私のオフィスから、皇居のお壕が見えます。
この季節は、北国からやってきた様々な種類の渡り鳥たちが、お壕の水面で羽を休め、春を待っています。
鳥たちの仕草を眺めていると、ビジネスの喧騒をしばし忘れ、平和と安らぎを実感することができます。
しかし、宮崎で勃発した鳥インフルエンザのニュースに接してしまうと、それまで平和の使者のように思っていた渡り鳥たちが、ちょっと危険な存在に見えてきてしまいました。
(T_T)
宮崎県の養鶏業者の皆様、
心よりお見舞い申し上げます。
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さて、昨年末はNHKテレビの「坂の上の雲」を楽しんだ方も多かったと思います。
欧米の列強による勢力争いの渦の中で、開国して間もない当時の日本人が必死に生き抜こうとする様子には、理屈抜きに感銘を覚えます。
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広瀬中佐が戦死されて、いよいよ日露戦争が激しさを増していく局面となってきましたが、ここで忘れてはならないトピックがあります。
それは、早稲田大学野球部のアメリカ遠征です。
歴史を紐解くと、
1904年(明治37年)2月5日:日露戦争が始まる。
同年3月:広瀬武夫中佐が旅順港閉塞作戦で戦死。
同年12月:203高地を日本軍が占領
翌1905年(明治38年)5月:日本海海戦で日本が勝利
同年9月:終戦
ここに早大野球部の歴史を重ね合わせてみますと・・・
1904年3月(すなわち開戦の翌月。広瀬中佐の戦死された当月)から1906年:シカゴ大学の元投手であるメリーフィールド氏から野球技術のコーチを受ける
翌1905年2月27日:早大野球部の渡米が決定されたと、朝日新聞が報道。
同年4月:安部磯雄先生を団長として、早大野球部が第一回アメリカ遠征を挙行。
同年6月(すなわち日本海海戦の翌月):7勝19敗という結果を残して帰国
したがって、日本が国家存亡を懸けてロシアと開戦した直後に、早大野球部は米国人コーチを招聘。
対馬沖で連合艦隊とバルチック艦隊が乾坤一擲の艦隊決戦を行なっている、まさにその時期に、早大野球部は米国を転戦していたことになります。
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当時の日本は、日本国債の海外での消化による戦費調達、そして早期停戦を図るための調停役を米国に期待していました。
何といっても、もし日露戦争が長期化したら、日本は財政面から破綻してしまうのは必至という切羽詰った状況でした。
そんな待った無しの局面での米国遠征ですから、これは決死行だと、安部先生は内心考えていらっしゃったという気がします。
米国の各地で親善試合を行なうことを通じて、「日本って、どこの国? 日本人は何を食べてるの?」というぐらいの認識であったろう米国民に、日本人の若者を実際に見てもらう。
そして「ふーん、日本人って、野球のルールもちゃんと理解しているし、いっぱしの文明国じゃないか」と親日感情を醸成する。
そんな国家レベルの使命を早大野球部が担っていたことは、まず間違いないでしょう。
---------
それにしても、もし日本海海戦で日本艦隊が敗れていたら、米国内を転戦中であった早大野球部の選手団はどうなったことやら。ちゃんと帰国できていたかどうかも分からなかったのではないでしょうか。
明治時代の先人は、サムライでしたね。
この季節は、北国からやってきた様々な種類の渡り鳥たちが、お壕の水面で羽を休め、春を待っています。
鳥たちの仕草を眺めていると、ビジネスの喧騒をしばし忘れ、平和と安らぎを実感することができます。
しかし、宮崎で勃発した鳥インフルエンザのニュースに接してしまうと、それまで平和の使者のように思っていた渡り鳥たちが、ちょっと危険な存在に見えてきてしまいました。
(T_T)
宮崎県の養鶏業者の皆様、
心よりお見舞い申し上げます。
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さて、昨年末はNHKテレビの「坂の上の雲」を楽しんだ方も多かったと思います。
欧米の列強による勢力争いの渦の中で、開国して間もない当時の日本人が必死に生き抜こうとする様子には、理屈抜きに感銘を覚えます。
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広瀬中佐が戦死されて、いよいよ日露戦争が激しさを増していく局面となってきましたが、ここで忘れてはならないトピックがあります。
それは、早稲田大学野球部のアメリカ遠征です。
歴史を紐解くと、
1904年(明治37年)2月5日:日露戦争が始まる。
同年3月:広瀬武夫中佐が旅順港閉塞作戦で戦死。
同年12月:203高地を日本軍が占領
翌1905年(明治38年)5月:日本海海戦で日本が勝利
同年9月:終戦
ここに早大野球部の歴史を重ね合わせてみますと・・・
1904年3月(すなわち開戦の翌月。広瀬中佐の戦死された当月)から1906年:シカゴ大学の元投手であるメリーフィールド氏から野球技術のコーチを受ける
翌1905年2月27日:早大野球部の渡米が決定されたと、朝日新聞が報道。
同年4月:安部磯雄先生を団長として、早大野球部が第一回アメリカ遠征を挙行。
同年6月(すなわち日本海海戦の翌月):7勝19敗という結果を残して帰国
したがって、日本が国家存亡を懸けてロシアと開戦した直後に、早大野球部は米国人コーチを招聘。
対馬沖で連合艦隊とバルチック艦隊が乾坤一擲の艦隊決戦を行なっている、まさにその時期に、早大野球部は米国を転戦していたことになります。
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当時の日本は、日本国債の海外での消化による戦費調達、そして早期停戦を図るための調停役を米国に期待していました。
何といっても、もし日露戦争が長期化したら、日本は財政面から破綻してしまうのは必至という切羽詰った状況でした。
そんな待った無しの局面での米国遠征ですから、これは決死行だと、安部先生は内心考えていらっしゃったという気がします。
米国の各地で親善試合を行なうことを通じて、「日本って、どこの国? 日本人は何を食べてるの?」というぐらいの認識であったろう米国民に、日本人の若者を実際に見てもらう。
そして「ふーん、日本人って、野球のルールもちゃんと理解しているし、いっぱしの文明国じゃないか」と親日感情を醸成する。
そんな国家レベルの使命を早大野球部が担っていたことは、まず間違いないでしょう。
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それにしても、もし日本海海戦で日本艦隊が敗れていたら、米国内を転戦中であった早大野球部の選手団はどうなったことやら。ちゃんと帰国できていたかどうかも分からなかったのではないでしょうか。
明治時代の先人は、サムライでしたね。