ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

言葉から、思うこと

2018年05月12日 | 示されたこと


安倍総理の国会答弁には、
「あるんだろうなー、と思います。」
「あるのかなーと思います。」
が多い。普通に言うとすれば、「○○だと理解しています」なのだが、これは自分の意見を、あたかもつぶやくような推量形で言っているわけで、言質をとられないバリヤーを張った言い方である。聞いているとだんだん、「ハッキリと言ってください。言えないことなんですか?」というイライラ感が募る。

でもこの言い方、どうも伝染性があるらしく、この前NHKでテニスの中継を観ていたら、解説者が総理とまったく同じ言い方をしていた。「もっと相手に時間を与えないように打てたら、いいんだろうなー、と思います。」
まるでひとりごとのような言い方である。こんな解説はさすがにいただけない。そうしたくてもできないで苦戦している選手の代弁をしているのは分かるが、つぶやき表現はぜひ、ツイッターだけにしていただきたいものである。

話は全然違うが、同じ言葉尻でも聖書の士師の言葉、「ではありませんか」が、ずーっと気になっていた。
旧約の士師記4章6節に、既婚の女預言者でイスラエルをさばいていた(これを士師という)デボラが有名な戦闘命令を出す。
" あるとき、デボラは人を遣わして、ナフタリのケデシュからアビノアムの子バラクを呼び寄せ、彼に言った。「イスラエルの神、主はこう命じられたではありませんか。『行って、タボル山に陣を敷け。ナフタリ族とゼブルン族の中から一万人を取れ。"(タボル山。イスラエル北部の山で、お茶碗をひっくり返したような、丸いこんな山は他にない)

この当時はイスラエルにまだ王がなく、代わりに神から任じられた預言者やナジル人的勇士が、士師としてイスラエルを導いていた。この言葉は、当時のイスラエルを北方から圧迫していた敵に対してである。
それにしてもこのデボラの言葉「ではありませんか」に、私はずぅーと違和感というか、気になっていた。
例えば神からのことばなら、
"『神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。"(使徒2章17節)
のように明確な言葉になる。それこそ安倍総理の真逆である。しかし、デボラのこの言い方、「ではありませんか」は、確認を求めているのか、同意を求めているのか、不思議な言い方である。聖書ではここ以外でもサムエル(1サム10:1)にも出てくる表現である。

最近、ふとこう気づかされた。デボラやサムエルの「ではありませんか」とは曖昧な言い方ではなく、過去に語られた預言を思い起こさせて、その成就の時が今来たのだと言う言い方なのだ、と。バラクは「タボル山に進軍せよ」の戦いの命令を、過去デボラからすでに聞いていたことなのだ。
「ではありませんか」は過去預言の成就の時の言葉。気になることが解消されて、私は感謝した。預言者が、神の言葉を曖昧な言い方でするはずがないのだ。神もまた、そんな者をお使いにはならない。




ケパ


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ナワシログミ

2018年05月10日 | 自然
水曜日は礼拝の後にpeacefulの練習。
みんなでT子さん宅へ出かけた。
ご自宅の2階一部を憩いの場として開放して下さり、月に一度その場で歌う。
5月なのに肌寒かった昨日は、美味しいスープも用意して歓迎してくださった。

トマト風味野菜スープ。とても身体が温まり、声もグーンと滑らかね〜

そして、帰る時には、
塀際に「ナワシログミ」を見つけた。

赤くなっても渋いのよ」と言われたけれど

こんな風に色付いた実を思い出す。田舎でよく手を伸ばしたね。

来る時には気がつかなかったけれど、

道沿いにお洒落な生け花見つけた。思わず足を止め近づいて

100年古民家での〜と、イベントの案内が貼られた格子戸の奥を覗いてしまった。

普段何気ない風景も、時にはとても興味深い景色を楽しめました。


ドルカス




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我々のための動物

2018年05月09日 | 感謝

人間が生きるために必要な動物がいる。羊、鶏、牛、馬、豚を五蓄と言って、家畜の代表的な動物である。これらはエデンの園では必要がなかったのだが、神があらかじめ人のために創造し備えてくださったものである。

