私が小学生の頃は(そしてたぶん今も)「きちんと自分の意見を持って主張できる」のが、素晴らしい子どもだったように記憶している。それがずうーーっと長い間、私の中の「できないことリスト」のズラリと並ぶ項目の中でベストスリーに位置していた。
もちろん「自分の意見を持って主張出来る」というのは、「そういう人に私はなりたい」という理想である。というか長らく理想だった。今もってその理想は実現していない。
胸の中で必死に「自分の意見」「自分の主張」を引っ掻き回して探してみるも、空しくからっぽな場所に風が舞っているだけなので、唖然呆然とするのみだった。自分のテイスト(「好き嫌い」や趣味)は、くっきりはっきりしているのに、それはあまりに自分がなさすぎなのではと思ったこともあった。
世の中には、自分というものをしっかり持っていて、自分の足で枝分かれする道を選択しながら歩いているという、尊敬すべき人達が大勢いる。そしてもちろん、私はそんな中には入れない。
なにかこう、運命に導かれるまま、というか、どうしようもなく行き当たりばったりに歩いてきた。ハンドルもブレーキもなく、風まかせ波まかせだ。自分の中にあるものによってではなく、自分に起こることが、自分にフィットしてるかどうかだけを判断する。風を受ける帆は持っているようなので、それだけが唯一の基準だった。最近では、ついに「それでもいいのでは」とも思ってはいる。
意見や主張はないけれど、自分のテイストに沿っているかどうかだけは、自分に問いかけて来た。損か得か、楽かしんどいかどうか、ではなく。ャ潟Vーもイデオロギーもないので、風向きに寄ってはどうなるかも予想出来ない。ほとんどバクチか、アミダくじのような人生。それはたぶんバクチではなく、「阿弥陀くじ」だったのだろう。
つまり今のところ、ホトケさまに導かれたありがたい人生なのである(笑) ラッキー(なのか?)だけで運命の波に乗っているのである。
ところで、一昨日の読書会で河合隼雄さんの本を読んだのだが、以前彼が文化庁長官の職に就いた時は、うそうそ!?という思いでいっぱいだった。ちょっと前に「職を退いたから、これからはのんびり自分のやりたかったことを思う存分するつもり」というような文章を、新聞か雑誌で読んだばかりだったのだ。
『縦糸横糸』で、彼は「文化」というものに導かれて自分の仕事を進めて来たので、文化庁長官というのは、「文化」つながりで引き受けた、というようなことを書いておられた。「文化」への恩返し、というシンプルな意味もあるのだろう。
けれど、河合さんは本物のカウンセラー必須の能力として、「運命の声」を聴き取る力があったはずなのだ。自分の希望する生き方とは違うのにも関わらず、何かしら運命的なミッションとして、相当な覚悟を持って引き受けられたのでは?という気もする。
とはいえ「運命の声」は必ずしも幸せを運んで来ないし、かえって不運や不幸や苦労の連続になりかねない。それをあえて引き受けられたのは、やはりカウンセラー魂というか、「心」と言う一筋縄ではいかないものと格闘されて来た宿命のようなものを感じる。
ーしかし、それもこれももはや過去の事。いまはもう、河合さんは天国でゆっくりと過ごされていることだろう。お好きだったフルートを吹いたり、久しぶりに知古に会って語らったり、にこやかに法螺を吹いたりして、過ごされているのかも、とふと空想してしまうのだ。
もちろん「自分の意見を持って主張出来る」というのは、「そういう人に私はなりたい」という理想である。というか長らく理想だった。今もってその理想は実現していない。
胸の中で必死に「自分の意見」「自分の主張」を引っ掻き回して探してみるも、空しくからっぽな場所に風が舞っているだけなので、唖然呆然とするのみだった。自分のテイスト(「好き嫌い」や趣味)は、くっきりはっきりしているのに、それはあまりに自分がなさすぎなのではと思ったこともあった。
世の中には、自分というものをしっかり持っていて、自分の足で枝分かれする道を選択しながら歩いているという、尊敬すべき人達が大勢いる。そしてもちろん、私はそんな中には入れない。
なにかこう、運命に導かれるまま、というか、どうしようもなく行き当たりばったりに歩いてきた。ハンドルもブレーキもなく、風まかせ波まかせだ。自分の中にあるものによってではなく、自分に起こることが、自分にフィットしてるかどうかだけを判断する。風を受ける帆は持っているようなので、それだけが唯一の基準だった。最近では、ついに「それでもいいのでは」とも思ってはいる。
意見や主張はないけれど、自分のテイストに沿っているかどうかだけは、自分に問いかけて来た。損か得か、楽かしんどいかどうか、ではなく。ャ潟Vーもイデオロギーもないので、風向きに寄ってはどうなるかも予想出来ない。ほとんどバクチか、アミダくじのような人生。それはたぶんバクチではなく、「阿弥陀くじ」だったのだろう。
つまり今のところ、ホトケさまに導かれたありがたい人生なのである(笑) ラッキー(なのか?)だけで運命の波に乗っているのである。
ところで、一昨日の読書会で河合隼雄さんの本を読んだのだが、以前彼が文化庁長官の職に就いた時は、うそうそ!?という思いでいっぱいだった。ちょっと前に「職を退いたから、これからはのんびり自分のやりたかったことを思う存分するつもり」というような文章を、新聞か雑誌で読んだばかりだったのだ。
『縦糸横糸』で、彼は「文化」というものに導かれて自分の仕事を進めて来たので、文化庁長官というのは、「文化」つながりで引き受けた、というようなことを書いておられた。「文化」への恩返し、というシンプルな意味もあるのだろう。
けれど、河合さんは本物のカウンセラー必須の能力として、「運命の声」を聴き取る力があったはずなのだ。自分の希望する生き方とは違うのにも関わらず、何かしら運命的なミッションとして、相当な覚悟を持って引き受けられたのでは?という気もする。
とはいえ「運命の声」は必ずしも幸せを運んで来ないし、かえって不運や不幸や苦労の連続になりかねない。それをあえて引き受けられたのは、やはりカウンセラー魂というか、「心」と言う一筋縄ではいかないものと格闘されて来た宿命のようなものを感じる。
ーしかし、それもこれももはや過去の事。いまはもう、河合さんは天国でゆっくりと過ごされていることだろう。お好きだったフルートを吹いたり、久しぶりに知古に会って語らったり、にこやかに法螺を吹いたりして、過ごされているのかも、とふと空想してしまうのだ。