愛媛県庁の「えひめの棚田」HPには「くろだに」と記載されていますが、地元では「くろのたに」と呼んでいます。
生家から一番近い棚田です。
棚田の向こうに朝倉ダムが見えます。
この集落には、大雑把に言って3ヶ所に棚田が分布しています。
一部は畠に転換したり、耕作放棄地になったりしていますが、多くの棚田が現役で稲を作っています。
しかも、泉谷のようにボランティアに支えられているのではなく、地元の農家の手だけで耕作しています。
朝倉ダムが昭和46年に着工され、工事の為にトンネルを掘って道路を造りました。
ここは僻地と言われた私の祖母の生家より更に奥の秘境でした。
道路の開通によって、今治市の中心地まで車で30分の距離になりました。
若者が離村する事なく仕事に通えます。
黒谷集落は他の棚田集落と違って、村から先の道が在りません。
行き止まりの集落です。
隠れ里である場合生き延びる事を目標にして暮らしており、逃げる事を念頭に道を造っているようです。
今まで見てきた棚田集落は他所へ通じる道があります。
ここは踏み止まって最後まで戦う集落だったようです。
公民館の壁にある地図です。
大きく朝倉ダムが描かれていますが、冒頭の写真のとおり、集落はダムのずっと奥です。
この全ての道が、棚田や畠の先で終点になります。
他所へ通じる道はありません。
公民館の脇に急な石段があって、黒谷庵へ上がります。
ここに村の由緒書きがあります。
棚田の位置付けに関する部分を要約します。
「鎌倉幕府は全国を平定すると守護地頭を配置して各地の管理に当たらせます。
初代伊予の守護職は源頼朝の側近近江源氏佐々木三郎盛綱ですが、彼は同時に5ヶ国の守護地頭に任じられた為、伊予の運営はその被官であった長井斎藤氏に委ねられます。
長井斎藤影忠は険峻に砦を構築し、その奥地のここ黒谷盆地を兵たん補給基地としました。」
こんな歴史的背景があります。
黒谷庵の脇には大正時代迄使っていた小学校跡があります。
黒谷庵から見る集落です。
生家から一番近い棚田です。
棚田の向こうに朝倉ダムが見えます。
この集落には、大雑把に言って3ヶ所に棚田が分布しています。
一部は畠に転換したり、耕作放棄地になったりしていますが、多くの棚田が現役で稲を作っています。
しかも、泉谷のようにボランティアに支えられているのではなく、地元の農家の手だけで耕作しています。
朝倉ダムが昭和46年に着工され、工事の為にトンネルを掘って道路を造りました。
ここは僻地と言われた私の祖母の生家より更に奥の秘境でした。
道路の開通によって、今治市の中心地まで車で30分の距離になりました。
若者が離村する事なく仕事に通えます。
黒谷集落は他の棚田集落と違って、村から先の道が在りません。
行き止まりの集落です。
隠れ里である場合生き延びる事を目標にして暮らしており、逃げる事を念頭に道を造っているようです。
今まで見てきた棚田集落は他所へ通じる道があります。
ここは踏み止まって最後まで戦う集落だったようです。
公民館の壁にある地図です。
大きく朝倉ダムが描かれていますが、冒頭の写真のとおり、集落はダムのずっと奥です。
この全ての道が、棚田や畠の先で終点になります。
他所へ通じる道はありません。
公民館の脇に急な石段があって、黒谷庵へ上がります。
ここに村の由緒書きがあります。
棚田の位置付けに関する部分を要約します。
「鎌倉幕府は全国を平定すると守護地頭を配置して各地の管理に当たらせます。
初代伊予の守護職は源頼朝の側近近江源氏佐々木三郎盛綱ですが、彼は同時に5ヶ国の守護地頭に任じられた為、伊予の運営はその被官であった長井斎藤氏に委ねられます。
長井斎藤影忠は険峻に砦を構築し、その奥地のここ黒谷盆地を兵たん補給基地としました。」
こんな歴史的背景があります。
黒谷庵の脇には大正時代迄使っていた小学校跡があります。
黒谷庵から見る集落です。
立石は玄庵で蕎麦を食べたり、仲見世や吞んべ横丁を散策しています。
よく行く街です。
「無量寺」は祖母の実家の菩提寺です。
あさじには小学生の時に1度だけ会ったハトコ一家が今も住んでいると思います。
奇遇ですね。
へえー!黒谷が本籍ですか!
私の本籍は今治ですが、黒谷の近くのあさじに祖母の実家があります。
この記事の前後にこっそり訪ねて行きました。
また帰省して棚田を巡った時に黒谷の存在を知りました。
そんな風に帰省毎に周辺を訪ねています。
都会暮らしで年を取ると、故郷が恋しくなります。
私はS41年に父の転勤で愛媛を離れましたが、今でも本籍は「黒谷」です。荒川三歩さんは黒谷でお生まれになったのですか?私は屋号が「なかだ」とか言う家が祖祖母、祖父母の住まいでした。子供の頃は夏休みに遊びに行って、セキとか言う冷たい川?で泳ぎました。ちょっと今治方面のことを調べることがありこんな懐かしい記事に出会いました
ひろさんは源平時代に関する知識が豊富ですね。
細川氏は結局太平記に言う「世田山合戦」で南朝方の大館氏を滅ぼして北朝方の覇権を決定付けます。
大館氏は世田薬師に碑が、世田山中腹の奥の院にお墓があります。
大館氏の叔父新田義貞の弟脇屋義介の墓が、国分寺の近くにあります。
故郷の歴史は面白いです。
そうですか「ふろのたに」ですか。分かるような地形ですね。
嬉しいです。
回答ありがとうございます。
平家物語で有名な長井斎藤別当実盛の嫡孫で、
近江源氏の佐々木盛綱の被官であった長井斎藤景忠が
、源平合戦の後、論功行賞として複数の守護地頭職に任じられた盛綱の代わりに守護代として伊予の来国し、
砦を作るに適した地形の竜門山に砦を構築、
当該山麓の黒谷(※風呂の谷)を兵站基地にしたのですね。
>長井氏は南北朝時代に隣国の北朝方細井氏について伊予河野氏に敗れた
とのことですが、南北朝時代、
周桑平野は河野氏と細川氏の係争の地であったみたいですね。
で、長井氏は細川方についたけど、細川氏は河野氏に敗れた・・・。
そして、長井氏は主君筋である近江源氏佐々木氏を頼って海を渡る・・・。
※黒谷は、昔、風呂の谷と呼ばれていたそうです。
お風呂の浴槽みたいにくぼんだ谷だったからでしょうか・・。
ご質問の件については、私の生家の周りにも多くの長井姓があって、私も同じ疑問を抱きました。
記事に転用した黒谷庵の由緒書きに続きがあります。
「長井氏は南北朝時代に隣国の北朝方細井氏について伊予河野氏に敗れた後、海を渡って近江源氏佐々木氏に仕えます。
代が下がって、織田信長によって浅井長政が小谷城で敗れた為、再度海を渡ってこの黒谷に移住しました。江戸時代以降は地の土豪となり、その一族は、高大寺、古谷、孫兵衛作、吉岡、徳能などに分家し、それぞれに庄屋職などを勤めたそうです。」
ほっこりさせて頂きました。
ありがとうございます。
黒谷には長井姓の方が多いようですが、
この地に砦を構築した長井斎藤影忠の子孫なのかもしれませんね。
とはいえ、今治、周桑平野には長井姓の方が多いように思いますが、この方たちは祖先をたどると黒谷集落の長井氏から分家された方達なのでしょうか?