進化論を信じている人には、例えば豚はイノシシから家畜として改良されたと思われてはいるが、たしかに交配させ、イノブタという一世代目はできる。しかしその次にイノブタ同士を交配させても次世代はできない。つまり進化した種として存在することができない。だから進化論者なら言いそうな進化したのではなく、豚という家畜も、神が人のために造ってくださった存在なのである。

私たち日本人にとっては、あまり馴染みのない家畜に羊がいる。鋭い牙もなく、角があって戦い用ではない。敵から逃げる脚力もない。羊は人間に守られ、飼われ、役にたって存在している。つまり、羊は人間のために造られた生き物(家畜)なのである。この羊は私たちにウールを提供してくれているだけではない、その体中、何ひとつとして無駄なところがないという。我々人間のために造ってくださった神に感謝しなければならない。

一昨日のNHKで、罠猟師の番組があった。獣害に一役かっているのだが、私が興味深かったのは全国的に鹿など、増え過ぎた獸は捕獲してほとんど焼却している事実である。もったいない、鹿肉にしたらいい、と言う話も聞こえそうであるが、話の種に一度食べてはみても、人々は続けて食べようとはしないとのことだった。私自身、イノシシ肉を何度か食べたことがあるが、強い野生の味がして、やはり牛、豚の美味しさにはかなわない。

本日の聖書の通読箇所(使徒の働き10章)で、神はペテロに、夢でユダヤ教では食べることを禁じられているあらゆる動物を見せ、そして彼に、
「ペテロよ、立ち上がり、屠って食べなさい」と命じられた。(10章10~13節)

これは異邦人にもペンテコステ(聖霊降臨)がくだされる示しであったが、福音がユダヤ教をパスし、世界宗教であるキリスト教を誕生させるという、神の壮大な計画のスタートでもあった。

この日、この個所の日の夕食に、私がユダヤ教で禁じられている豚肉を(全く意図してはいなかったのだが)おいしく食べ、これらを与えてくださった恵みを書いている。偶然はないので、本当に神様に感謝である。



ケパ





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花めいろ

2018年05月08日 | 自然
4月に訪れたアンデルセン公園での事ね。

ネモフィラの小道から坂道を登り切った丘の上は、

金魚草が一面に咲き誇っていて、思わず歓声あげて足を踏み入ると、

どうやら出口から侵入した私のようで
花迷路の中


こんな素敵な迷路だったら、いつまでも迷っていようかしら。
と、どうにも迷いそうもない可愛らしい「花めいろ」でした。

あぁ、でも美しい場所だからと、いつまでも迷わされていたらダメですね。
しっかりと迷いから目を覚まし歩まなければ。

ドルカス




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問題を神の側から見た時、喜びと感謝に変わる

2018年05月07日 | 信仰


私は生来、高慢な者であった。忘れもしないが、小学校の時に痛くもない盲腸の手術をした。動けない私は、せっかく見舞いに来てくれた近所の友だちをすごく屈辱に感じて、追い返してしまったほどだ。

高慢な者は、負けることが受け容れられない。だから観るのはいいが、やるスポーツは嫌いだった。しかし勝つことは、負けから己を正しく知り、学んで生まれるものであって、例外はない。もし徳川家康に、しかめ顔となった三方ヶ原の敗戦が無かったらと思えば良い。

高慢さというものは、己を正しく知らない限り、心の不安定さを伴うものだと思う。クリスチャンになる二十歳までの私は、いつもエレベーターのように上下する自分の感情につき合いきれない思いがした。一方でこれが無くなったら、伸びきったゴム糸みたいでつまらないかも、と思った。心の病の方の苦しみの多くは、本当は弱く情けない自分を受け入れられない戦いであって、平凡への恐れ、真実への不安など、自分では気づけないけど、源が高慢さ故の苦しみがあるのかも知れない。

