みなさま、本日もありがとうございます。
こちらはお人形の十二単を
そのときは自分はASDだと
なかなか更新できなくてすみません。
水面下では
コツコツと
勉強関連の同人誌の原稿を作ったり、
クリエイター活動と同人活動を再開すべく、十二単もどきの歴史衣装の裁縫の練習などをしています。
こちらはお人形の十二単を
作ってみました。
市販の本で、服をつくるものがあり、まずはそちらを見て練習を。
市販の型紙のまま、服装を作ってクリエイター活動や同人活動はしてはいけないので、
今は売るとか関係なく、練習のみです。
自分で型紙まで作れるようになって
やっとクリエイター活動、同人活動で
服装を出せるので、それも日々練習です。
縫い目が粗いのは、まずは
型紙や服装を頭で理解できるか?
を優先しています。
私はASD(自閉症スペクトラム)のため、
マルチタスクは苦手だけれど
1つのことに集中はできます。
なので、目標を一つに定めて、何度もする、という形で、できるようにしていきます。
勉強でも同じことが言えます。
1つのことしか集中できないので
「学校の先生の授業を聞きながら、
一瞬で理解して覚えて、
でも、同級生と会話しながら学ぶ、
そして、教科書内容を覚えて問題を解いて
終わり」とかでは、私は頭がパニックに
なります。
「理解するときは理解する」
「情報を整理する
「用語を覚える」
「人と会話する」
「テストで点数を取る」
というのを、1つ1つに集中しないと
できません。
頭がパニックになります。
昔はよく癇癪もおこしてました。
1つのことに集中して
それができるようになれば、
そのできるようになるもの
のマルチタスクは
可能です。
なぜなら、マルチタスクをするのに
一点集中すれば良いから。
なので、その「マルチタスク」が
できるまでに非常に時間がかかります。
でも、学校生活では
「マルチタスク」できる状態まで
家で自分で仕上げてから行くので
中学時代、
先生からは器用な子と見られることは
ありましたが、実は
誰よりも時間と労力をかけて
できるようにしていました。
学校は「成績をつけてもらう、
つまり証明書を発行してもらう
ための役所」と思うことでしか
当時の私は学校に行けませんでした。
「学校に行かないと勉強できないよ」
ではなく
「学校だけに行ってたら勉強できないよ」
というのが私でした。
まあ、ただ、学校があるから
「テスト勉強がんばらねば!」と
なったので、学校が存在すること、は
私の中で大切だったのかもしれません。
そのときは自分はASDだと
わかってなかった(世間的にASDという
概念はなかった)ので、
自分で
「他人は私を悪く言ようが、私を馬鹿にしようが、自分はこういう人だ。」と定義づけ、
「表面的に集団行動で求められることが
できるようになるまでは、
他人とは違うルートでそのスキルを
取得する生き方」を
編み出しましたが
今だと「ASDはこういう思考なので
こういう勉強方法が合ってる」と
失敗しまくる人生でなく
もう少し体系的に勉強方法を
考えることが、できたのかな?と
思います。
学校は、圧倒的多数派である
定型発達の子にカスタマイズされた
勉強方法、集団生活になってます。
集団行動では多数派に合わせないと
集団での機関運営はできないので、
それはしょうがないです。
でも、
発達障害の子が、学校に合わないのは
「発達障害の子やそのご家庭の方に
100%問題がある、だって、
他の子は学校に来ることできるから
学校は悪くない!」と
いう姿勢は違うと思うんですよね。
コロナ禍を機に不登校の子が
増えているのは
「コロナ禍で人とのつながりが
希薄になったから」とよく世間や学校は
言うけれど、「人との繋がり」が
有効なのは「定型発達」的な価値観に
近いのでは?と思います。
「コロナ禍による一斉休校で
学校は自分には必ずにも必要ではない、
学校に行かないでも勉強はできる、
という選択肢を知った子もいたのでは?
