アドヴェント第1週は非常に忙しい週でしたが、無理矢理時間を捻出して12/2(火)、雪の中を岩手県立美術館に舟越保武展を見に行ってきました。舟越保武は岩手県二戸生まれ、カトリック信者の彫刻家で、「長崎26殉教者記念像」や秋田県田沢湖の「たつこ像」などが有名です。
展示数は彫刻作品が約60点のほか、初公開を含むドローイング作品も。舟越さんの作品は今までもあちこちで見ましたが、これだけまとめて見るのは初めてでした。岩手日報にも何度か掲載されていましたが予想以上の見ごたえでした。
私が特に印象に残った作品、1つ目は「一馬と水仙」というパステル画。舟越さんのご長男が肺炎のため生まれて8ヶ月で亡くなってしまった時、いとこの家から水仙の花を沢山もらってきて棺を飾り、その死顔を描いたものです。舟越さんはこのことをきっかけに、ご家族でカトリックの洗礼を受けたそうですが、絵に描かれた子どもの手にもロザリオが握られているのが印象的でした。もしかしたら天国での我が子の幸せを願ったのかもしれません。「子供の死顔を描いて喜ぶ親がどこにあるか」とエッセイで記しつつも、写真が一般的でなかった時代、絵で我が子の生きた証を残してやること、それこそが芸術家であった舟越さんの、我が子への最大の愛情の表し方であったようにも思いました。画面に涙が落ちないように、用心深く涙をぬぐったとの言葉に、本当に目頭が熱くなりました。
2つ目は「原の城」。島原の乱で虐殺されたキリシタン農民の像です。眼が空洞になっていたり亡霊のようで夢にも出てきそうな恐ろしさなのですが、どうしても目を反らすことができませんでした。勿論教義的にはクリスチャンはこの世に未練を残して化けて出たりなんかしないのかもしれませんが、舟越さんの作品で二十六聖人像を光とするなら、この作品には二十六聖人像で描ききれなかった影の部分、殉教をさせた者たちに対する怒りややるせなさ、心の痛みといったものが凝縮されているような気がしました。人の心の自由が奪われ、支配されることがもう決してないようにと、私たちは願わなくてはならないと思いました。
3つ目は「聖ベロニカ」。脳梗塞で右半身の自由を失う前の最後の作品だそうです。他の作品を観終わって、ふと斜め方向から目をやったときに、まさに息を切らせて走り寄っているかのようなベロニカの姿を認め、はっとしました。十字架を背負ってゴルゴダへ向かうイエスに自らのベールを差し出したベロニカの話は聖書に記述はありませんが、カトリックでは「十字架の道行」の中にも取り入れられ、大切にされています。兵士たちとののしり叫ぶ群衆の中で、その空気を破るようにして犯罪者に駆け寄れば、下手をすれば自分の命すら危うくなるであろうことは想像に難くありません。しかし、その時ベロニカの心の中にあったのは、ただただ目の前の誰かの痛みを自分の痛みとして受け止め、その人に心からの愛を示したいという思い。それが彼女を非常に勇気ある行動に走らせたのだと思います。その出来事が本当にあったかなかったか、聖書に書いてあるかどうかを超えて、人々がこの物語を大切なものとして語り伝えてきたのは、きっと誰かに自分の愛を、真心を示したいという思いが本来どんな人にもあるからなのかもしれません。
帰りに図録もしっかり買ってしまいました今後郡山市立美術館、練馬区立美術館でも順次開催されるようです。
展示数は彫刻作品が約60点のほか、初公開を含むドローイング作品も。舟越さんの作品は今までもあちこちで見ましたが、これだけまとめて見るのは初めてでした。岩手日報にも何度か掲載されていましたが予想以上の見ごたえでした。
私が特に印象に残った作品、1つ目は「一馬と水仙」というパステル画。舟越さんのご長男が肺炎のため生まれて8ヶ月で亡くなってしまった時、いとこの家から水仙の花を沢山もらってきて棺を飾り、その死顔を描いたものです。舟越さんはこのことをきっかけに、ご家族でカトリックの洗礼を受けたそうですが、絵に描かれた子どもの手にもロザリオが握られているのが印象的でした。もしかしたら天国での我が子の幸せを願ったのかもしれません。「子供の死顔を描いて喜ぶ親がどこにあるか」とエッセイで記しつつも、写真が一般的でなかった時代、絵で我が子の生きた証を残してやること、それこそが芸術家であった舟越さんの、我が子への最大の愛情の表し方であったようにも思いました。画面に涙が落ちないように、用心深く涙をぬぐったとの言葉に、本当に目頭が熱くなりました。
2つ目は「原の城」。島原の乱で虐殺されたキリシタン農民の像です。眼が空洞になっていたり亡霊のようで夢にも出てきそうな恐ろしさなのですが、どうしても目を反らすことができませんでした。勿論教義的にはクリスチャンはこの世に未練を残して化けて出たりなんかしないのかもしれませんが、舟越さんの作品で二十六聖人像を光とするなら、この作品には二十六聖人像で描ききれなかった影の部分、殉教をさせた者たちに対する怒りややるせなさ、心の痛みといったものが凝縮されているような気がしました。人の心の自由が奪われ、支配されることがもう決してないようにと、私たちは願わなくてはならないと思いました。
3つ目は「聖ベロニカ」。脳梗塞で右半身の自由を失う前の最後の作品だそうです。他の作品を観終わって、ふと斜め方向から目をやったときに、まさに息を切らせて走り寄っているかのようなベロニカの姿を認め、はっとしました。十字架を背負ってゴルゴダへ向かうイエスに自らのベールを差し出したベロニカの話は聖書に記述はありませんが、カトリックでは「十字架の道行」の中にも取り入れられ、大切にされています。兵士たちとののしり叫ぶ群衆の中で、その空気を破るようにして犯罪者に駆け寄れば、下手をすれば自分の命すら危うくなるであろうことは想像に難くありません。しかし、その時ベロニカの心の中にあったのは、ただただ目の前の誰かの痛みを自分の痛みとして受け止め、その人に心からの愛を示したいという思い。それが彼女を非常に勇気ある行動に走らせたのだと思います。その出来事が本当にあったかなかったか、聖書に書いてあるかどうかを超えて、人々がこの物語を大切なものとして語り伝えてきたのは、きっと誰かに自分の愛を、真心を示したいという思いが本来どんな人にもあるからなのかもしれません。
帰りに図録もしっかり買ってしまいました今後郡山市立美術館、練馬区立美術館でも順次開催されるようです。