「青年の散歩道」で銀杏風吹に出逢いました。綺麗!
木洩れ陽の下のハチ公と上野博士です。二人が黄色く染まります。
硝子に映して。
本郷通りを走ります。
冬爛漫です。
「青年の散歩道」で銀杏風吹に出逢いました。綺麗!
木洩れ陽の下のハチ公と上野博士です。二人が黄色く染まります。
硝子に映して。
本郷通りを走ります。
冬爛漫です。
根津神社の黄葉がピークです。
楼門が眩いです。
「錦秋」との言葉があります。もう冬のカレンダーですから、「錦冬」ですね。
舞殿から。
舞殿の床越しに。
振り返りつつ西参道へ行きます。
乙女稲荷です。
透かし塀と乙女稲荷と西参道です。
去り難いです。
冬らしい青空ですが、気温は高いです。冬麗という気候です。青空に銀杏の木が突き刺さります。東京の黄葉の名所です(黄葉の素晴らしさを表現する為に、数日分を編集しています)。
おお! 黄金の景色です。
銀杏並木を歩きます。
反対側のレストランのテラス席は、相変わらずの賑わいです。
黄葉を楽しむ人々です。
もう終盤ですね。
夕方の行幸通りです。皇居方面を見ます。もうすぐ雲が染まりそうです。
アイススケートリンクです。暖かくて氷が溶けたそうです。利用できません。
東京駅の夕景です。
背後に高層ビルを従える姿は、世界に誇れる中央駅の光景です。
自転車なのでこの時刻迄です。夜は危険なので、明かりが灯る前に帰ります。残念です。
頃合いを見計らってやって来ました。ジャストタイミングです。
朱鳥居を潜ります。
視界が黄金色です。
武芳稲荷神社前です。
振り返ります。
武芳稲荷神社の、初冬の佇まいです。
東京都の天然記念物です。
おお!鬼子母神の境内が金色に染まっています。
お客さんが居ました。七五三詣りです。最近は11月15日に拘らなくなりましたね。この家族はここの黄葉を待っていたのかも知れません。他にもカメラマンを連れた七五三詣りの家族が居ます。
一人でお買い物です。以前にお婆ちゃんが言っていました。「この商売はお金じゃないのよ。ここで駄菓子を買っていた子供が大きくなって子供を連れて来るのよ。その成長ぶりを見られるのが嬉しいのよ」親子3代の駄菓子屋通いでしょうか?
お客さんが帰りました。お婆ちゃんが寒そうです。
樋に銀杏の葉が積もっています。
今日のお婆ちゃんです。「寒いね。今日は何枚着てるの?」「7枚よ!」「え〜、もう7枚着てるの⁈ もっと寒くなるよ」「その時は重ね着するわよ。長年生きていると、着るものはいっぱいあるわよ!」「樋に落ち葉が積もっているけど大丈夫?」「朝店を開けるでしょう?まだ商品が並んでないので、ここに上がって、手で掻き出すのよ」私はラムネを飲みながら、こんな会話で始まりました。
駄菓子屋と大銀杏の姿が素敵です。
お客さんが来ました。
これも絵になります。
「お婆ちゃん、立っていると足元が冷えるから、お参りしてから帰るね」「良いお年を。今年はもう来ないでしょう?」「そうか! もう師走なんだねえ」こんな締めの会話でした。
先週の訪問です。すっかり紅葉したケヤキ並木です。初冬の景色になりました。
ケヤキ並木を行きます。
案内処に冬日が射します。冬麗らです。
振り返ります。
石畳に木洩れ陽が影を落とします。
穏やかな初冬の景色です。
駅に向かいます。通勤していた経路です。少なくなった田圃と畑に一杯建物が在ります。ここは田圃とたばこ屋でした。
今はケアセンターです。
当時から有りました。中学校に向かう横断歩道です。
近道じゃない道を歩きました。この先へ行けば神戸生協の店舗ですが、もうこれ以上歩く元気はありません。ここを左折したらやって来た元の道に通じます。・・・ここは初めてこの街に来た時に、同じアパートの先輩と待ち合わせた、元喫茶店です。まさか自転車屋になっているとは・・・。
明石焼きの店と定食屋の店の路地に戻りました。
結婚してからもお世話になった定食屋です。一番存在して欲しかった店です。あの一家はどうしているのだろう?まだ建物が新しいです。訪問がもう数年早ければ、あの一家と再会できたように思います。
夕日が、お世話になった不動産屋を照らします。
懐かしい駅ですが、こうして駅を見上げた事が無かったように思います。改札を入ります。
