社会科塾講師☆ブログ~しゃかりき!~

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「国語」についての教育論を語ってみる

2010年07月05日 12時26分25秒 | 教育者としてのつぶやき

今回は、「国語」について自分なりの教育論を語らせて頂きます。

あくまで私の意見なので、ただの参考としてご覧頂けるとうれしいです。

「あんたはおかしい!」と言われても、私にはどうすることができませんので、ご了承のほどお願いいたします。

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私は「国語」というのは

相手(作者)を理解すること」に重きを置いて、深く掘り下げながら、自分なりに行間を考えるもの」

だと思っています。

なのに、「国語は人それぞれの答えがあるから~」と言って、最初っから「自分の価値観」で見ちゃダメ!

と言う方がいらっしゃいます。でも,それは「すーっごく浅い」見かただと私は思います。

相手を理解することで自分を理解できる。
相手を理解することを放棄したら、自分も永遠にわからない!

 
「相手を理解して、自分の意見がなくなる」という程度の自分の意見なら、

それは、うすっぺらい意見だったってことです。

 
相手を理解して、なお自分の考え持っている」ことが、

前に進み、新たなものを創造する力を育てる」ことになるのです。

だから

 

「相手の言っていることを理解し、

そのうえで、自分の意見を持ち、

それを他人に理解してもらえるように表現する」力を

育てるのが「国語」の役割だと思うんですよ。

これって、「教育」の根本をなす考え方ですよね?

そしてリーダーシップの取り方や他人との共存方法を学べるます。


部下(上司もしくは仲間)を理解しつつ、自分の一貫した意見も持って、それを相手にわかるように伝えるのが、リーダーとしても、仲間(部下)としても大切なんじゃないかな? と。


なのに、「国語」の勉強放棄をしている先生もいらっしゃって、怒りたくなるけど・・、

私も昔そういうときがあったから、「その先生」批判でなく、「そのやり方・姿勢」批判をしたいと思います。


それは自分の反省にもつながるし、これから「楽しよう」とする自分を戒めることもできるので。

今までは、「国語」に対して、暗い気持ちしかありませんでした。

国語系の大学の学部に入って、あまり日本文化が他の方と違い、好きになれなかったことへのコンプレックス、

などから,「国語」そのものを見ていなかったんですよね、私。

それが、そういうしがらみから離され、

「国語」でなく「現代文」という別の人物(?)に出会ったことで、

「現代文」の属している「国語」に対して、嫌な感情が薄れ、

やっとベールがはがされ「国語」そのものに出会えて、初めて、向き合ったのだと思います。
そうしたら、「国語」もとても愛おしいものになりました。

 

トラウマってすぐには取れないんですよね。私は5年かかりました。

でも、これは早い方です。私には、「現代文」と芥川作品というきっかけがあったからです。

 

こういう人生を歩んでいくことで、また他人に対する理解も深まったと思うので、また、これからも教育者として頑張っていきたいです。


塾講師四コマ&芥川龍之介「藪の中」

2010年07月05日 11時49分43秒 | 教育者としてのつぶやき

塾講師四コマです。

この記事で、夫婦2人で勉強している内容は、芥川龍之介さんの「藪の中」についてです。

教科書には載っていないのでが、担当生徒の何人かが学校で習ったらしく、それについてテストに出るということで、勉強をしました。

この作品のポイントは

真実はすべて藪の中で、そこから読者がどう感じ、どれを真実と思うかは、その人まかせ。そして、すべての意見に正解はなく、その結論はその人のそれまでの人生や価値観がわかるもの」というものです。

どういうことかというと・・・

「藪の中」はある殺人事件があるのですが、3人が自分が犯人だというが、すべての証言に食い違いが生じるんです。

そこで、その中で真犯人は誰か?ということがわからないまま終わります。

犯人候補は3人。「多襄丸」という盗人か、夫婦の「真砂」か「武弘」。

「武弘」が死体として見つかったことから物語は始まるのですが、何か鋭利なもので一突きで死んでいるが、凶器は見当たらない。

そこで、盗人の「多襄丸」は決闘して太刀で殺したと、妻の「真砂」は一緒に死のうと思って小刀で刺して殺したと、死んだ本人の「武弘(の霊)」は自殺した、というのです。

事件は、これを高校生に勉強させていいのか?という内容(強姦事件の結果として起こった殺人(自殺)事件)なのですが・・・、まあ、とにかくテストに出るということなので、そこのところは「女性がひどいことされた」という感じで濁して、生徒たちに教えました。

