今回は、「国語」について自分なりの教育論を語らせて頂きます。
あくまで私の意見なので、ただの参考としてご覧頂けるとうれしいです。
「あんたはおかしい!」と言われても、私にはどうすることができませんので、ご了承のほどお願いいたします。
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私は「国語」というのは
「相手(作者)を理解すること」に重きを置いて、深く掘り下げながら、自分なりに行間を考えるもの」
だと思っています。
なのに、「国語は人それぞれの答えがあるから~」と言って、最初っから「自分の価値観」で見ちゃダメ!
と言う方がいらっしゃいます。でも,それは「すーっごく浅い」見かただと私は思います。
相手を理解することで自分を理解できる。
相手を理解することを放棄したら、自分も永遠にわからない!
「相手を理解して、自分の意見がなくなる」という程度の自分の意見なら、
それは、うすっぺらい意見だったってことです。
「相手を理解して、なお自分の考え持っている」ことが、
「前に進み、新たなものを創造する力を育てる」ことになるのです。
だから
「相手の言っていることを理解し、
そのうえで、自分の意見を持ち、
それを他人に理解してもらえるように表現する」力を
育てるのが「国語」の役割だと思うんですよ。
これって、「教育」の根本をなす考え方ですよね?
そしてリーダーシップの取り方や他人との共存方法を学べるます。
部下(上司もしくは仲間)を理解しつつ、自分の一貫した意見も持って、それを相手にわかるように伝えるのが、リーダーとしても、仲間(部下)としても大切なんじゃないかな? と。
なのに、「国語」の勉強放棄をしている先生もいらっしゃって、怒りたくなるけど・・、
私も昔そういうときがあったから、「その先生」批判でなく、「そのやり方・姿勢」批判をしたいと思います。
それは自分の反省にもつながるし、これから「楽しよう」とする自分を戒めることもできるので。
今までは、「国語」に対して、暗い気持ちしかありませんでした。
国語系の大学の学部に入って、あまり日本文化が他の方と違い、好きになれなかったことへのコンプレックス、
などから,「国語」そのものを見ていなかったんですよね、私。
それが、そういうしがらみから離され、
「国語」でなく「現代文」という別の人物(?)に出会ったことで、
「現代文」の属している「国語」に対して、嫌な感情が薄れ、
やっとベールがはがされ「国語」そのものに出会えて、初めて、向き合ったのだと思います。
そうしたら、「国語」もとても愛おしいものになりました。
トラウマってすぐには取れないんですよね。私は5年かかりました。
でも、これは早い方です。私には、「現代文」と芥川作品というきっかけがあったからです。
こういう人生を歩んでいくことで、また他人に対する理解も深まったと思うので、また、これからも教育者として頑張っていきたいです。