ホームから振り返る街が夕陽に染まりかけています。
電車が来ました。通勤で何度も乗った電車です。帰京します。
死ぬ迄にもう一度見たかった旅が終わりました。満足だし、安心した心境です。
お付き合いありがとうございました。
気が逸ります。今住んで居る方ごめんなさい。居住スペースに踏み入ります。
38年前に住んでいたそのままの姿です。あの4階に住んでいました。
車止めブロックが有るあそこが私の駐車場でした。
見上げます。あの角の奥に住んで居ました。
居住者の方ごめんなさい。上がってみます。スロープが設置されていました。外観で大きな変化があったのはここだけでした。
郵便受けも変わっていました。
昔と一緒で階段しか有りません。息を切らせて住んでいた4階に来ました。この奥です。
4階から見る景色です。中学校が変わらずに在りました。伊丹空港の影響で、騒音の為に、眼の前の道路から向こうは、NHKの受信料が半額でした。
奥から2番目の部屋です。ここから先の3軒は、同時期に入居した同じ年頃の新婚家族でした。妻どうしはとても仲良くしていました。夫どうしは、時々休日に話す程度です。皆んな「バブル経済」突入直前のサラリーマンでした。
この部屋に住んでいました。全く変わっていません。デジャブのようです。
突き当りの階段から覗くマンションの裏です。マンションが建っていました。当時は広い空き瓶置き場でした。ある日突然、早朝から瓶の撤去作業が始まったのを覚えています。予想通り、こうなりましたか。
廊下の突き当りからの風景です。住宅が密集しています。私は奥まで来ることが少なかったので記憶が曖昧ですが、田圃だったと思います。
振り返ります。
ここが住んでいた部屋のキッチン窓です。今も変わらない間取りだと思います。
住んでいた部屋の前の風景です。
ここで長男と次男を授かりました。ここで一緒に住んだ女性たちは同年代で、同じように子育てをして、皆んな仲が良かったです。
名残惜しいですが、怪しい者じゃないので、そそくさと退出します。
あれ⁈ あれあれ⁈ この散髪屋でずっと髪を切って貰っていました。まだ営業していました! 想定外の喜びです! ここには少年マンガ誌が置いてあって、暇つぶしに読んで、先客が居る方がありがたかったです。週間雑誌なので、月1回の散髪では全てを読みきれません。古い雑誌を貰って帰っていました。
覗きながら歩いていたら店主と目が合いました。大柄な体躯はそのままです。頭は白髪で薄くなっています。あの人です! お客が居ます。居なければ散髪してもらおうかなんて思ってしまいました。目が合ったので会釈をすると、彼も会釈しました。覚えている筈はありません。ただの挨拶の会釈です。
すぐに賃貸マンションです。
ここは当時もスナックでした。外装と名前は変わっていると思います。会社の先輩に連れられて時々行っていました。
ここに会社の先輩が住んで居ました。「先輩、梅田で呑んでここ迄帰ったのに、階段を上がって家に帰れば良いじゃない・・・」と思いながら呑んでいました。
その1階のこの場所は寿司屋でした。ここも先輩に連れられて行った店です。偶然、今治出身の夫婦が経営していて、薄給を持って、時々通っていました。・・・長男に「将大」と名前を付けた、あの夫婦はどうしているのだろう?
その斜め前が大きなマンションに変っていました。ここが独身時代に住んでいた「西ノ口荘」が在った場所です。随分の変りようです。
大きなアパートでしたが、隣の民家と一緒に地上げしたものと思います。更に大きなマンションになっています。
斜め前は田圃の中の駐車場でしたが、ここにも住宅が建っていました。
丁度この場所に、私の車を停めていました。
近道としてこの路地を通っていました。田圃の中の路でしたが、今は田圃なんて有りません。あの角を曲がっていました。
一帯の田圃は全て新築住宅で埋められています。再び、もう数年早く来ていれば、と悔やみます。
更に角を曲がると一般道路です。少し畑が残っていました。
新婚当時、休みの日の夕方、生協の買い物帰り、ここの畑で採れたての枝豆を分けて貰って、ビールの摘みにした事があります。さあ一般道路を右折します。どうだろう?
