洗面所の洗濯機とのすき間を何とか利用したくて、物を収納出来る棚を作ってもらったのだけどちょいと使い勝手が悪い。 そこでケパさんの頭の中で図面が展開され、今夜の作業です。夕方から出かけたホームセンターで材料を購入してきて、板を切ったり穴を開けたりです。 仕上がりを神様よろしく。と祈ります。 ドルカス
わたしの母が
アルツハイマー症(正しくはアルツハイマー型認知症)になって十年以上が経つ。現在はすでに息子(わたし)や娘(わたしの姉)が判別も不可能で、施設で排泄など全面的に介助が必要な段階である。(写真は最近の母とドルカス)
診断が出て、施設に入るまでの2年あまり、わたしは母と二人だけで過ごした。「介護」と言うのが表向きの理由だった。確かにこの時すでに母は一人暮らしを続けることが困難で、同居する家族が必要な状態だった。しかし本当は、わたしの妻が娘たちを連れ、別居を選んで遠方へ転居したのであった。つまり行くところがなくなったわたしが、母を介護するためと称して実家にもどったと言うのも一つの真相だった。
ともかく母との暮らしがはじまった。覚悟していたことであるが、まず毎日のように現れる「押し売り」たちとの対決がはじまった。母は完全に彼らの「カモ」で、あらゆるものを買わされていたからである。同居の初日から母の通帳などを親権代行者として掌握していたから、彼らはわたしからお金を引き出さねばならない。「脅す」「すごむ」「居座る」・・・・何でもござれだった。時には危険を感じさせられることすらあったが、「誰一人にも決して譲歩しない、決して金を出さない、出るところに出る、消費者センターをバックにする」と徹底的に戦った。
そしてある男を最後に(それは決闘寸前のようだったが)、彼らはその日からパッタリと来なくなった。いろいろな業種だったのだが、どうも彼らは皆つるんでいて、そして彼らのお得意様リストから外されたなと感じた。
その次に対応したのが、ご近所さんたちである。一例だが母の病の特徴で、非常に猜疑心が強くなり、隣家との境界線に高いブロック塀を業者に築かせ、親しかった行き来を遮断した・・・・ことへの苦情だった。「こんな仕打ちを受ける覚えはない」と涙ながらに訴えられると、その事実にわたし自身驚愕し、「本当に申し訳ありません、すぐさま打ち壊し、撤去します」と頭を下げて答えざるをえなかった。
同居時代の終わり頃になると、母はわたしを夫や父のように頼りはじめ、どこかに行く時にはわたしのズボンの端に指をかけて子どものようについてきた。「お母さん、俺は息子であって、反対やでぇ」と思いながら、「こんな母を見たくなかった」と思ったり、「いや少しでも世話できて、よかったんとちがうか?」と心は複雑に揺れ動いた。
その母も、今はさらに進行し、忘却の海に沈む寸前の状態であるが、ふしぎと同居し介護していた時ほどには、今は拒否感がない。こころも魂も、もはや母として知っていた人とは別人で、ただ懐かしい、老いた体の母がある。それゆえに人の魂と永遠の命を救うことに遣わされている、牧師としての今の使命の重大さを痛切に感じるのだ。 ケパ
コール!コール!って呼んでも、ムシャムシャムシャ と食べる食べる。挨拶は先に済んでるから、まっイイか。留守番ありがとね。
そして、遊んでくれタイム始まりました。 ケパさんがコールを洗濯カゴに入れて大きく揺らして「ブランコ」です~。終わるとさらに走り回って、最後はト イ レ タイムで、やっと落ち着く、コールです。
2単位(2時間×2)のパソコンの学びの後、実家の庭先で雨に濡れた車をチャンスとばかり洗ったケパさん。 ていね~いにワックスも塗りました。途中のサービスエリアで最後の拭き取り作業してます。今 「完了したぞ」と、笑みを浮かべ、さあ出発です。8時半過ぎには到着予定ですが、どうでしょうか。お祈りして運転再開。
雨が降ると必ず「車洗おうかな」っていうケパさん。そのまま乾くと汚くて嫌だっていうんだけど?経済も考えて?どっちだろうかと思うのです・・・・
あっ!お祈りはけして、けちりませんです。 ドルカス
ウィンドーズ8が出て、飛び込んできたニュースは意外なものだった。「8の開発責任者が発売直後に解任された」というものだった。まさに暗雲漂う、新しいウィンドーズのスタートだった。
このウィンドーズ8は、スマートフォンのようなタッチ画面対応で、まさにスマートフォンのようなアイコン画面が起動画面だった。起動もスマホのように速く、いろいろな意味で革新的だった。ところが、である。実際には起動が速くなったのが唯一良かったことで、それもデスクトップ画面でなく、アイコン画面なのでこれを切り替えてやらなければならない。このアイコンたちが実に中途半端ソフトで、使えないため存在意味が無い。ようやくデスクトップ画面にしてもスタートボタンが省かれているので、スタートすることができない。まさに「どうなってるんだ!」と混乱する状況なのである。
私の場合、スタートボタンを取り入れることでかなり改善できたが、こういうユーザー無視のウィンドーズには正直、「ウィンドーズはもうこれまで」と見限る気分になった。だから次のパソコンはMacにすることにするつもりである。ウィンドーズのマイクロソフト社は沈みゆくタイタニック号で、この8が沈没の直接原因となった氷山である。
