Eテレで『忍たま』の前に放送される『おじゃる丸』の主人公
おじゃる丸が大嫌いでした。
ぐうたらでわがままで、身勝手、業欲なおじゃる丸。
それがまかり通る月光町や平安朝の住人達。
案外、この世界の中の自分の世界なんて、こんなものかもしれません。
けれども、この世界では気をつけなければならないことが。
それは、相手に向けたはずのこの念は、自分に帰ってくると言うこと。
妬みや嫉みは、発生源へと戻ってくるのです。
特にお釈迦様の教えにあるように、妬みや嫉み、屈辱は
受け取らなければいい。とあります。
受け取らなければ、その思いは、本人へと戻って行くように
なっているからです。なぜ、反応しないのだ、と、本人が
また、そのぐるぐるの思いに囚われるから。
逆も然り。ですね。
なぜ、きらいなのか、ではなく、こう、あらねばならない。
こう、あるべきだ、と思うから、それからはずれれば、
ひとは、許せないという思いにかられます。
これは至極まともにきこえるのですが、
中学生の頃、このような正論を吐く(!)私に、
父はこう言いました。
「おまえは評論家になりたいのか、何も産まない、ただ、
人を批判するだけのー。」
父から見た評論家は批判家が=(イコール)でつながっていたのです。
これは、今の思考の根底です。
本当に世界を変えたければ、自分が変わるしかない。
これが宇宙の真理です。
しかし、本当に、おまえはそう思っているのか。
と、問われるのです。
物事が、動く、動かないは、本気度に比例します。
そして本気度は、本人が本気でやりたいのか、
やりたくないのかに因るところが大きいのです。
本気でやりたいこととは、本人の使命に関わってきます。
今の人生においての課題。生まれてくる前に交わした
約束のようなものです。
裏返せば、叶えたい願い。願望や希望。
それ以外は、本当は必要ないのです。
それを感情に任せ、言葉を撒き散らせば、マイナスエネルギー
たちの餌を撒くこととなり、自分自身が、マイナスエネルギーへ
餌を供給する餌場と化し、マイナスエネルギーに取り込まれて
しまうのです。
反対を唱えるのは簡単ですが、それにかけたエネルギーは、
これもおのずと返ってきます。
これは反対と唱える行為でなくとも、同じことです。
戦争反対ではなく、平和を祈る という行為です。
何かをするなら、この波紋のある世界の法則を熟知する。
そして、それが自分の使命かを自分自身に問い、
覚悟できるなら、
それは、あなただけの道なのです。
神に正邪はありません。
それこそ、神にとって、意味のないことなのです。
大目に見てやってはくれまいか
八幡大神さまはおっしゃいました。
これは、相手を、ではなく、何かを許せない
そう思考する自分自身に対して
多目にみるよう言われたのです。
最初は、この意味がわかりませんでした。
神さまからのメッセージは、本質だけを言葉に変換して
伝えられるので、それにあれこれの指示や、意図的なもの
裏があるような言葉ではないのです。
人間は、それの裏を読み解こうと、あれこれ詮索をするから、
今のような宗教法人の形へと体系づけやすくしたのです。
そこには、はじめたひとの意図的解釈が厳然と存在します。
この日の本に根付く神さまのネットワークには、文字化した
教えではなく、思いだけをつなげて、そこここにそれはあるのです。
そして、それを感ぜられる素養が日本人のDNAにはあるのです。
目には見えなくとも、教えを守られる。その謙虚さと、勤労を通じて、
日の本のひとたちは、今も、これからも在り続けられるのです。
ただ、どこかの特定なところに行かずとも、そこここで、
教えはあり、祈りはあるのです。
どこにいても、それはできます。
あなた自身が神として、体現することを思い出しさえすれば、
日の本の小さき神たちは、神として、ここに生きるのです。
読んでいただきありがとうございました。
加筆、修正しました。
いらっしゃいませ♪
お天気に恵まれてよかったですね。
そうなるまでにかかった時間分、同等の
時間を必要としているのかもしれませんね。
思い込みと思い違いは、似て否なるもの。
在りたい自分に添う思いほど、解決は早いものです。
じっくりと自分に取り組む。
そして、あせらないことです。
訪問くださり、ありがとうございます。
戻れる日は決まっているようなので、
その時にしか父上や母上の待つ平安朝へは行けないようです。
ってことは、帰ると決めれば、帰れるのかっ!?
カズマくん、かっこいいです。(笑)
愛しているからと言って、従属では片手落ち。
自分のスタンスは守る。これが自分をも大事にすることですよね。
愛するが故に盲目になるは、ただのいいわけです。
そうですよね。自分を思い出す行為は、自分の強さを思い出すことに他ならないのかもしれません。
訪問くださり、ありがとうございます。
おじゃるをピシャッ!と戒める姿に『受け入れる』ことの難しさを学んだりしました。
あの両親のはヤレヤレですが・・・
『受け取らない』の方が、もっと自分の心の強さが必要なんだよな~と思っています。
地元の方は皆さん、おもとさんと呼んでいます。御許山の頂きにあるからです。
今回こちらへ呼んで頂いた理由は許すことをもう一度学ぶためだと感じました。
日々、色々な感情を律するように自分なりに努力をしているつもりですが、
なかなか難しいです。
特に、自分にとって大事だと思える方に対しては。
大事じゃなければ感情を律することは何とかなります。
大事だからこそ律することが難しいです。必死に抑えても時折、
溢れることがあります。
本当は大事だからこそ許したいのですが、難しいものです。
もう少し努力が必要です…