3人とも、それぞれどうして犯人か、と思うかの3パターン考え、生徒たちの意見を聞いて、その子それぞれにあった説明の仕方をしました。

予習の段階で、自分だけで考えると、話がまとまらないので、専門書を読んだり、旦那に聞き、母に聞き、「羅生門」という黒澤明監督の映画も観て、色々な意見を考えました。

そうすると、「かっこいい」ことに価値観をおくなら「多襄丸」、女性の差別の苦しさ・強い意志に共感できる人なら「真砂」、男性(夫)のプライドに共感でき、人生の絶望を味わったことがある(共感できる)人なら「武弘」を犯人に、ということがなんとなく感じられました。(あくまで私の考えです。)

旦那は、「真砂は犯人じゃないけど、残り2人のどちらかは・・うーん」

母とわたしは「武弘!それが一番芸術作品らしいし、真砂の心の奥底の内面も、武弘を犯人としてすると、掘り下げれるから」となりました。

また、黒澤監督は「多襄丸」にされていました。

その理由は、私が考えるに、「「決闘」という太刀打ちのシーンを描きたかった」「みんながただの悪人ではない、というのが根底にあった」のだと思います。

ただ、大胆なアレンジ(見事な説)もされていて、この映画は、芥川さんの作品をただ単に映画化したものではなく、芥川さんお作品をもとにした黒澤監督の新しい芸術作品の「藪の中&羅生門」でした。

というのは、芥川には闇が広がっています(性悪説)。しかし、黒澤監督は闇から1筋の光が見えるのです(性善説)。

 

このように、いろいろ考えることで、相手や自分の人生観がわかることが、「文系」の難しさであり、楽しいところだと思います。

 

 

 

 


「ポンペイ展」に行ってきました

2010年07月05日 10時05分41秒 | 歴史へのつぶやき&興味

先日、仕事がひと段落したので、ずっと行きたかった、

名古屋市博物館で開催中の「ポンペイ展~世界遺産 古代ローマ文明の奇跡」に行ってきました。

ポンペイは、2000年ほど前にヴェスヴィオ火山の大噴火によって、火山灰の下に突如埋没した都市です。

突然火山灰によって埋没としたということは、古代ローマの人々の暮らしがほぼ完全な状態の姿で閉じ込められていましたということを意味しています。
そのため、発掘された現在、ポンペイの遺跡は、古代ローマの歴史を知るのに、とても貴重な史料になるわけです。

大概の展覧会は、貴族などの一部の特権階級のものが中心ですし、民間で長い間使われたものは、使い古され原型をとどめていないものが多いです。

でも、今回のポンペイ展は違います。
一般で当時使われていたものがそのままの形で残っているのです。
ほんとにこれ、2000以上前のもの?というぐらい、(2000年以上地上にさらされてきたものよりは)鮮やかな状態で残っているのです。

なので、「ポンペイ展」は他の展覧会と違って、「生活」「当時の人々の息づかい」が感じられる数少ない展覧会なので、私は「ポンペイに関する展覧会」というものが開催されるごとに行っています。(たしか、10年前ほどに愛知県美術館で開催された「ポンペイ展(名称は違うかもしれません)」にも行って、感動した覚えがあります。)


また、2学期に教える世界史は、古代ローマが範囲になりそうなので、その勉強としても行ってきました。

今回は、浴槽なども展示されていて、初めて見るものも多かったです♪

また、ガラス器や銀食器などを観ると、現在のものに見劣りしていない。ということは、それだけ古代ローマがどれだけ高い技術を持っていたのかがわかるんですよね♪

あと、写真は古代ローマのパンを復刻したパンが売っていたので、買ってみたものです。

まだ食べていないので、感想は後日載せてみたいな~と思っています。