あっ! 在りました!住んでいた賃貸マンションです!
当時のまんまの姿で立っています!駅を降りてここまでの経緯から、今も残っているとは思いませんでした。しかも、建屋も塗装も変わらずに・・・。奇跡の光景です!
この話、続きます。
電車を降ります。ホームの風情は変わっていないように思いますが、線路の上に陸橋ができていました。
あ、地下道が残っています。当時のようにこちらを使います。
地下道を行くと上り線のホームに出ました。当時と同じです。
そのまま改札を出ます。
左右を見ます。
引越した翌年に、役場から住民住所録が郵送されて来ました。私の1ページ前に、阪急ブレーブスの山田投手、福本外野手、パーフェクト投手の今井雄太郎氏の住所が記載されていました。電話番号も載っていました。おおらかな時代でした。彼らのマンションが在ったのはこちらの道路の先です。
反対側の道路に、不動産屋が残っています。当時は民営の小さな不動産屋でした。あそこで借りた部屋で新婚生活を始めました。私はこの街に異動して来て、やがて結婚しました。ある意味「里帰り」です。
掲題のとおり、38年ぶりに阪神タイガースが日本一になりました。でも、その年の10月1日付けで関東に異動したので、今年同様、関西地区の熱狂を経験していません。
ここは本屋でした。よく立ち読みしていました。この街は文教地区で、映画館もパチンコ屋もありません。独身男の休日は、立ち読みくらいしかすることがありませんでした。
駅前の路を行きます。ビルばっかりになってすっかり様子が変わってしまいました。民家が並んでいたように記憶しています。
あの角を右折します。
あ、全部全部何もかも新しくなっています。この角に3個一の長屋が在って、真中に定食屋が在りました。同じアパートに住んでいた独身数人がその店と契約していました。月幾らの定額で、メニューはお任せです。食事が偏らないよう管理して貰っていました。
独身連中とそこの店主一家とで、スキーや海水浴に行ったりした付き合いでした。
斜め前に明石焼きの店が残っていました。初めて明石焼きを食べた店です。まだ若い子持ちの女性が店をやっていました。今日は定休日みたいです。訪問できなくて残念です。隣の酒房は阪神タイガースの東田選手が通っていました。そのまま残っているのが奇跡です。
この角は時々行っていたスナックでした。まさか学習塾になっているとは・・・。左折します。
歩く川の右手はURの団地でした。すっかり見違えました。
橋に来ました。
この川に時々ゲロを戻していました。金曜か土曜の夜はあの定食屋で、22時に店が終わってから、呑みなが夜っぴいて麻雀をしていました。マスターがビール好きでビールが無料でしたが、殆どビール代以上負けていました。酒は弱くないけど、ビールばかりの二日酔はキツかったです。アルコール度が低くて酔わないので、ついつい大量に呑んでしまうのでしょうね。
もうすぐ独身時代に暮らしたアパートが在ります。駅からここまでの状況を見ると、まだ在るとは思えませんが・・・。
喫茶店脇の塀の向こうはキャンパスです。
随分綺麗になりました。
1・2年生時に主に使った教室の建物です。ここの小さな掲示板に、修了者(卒業生)名簿が、小さく、学籍番号で掲示された日の事を覚えています。よく泊まりに行った大原君の学生アパートから、そのアパートに住んで居た、めちゃめちゃギターが上手かった田口くんと一緒に見ました。大原君は2年時に留年していました。・・・建物は昔のままですが、教室の中が綺麗になって、照明が明るくなっていました。
見上げるビルは、3年生の時に主に通った教室です。
4年生時に通った研究室棟はあの場所でした。綺麗に大きく建て変わっています。歩いている学生が皆んなお洒落です。私の入学当時の4年生以上(大学院生とか留年生とか)の多くは、一張羅のブレザーをヨレヨレで着ていました。皆んな貧乏でした。私の頃から身の回りを気にするようになったように思います。
通学路を戻ります。当時在った店は見当たりません。
角を入ります。このうどん屋でしょうか?店名が違うようだし出入り口も左右違いますが、立地的に多分ここです。時々昼食を食べに来ました。
