紙魚子の小部屋 パート1

節操のない読書、テレビやラジオの感想、お買い物のあれこれ、家族漫才を、ほぼ毎日書いています。

カマキリ将軍みたび!

2007-01-18 23:06:54 | ノンジャンル
 またもや徳川15代将軍、徳川慶喜さまの話題である。

 braryさんのブログにあった「徳川将軍珈琲」(徳川慶喜氏の子孫の方が、慶喜さまがご愛飲されていた珈琲を復活させたらしい)を見て以来、なんだか、やたら気になるので、いつものようにウィキペディアフリー百科事典を引いてみた。そしたらやっぱり面白い人なんだな、これが。広い畳の部屋で歌ったり、往来でダンスをしたりはしなかったろうけど、私のツボにハマることがいろいろと書かれていた。

 例えば、彼の趣味である。以下、ウィキペディアより引用。

晩年は政治的活動は行わず、写真撮影、狩猟、謡曲、囲碁などの趣味的生活を送る。特に写真はその日本における先駆者として、日本写真史にその名を刻んでいる。

 ああ、写真。聞いた事あるな、これ。写真が好きって、マニアックではないの。「日本写真史にその名を刻んでいる」なんて、かっこいいではないの。カメラに凝ったりもしたのだろうか。「やはりニコンよりライカじゃのう。カメラは舶来に限る」なんて。

 父と同じく薩摩藩の豚肉が好物で豚一様(ぶたいちさま・豚肉がお好きな一橋様の意)と呼ばれた。

 一応お殿様なのだから(明治時代も貴族だし)、「無礼者!」とは思われなかったのだろうか。それとも、まだその頃の日本では、豚は罵詈雑言の主役ではなかったのか。
しかし「豚一さま」とは。水戸さまなら「豚水さま」、尾張さまなら「豚尾さま」、紀州様なら「豚紀さま」なのだろうか? ああ、いつもの思考パターンに陥っている。

また、西洋の文物にも関心を寄せ晩年はパンとミルクを好み、カメラによる写真撮影・釣り・自転車・手戟i刺繍)などの趣味に興じる。特にカメラマンとしては有名であるが、カメラ撮影の技術は発達しなかった様である。

 若い好奇心旺盛な頃でなく、晩年に「パンとミルク」である。かっこいい。

 そういえば、ウチの夫は朝はご飯とお味噌汁のクチだが、亡くなったおじいちゃんは、パンと牛乳であった。ついでながらおばあちゃんは、パンと紅茶である。若者?は洋風、年をとれば和風のイメージだが、世間の思い込みのバイアスがきっちりかかっているだけで、洋食・和食に年齢は問わないはずなのだった。

 写真、釣り、自転車など、アクティブなアウトドア派かと思いきや、落とし穴のような「手戟i刺繍)」が待ち構えたとは! 徳川美術館かどこかに、慶喜さまの手仕事の跡が残っていないのだろうか。フランス刺繍なのだろうか? クロスステッチなどもされたのであろうか。どうしても、おぼつかない手つきの今井朋彦さんが目に浮かんでしまうのである。

一般的にはあまり知られていないが、実は手裏剣の達人である。 武撃竓w問を学ぶことに関しては、最高の環境で生まれ育ち、様々な武術の中から、手裏剣術に熱心だったという。大政奉還の後も、毎日額に汗をかくまで手裏剣術の修練を行い、手裏剣術の達人たちのなかで最も有名な人物に数えられる。

 お殿様が忍びの術をされるとは!!

 エステー化学のCMで、今井殿様は屋根裏に潜む忍者をいともたやすく見抜き、「忍びの者も降りてこい!」と香り付き「消臭プラグ」の匂いの好みを忍者に問い、打ち解けるという一幕もあったが、まさかこのような伏線があったとは! うかつであった。

 彼の同時代の人々の評価はどのようであったのか?

慶喜の英明は当渠hにも知れ渡っており、特に長州藩の桂小五郎は「一橋慶喜の胆略はあなどれない。家康の再来をみるようだ」と警戒していた。


また、大政奉還の英断に対し、坂本龍馬は「大樹(将軍)公、今日の心中さこそと察し奉る。よくも断じ給へるものかな、よくも断じ給へるものかな。予、誓ってこの公のために一命を捨てん」との評価を与え、慶喜に新政府の副関白の地位を与えようとしたほどである。しかし、慶喜本人が龍馬という人物の存在を知ったのは明治維新後、つまり龍馬が世を去ったあとであった。

 桂/坂本両氏が一目置き、絶賛されているとは。これで坂本龍馬ファンの票は、徳川慶喜公に流れたね・・・って選挙と違うって。CM起用されるくらいだから、かなりの人気を博しているはず。

鳥羽伏見での敵前逃亡などで惰弱なイメージがあったが、大政奉還後に新たな近代的政治体制を築こうとしたことなどが近年クローズアップされ、加えて大河ドラマの放送などもあり、評価は上昇傾向にある。