駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

お写真と違うようですが

2009年04月23日 | 世の中
 すき家は吉野家よりもメニューが豊富だ。丼の上に乗る具の組み合わせも、カレーと牛丼のあいがけとか客の希望をそのまま実現してくれている感じだ。当然、客としてはあれかこれか楽しく迷うわけだが、その時参考になるのがメニューの写真だ。ところがどうもこれが問題で、実物とちょっと違う。写真を見て味を想像し、八宝菜と牛丼のあいがけを注文すると出てきた物は予想と様子が異なる。お値段から考えれば写真のようなものが出てくるはずはないのだが、そう思っても違うじゃんと言いたくなる。
 その点パスタのチェーン店の方がずれが少ない。パスタの方が色合いが派手で元々美味しく写りやすいのかもしれない。
 しかしまあ、食べ始めれば味が問題で、見かけのことは忘れてしまう。
 これがお見合い写真となると微妙だ。とにかく会ってみようかという気持ちにさせるのが一番の狙いなので、ベストショットが多い。確かにこう見える瞬間が一日のうち数分あり、フェイクとは言えないかと納得するようだ。会ってしまえば、別の魅力も見いだされ、いつの間にか写真は棚上げになってしまう。
 写真というのは真実を写すと感激して命名されたと想像するが、実は真実の瞬間という名手の写真はごく少数で、瞬間の真実を写した物がほとんどなのだ。
 旅行の写真などは思い出の縁となるが、メニューやお見合いの写真は要するに別の趣向で選択のきっかけとして提供され、所期の目的を達すればその正確性はさほど問題にされないようだ。
 我々はお見合いの世話はしたことはあるが、見合いの経験はなく、一回ぐらいはしたかっっと言い合っているが、残念ながらいや幸いにかな、もうその機会はないだろう。
 
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ほとんど互角

2009年04月23日 | 小考
 地球上の生命体の中で人類は圧倒的な優位を持って増殖してきた。それに人類に恵まれている頭脳力が関与しているのは間違いないだろう。そう考えると人類の歴史の風景も違って見えてくる。何万年の昔はさておき、かなり詳しく知られているこの数千年、詳細な記録が残っているこの数百年の歴史も人類繁栄への道筋だったのだろうか。
 小学校の校長先生が二十一世紀まで生きる君たちと呼びかけられたのを鮮明に覚えている。確かに有り難いことに二十一世紀まで生きた。そしてやがて十年、二十世紀を振り返り様々な思いが巡る。町医者の私ごときの思索は取るに足りないが、広く深い分析研究が学術の世界で為されていると思う。そうした研究学問が明日に光を投げかけることができるだろうか。
 と、大上段に振りかぶって書いたのは、今更ながら民主主義とはなんぞやと訝かっているからだ。民主政治と衆愚政治との違いは紙一重あるかどうか。民衆は愚にして賢と言われるが、本当に五分五分のようだ。
 診察室から見れば、症状のない病気を予め防ぐ指導を多くの患者さんはなかなか実行できない。痛みやしびれが出てから、ようやく動き出す人が多い。あるいは医者でなく、身内や近所のおばさんにあるいはマスコミで指摘されてやっと腰を上げる。勿論、これでは手遅れになることが多いし、注意しないと近所のおばさんの理解やマスコミ報道は単純化され過ぎており、間違いの元になることがある。
 医者の説明努力が足りない部分もあるが、こうした現象が絶えないのは人間が難しい理屈でなく単純な説明でしかも近しい人に言われて動くように、そして最終的には痛みなどの自覚症状を感じて動くように出来ているからだと思う。人間の平均的なそうした特性を考えると、果たして平均的全体的な雰囲気に寄りかかって判断して良いだろうかと心配になる。
 賢者のつもりもないし、偉そうにしているつもりもないが、時々垣間見るある種のテレビ番組のくだらなさには恐ろしくなる。これで良いのだろうかと思うのは不遜だろうか。
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