関西では、「きつね」と言えばお揚げが入ったうどんで、「たぬき」と言えばお揚げが入った蕎麦です。東京で言うかき揚げが入った「たぬき」は、関西では「ハイカラ」でした。「ハイカラ蕎麦」もありました。多分今でもそうだと思います。
・・・さて、通学路を1つ入ったここが銭湯だったように思います。
銭湯の前に、いつもたこ焼き屋の屋台が出ていました。たこ焼きだけで晩御飯を済ませたりしました。
この路地を行きます。あそこです。
ここです。大原君が住んでいた学生アパートです。彼とは気が合って、よくここに泊まって、さっきの銭湯に行きました。・・・2、3泊したある日の夕方、気になって田舎に電話したら祖母の死を知らされて、慌てて夜行で葬儀に帰省したことがありました。夜中に尾道に着いて、港の待合室で夜を明かしました。母が何度も住んでいたアパート「若岩荘」に電話したけど不在で、諦めていたそうです。あの時、「虫の知らせ」ってあるのだと思いました。
・・・玄関をよく見ると、カラオケスナックの貼り紙です?
1・2階の左右に合計20室くらいの部屋が有りました。毎日どこかの部屋で麻雀をしていました。大原君の部屋は1階の真ん中でした。あの辺りの日が差さない部屋です。いつも電気を点けていました。
駅に向かいます。当時も交番が在ったのでしょうか?お世話にならなかったせいか記憶にありません。
地下道を行ってみます。これも無かったように思います。未だに高架化していない田舎駅です。
ホームが広くなったように思います。通路と電車に乗る整列場所が描かれています。こんなにする程混雑していませんでした。学部学科の増設に伴って学生が増えたのか、真面目に授業を受ける学生が多くなったのでしょうか?それとも、マナーが悪くなった?
・・・次の、見ておきたい場所に移動します。
学生が歩いています。
振り返る踏切りの向こうに映画館が在りました。洋画からヤクザ映画からロマンポルノまで、なんでも上映していました。あのノッポビルの場所です。
駅前の「鳥貴族」はレコード店でした。
通学路を行きます。
あの銀行に学費を持って行って納めた事があります。帰省時に父が、送金手数料が勿体ないから為替(?)を持って行けと言われました。
その向かいは大きな名曲喫茶でした。喫茶店でたむろしていた時代です。
通学路には雀荘が沢山在りました。高石ともや氏の「受験生ブルース」が、「♫麻雀狂いの大学生」なんて歌っていました。それにしても秀逸な店名です。「ツモ中立て混一通」ですね。思わず撮りました。「俺の雀荘」です。
通学路を行きます。
この辺です。多分ここです。安田君が暮らした下宿屋の場所です。当然改築されています。今も、学生相手の下宿屋だろうか?
ここに在った、奨学金を引き出していた郵便局が無くなっていました。
その先に在りました!嘘のように在りました。ほぼ毎日通った喫茶店です。
外装が全く変わっていますが、玄関上の庇だけがそのままです。何より店名がそのままです。約40数年前に、結婚前の家内を連れて来て以来です。
奥に通されます。内装も変わっています。ここは当時は無かったスペースです。店に入った所のカウンターの位置も違っていました。トイレの場所だけは一緒です。経営者に聞くと、「前オーナーは健在で私は店を借りています。今年度で返却の予定で、オーナーの娘さんが運営するようです」・・そういえば、女の子が居ました。もう50過ぎになると思います。
オーナーに伝えるのでと言われて、名前を答えました。ついでに、私が卒業した学科がまだある事を確認しました。
今どき「喫煙可」です。まあこれも経営方針です。オーナーが居ないし煙いので、カレーライスを食べて退出します。
帰り際に改めて眺めます。よくぞ残っていてくれました。店名「Sunset Inn」どおりの光景です。
これで見納めです。
前回の続きです。学生時代に住んでいたアパートを訪ねました。
タバコ屋を右折したら新装開店の釣具屋でした。卒業する先輩に誘われて、「新装開店バーゲン」の竿を買いました。学生のくせに変なモノを買ったものです。新幹線で持って帰って、帰省したときに使っていました。釣具屋はアパートになっています。まだ新しそうです。そうそう、此処は海から遠いです。商売になってたのでしょうか?
