バカ犬

ちょっとバカ犬になって、本音を言ってみたいと思いませんか?

日本人の平均寿命がまたまた延びた!

2009-07-24 | Weblog
2008年の世界の平均寿命が発表された。
それによると、
日本人女性は世界一で、86.05歳。昨年よりも0.10年延びたとある。
片や男性は、世界で4番目に長い79.29歳。昨年よりも0.06歳延びたと発表された。

この数字をどう読むか、人によって見方が違うだろう。

一方、2008年の日本の医療総額は34.1兆円。対前年で9000億円増。1.9%の増とある。一般会計予算に対する重みは、ざっと40%以上ということになる。

この二つの数字を見て、奇妙な感じを受けたので、それを書いてみたい。

第一に、誰が、何故、平均寿命が延びていることが良いことだと判断しているのだろうか?
第二に、平均寿命が延びて、個々人は幸せになっているのだろうか?
第三に、何故、男女の間に、6.7歳もの差が出るのだろうか?
第四に、一般会計の4割も医療費に使っていてこの国は本当にいいのだろうか?
第五に、誰がこのような数字を結果として作り上げてきたのだろうか?

私、個人としては、このように平均寿命が延びていることが良いことだとは決して思わない。

なぜなら、お年寄りの中で、しあわせに過ごしている人は、かなりの少数派だと思うからだ。

病気を持ちながら、やっとこさ、生きてるって感じのお年寄りが多いように見える。

とにかく、頑張って、頑張って、生きてるって姿がいたるところにある。
老老介護など、大変そうだ。限界集落に住んでる人たちも、頑張って、平均寿命をあげているだろうと思う。

データがないから、感覚の世界の域を出ないのだが、医療費の伸びがこの裏にあるとも読めるのだが…。

では、誰が平均寿命が延びることが良いことだと考えているのだろうか?
もちろん、しあわせな、元気な、老人達でもあるし、その家族でもあろう。
さらに、考えられるのは、厚生省のお役人、一部の国会議員、そして医師会、薬品業界、そして薬剤師さん、一部の老人養護施設の運営者、老人介護に参入している企業達ではないかと思えてくる。
彼らの利益は、こうした長寿を生み出すために使われた医療費などから生まれてきているからだ。

お年寄り達は、やはり「ピンピン、コロリ」が大多数の希望のようで、薬漬けにされながら、命を長らえていくことを希望していないように見える。
少なくとも、私はそうだ。
病気になって、回復が見込めないなら、痛さや家族への負担とか精神的な苦悶とかで苦しむことなく、安楽に往生したいと願っている。
これは健全な考え方だと思う。

ざっと言って、平均寿命は70歳くらいで充分だと思う。
もっと生きたい人は、それはそれで楽しく長く生きたら良い。

何故、女性は6.7歳も長生きなのだろうかという点に関しては、基本的に子孫を生み出すために、10ヶ月もの間、二人分の浄化作業を担わなくてはならない体だから、神様が丈夫に創ったのだと考える。

でも、旦那に先立たれた老女が、一人で生きていくのも幸せそうでもない。
お年寄りの会合の姿を見ると、女性ばかりが目立ち、幸せそうにばかりも見えない。
老人ホームなどの写真を見ると、圧倒的に女性が多いのに驚かされる。

私見では、もっと、もっと若い世代に、こうした老人関連の医療費、介護費予算を回して、将来を明るくしていってほしいと政治には望むのだが、どうだろう。

こんな考えもあるということですが、やはり紘考えるのは少数派なのでしょうか?

この20年、日本はどうなってしまったのか?

