「マイナリ被告の無罪を淡々と検察が求める、謝罪はなし」。との見出し。一体、検察はどういう神経をしているのか?。失われた十五年、傷つけられた人生をどうしてくれるのだ。心の底からの謝罪がないとは信じ難い。
検察を取り調べる検察はどこに居るのか。マスコミは厳しく検察の誤りを追求する義務があると思う。どうも及び腰に見えるが、ひょっとして検察が怖いのだろうか。正義の味方が恐れられるとは、実は正義の味方ではないのかもしれない。
物語に騙されてはならないと強く思う。子供の時は物語を目を輝かして聞いたものだ。しかし、大人は物語を眉に唾して聞かねばならない。語り得ることと実現し得ることとは違う。それを思い知るのが大人になると言うことだ。
検察は自ら紡ぎ出した物語に目を眩ませ、矛盾に目を瞑り、無実の人を陥れた。これに心からの謝罪がなければ、検察に正義はない。過ちを認めない人間の怖ろしさは、人間の歴史を見れば枚挙に暇がない。権力の鎧は悪や不正と戦うためのものであって、自らの過ちを覆い隠すためのものではないと申し上げる。
検察に、初心をどこへやったとお聞きしたい。