その向いの路地の奥に住んで居ました。全く景色が変わっています!路地も広くなっています。一帯を地上げして、マイカー用に道路を拡張したのでしょう。突き当りを左折してすぐの場所です。4年間住んで居ました。
ああやっぱり!釣具屋から路地を見た瞬間に覚悟していました。案の定、新しそうな住宅が建っています。
若岩荘は、木造モルタル造りの2階建てアパートでした。30部屋くらい在ったと記憶しています。4畳半一間に小さな流しが有って、ガス水道完備、共同洗濯場と共同トイレ、風呂無しでした。入居当初の家賃は月3000円で、2年目から5000円になりました。奨学金を月5000円貰っていたので、丁度住居代になっていた訳です。学食のサービス定食が100円の時代です。
当時の写真なんか有りません。もう数年早く来ていたら再会できていただろうこの家の新しさが寂しいです。
暫く佇んで駅に引き返します。タバコ屋の門を曲がります。
思い出しました!ここが本屋でした。4年間で100冊の現代小説本を読もうと通いました。
店構えが随分変わりましたが、今も本屋です。嬉しい!
この道を4年間往来しました。
この辺りに市場が在りました。
多分ここです!
今は自転車置き場ですが、奥に長い土地です。この左右に、小さな店が並んでいました。米屋が在って、田舎から出てきた時に米穀通帳を提示して、お米の購買先を確保しました。でも既にこの米の確保制度は形骸化していて、他の店でも米を買うことができました。それよりなにより、母親が米や日用品を送ってくれていたのと同時に、殆ど外食に頼っていたので、この地で米を買った経験は僅かです。
ここだったでしょうか?アパートの管理人の小父さんが亡くなって、小母さんが田舎に帰る時、私にカレーライスをご馳走してくれました。社会人ばかりの住人の中で、私だけが学生でした。何かと気にかけてくれていました。・・・もう故人ですね。
駅に戻りました。
次の思い出の場所を訪れます。
冬空に清涼な富士山です。曇っているのは車窓です。死ぬまでにもう一度見ておきたい場所を訪ねる旅です。
突然、伊吹山下の濃霧です。この旅は、どんな結果が待っているのだろう?
約50年ぶりにやって来たら、駅が高架になっていました。
駅の北には大きなショッピングセンターです。驚きです。小汚い民家が密集していたのに・・・。
南側には大きなマンションです。何もかも驚かされます。
駅の改札を出ると商店街です。この構図は変わっていません。
北側を見ます。かつてはここは踏切で、その先に改札口が在って、そのすぐ向こうにパチンコ屋が在りました。
商店街を南に行きます。看板の向こうは、よく通ったパチンコ屋です。残っていました!
パチンコ屋の正面はローソンになっています。
こんなアーチなんかも有りませんでした。
あ、スーパーです。私が2年生の時にできました。名前は「サカエヤ」だったと思います。建物も変わっています。食料を始め、日用雑貨の殆どをここで買っていました。
一角には、同時に開店したミスタードーナツが在りました。今は整骨院です。
記憶に導かれて歩きます。あ⁈ 建物は変わりましたが、病院が在りました。風邪を引きやすい体質の私はここによく通いました。
そう、鎌田医院という名前だったと思います。ということは、2世医師でしょうか?
向いに銭湯が在りました。ここだと思います。並びには町中華が在って、風呂上がりに晩御飯を食べていました。
そう! ここに大きな文房具店が在りました。
今は整骨院です。
隣は小さなクリーニング屋でした。今は居酒屋(?)です。
向いにはタバコ屋が在りました。その雰囲気があります。ずいぶんお世話になりました。卒業して引っ越す時、荷物を作る為に、煙草を梱包していた段ボール箱を沢山貰いました。店番のお婆ちゃんが別れを惜しんでくれました。もうとっくに故人でしょう。・・・さあ、この角を右折します。
この話、続きます。