2009-07-05 | Weblog
 7月2日の朝日新聞の「危機の20年」を興味深く読んだ。
冷戦終結後のこの20年間に日本が、国力、経済力など、全ての分野で衰退していっているというのだ。

曰く、
この20年とは、バブルのはじけた90年代初期から人口は減り、成長率も1%の長い、長い10年。
しかしそれだけで日本の苦しい時代は終わらなかった。
さらに10年。その結果、

・一人当たりGDP : 4位 → 19位
・国際競争力 :    1位 → 9位
・国際的学力比較 2000年 → 2006年で
・科学的リテラシー 2位 → 6位
  ・数学的リテラシー 1位 → 10位
  ・読解力       8位 → 15位 

などの数字が並ぶ。これは、追いつき追い越せという国是のもたらした停滞だと結論する。
再生の残る可能性、フロンティアは、若者だと述べる。

((上記の概略では不足だから、一読されることをお勧めする))

 この記事を読んだとき、自分自身も、この記事と同じ感じを持った。
残念ながら、この記事では、日本を現状の危機の状態に至らしめた原因、元凶を突き詰めてはいなかった。

 そこで、全くの乱暴な私見であるが、どの世代がこんな日本にしたのかを、この20年間(もしくは30年間)のスパンで考えてみようと思う。

 1970年初頭の高度成長期までは、日本には西欧の先進国と米国をモデルにして、全ての世代で、とにかく「追いつけ、追い越せ」の大ムーブメントが席巻していたと思う。ある意味では単純であるがゆえに、国民的レベルでの社会的エネルギーの集中が比較的たやすかったといえる。みんながやっていることをやれば良いといったような…。

 しかし、1968年に世界第2位の経済大国(GNP#2)になってしまって、経済的に西欧、米国に追いついてみると、もうその先のシナリオは誰も描いてはくれなかったのだ。「追いつけ、追い越せ」の目標が見えなくなったのだ。その先は、本当は自立的に世界の目標を見定め、その方向に日本を運営し、世界でのリーダーシップを期待されていたのだが…。

 最近の20年間(長くとれば30年間)の社会運営責任は、まさにちょうど今、定年を迎えたか、迎えつつある「団塊の世代(1947~49生まれ)」の40歳代から60歳代までの20年間とぴったりと重なる。40歳から、50歳、60歳へとなってきたこの20年間、「団塊の世代」がこの社会運営の重責を担っていたと思う。即ち、彼らこそ、社会の様々な領域で指導的な立場にいたのだ。ただ、彼らが自身でそれに気づいていたかどうかは解らない。

 彼らは実力も、エネルギーもあった。
しかし日本の将来は考えなかったのだ。将来のシナリオは描けなかったのだ。

 もちろん、彼らを指導していた今の65歳から上の世代の責任も重大だ。団塊の世代をちゃんと教育してこなかったのだから。戦後の混乱のなかで、やっと食いつないだ時代だから、そんな余裕は持てなかったというのかもしれないが…。

 ではこの「団塊の世代」は日本社会に何をもたらしたのか?
今年60歳を迎える、1949年生まれの人を例にして、社会との関係で、どんな年齢に、どんな時代を生きたのかを見てみるといろいろなことが見えてくる。

彼らが10歳の頃(1959年頃)、皇太子のご成婚、60年安保闘争、高度成長期の始まりの時期で、社会全体は明るかった。

 何しろ、突出して同級生が多い訳だから、彼らの特性としては、競争、順位付けに培われた個人中心主義であったといえる。エネルギーはあるが、社会全体への貢献、関与、関心は薄いという特質を持つことにもなった。一方、その頃、一部には若者特有のあまりにも先鋭化した部分もあったが、社会全体としてみれば、社会に対して国民が発言、発信し続けた「沈黙しない多数」の前世代が健在だった時代でもある。

 が、「団塊の世代」がそれを学んだ感じはない。経済至上主義的な、高度成長期だったのだから、無理はない。極端に言うと、「団塊の世代」が教わって、築き上げていったのは、個人中心、保身的で、みんなと同じが良しとされる大勢だったといえる。結果として、社会にもたらされたのは、可能性いっぱいの青少年の「社会への夢」、「自分の将来像」、「そのための考察力」の欠落だった。将来の日本が収斂するべき方向を発見することを学ばなかったのだ。

