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・・・⛄ 冬がやってきました ⛄・・・

吾妻耶山~大峰山

2012年05月22日 | 関東百名山

5月20日(日)吾妻耶山(関東百名山)~大峰山を歩いてきました。

M旅行主催の日帰りツアーです。

  :仙岩峠登山口

関越道水上IC⇒一般道を経て、10:30 仙岩峠登山口へ。

  :晴天です。

エンレイソウが多かった登山道、を”ヒル”の話をして歩いていたら・・・

  : ヒル 

尾根道に出て休憩、落ち葉の中から顔を出していた。

ヒル警報発令- - -(ネットの情報は正しかった!!)

  :仏岩

11:05 仏岩(説明の必要はない)新緑が眩しい。

 :ブナの芽    :エンレイソウ

     (クリックすると大きくなります)

尾根道を歩く、シャクナゲが出てきた。

蕾もあるし、咲いているものも少ない。よく言う外れ年か?  

  

11:40 ここから約20分、急途を登る、木の根に滑らないように注意して。

   

振り返ると、谷川連峰が顔を見せる。

              

           

登りきると雪渓が残っている場所へ。

ここから山頂までは、キクザキイチゲ、アズマイチゲ、スミレのミニお花畑、ここはまだ春? 

  :吾妻耶山頂   :上州武尊山

12:25 山頂。まずは谷川連峰の眺望を御覧下さい。

       

                                               

左から苗場山・大源太山・平標山(たいらっぴょう)・仙ノ倉山・万太郎山・谷川岳(遠く巻機山)

    朝日岳・笠ガ岳・白毛門と見える。まさに谷川岳の展望台だ。

   

山頂には3つの大きな祠がある、それぞれ寄進した村の名前が刻まれている。

笠の部分には「六文銭」=真田家の家紋が刻まれている。

祠にも悲しい過去が・・・(後述する)

吾妻耶山の由来は、山容が特異な四角形をしており「四阿造り」の屋根に似ていることから命名されたとある。

昼食を食べる、”晴天・眺望”は何にも代えがたい「おかず」になった。

 :赤谷越峠 

大峰山へは一度下って、登り返す。

        

:ワチガイソウ        :ハルリンドウ                       :ショウジョウバカマ

大峰山の登りで会ったお花たちです。

  :大峰山頂

13:50 大峰山頂、眺望はない、灌木越しに水上の町が見える。

    :ツバメオモト  

大峰山からの下りで咲いていた、こちらはシロバナエンレイソウだった。

  :大峰山登山口

  :大峰沼

14:30 大峰沼へ、浮島・湿原がある、「バードウォッチング」が楽しめる。

     :ウスバサイシン

15:00 林道を下り、バスの待つ駐車場へ。ウスバサイシンが2輪咲いていた。

「真沢の湯=さなざわ」で汗を流し、新宿への帰途に着いた。 

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     (行程:標高差484m、約9.7km、4時間30分)

      7:45 新宿駅西口=水上IC= 10:30 仙岩峠登山口 ⇒11:05 仏岩

       ⇒11:40 急途下  ⇒ 12:25~12:55 吾妻耶山頂 ⇒13:50 大峰山頂

       ⇒14:30 大峰沼  ⇒15:00 駐車場 ⇒真沢の湯 ⇒20:00 新宿駅西口  

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 :山頂にある祠の悲しい歴史

   山頂の入口に山門ともとれる石柱が2本立っている。

   1662年に沼田城主真田伊賀守(真田信利)がここに神社を建立したとある。

   この人物はとんでもないやつ、いわゆる悪代官。

   1656年23歳で沼田城主となり、本家筋の信州松代真田家に対抗して、華美を競い、建築や土木に

   巨費を投じたうえ、側役人の妖言に乗って、日夜食の乱交にふけり、藩政を乱した。

   その付けを領民に払わせ、血税(八公二民)を課した。

   それに抗議した茂左衛門(農民)が「領主の非行、領民の惨状を認めた訴状」を作成、

   これを上野東叡山のニセ文箱に将軍宛直訴状を入れ、中山道の茶屋に置き忘れたように装い立ち去った。

   (当時は農民が”お上”に訴える方法は皆無といっていいくらいなかったのだろう)

   これを見た幕府は沼田藩を調査、領主の罪状取り調べとなり、1681年11月伊賀守は閉門を

   命ぜられ、領地召し上げとなった。

   これで茂左衛門が救われ、土地の英雄となれば”めでたしめでたし”となるのだが、そうわいかない。

    一時身をひそめていた茂左衛門が、領内の様子を知りたく、月夜野に戻る。

   本望をとげたうえは自首するつもりで妻に別れを告げ、小袖坂まで戻ると幕府の隠密に捕まった。

   縄を打たれ江戸に送られ、取り調べの上所成敗となり、1682年12月妻とともに月夜野橋の竹の

   下の河原で磔刑された。    (茂左衛門地蔵尊発行のパンフより抜粋)

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    こんな領主が建立した神社だから、純粋な信仰とは縁遠いかも? 

  

 

 

 

 



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