二十歳の春、私は学生運動の中で脱退し挫折した。それまで皆の前でマイクを握り、一丁前にアジッていたのにと、口先の愚かさと裏切りに、我ながらあきれ果てていた。その3月の夜、雪の降る小田急相模原駅の路地裏で、私は自分の愚かさを認め、神の存在を受け入れ、白旗を揚げて神様の軍門に降った。(つまりその足で教会に行き、クリスチャンになった)

五十歳の二月、十年以上にわたる妻の病の終着点、家族との別離とアルツの母を抱えた私は、喪失感に囚われ自暴自棄に陥った。最後にあらゆる不道徳な罪を犯して、もう終わりにしようとした。その欲望に捕らわれた瞬間、自分を捨てられない罪深さに気づかされ、偽善者として深い悔い改めに導かれた。その次に神に触れられ、体験し、福音派的な信仰が一変した。

今私は、本当に幸福で神への感謝にあふれている。辛かったこと、苦しんだこと、挫折したことが、実はすべて最大最高の益に変えられたことがわかるのだ。神の視点に立てばそうなのだ。真逆とはこういう事を言う。
確かに今だに私は高慢な者であるが、少なくとも高慢であることを骨身に知っており、これを砕く神の愛とあわれみが、私を覆っていることを知っている。
だから今、己に苦しんでいる人、困難にある人、試練に遭っている人、あなたは神の視点に立ち、喜んでください。感謝して下さい。今はわからないけど、そうなるのです。なることを信じて期待してそうすれば、どれほど神様が喜んでくださることでしょうか!

✳️益になった
"神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。"【ローマ人への手紙 8章28節】

✳️益にならなかった
"福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。"
【ヘブル人への手紙 4章2節】



ケパ





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5月6日主日礼拝

2018年05月06日 | 教会のこと

おはようございます。礼拝の時間です。オンライン始まりますが、一時からの配信が確実にご覧になれます。今日から映像も以前より良くなったと思われます。



10時から生中継配信で流してますが、
1時から、Wi-Fi環境の中で、今一度USTREAMで配信します。こちらもご覧になって、お選びください。



ドルカス



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バラ園で満喫

2018年05月05日 | 自然
最近気に入っている習志野市の、谷津干潟近辺にある谷津バラ園に、行った。

さくらの頃にこの公園は?と通りすがりに寄った場所は、なんと素敵なバラ園。

🅿️もあり、なんと二人でワンコインで済んだ入園料シニアチケット

800種7500株、習志野市のバラ園は、一時間程散策したら回りきれる小規模。

毎年の様に行っていた船橋市内の大型バラ園も良いけど、

この場所はさらに落ち着く

バラの香りで満ちていて

まだ盛りには早い時期なので、混み合うこともなく

ゆっくりと気になる薔薇を覗き込み、

それぞれ撮影して、

至福のときでした。




ドルカス





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洗っても洗っても、なくならない砂

2018年05月04日 | 信仰
今日も昨日ほどではないが、一日中、風が吹いた。風はカビや湿り気を吹き飛ばす。だから風の吹く船橋は、晴れの日が多く温暖で良い所である(写真は今日訪ねた隣の習志野市営の谷津バラ園で)。
私は中国山地にある盆地の町で育った。そこは毎朝9時までは霧が立ち込め、晴れるまでは何も見えない、乳白色の無風世界だった。だから時おり、強い海風が吹き荒れる船橋は新鮮である。ヤッケやコートに付いていたフードが、実際に役立つことがわかった。聖霊はよく風に例えられる。東京の真東、ここ船橋に、聖霊の風が強く吹いてくださると私は信じる。

さてこの風の日を利用しようと、昨夜久しぶりにテニスシューズを洗った。テニスシューズのようなゴム系のものは、あまり日に当てないで乾かしたい。だからこんな風の強い日が最適だ。以前は月に1回ペースでまめに洗っていたのだが、靴の内側に防水スプレーをかければ、数か月はもつことを発見して、ちょっと無精していた靴洗いだ。

