最近ある友と親しく話す機会があって、大昔のことを思い出した。
結婚式後、教会の大ホールで披露宴の司会を私がすることになった。二人とも再婚同士である。新郎新婦にインタビューが続く中、新郎がこんなことを言った。「えーっ、ボクは妻になった○○子さんを束縛せず、彼女なりに自由に生きて欲しいと思っています」と。
一瞬私は「エッ」と思った。そして内心では「そりゃ違うだろう」と思ったものだ。その時は「違う!」と思ったことをうまく説明できなかったのだが、友と話していて、今は言えることに気づいた。
結婚とはパートナーを自由にすることではない。その反対である。生計を一つにし、食べること寝ることを共有し、財と未来を一つにすることだ。私は妻を愛しているので、妻が私以外の人と私より深い関係を持つことを容認できない。神様以外に、一番の関心相手は親よりも子どもよりも、まずパートナーでないとおかしい。そんな私は心が狭いのだろうか?いや違う。愛しているとは、互いに束縛し合い、深く関係し、一体となることを願うもの。「パートナーを自由にしたい」とは一見、心が広いようでいて、実は(未だ)愛していないことを告白しているようなものだと今はよく分かる。
「神は愛です」とは聖書の代表的な言葉だ。その愛なる神は最愛の独り子さえ、人間のために惜しまれなかった。神自身がいのちを投げ出して人を愛してくださった。本当に真剣だからこそ、聖書には偶像や多神教崇拝をとがめて、次のように十戒で真っ先に神は言っている。
あなたはほかの神を拝んではならないからである。その名がねたみである【主】は、ねたむ神であるから。(出エジプト 34:14)
神は本当に人を愛しておられることがわかる。 (ケパ)