彼らが20歳の頃(1969年頃)、70年安保・安田講堂事件、ベトナム戦争の時代だ。

 この時代に大人の仲間入りした「団塊の世代」は、みんなが押し寄せた大阪万博の頃であり、ドルショック、列島改造論などに揺さぶられた時期でもある。
社会とのかかわりで見ると、70年安保闘争、学園闘争以降、この世代は急速に社会に対する自分達の関与の度合いを薄めていった。いわゆるノンポリ化が進んだわけだ。
 自分がよければそれでよくて、社会全体には関心がない。社会問題に対して、全く自分の意思を表明しない、社会的無責任さが漂いはじめるのだ。この頃から、日本の危機が本当は始まったのかもしれない。

 そしてその後、バブル崩壊までの安定成長期(1973~91年)に日本は入っていく。
「団塊の世代」が社会で一番の実力を持ち始めた25歳から30歳になって、第二次ベビーブーム(1971~74年)がくる。「団塊の世代」が、自分たちの子供たち、即ち「次の団塊の世代」を作ったのだ。この時期から「団塊の世代」の最大の社会的責任が問われる現象が始まる。

 彼らの最大の罪は、家庭、社会における子育てへの関与の放棄だと考える。1980年に金属バット事件がおきている。これは大きな示唆を与えていたのだ。経済的な面での国への貢献は充分賞賛に値するのだが、残念ながら、自分の社会に対する責任については、認識が薄かったといえる。なんと言っても、日本にとって唯一の資源である人的資源の創出に関わってこなかったことが間違いだった。彼らは、親として、地域社会の一員として、自分達の子供達の教育に深い関心と配慮を怠ったのだ。

 「学校の教育は学校に任せておけば良い」、 「家庭の教育は母親に任せておけば良い」、 「社会的教育は、警察や行政に任せておけば良い」とか思って教育での父親として責任、役割を放棄したのだ。そこには「仕事が忙しい」という理由があった。

 こういう環境、時間、およびそこで育った子供たちの質などが、まさに「危機の20年」の日本の社会状況とぴったり一致している。

 今の30歳代、無気力な、主体的には動こうとしない待ちの姿勢、無責任さを教育したのはまさに、「団塊の世代」なのだ。親父として、カミさんや、学校や、社会と協力して、自立した若者を育てることに腐心したとは到底思えない。全て、まかせっきりで、今いう「丸投げ」だったのだ。ニートだとか、一見時代の潮流カのように言われているが、ほんとうは、実力もなく、努力もなく、夢もなく、ただただ生ているようにも見える若者達を作り出してきたのだ。当然、日本自体の地盤沈下が現れてきてもおかしくはないのだ。

 今の若者達の発達心理学からみて重要な時期に、「団塊の世代」はどう子供に向き合っていたのだろうか?大いに反省しなければならない。それが、現実なのだ。

 振り返って、「団塊の世代」の人たちが、子供時代、どんな社会的教育を受けていたかを知ることが手がかりとなる。いかに近所の人たちに怒られながら、社会性、社会の正義、あるべき姿を学んできたかを思い出してほしい。どんなに、子供達の社会に大人たちが深く関与していたかを思い出してほしい。「団塊の世代」の人たちには、そのころの大人たちの、厳しい、しかし、暖かい関心が与えられていたのだ。では今はどうか?全くそんなものは消え去っている。「団塊の世代」がそれを放棄し、次世代に引き継いでこなかったのだ。

 この「苦悩の20年」から、日本の開放する方法は身近にあると思う。短期間の特効薬はないが…。

 それは、今からでも遅くない。「団塊の世代」の人たちは、自分達はもう充分働いたから、これからは第二の人生だなんて遊んでいないで、自分達のやり残した自分達の子供達(今や30歳を過ぎているかもしれない)への、価値観の教育、社会性の教育に取り組んでほしいのだ。
そうして、将来の日本の重要な資源である人的資源を再生産するのだ。
それが、「団塊の世代」の親としての責任なのだ。