洗ってみて驚いた。ゆすごうとすると、何度ゆすいでも砂が出るのである。四回目ぐらいからムキになったが、結局水の無駄使いと六回目ぐらいで止めた。出る砂の量は少なくなっても、どこから出て来るのか、砂が完全には切れそうになかった。

思えばこの靴、オムニといわれる人工芝用だ。オムニコートの表面は砂場であって、その上で長い時間、砂を蹴飛ばし、引きづり、かき回し続けていた靴なのである。靴の中だけではない、ソックスの中、靴底の中敷きの下まで砂だらけとなる。だから靴の生地の目の中に、すっかり砂が入り込んで、ちょっとやそっとでは、完全には落ちないのだ。

それで何を思ったのか、罪を、である。
見た目には見えなくても、洗っても洗ってもどこからか出て来る砂。それは、悔い改めても悔い改めても、罪の心が消えない私自身のように思える。洗う度に砂が少なくなって行くが、どんなに洗っても、一粒の砂も無くすることは、困難だ。聖者になることは、出来ない。

しかしこれが信仰のポイントなのだと思う。取れない罪深さは、同時に恵みでもある。Amazing Graceの歌のように、世にある限り、どんなに神があわれみ深いか、赦しのお方であるかをずーっと体験し続けることなのだ。(AmazingGrace、この有名なゴスペルの作詞者、ジョン・ニュートン(John Newton/1725-1807)は奴隷船の船長であった)

そして私の一生もそのように、願っている通りに、確かに清められては行くが、本質的な罪深さは消えず、決して究極的な清さにはあずかれないだろう。これが実は高慢さからの守り、神の計り知れない知恵と愛なのではなかろうか。
歌では一番から三番までがこの事を歌い、神のあわれみと守りを歌っている。そして四番の歌詞にでは、世の終わりが来て主の所に迎えられる時、A life of joy and peace・・・・私たちは喜びと安らぎの中に入るのだ。究極的な勝利の時である。

つまり一般の人々が恐れる死は、クリスチャンにとっては、待ち望んだ喜びの日、血肉の罪深さからの解放される喜びの日なのである。
あらためて思う、私たちは天国人なのだ。

ケパ







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強風な1日

2018年05月03日 | 自然
ゴールデンウイーク後半1日目
夜中から風の強さと、窓に叩かれる雨で、
今朝はあ〜ぁ
洗濯物干せそうもないかなと、それ程の強風。特にマンション南側の我が家のベランダは、海風と言うのか風が半端でないの

あまりにも風の強さで、

鉢が吹っ飛び〜すっぽり抜けてしまった、ローズゼラニュームの鉢を、剪定して丈を短く仕立て直しする事にした。
花瓶に入れておいたら多分根が出ることを期待し

玄関に飾る。

と、一安心もつかの間、今度は数日前にプランターに植え直したプチトマト。
心配だな〜って思っていた通りに、
プチんと折れてた〜〜
まあ、これも途中で折れたので、わき芽を期待しよう。三本仕立てになるね。
感謝です。

でも、しおれてしまった花の部分は期待できないけど、葉っぱいいんじゃない(๑˃̵ᴗ˂̵)
と、室内の終わりかけたランと一緒に飾る。

連休1日目は、強風を部屋の中で充分に味わった1日でした。(実際のベランダの鉢写真は明日ね)

ドルカス



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三つの謎、答えさせていただきます

2018年05月02日 | 聖書
皆さま、お待たせしました。それでは三つの謎解きの答えを明かしさせていただきます。なお、独断的推察ですので、よろしくお願いします。

(一)「エルサレムから離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」に違反。
これは使徒1:4にある命令である。それなのに弟子たちはガリラヤに帰り、元の漁師のようなことをはじめていた(ヨハネ21章)。これはどうなってる?

