ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

ホームスクール(チア・ジャパン)

2015年06月12日 | 信仰
今日は代々木の国立オリンピック記念センターでのチア・ジャパンのホームスクール研修会に、部分的に参加する恵みにあずかった。

(夕食時の様子。後方の赤いTシャツはヤングスタッフ)
我が子が発達障害(自閉症等を広範囲に捉えた表現)と診断された時の心境、聖書によって再び立ち上がるまでの話。公教育のご都合的な体制(若干、厳し過ぎる表現だったが)や、民間施設の不備さなどから、自然ホームスクールに落ち着いた事などを聴いた。
ホームスクールとは、要するに学校へ行くのではなく、家庭内で子どもを教育することである。不登校児のホームスクールは聞いてはいたが、特別支援対象児は初めてであったので、その実際の運営とともに、どうしているのか大変興味があった。ホームスクールで私が現役時代によく聞いていたのは、義務教育での子どもの教育権を侵害する恐れである。ご存知のように、子どもには教育を受ける権利があり、親には子どもを学校へ行かせなければならない義務がある。だから義務教育の義務とは、親には対しての義務である。
その義務を学校という形で果たさないのであれば、当然学校に代わる同等程度の教育内容を、親が保障しなければならない。ヘレン・ケラーのサリバン先生ではないが、この負担は相当大きなものだか、適正であれば教育効果は驚くべきものがある。

(参加した講座の講師をされたご夫妻)
会の終わりの質問に、父親がこう締めくくった。「学校に行けば、先生から、友達から、そして家庭では親から、息子はいく通りの異なった事を言われます。そしてそれは息子にとって、混乱するものです。(※ケパ注 自閉症児はそれを統合することが特に難しい)家庭でそれを一本化できた事は、とても良かったことだと思っています。肝心な社会性のことですが、今息子は新しいチャレンジとして、塾に行って同世代とも関わろうとしています」と。
たとえこの場では良い面や成功面だけが語られたとしても、公教育に携わった者として、この子は幸せな子だと思った。

(外では子供達が楽しそうにゲーム)
最も素晴らしいことは、神を否定する公教育ではなく、神に触れ、信仰を告白できる教育を受けたことである。 ケパ
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無いことば

2015年06月11日 | 随想
「ねぇ、こんなに白髪が増えちゃったよ」と私。最近隠れていた白髪が、やたらと表に出てきてるので、こんな発言となった。「初老なのよね」とドルカス。

すると今度は私が「初老かあぁー、じゃあもっと年取ったら中老かぁー、でっ、終老になったら・・・」「まぁ、そんな言葉なんて、あるわけないじゃない」
言われてみればその通り。だが何でないんだろうか?察してみるに、たぶんそのような事実というものを受け入れることなんて、できないからじゃなかろうか?と。

人生の終わりの、その先に希望を持てないのが私たち日本人の現状である。なんと残念な状態なのだろうか?神を信じていないから、希望がもてないのだろうか。クリスチャンは、あふれるばかりの希望と喜びを抱いているというのに。 ケパ
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今、チェコチームが

2015年06月09日 | 派遣
8日夜から13日までチェコへチーム派遣されています。1日目はほとんど移動のみ。日本時間で9日夜9時頃にチェコへ入国。首都プラハと東京では、7時間の時差です。ホテルに着き各部屋に荷物を置きお祈り済ますと、早速賛美隊が広場で賛美ですって。
準備始めると人々が群がり、歌い始めるとさらに人だかりです。
もちろん🎵風のひびき から賛美よねー

後ろ姿は、双子姉妹、しるしと不思議チーム。

そしてラスポーザのお二人ですね。奏楽にえりちゃんが担当してますね。

東京アンテオケ教会ではチェコチームBlogも始まっていて、そこから写真頂きました。
⬇️から、ご覧下さい、
http://antiochblog.jp/mission/czech201506/
チェコチームは、今回はいろいろな使命がありますので、私達も、とりなしチームの一員で祈ります。ドルカス
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精神の病も癒される

2015年06月08日 | 健康・スポーツ
何年か前、熊本の私の友人が原因不明の病になって、一時はどうなることかと思った。しかし私たちの教会では、神にとって不可能はなことは何一つなく、どんなに絶望的な病でも癒やされることを信じている。また病を試練と捉え、病を通しての神のご計画があり、それは祝福であると信じるなら、実際その通りになることを知っている。これは狂信的な信仰(私もかつてはそのように見ていたが)と思われるかもしれないが、この群れでは実際に奇跡的な癒しが数多く起きている上、私自身も体験していることなのだ。
この時、私たちは心から癒しを求め、また信じて熊本の病床で祈った。その結果、あまり時間を置かないで朗報が来た。彼の病の原因が判別したのだ。原因がわかると言うことは、対処の仕方、治療が可能になると言うことでもあった。この後、驚くほどの回復を遂げ、以前と変わらない健康を取り戻したのだ。

