1/8 建仁寺を後にして南へと進みます。
そして、六道の辻と言うところまで来ました。
このあたりは、昔の葬送地・鳥辺野への入り口で、この世とあの世の境目です。
それでは、六波羅蜜寺です。
詳しくはこちら・・・。
六波羅蜜寺は、天暦5年(951)醍醐天皇第二皇子光勝空也上人により開創された西国第17番の札所である。
当時京都に流行した悪疫退散のため、上人自ら十一面観音像を刻み、御仏を車に安置して市中を曵き回り、青竹を八葉の蓮片の如く割り茶を立て、中へ小梅干と結昆布を入れ仏前に献じた茶を病者に授け、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えてついに病魔を鎮められたという。(現在も皇服茶として伝わり、正月三日間授与している)
現存する空也上人の祈願文によると、応和3年8月(963)諸方の名僧600名を請じ、金字大般若経を浄写、転読し、夜には五大文字を灯じ大萬灯会を行って諸堂の落慶供養を盛大に営んだ。これが当寺の起こりである。
上人没後、高弟の中信上人によりその規模増大し、荘厳華麗な天台別院として栄えた。平安後期、平忠盛が当寺内の塔頭に軍勢を止めてより、清盛・重盛に至り、広大な境域内には権勢を誇る平家一門の邸館が栄え、その数5200余りに及んだ。寿永2年(1183)平家没落の時兵火を受け、諸堂は類焼し、独り本堂のみ焼失を免れた。
源平両氏の興亡、北条・足利と続く時代の兵火の中心ともなった当寺はその変遷も甚だしいが、源頼朝、足利義詮による再興修復をはじめ火災に遭うたびに修復され、豊臣秀吉もまた大仏建立の際、本堂を補修し現在の向拝を附設、寺領70石を安堵した。徳川代々将軍も朱印を加えられた。
現本堂は貞治2年(1363)の修営であり、明治以降荒廃していたが、昭和44年(1969)開創1,000年を記念して解体修理が行われ、丹の色も鮮やかに絢爛と当時の姿をしのばせている。
という事で、こちらには空也上人や平清盛の像があります。
目にしたことがあるなぁ、と・・・。
まずは、こちらで祈願。
くるくると3回まわしながら願い事を唱えます。
本堂で十一面観音にお詣り。
そして、御朱印を頂戴しました。
それから、同じところに都七福神の弁才天が祀られています。
ということで、またまた俗的なお願いの金運を・・・。
そして、まだしっかりと金運をお願いするために、こちらへ。
お守りをいただきます。
その中に、実はお金を洗って入れる願い形があります。
この銭洗い弁才天様の水で洗います。
そのお金を包みます。
この包みは、金庫や通帳など増やしたいものと一緒に保管です。
お頼み申します・・・。
厚かましいお願いばかりです。
それでは御朱印も。
ありがとうございました。
続く・・・。