【ケパの解釈謎解き】
○弟子たちがガリラヤに行ったのは、そもそもがイエス様の命令(マタイ28:7,10)である。それなのにイエス様の「エルサレムから離れるな」は、ペンテコステ(聖霊降臨)が近づいており、教会のスタートが始めからバラバラではふさわしくないからである。

つまりこの一見矛盾した指示は、イエス様は復活直後に弟子たちに、「(迫害と妨害のユダヤ人たちが少ない)ガリラヤで待っている」ので来なさい、と指示。
→そこで弟子たちはすぐ、翌日にはエルサレムを出発。三、四日の道のりを経てガリラヤに到着。八日後にはトマスと共に主にお会いした。ペテロたちが漁をしたのはガリラヤの安心さと、復活後の四十日、その多くの日数を主と弟子たちがガリラヤで過ごしたことを暗示している。この養いの期間には「私の羊を飼いなさい」などのペテロの再召命があった。
→七週の祭り(シャブオット)が近づいて来たので、弟子たちはかなり早めに再びエルサレムに戻った。
→弟子たちはイエス様の昇天直前に、「(最初の聖霊のバプテスマ=ペンテコステを受けるため)このままエルサレムに留まっていなさい」との指示を受けた。そしてオリーブ山でイエス様の昇天を見送る。
→その一週間後、祭りの日に集まって祈っていた120人全員がペンテコステを受け、教会が発足した。

つまり結論は、時間と段階が違っての指示であって、両方とも矛盾しない。

(二)マリアにだけ「さわっちゃダメ」❓
復活されたイエス様が最初にその姿を現されたのは、マグダラのマリアにだった。しかしそのマリアに対してだけ、イエスは「わたしにすがりついていてはいけません」と言われたのだ。しかしその後、弟子たちに息を吹きかけられたり、トマスには「手を伸ばして、わたしのわき腹に入れなさい」と言われている。この違いは何だろう。マリアが女性だったから?それとも他に?

【ケパの解釈謎解き】
これはどう見ても、マリアに会われた時のイエス様は、この時、まだ御霊の体になっていなかったと思われる。それなのにマリアに会われたのは、使徒たちを含めイエスに付き従った大勢の中で、信仰も貢献度も、最も高かったマリアへの特別な配慮だったと思われる。
この直後、イエス様は天の父に会われ、御霊の体に変わられたはずだ。御霊の体になるともはや霊体ではない。実体があるのでさわられてもOK。魚を食べたりすることができた。それなのに壁を通り抜け、ひとっ飛びで距離の移動もできる。年もとらない永遠の体である。

付け加えだが、近頃の歯科診療では、例えばある歯がグラグラ動いたりする場合、接着剤で周りの歯とくっつけて固定したりする。そのやり方だが、医師が接着剤を塗って、そこにある光線を当てると一瞬で硬化して接着完了となる。御霊の体もそんな感じで、神様にお会いすると、一瞬で御霊の体に変えられるんじゃないかなと思うのだが。


三)見ただけで、何が分かって、信じた?
これは「そして見て、信じた。」(ヨハネ20:8)の箇所で、ペテロとヨハネは墓に入って、それでイエス様の復活を信じたとあります。墓に入って、見ただけで、どうして分かったのでしょうか? 説明を試みてください。

【ケパの解釈謎解き】
○これは、ペテロとヨハネが見た墓に置いてあった包帯のほどき方が決定的てあると思う。
"彼に続いてシモン・ペテロも来て、墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。
イエスの頭を包んでいた布は亜麻布と一緒にはなく、離れたところに丸めてあった。"
この記述によってすぐに想像されるのは、バイク乗りが、フルフェイスのヘルメットを脱ぐような仕草だ。復活直後のイエス様も半身起き上がって、ご自分で頭部をぐるぐるに巻かれた亜麻布を両手ですぽっと脱ぎ、自分のそばにそっと置かれた様子が想像できる。

○そのほか、もし遺体が盗まれたのなら、持ち出す前に亜麻布を外したりはしないだろうし、頭部と二つに分かれたこの場の状況から、ペテロとヨハネの二人には、よみがえったことしか考えられなかったはずだ。

だから、見て、信じた。そして生前の、復活するという師の言葉をも同時に思い出した二人に、目撃者としてのリアリティがある。





ケパ






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