これは直接的には医学の力である。が、神は医師の手を通しても、癒してくださる。だから医学を否定するならば問題だが、神に祈り、医学によっても癒してくださるという両面が大切である。彼の場合、原因が分かることは、癒されることだった。これは精神の病についても同様であると私は思う。

広島時代、私は何人かの精神を病んだ病んだ方との関わりがあった。共通して言えるのは、各人のセルフイメージ(自己像)が正しくないことだった。客観的にも合致する自己像が乏しく、それを受け入れることが出来ない。ひどく落ち込むこともあったが、それは自分の実際とはズレた自己の高い目標があるためだった。そのことは尊いと思うが、ズレていたのでは、それは野球で必死に走ってホームベースを踏んでも、違うベースだったようなものである。だから私はできるだけ彼らの言う言葉を聞き、聞きながらこれはと思う同じ言葉を返して、自分で気づいてもらいたいと思っていた。

ありままの、正しい自己を知り、辛くても受け入れることが大切である。多くの病者がそれを受け入れることが出来ない。しかし十字架に架かってまで私たちの弱く、情けない罪人を愛してくださったイエス・キリストを信じるならば、そんな自分でも受け入れ、愛することが可能である。キリストにあって人は、己を捨て、また新たにされる。ありのままの自分でよいのだ、自己像のズレという病の原因が直され、癒される。真の神にあっては精神の病も癒される。
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6月7日主日礼拝

2015年06月07日 | 教会のこと
今日も祝福されてます。
オンラインでは 聖餐の時です。


そして、月の最初の礼拝後、愛餐のときは、お馴染みの牧師のカレーで、ランチタイムね~ なから強制的⁉️食べてくださいな。


今日は東京の聖会があり、神学校の授業も全部できません。


そんなわけで車の中で授業受けてます。
早く到着したのでちょうどよいです。


聖会の牧師賛美はオーケストラと共に賛美しました。ハレルヤ~ 神様の恵みがたくさんあるね。ドルカス
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天賦の才

2015年06月06日 | 示されたこと
今日からNHKで土曜ドラマ「ちゃんぽん食べたか」がはじまった。これはさだまさしの自伝的青春物語である。今日の初回はバイオリン弾きの子どもが天才少年と期待され、長崎から上京して一人暮らしをはじめるところだった。
高校生のさだがバイオリンでは挫折しても、作曲に有り余る才能を開花していく展開の中、私は同じ群れのAさんやBさんを思い浮かべていた。どうしてあんなに歌えて演奏できて、そして次々に素晴らしい曲をつくれるんだろうか?たどたどしくピアノをやっと弾いている私から見れば、まさに雲の上の能力である。
では私には何が? 世界一の能力は、何一つとして無い。私ぐらいの能力はザラである。しかし広島出身で船橋に住んで、牧師をしているが文書伝道に使命を持ち、パソコンに強くテニスが好きな人、それなら私一人ぐらいしかいないだろう。

神は人間を、一人として同じ顔にはつくられなかった。顔はたった手のひら二つ分の顔の広さだが、72億の全人類を集めても識別ができる違いを持っている。まして人の能力や人格、全生涯はすべての人が全く異なる。
ところが自分が他者より優れていないと価値が無いと思う人がいる。歌の才を比べて「私はダメだ」、運動能力を比べて「私はダメだ」、リーダー性を比べて「私はダメだ」と。このような視点の人が、真に神を知ると180度視点が変わる。人と比べることから解放されるからだ。神はあなたをどのような目的で造られたのだろう?それは世界でただ一つの、あなたにしかできない、証という神の使命を果たすためなのだ。
さだまさしのような特別な才能はなかろうと、あなたはあなたしかいない、神が造られた世界で唯一無二の特別な存在である。かけがえの無い自分を否定することは、イコール神の御心を否定することだ。あなたは全能の神による特注製品で、愛されてこの世に送り出され存在しているのです。神を信じて子とされるため、神の証人として・・・ ケパ


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前倒しの記念日

2015年06月05日 | 生活
もうすぐ7回目の結婚記念日。
それで一度は行きたい、と言ってた横浜は中華街でランチして祝おうと、昨日に決めて、今朝も検索してたケパさんでしたが、
私がちょっとご機嫌斜めになってしまい、横浜行きは流れてしまった。

神様に不機嫌は宜しくなかったと悔い改めて、では、近くで美味しいランチにしよう。勿論記念日だから、豪華に行くぞ。と、でかけたのですが、

田舎道を少し走り「えっ、ここ?この店?」とドキドキ入ってみたら、なかなか雰囲気あるよ。

外見から想像できない?いい感じ!田舎ッボイ場所と思いきや、なかはちょっと洒落てた。


まずは前菜、中華クラゲが山盛り‼️で
食事感謝のお祈りと、7年間を感謝して、さらに仲良く働きが出来ますようにと祈り

私たちは飲まないからね、食べるのが早い。特にケパさんはもっと早い
これは牛肉とアスパラ炒めでしょ。

エビチリね。

そして点心3点。これが美味しい。

そしてスープとフカヒレあんかけ炒飯
これがなんと見た目をはるかに超えて、美味しい。

最後はお決まりだけと、杏仁豆腐ね。

私はとても満たされました。
満足満足
さらに記念日という事で、なんと5%offなり。横浜中華街では味わえない(^^;;!喜びの感謝な記念日です。ドルカス
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嫉妬

