安倍総理の国会答弁には、
「あるんだろうなー、と思います。」
「あるのかなーと思います。」
が多い。普通に言うとすれば、「○○だと理解しています」なのだが、これは自分の意見を、あたかもつぶやくような推量形で言っているわけで、言質をとられないバリヤーを張った言い方である。聞いているとだんだん、「ハッキリと言ってください。言えないことなんですか?」というイライラ感が募る。
でもこの言い方、どうも伝染性があるらしく、この前NHKでテニスの中継を観ていたら、解説者が総理とまったく同じ言い方をしていた。「もっと相手に時間を与えないように打てたら、いいんだろうなー、と思います。」
まるでひとりごとのような言い方である。こんな解説はさすがにいただけない。そうしたくてもできないで苦戦している選手の代弁をしているのは分かるが、つぶやき表現はぜひ、ツイッターだけにしていただきたいものである。
話は全然違うが、同じ言葉尻でも聖書の士師の言葉、「ではありませんか」が、ずーっと気になっていた。
旧約の士師記4章6節に、既婚の女預言者でイスラエルをさばいていた(これを士師という)デボラが有名な戦闘命令を出す。
" あるとき、デボラは人を遣わして、ナフタリのケデシュからアビノアムの子バラクを呼び寄せ、彼に言った。「イスラエルの神、主はこう命じられたではありませんか。『行って、タボル山に陣を敷け。ナフタリ族とゼブルン族の中から一万人を取れ。"(タボル山。イスラエル北部の山で、お茶碗をひっくり返したような、丸いこんな山は他にない)
この当時はイスラエルにまだ王がなく、代わりに神から任じられた預言者やナジル人的勇士が、士師としてイスラエルを導いていた。この言葉は、当時のイスラエルを北方から圧迫していた敵に対してである。
それにしてもこのデボラの言葉「ではありませんか」に、私はずぅーと違和感というか、気になっていた。
例えば神からのことばなら、
"『神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。"(使徒2章17節)
のように明確な言葉になる。それこそ安倍総理の真逆である。しかし、デボラのこの言い方、「ではありませんか」は、確認を求めているのか、同意を求めているのか、不思議な言い方である。聖書ではここ以外でもサムエル(1サム10:1)にも出てくる表現である。
最近、ふとこう気づかされた。デボラやサムエルの「ではありませんか」とは曖昧な言い方ではなく、過去に語られた預言を思い起こさせて、その成就の時が今来たのだと言う言い方なのだ、と。バラクは「タボル山に進軍せよ」の戦いの命令を、過去デボラからすでに聞いていたことなのだ。
「ではありませんか」は過去預言の成就の時の言葉。気になることが解消されて、私は感謝した。預言者が、神の言葉を曖昧な言い方でするはずがないのだ。神もまた、そんな者をお使いにはならない。
ケパ