私はけっこう放送大学のテレビ番組が好きだったんですよ。
と、突然のステータスが上の人のようなことを言ってみたりするsachiakiです。
実際は頭がボーッとしている時とかに
他のテレビ番組だと刺激が強すぎて疲れるという理由で
淡々と科目の授業が流されて
意味も分からないまま数学の話や物理の話、
そういったものを見ていると心地よく眠気なども喚起されて
スヤァっとできたので、学校を休んでる時などは
Eテレ(当時は教育番組)を見るのに飽きると
放送大学の番組を見るっていうことをしていました。
大人になっても時折チャンネルを放浪しているうちに
なにも見るものがないなぁって時は放送大学に行き着くことがありました。
たぶん私はバラエティ番組を見るのがそれほど得意でないんだと思います。
見ない、とは言わないけれど、
見る時はクイズになっているものであったり、
多少なりともこちらサイドに意味のあるようなものを好んでいる気がします。
なので、「有●反省会」だったり「水曜日のダ●ンタウン」のようなものは
実家などでついていれば見るけれど、
そもそも芸能人をほとんど知らないためか
噂話的な内輪トークに飽きてツイッターに興じたり、
本を読み出すということになってしまうのですよね。
で、なんでそんなことを思い起こしているかというと
これまたツイッター上で

こんなツイートを拾って「!!」ってなったからなのです。
普段
いちいち意味なんてみつけなくていいよ。
人間が生きている意味なんてない。(意味は自分で作れ)
と言っているのに、
内輪トークなどを「意味のないもの」と切り捨て、
面白いものを受け取る能力を磨いていなかったのだなと反省したのでありますよ。
私は最近ユヴァル・ノア・ハラリの思想が好きになっていたけれど、
ちょっと前まではマルクス・ガブリエルの思想にしびれていたのです。
どちらも現代の哲学者ですが、
ハラリの方がやや堅く、マルクスの方がカジュアルな語り口が対比的だなぁと思ったりします。
それはさておいて、そのマルクスは哲学者ではあるけれど、
本や思想にどっぷりりと遣っているのかというとそうではなく、
けっこうな時間(たしか3時間〜4時間くらい)を
バラエティ番組やニュースなどを見ていると書いていて驚いたりしたのです。
これは私が考え方の主軸に置いている
「カラマーゾフの兄弟」に出てくるゾシマ長老の考え方と似ているのかな…と思ったりするのです。
ゾシマ長老は思慮深く聖人のようにピュアな弟子アリョーシャに
何度も修道院を出ろと促し、院を出たところでも僧侶らしく生きなさい。
と言っているんですね。
”節度を持ってよく生きる”のは修道院の中では簡単にできるけれど、
俗世を知らずして隣人を愛することはできません。
「人類を愛することは簡単である。しかし隣人を愛することは容易ではない。」
この言葉の通りだと思います。
隣人はいつでも自分に引っかかりを作り、
愛することを手放したくなるような事柄ばかりです。
だけど、こういった人たちを愛さない限り
僧侶としての完成はありえないのですよね。と。
僧侶でなくてもヒューマンビーイングを目指すことが
これからますます必要なことになるはずで、
そのためにも人々が何を喜び、何を嘆いているのかを知らないといけないし、
自分自身もそういったものの一部であることをに気づかないとならないのですな。
とか偉そうなことを書いていますけれど、
つまり自分が無知で無能であるっていうことに
何度も気づかされているってことなのです。
という言い訳もできたので、もうちょっとYoutubeとかで
人気のある動画などを見てきますよ。
おサボリじゃないんだからね!
デザインをしたりする上でもポップな思考って必要だと思っているし。
ね!
モイ
と、突然のステータスが上の人のようなことを言ってみたりするsachiakiです。
実際は頭がボーッとしている時とかに
他のテレビ番組だと刺激が強すぎて疲れるという理由で
淡々と科目の授業が流されて
意味も分からないまま数学の話や物理の話、
そういったものを見ていると心地よく眠気なども喚起されて
スヤァっとできたので、学校を休んでる時などは
Eテレ(当時は教育番組)を見るのに飽きると
放送大学の番組を見るっていうことをしていました。
大人になっても時折チャンネルを放浪しているうちに
なにも見るものがないなぁって時は放送大学に行き着くことがありました。
たぶん私はバラエティ番組を見るのがそれほど得意でないんだと思います。
見ない、とは言わないけれど、
見る時はクイズになっているものであったり、
多少なりともこちらサイドに意味のあるようなものを好んでいる気がします。
なので、「有●反省会」だったり「水曜日のダ●ンタウン」のようなものは
実家などでついていれば見るけれど、
そもそも芸能人をほとんど知らないためか
噂話的な内輪トークに飽きてツイッターに興じたり、
本を読み出すということになってしまうのですよね。
で、なんでそんなことを思い起こしているかというと
これまたツイッター上で

こんなツイートを拾って「!!」ってなったからなのです。
普段
いちいち意味なんてみつけなくていいよ。
人間が生きている意味なんてない。(意味は自分で作れ)
と言っているのに、
内輪トークなどを「意味のないもの」と切り捨て、
面白いものを受け取る能力を磨いていなかったのだなと反省したのでありますよ。
私は最近ユヴァル・ノア・ハラリの思想が好きになっていたけれど、
ちょっと前まではマルクス・ガブリエルの思想にしびれていたのです。
どちらも現代の哲学者ですが、
ハラリの方がやや堅く、マルクスの方がカジュアルな語り口が対比的だなぁと思ったりします。
それはさておいて、そのマルクスは哲学者ではあるけれど、
本や思想にどっぷりりと遣っているのかというとそうではなく、
けっこうな時間(たしか3時間〜4時間くらい)を
バラエティ番組やニュースなどを見ていると書いていて驚いたりしたのです。
これは私が考え方の主軸に置いている
「カラマーゾフの兄弟」に出てくるゾシマ長老の考え方と似ているのかな…と思ったりするのです。
ゾシマ長老は思慮深く聖人のようにピュアな弟子アリョーシャに
何度も修道院を出ろと促し、院を出たところでも僧侶らしく生きなさい。
と言っているんですね。
”節度を持ってよく生きる”のは修道院の中では簡単にできるけれど、
俗世を知らずして隣人を愛することはできません。
「人類を愛することは簡単である。しかし隣人を愛することは容易ではない。」
この言葉の通りだと思います。
隣人はいつでも自分に引っかかりを作り、
愛することを手放したくなるような事柄ばかりです。
だけど、こういった人たちを愛さない限り
僧侶としての完成はありえないのですよね。と。
僧侶でなくてもヒューマンビーイングを目指すことが
これからますます必要なことになるはずで、
そのためにも人々が何を喜び、何を嘆いているのかを知らないといけないし、
自分自身もそういったものの一部であることをに気づかないとならないのですな。
とか偉そうなことを書いていますけれど、
つまり自分が無知で無能であるっていうことに
何度も気づかされているってことなのです。
という言い訳もできたので、もうちょっとYoutubeとかで
人気のある動画などを見てきますよ。
おサボリじゃないんだからね!
デザインをしたりする上でもポップな思考って必要だと思っているし。
ね!
モイ