荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

大使館を訪ねてー45(インドネシア、マリ)

2017年02月25日 | 散文
「インドネシア共和国大使館」

東五反田の坂にいます。
上空に首都高速目黒線が走る道です。


東五反田の斜面に大きな敷地を持っています。
東南アジア南部に位置する共和制国家で首都はジャワ島に位置するジャカルタです。

5,110kmと東西に非常に長く、また世界最多の島嶼を抱える国です。
赤道にまたがる1万3,466もの大小の島により構成され、人口は2億3000万人を超える世界第4位の規模であり、また世界最大のイスラム人口国としても知られています。

島々によって構成されている国家であるため、その広大な領域に対して陸上の国境線で面しているのは、東ティモールのティモール島、マレーシアのカリマンタン島(ボルネオ島)、パプアニューギニアのニューギニア島の3国だけす。

海を隔てて近接している国は、パラオ、インド(アンダマン・ニコバル諸島)、フィリピン、シンガポール、オーストラリアです。

東南アジア諸国連合(ASEAN)の盟主とされ、アセアン本部もインドネシアの首都ジャカルタにあります。

そのため、2009年以降、アメリカ、中国など50か国あまりのASEAN大使が、ASEAN本部のあるジャカルタに駐在しており、日本も、2011年(平成23年)5月26日、ジャカルタに東南アジア諸国連合(ASEAN)日本政府代表部を開設し、ASEAN大使を常駐させています。
(ウィキペディアより)


「マリ共和国大使館」

インドネシア大使館と高速目黒線を挟んで西側の丘にあります。
中目黒駅から近く、ここも高級住宅街の雰囲気です。


西アフリカに位置する共和制国家です。

西をモーリタニア、北をアルジェリア、東をニジェール、南をブルキナファソ、コートジボワール、南西をギニア、西をセネガルに囲まれた内陸国で、首都はバマコです。
国土の北側3分の1はサハラ砂漠の一部であり、残りの中南部も、ちょうど中心を流れるニジェール川沿岸だけが農耕地となっている以外は、乾燥地帯です。

植民地時代はフランス領スーダンと呼ばれていましたが、独立時に現在の国名となりました。
マリの名は、かつてこの地にあったマリ帝国の繁栄にあやかって名づけられました。

マリとは、バンバラ語で「カバ」という意味で、首都バマコにはカバの銅像があります。
(ウィキペディアより)

この話、続きます。
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大使館を訪ねてー44(ブルネイ)

2017年02月25日 | 散文
「ブルネイ・ダルサラーム国大使館」

港区から品川区に渡ったすぐの所に、南の国らしい白い建物があります。
この季節には見た目寒いです。


東南アジアのイスラム教国で、イギリス連邦加盟国です。
ボルネオ島(カリマンタン島)北部に位置し、北側が南シナ海に面するほかは陸地ではマレーシアに取り囲まれています。
首都はバンダルスリブガワンで、元首はハサナル・ボルキア国王(スルターン)です。

石油や天然ガスなどの資源を多く埋蔵しており、ASEANの一員になっています。
環太平洋戦略的経済連携協定の原加盟国でもあります。

波乱の歴史を持っています。

1660年代、王室で起こった内紛を鎮圧し、援助したスールー王国へサバ州の大部分を割譲しましました。
1775年からイギリス東インド会社がブルネイのスルタンと貿易交渉をします。

南京条約の1842年、ジェームズ・ブルックによるプランギン・ウソップの乱鎮圧をスルタンが評価し、サラワクを割譲します。
3年後、トマス・コクランがサバ北端を根城にもつ海賊を掃討します。
ブルネイの財政基盤である奴隷狩りがイギリスの奴隷貿易廃止方針と利害衝突し、1846年にスルタンが親英勢力の排除を命令します。

門扉の隙間から覗いてみます。

1888年、サラワク王国と北ボルネオがイギリスの保護領となります。
1906年に補足条約締結、イギリスが駐在官を設置し、国教に関わらない限り駐在官の意見を全て飲まなければならないと定めました。
開発が進められ、初めプランテーションを軸としていたものが1929年からセリア油田にシフトしました。

1941年、太平洋戦争の勃発に伴う日本軍の侵攻により1945年まで日本の統治下となり、サラワクとブルネイの国境線が無視される形で行政区域が定まります。
日本はスルタンを現地勢力として支援しました。

隣には大使公邸があります。

1947年、香港上海銀行の開いた支店が国内初の銀行となりますが、1985年に取り付け騒ぎが発生します。
1959年、条約改定、イギリスの自治領となり、駐在官制度廃止、高等弁務官が常駐します。
1962年、ブルネイ人民党内の急進派によるブルネイ動乱があり、1963年、石油法および石油関連所得税法を制定し、1967年、シンガポールとの間に通貨等価交換条約を締結しました。

1971年に条約を改定して完全自治達成し、1975年、ロイヤル・ダッチ・シェルの国内部門で株式の過半数を取得します。

1984年、イギリスより独立し、国連などに加盟しました。
きっかけはクラウン・エージェンツのスキャンダルです。

2008年頃より、王族の一人Pengiran Karamul Bahrinにより日本人を始め、台湾人、韓国人、中国人が被害者になる詐欺が発生しています。
被害者はいまだに救済されずBahrinは逮捕されていません。
(ウィキペディアより)
凄い歴史ですね。

この話、続きます。
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