日本児童文学学会の第51回研究大会で行われたラウンドテーブルです。
児童文学評論家の西山利佳が司会をして、児童文学研究者の佐藤宗子と翻訳家の高田ゆみ子が発言者になって行われました。
佐藤によると、比較文学などの国際学会では、「戦争児童文学」というタームはなく、「メモリー」という言葉がキーワードになっているそうです。
ここで「メモリー」とは、国民的記憶という意味合いで使われているようです。
日本では、戦争児童文学の評論は多いが研究は非常に少ない状態だそうです。
例えば、雑誌「日本児童文学」などではほとんど毎年特集が組まれるのに、学会の発表では戦争児童文学はほとんどありません。
現在では、短編や幼年ものでは戦争児童文学はだめだというのは、共通認識になっているそうです。
また、東日本大震災の経験を踏まえて、日本でも戦争だけでなく記憶の問題になってきているとのことです。
「そこに僕らは居合わせた」ということを伝える必要が重要です。
しかし、過去の記憶を現代の読者に読ませる工夫が必要です。
高田によると、外国の作家、例えばドイツのグードルン・パウゼヴァングの最新作「そこに僕らは居合わせた――語り伝える、ナチス・ドイツ下の記憶――」(その記事を参照してください)は、過去を振り返るだけでなく軸足は現代にあって、戦争体験を孫世代に聞かせる形で書かれています。
そのあたりは、1961年に同じドイツで書かれた戦争児童文学の代表作と言われているハンス・ペーター・リヒターの「あのころはフリードリヒがいた」とアプローチが違うようです。
1961年には「メモリー」として共有されていた事柄が、2012年では共有されていない若い読者にどのように伝えるかが工夫のいるところでしょう。
記憶は風化していくので、繰り返し更新していくことが必要ではないでしょうか。
ただし、負の歴史を、現代の子供たちに響くように伝えることが大事です。
高田によると、佐藤の発言と矛盾するようですが、「そこに僕らは居合わせた――語り伝える、ナチス・ドイツ下の記憶――」では、短編であるがゆえに強さが出ているそうです。
これからは、記録、記憶、物語化の位置づけを明確にする必要があるでしょう。
戦争体験者の高齢化が進んでいるので、再話、再創造をする必要がだんだん高まってきています。
しかし、記憶とメモリーの間には違いがあるでしょう。
記憶は個人的で、メモリーは例えば国民などの集団的記憶という意味があるのではないでしょうか。
記憶は主観なのでブレがあってもいいと思われます。
集団的記憶の問題では、例えば広島とそれ以外では被爆に対する温度差があります。
8月6日は、全国的には「原爆の日」としてその日だけ盛り上がるが、広島の人たちにとっては犠牲者と向き合う鎮魂の日です。
最後に、「閉塞している戦争児童文学の現状を文芸主義的に反転して欲しい」と、二十年前から戦争児童文学と言う枠組みに疑義を示してきた児童文学研究者の宮川健郎が発言しました。
たしかに何が描かれるかも大事ですが、児童文学の学会なのだから文芸論的な検討ももっと必要だと思われました。
児童文学評論家の西山利佳が司会をして、児童文学研究者の佐藤宗子と翻訳家の高田ゆみ子が発言者になって行われました。
佐藤によると、比較文学などの国際学会では、「戦争児童文学」というタームはなく、「メモリー」という言葉がキーワードになっているそうです。
ここで「メモリー」とは、国民的記憶という意味合いで使われているようです。
日本では、戦争児童文学の評論は多いが研究は非常に少ない状態だそうです。
例えば、雑誌「日本児童文学」などではほとんど毎年特集が組まれるのに、学会の発表では戦争児童文学はほとんどありません。
現在では、短編や幼年ものでは戦争児童文学はだめだというのは、共通認識になっているそうです。
また、東日本大震災の経験を踏まえて、日本でも戦争だけでなく記憶の問題になってきているとのことです。
「そこに僕らは居合わせた」ということを伝える必要が重要です。
しかし、過去の記憶を現代の読者に読ませる工夫が必要です。
高田によると、外国の作家、例えばドイツのグードルン・パウゼヴァングの最新作「そこに僕らは居合わせた――語り伝える、ナチス・ドイツ下の記憶――」(その記事を参照してください)は、過去を振り返るだけでなく軸足は現代にあって、戦争体験を孫世代に聞かせる形で書かれています。
そのあたりは、1961年に同じドイツで書かれた戦争児童文学の代表作と言われているハンス・ペーター・リヒターの「あのころはフリードリヒがいた」とアプローチが違うようです。
1961年には「メモリー」として共有されていた事柄が、2012年では共有されていない若い読者にどのように伝えるかが工夫のいるところでしょう。
記憶は風化していくので、繰り返し更新していくことが必要ではないでしょうか。
ただし、負の歴史を、現代の子供たちに響くように伝えることが大事です。
高田によると、佐藤の発言と矛盾するようですが、「そこに僕らは居合わせた――語り伝える、ナチス・ドイツ下の記憶――」では、短編であるがゆえに強さが出ているそうです。
これからは、記録、記憶、物語化の位置づけを明確にする必要があるでしょう。
戦争体験者の高齢化が進んでいるので、再話、再創造をする必要がだんだん高まってきています。
しかし、記憶とメモリーの間には違いがあるでしょう。
記憶は個人的で、メモリーは例えば国民などの集団的記憶という意味があるのではないでしょうか。
記憶は主観なのでブレがあってもいいと思われます。
集団的記憶の問題では、例えば広島とそれ以外では被爆に対する温度差があります。
8月6日は、全国的には「原爆の日」としてその日だけ盛り上がるが、広島の人たちにとっては犠牲者と向き合う鎮魂の日です。
最後に、「閉塞している戦争児童文学の現状を文芸主義的に反転して欲しい」と、二十年前から戦争児童文学と言う枠組みに疑義を示してきた児童文学研究者の宮川健郎が発言しました。
たしかに何が描かれるかも大事ですが、児童文学の学会なのだから文芸論的な検討ももっと必要だと思われました。
はじめて学ぶ日本の戦争児童文学史 (シリーズ・日本の文学史) | |
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