学校は自分にとっては
安全な空間でないのでは?という
学校という教育機関に違和感を
持ってしまったが
その違和感と世間との価値観のズレを
子供ゆえに処理できなくなり
感情面がぐちゃぐちゃになり
ふとしたことをきっかけに
不登校になった」
という子も多いのでは?と。
発達障害の子が全員、不登校になるわけでも
ないし、定型発達の子も不登校になることは
あります。
ただ、不登校になったというのは
「個人」の問題でなく、
「学校」の方の、
すべての人が通うこと前提の
教育機関での「限界」が
今、きている、というのを
学校側が認めないで
不登校の子の責任とし続ける限り
何も解決しないと私は思います。
飛鳥時代に成立した
朝廷による公地公民制だって
時間が来たら限界がきて
私有地を認める墾田永年私財法ができたり、
だいぶ後だけれど幕府が成立するのだから
どんな制度でも限界はきます。
学校制度だって同じ。
どれだけ過去にすばらしい功績をあげても
限界はきます。
時代に合わせて変容するための
きっかけが「不登校」の子が増えている
ことだと思うのですが、
「不登校当事者」の支援と
いうことのみに
帰結するのでなく
必ず通うこと前提の学校のあり方を
考え直すことも必要かも?と。
つまり、不登校当事者の支援は
今の学校に行けることの支援や
勉強よりもどこかに通えることの支援、
だけで、
ホームスクーリングと
それによる単位取得検定試験(学校に籍はおきつつ、ホームスクーリングで勉強した内容を検定試験を受けて、そこで合格点に達したら、ホームスクーリングで学校の卒業単位取得可能とする、など。)などの制度も
成立すると良いな、と。
ただ、私は今の「学校」という制度も
良い点はあるのだから、
「教育」は1つに決めるのでなく
「学校に行く」
「ホームスクールに行く」
という他人と直に交流する方法と
「通信教育」という方法だけでなく
「ホームスクーリング(自学自習または
民間の家庭教師を頼む、または塾に行く)
&および検定試験」
という、選択肢を増やすこと、および、
内申書や履歴書には「卒業単位取得」のみの
記載のみになる、と良いなぁ、と。
あくまで私の考えで、それが絶対的に正しい
意見とは思ってませんが
実際に不登校で苦しんでいる子や
不登校に対する現状の公的対策に対して
「10年後、20年後の日本は
今の日本とは違う日本になる。」
と感じます。
なので、「不登校の子が書類上、学校に行ったという証拠をつけること」をメインに対策するのでなく
「不登校の子でも学校に行ってる子でも
どちらも、必要な学力をつけること」
をメインに対策するのが
日本の未来を作っていくのでは?と。
学力だけでなく、社会性は?という問題も、
学校に行けば社会性が身につくわけでも
ないですし。社会性を身に着けよう!と
本人が思えば学校以外でも身に着けることは
できますし。
もし現状、学校に通うのなら
少数派の子が妥協して
多数派の子向けの
学校に合わせるしかないのは
確かなんですが
それは「発達障害の子が劣っているから」と
いう差別的姿勢のままでは、何も解決できません。
逆に「発達障害の子に合わせられない学校が100%悪い」という姿勢でも解決しません。
「その学校が発達障害の子に適した環境ではないだけ」という事実だけが存在し、
そこに「どちらが優れているか?」「どの勉強方法が優れているか?」「集団生活できないか?で人間性は決まるか?」の答えに、絶対的な真実はなく、人の数だけ答えがあります。
なので、「自分は自分。私はこの勉強方法が合うから、人とは違うけれど、この方法でテストで点数を取る!」という姿勢が私は正しいと思います。
学校側が発達障害の子に理解があるか?は
学校やその先生次第。
なので、発達障害の子や不登校の子は
「自分が他人と違うこと」を責めず
「自分がどういう人間であるか?そこには
良い悪いがあるわけでない。」と思って
生き抜いてほしいと思います。
ただ、他人に理解されないこと、
他人から受ける、
とんちんなんな、本人は善意の
つもりのアドバイスを無視しつづける
生き方って、すごく疲れるんですけどね、
でも、そうじゃないと生きるのが辛くなる。
疲れるか?辛いか?の二択なら
疲れる方を選ぶしかないんですが。
でも、疲れるだけで苦しまず
人生をたのしみたいなぁ、と。
(あくまで、私の個人的な考えです。)