道標の先に「矢切の渡し」が在ります。
舟が居ませんが、
この旗が出ていたら営業中です。
春の景色です。
この靡いた旗を撮るのに何回シャッターを切った事か。。
やっと来ました。
着桟です。
2人だけの客です。
乗客がありません。対岸の矢切に客が居るようです。
すぐに向かいます。
矢切に着きました。
グラウンド越しに見る金町浄水場です。
グラウンドから見る渡し場です。
チューリップと道標です。
渡し場の春です。
道標の先に「矢切の渡し」が在ります。
舟が居ませんが、
この旗が出ていたら営業中です。
春の景色です。
この靡いた旗を撮るのに何回シャッターを切った事か。。
やっと来ました。
着桟です。
2人だけの客です。
乗客がありません。対岸の矢切に客が居るようです。
すぐに向かいます。
矢切に着きました。
グラウンド越しに見る金町浄水場です。
グラウンドから見る渡し場です。
チューリップと道標です。
渡し場の春です。
青空の下、桜が満開です。手前の早咲きの桜はもう葉桜です。
ここは「四つ木めだかの小道」の南端です。現在は、ここからは暗渠となって綾瀬川に注ぎます。
櫻を見上げます。今年はあまり見られなかった青空の下の桜です。
「四つ木めだかの小道」はずっと続きます。この川は「曳舟川」です。お花茶屋を越えて、亀有も越えて、途中暗渠となって、葛西用水となって、更に北上しています。
川端に在るお洒落な喫茶店です。
人足が舟を曵いて荷を運んだり、舟遊びを提供していました。
こんなものが有ります。
そして説明板も。読みます。「曳舟川の由来 曳舟川は江戸幕府が明暦三年(1657)の大火ののち、開発に着手した本所、深川方面の新市街地へ、飲料水を供給する目的で開発された水路です。成立は万治二年(1659)といわれ、亀有上水あるいは本所・小梅上水とも呼ばれました。水源は瓦曽根溜井(現埼玉県越谷市)で、亀有に入ってからは東側に中井堀を分水し、四つ木付近までは二条の水路が平行して流れていました。 亀有上水の廃止は享保七年(1722)のことで、小梅より南の水路は埋め立てられましたが、上流部はそのまま用水路として残され、古上水堀と称されました。
上水の廃水後、篠原村(現四つ木)から亀有村間の二八町(約三十キロメートル)の水路を利用して『ザッパロ』という小舟に人を乗せ、土手の上から長い綱で肩にかけて引くことが始まり、『曳舟川』と呼ばれるようになりました。 帝釈天詣でや水戸街道に出る旅人が利用した曳舟川は江戸東郊の風物として人気を呼び、多くの紀行文や、初代歌川(安藤)広重の『本所江戸百景』などに情景が描かれています。」
背後は国道6号線です。斜めに潜って川は続きます。そこに、キャンプ翼の銅像が有ります。
師を信頼しきった笑顔です。
ここ四つ木は「キャンプ翼」の作者の出身地です。このような翼や仲間たちの銅像が四つ木と立石の数カ所に有ります。以前に「キャプテン翼像を探そう」とのイベントがあって、2日間かけて全部探したことがあります。
「FC立石」というクラブもある、サッカーが盛んな土地です。
曳舟川の、ほんの一部の紹介でした。