボード板を背負って、次々と降りてくる。




▲ ロビーも天井が高く、飛行場みたいだ。

チケットを購入すると、このスキーセンターから、8人乗りのゴンドラでさらに上部の「中央エリア」へ全員移動する。
私は、さらにいつものとおりとにかく一番テッペンまで上がってしまう。

で、来たのが




▲ おう、おう、これはどこじゃ。と思うくらい素晴らしい眺めのところにきた。
高津倉山頂1181mだった。ガーラ湯沢の頂上エリアだ。




▲ 雪もいい。整地ピステンの跡も初々しい。

これを見ると、準備運動もせずに、すぐ滑り降りようとする私。




▲ 先のphotoは、湯沢から日本海側へ抜ける方角のもの。これは逆の群馬・上州側のもの。

たぶん、谷川連山とかいう山並みだろう。ゴツゴツしているねー。


何度か、このガーラゲレンデ中央エリアを滑ったあと、南エリアへ移動。
さらに、そこからゴンドラに乗って、小説「雪国」的には本命の「湯沢高原スキー場」へ移った。


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▲ 涙が出るほど絵画的、この山と里の風景は・・・

ゴンドラを降りて、下山ルートの「コマクサコース」を、一人下っていく途中での眺めだった。
三国街道が手前から、山合いをえんえんと、右上の日本海側へ向かって続いていく。





▲ 湯沢高原スキー場で、温泉場街道に一番近い、布場(ぬのば)エリアが見えてきた。




▲ ゲレンデ下には、食堂店が一列にマッチ箱を並べたように並んでいる。
布場エリアは、今見えるだけの、リフトも一基しかない小さいスキー場。
しかし、「雪国」では、「スキイ場」として何度か出てくる重要な由緒ある(笑)スキー場なのだ。




▲ なぜなら、この「スキイ場」のスロープの右横の高台には、川端康成が逗留した体験をベースに「雪国」を描いた「宿屋」があるからだ。
(赤丸印)



▲ その宿屋は、現在もある「高半旅館(ホテル)」。


「『東京のあわて者だわ。もう辷(すべ)ってるわ。』山麓のスキイ場を真横から南に見渡せる高みに、この部屋はあった。島村も火燵(こたつ)から振り向いてみると、スロオプは雪が斑なので、五六人の黒いスキイ服がずっと裾の方の畑の中で辷っていた。・・」

高半旅館は明日、ゆっくりみてこよう。

布場エリアは、残念ながら初級スキーヤー向き。川端康成も、書簡で「このスロオプは私でも滑れそうです」と書いている(笑)。

で、少し隣に移動して、再度上部の高原エリアに戻ろう。そのためには、このロープウェイに乗って上がるのだ。





▲ パンフには、「世界最大級166人乗りの大型ロープウェイ」で約7分と、書いてある。
内部は確かに広い。雪渓の山並みだけを見に来たおじさん達も乗っており、地下鉄の中みたいだ。
まだ宮仕え中の私は、通勤時を思い出す(笑)。


湯沢高原スキー場の頂上、大峰山1170mへ上がる。



▲ 毎度で申し訳ないが、この山並みと麓(ふもと)の湯沢町の町並みは・・・いいなあ。

八方をはじめ、スキー場のトップから白馬村などの麓が見えるところは多い。
しかし、ここほど町並みが近接して、はっきり見えるところは、私は知らない。


9時過ぎから滑り始めて、12時になった。お腹が空いてきた。



▲ 中腹にある、展望レストラン「エーデルワイス」に入る。

エーデルワイス? スイスかよう?
スキー場開設100周年を今年迎える、歴史ある湯沢なら、もう少し「和」的な名前にしてもいいような気がするけど。




▲ 広いレストランも、平日だからお客さんもほとんどいなくて、心がゆったりと満ちてくる。

で、お昼に注文したのは、



▲ 野沢菜チャーハンステーキ1300円。変わった、組み合わせなのでコレにした。
ガーリック味の牛肉ステーキと、野菜の下には、確かに野沢菜をまぶしたご飯がありましたよ。

これで、また元気が出た。


【続く】