2015年06月04日 | ネコのコールと‥‥
写真は、ドルカスとコールの写真で、よろしい御間柄である。以前お知らせしたように、我が家のネコの目基準で査定すると、VIP順はドルカス〉コール(猫)〉我が輩・・・である。
何とかこの順を変えようと、私はコールが好物のゴマならぬカツオ節削り当番になり、ブラッシングなどコールが嫌がる作業は忌避し、いつも優しくすりすりしてコールに接してきた。この懸命の努力にもかかわらず、コールのVIP順は微動だにしない。努力が報われないときたら、次に来るのは嫉妬である。・・・ウムム、悔しい❗️
そこでハタと気づくのだが、人間に嫉妬感情はつきものであるということ。異性と楽しそうに連れ合いが話していて、それに嫉妬を感じない夫婦って、愛の無い夫婦と同義語だ。神様にだって嫉妬はある。独り息子すら惜しまずに差し出したのに、肝心の人間は神の愛にいつまでたっても気づかないし、受け入れようとしない。これでは十字架の息子は無駄死にではないか? この宇宙を創り、天使たちを差し置いてまで、愛する人間を造ったのに・・・。
† あなたはほかの神を拝んではならないからである。その名がねたみである主は、ねたむ神であるから。(出エ34:14)

私たち人を妬まれるほどに愛してくださっている神を、私は心から愛する。 ケパ
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細すぎの足!脚!

2015年06月03日 | PC モノ 便利
食卓の足元がそろそろ交換の頃と思い、

ちなみにこのソックスは、ケパさんアイデアのテニス🎾ソックス。(教員時代子供達の椅子に履かせて消音効果を狙ってたらしい)

今回はオシャレにソックス履かせたら、なんと細い足(脚)で、私たちを支えていたのか、細く見えちゃう。
特にこの椅子は超軽量が売りだったけどね~
ケパさんの反応? んんん‥‥
私の? 私の足も履くソックスで、細く見えるか?むりだろうな
ドルカス
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テニスを選んだ訳

2015年06月02日 | 随想
テニスコートに行くと、平日の昼間はお年寄りが目につく。かく言う私もそろそろ、その年代に仲間入りである。大方はダブルス、しかもミックスといって男女混合でやっている。私もその中に入ることもあるが、メインは厳しい一騎打ちの男子シングルスである。
数日前に、相手した方との話に、「学生時代はチーム競技(バレー)をしていたが、社会人ともなるとその機会はなくなり、今はテニスに転向した」と聞いた。そして「学生時代からしておけば良かった」とも。運動していた人は、していない人よりは動きや上達が早いが、最初からやっていた方が・・・というのは確かにそうなのである。
それで「中村さんは?」と聞かれて「そのぉ、学生時代からだ」と答えた。私は高校を卒業するまでは、青なり瓢箪の本好き、全くの運動音痴だった。大学に入って、自己改造を志し、決心して体育会はテニス部に入った。しかし当時の先輩たちは「コイツ、隣のESSと間違って入った奴だ」と相手にしてくれなかった。それほどとても続きそうには見えなかったようだ。
テニスを選んだのは、私なりの考えがあった。つまり、「この年でスポーツ始めても、決してプロにはなれない(それどころかレギュラーにもなれないだろう)。それなら一生涯続けられる、『現代で言う生涯スポーツ』競技を選ぼう」と。(写真は当時の学生時代に私も使っていたラケット)

実に45年経って、その事を思い出させてくれたのは、この「中村さんは?」と言う質問だった。そしてそれは正しかったと思う。まだクリスチャンではなかったので、神に聞いたわけではなかったが、自分の現状のありのままを認識し、そこから選ぶという事の大切さを実感させられた。
振り返って考えてみると、私たち自身、正しくありのままの自分を見る事ができず、ために無謀な計画を立てて挫折したり、高慢と自己否定のエレベーターに苦しむことがなんと多いことか。何か世的にはっきりわかるような、自分の価値が見えないと、ありのままの自分を受け入れられないのだろうと思う。

ところがそうした時、クリスチャンはどんなに幸いかと思う。逆にそのような自己価値がある方が問題なのである。自分を捨てきれないからだ。己を捨て、十字架を負えきれないのだ。価値なき我は、幸いである。もし、ありのままの自分を受け入れ、そこに立てるなら、その人は神から遠くない。 ケパ
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