生家の本棚にこんな冊子がありました。著者は未だに不明です。
この冊子に書かれた現場を訪ねています。
記載の文章は、誤字脱字(けっこうあります)を訂正した他は原文ままです。
26.高麗池の由来
今から凡そ、1300年前、斉明天皇の時代、朝鮮は3つに分かれて戦い新羅は唐に、高麗、百済は日本へ救援を求め、日本から兵を出した。
その時、越智守興が兵を率いて出兵してが、戦に敗れ敵の捕虜となり唐につれていかれたが、すきをみて、家来2~3名と逃げ、九州にたどり着いた。
ちょうどその時、天智天皇が九州におられ、守興生還を非常に喜ばれ、守興に、今の朝倉を治めるよう命じた。
守興は、朝倉に来て、隣接する桜井も治めるようになった。
桜井は、大変よい処であるが水に乏しく、その当時、沢山来ていた帰化人の中より、トージさんと云われる高麗人をつれて来て、池を築いた所から、高麗池というようになった。
その時点では現在の池の3分の1程の大きさであったといわれ、のちに明治23年に改修され、200町歩の用水源となり、昭和29年の改修の時には、桜井町(合併前)が総事業費2,500万円余をもって、前改修時の2倍の貯水量をもつ現在の高麗池となった。
<筆者>
平成になっても改修されています。
土手の改修だと思います。
随分と分厚く立派になっています。
池下から見る土手です。
この冊子に書かれた現場を訪ねています。
記載の文章は、誤字脱字(けっこうあります)を訂正した他は原文ままです。
26.高麗池の由来
今から凡そ、1300年前、斉明天皇の時代、朝鮮は3つに分かれて戦い新羅は唐に、高麗、百済は日本へ救援を求め、日本から兵を出した。
その時、越智守興が兵を率いて出兵してが、戦に敗れ敵の捕虜となり唐につれていかれたが、すきをみて、家来2~3名と逃げ、九州にたどり着いた。
ちょうどその時、天智天皇が九州におられ、守興生還を非常に喜ばれ、守興に、今の朝倉を治めるよう命じた。
守興は、朝倉に来て、隣接する桜井も治めるようになった。
桜井は、大変よい処であるが水に乏しく、その当時、沢山来ていた帰化人の中より、トージさんと云われる高麗人をつれて来て、池を築いた所から、高麗池というようになった。
その時点では現在の池の3分の1程の大きさであったといわれ、のちに明治23年に改修され、200町歩の用水源となり、昭和29年の改修の時には、桜井町(合併前)が総事業費2,500万円余をもって、前改修時の2倍の貯水量をもつ現在の高麗池となった。
<筆者>
平成になっても改修されています。
土手の改修だと思います。
随分と分厚く立派になっています。
池下から見る土手です。