ハレルヤ~ 夕礼拝で、やすらぎの歌12集「ダンス」を賛美しながら主を喜び踊りました。今日の夕礼拝はアンテオケ教会の第7礼拝をライブで視聴しての礼拝。メッセンジャーの牧師が促します。
今夜のメッセージの御言葉は
私の兄弟たち。さまざまな試練に合うときはそれをこの上もない喜びと思いなさい。
このような時私たちは、ハレルヤと賛美し踊って感謝します。もちろんこれは神さまに感謝するのですが、そのことを知らない方々には・・・・
ですね。
こうして信仰で神さまに歌って踊って喜び感謝した後わたしたちは、その困難さえも乗り越えることが出来るのです。 ハレルヤ~ ドルカス
出先きからの帰り道7時過ぎ。船橋近くまで来ると空があやしい雰囲気。と思った矢先小雨が降り出しました。雨雲に突入したようです。
今日「Tree of Life」 のBlogみたら、信州の美しい虹の写真がBlogにあった。実は来週久しぶりに信州へ行くのです。
ケパさんのホームページの手直しと学び。と母は元気でいるかなぁ。実家を訪ねます。ドルカス
クリスチャンであれば、聖書をいつも読むことは、毎日の食事と同じように大切なこと。その聖書で、近ごろになってようやく英語の聖書で、KJVという聖書がどれほど重要かということを知るようになった。KJVとは欽定訳聖書(きんていやくせいしょ 右はその初版本の表紙)と呼ばれ、英国王(King Jemes)の命令によって翻訳された聖書のことである。こんな出自を持つ聖書は他にない。
この欽定訳聖書がシェークスピアと共に英語を世界言語に仕上げたとも言える。それだけではない、聖書の言語は旧約がヘブル語、新約がギリシャ語で書かれた。この原文にもっとも近づいた翻訳という理想に、このKJV(欽定訳)がある。「もっとも理想に近い」と言ったが、それは原文にある神の言葉を、人の考えでなく、神の言葉として、という意味においてである。これはある意味で学問的なものでなく、霊的な意味あいでもある。KJVというと王の権威によって編纂されたように見えるが、調べてみると実は極めて数奇な運命をたどった翻訳が集まった結実である。当時、正統を自認するカトリックから迫害され、たとえ命を捧げても真実の神の言葉は曲げられない、そんな幾人かの翻訳者の訳が新教国イギリスで採用され、日の目を見たのである。
確かにNKJV(KJVの新改訳版)を読むと、その簡素にして単純な言葉が、わたしの霊に「スーッ」と入ってくる感じがする。それまで見えなかった世界が見えてくるようだ。読み進める内に、英語という言語が、実はこのような聖書をもとに確立した言語だということ、だからこそ聖書の言葉が生きて、実をつけている言語なのだということがわかる。
たとえば中学生以来、日本人は英語の_sという複数形に悩まされて来たと思うが、これなど唯一なる神と、三位一体や多神教の神々とを峻別して理解するための重要な点である。ナルホド・・・・英語聖書、とくにKJVはすばらしい(わたしはKJVが古語が少し多いため、それを今風にしたNKJVで読んでいます。もちろん写真のように辞書が手放せませんが・・・・それでも良さがわかります)。 ケパ
二軒の家(うち、一軒は仮住まい)をようやく一軒にあたらしく統合した暮らし。やはり落ち着いた暮らしができるようになって、心から神に感謝している。ただそれぞれにキャットタワーを置いていたので、なんと二つのキャットタワーが立つことになった。それはまぁ、良いのだが、もう一度この家で立てようとして二週間、大きな難問にぶつかっていた。
それは、それぞれに部品が足りなかったり、逆に余計あったりしてどうしても元のようには組み立てられない。「え-っと!元はどうなっていたんだっけ?」まるで超難関のパズル状態で頭をひねるばかりであった。
昨日とうとう製造元に問い合わせ、組み立て図をFAXで送っていただいた。そしてわかったことは、どうも他の余っている部品1つを、もう一方に回せば何の問題もないらしいことだ。
「そんな、馬鹿な」
そういう思いだったが、実際にやってみるとはたしてその通りだった。なぜ「そのようなことはありえない」と思ったか。それぞれ別々にあったのものなので、きちんと異なる運び方をしてきた。混ざることなど考えられなかった。しかし事実は混ざっていたのである。これは推量だが、おそらく引っ越し業者が何らかの理由で外れて落ちていた部品を、異なるタワーに取り付けてくれたもだと想像できる。想像もしていなかったことだけに、眼前の事実になかなか気づいていなかった。
私の人生においても、思い込みでかなり失敗してきた。結婚は好きな人とするのが1番だとか、お肉を食べて元気になる、パソコンはウィンドーズがよいとかetc・・・・これらは、みな間違いではないだろうが、私の場合、少なくとも失敗だった・・・・・。人間の思いとか、良かれとか思うことが本当に良いものか、それとも自分の選択があてにならないものであることを認識するのか?
実は信仰は、自分自身が当てにならない存在であることを認識することから、絶対者を探すところからはじまるのだ。 ケパ