元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ラブストーリー」

2010-09-20 06:19:25 | 映画の感想(ら行)
 (英題:The Classic )2003年韓国作品。ある母娘の時を隔てた2つの恋と、その意外な結びつきを追うクァク・ジェヨン監督作。クァク監督は本作の前に「猟奇的な彼女」を撮っている。あの映画は極めてユニークなヒロインのキャラクター設定と主演女優の魅力で快作には仕上がっていたが、それらを除くと古色蒼然たるメロドラマのルーティンを追っていることが分かる。だから、この映画のような“突出した素材”を扱わずにオーソドックスなネタを扱ったこの新作に、あまり面白味のないことも納得できる。

 女子大生のヒロインの恋愛と、その母親の若い頃の悲恋とを平行して描き、その背景に韓国の近代史を織り込もうとする仕掛けは、よくある大河メロドラマの形式だが、手掛ける監督が“浪花節(お涙頂戴劇)”が大好きとあっては、全編これベタベタの展開になるのは仕方がない。それが2時間半も続くのだからゲップが出そうになった。御都合主義の権化みたいなラストシーンにも呆れるばかり。

 主演のソン・イェジンと相手役のチョ・インソンは悪くはないが、何となく小さくまとまっていて、映画俳優というよりはテレビ向けだ。作品自体もテレビでやった方がピッタリだと思う。そういえばソン・イェジンは「冬のソナタ」の流れを組むテレビシリーズ「夏の香り(夏日香気)」の主演女優でもあった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「黒犬、吠える」

2010-09-19 06:52:52 | 映画の感想(か行)
 (英題:Black Dogs Barking)2009年作品。同年のアジアフォーカス福岡国際映画祭に出品されたトルコ映画だが、私は先日福岡市総合図書館の映像ホールで再上映された際に始めて接した。技巧的には水準に達していないものの、重くて苦い印象が観た後もずっと尾を引く映画だ。これはひとえに作者の当事者意識の強さゆえだろう。

 舞台はイスタンブール。セリム(ジェマル・トクタシュ)とチャチャ(ヴォルガ・ソルグ)はギャング組織の末端で働きながら、いつか自分たちでビジネスをするという野心を抱いていた。知り合いのコネにより、ショッピングセンターの警備の仕事の入札に参加するチャンスが訪れるが、そこはすでに別のグループの縄張りになっていた。ギャングのボスは二人を止めようとするが、向こう見ずな彼らは聞く耳を持たない。やがてセリムの婚約者が誘拐され、事態は切迫の度合を高めていく。



 セリムたちはアナトリアからの移民で、彼らが住む地区は貧民街同然である。ちょっと見渡せば高層ビルが建ち並び、大規模なショッピング・モールもある。この社会的な格差に愕然とするが、さらには彼らを狙い澄ましたように兵役が課せられる。そんな図式は必然的に犯罪の温床となり、発砲騒ぎなど日常茶飯事だ。監督のメフメット・バハドゥル・エル自身がこの地区の出身である。

 撮り方は即物的に過ぎてあまり工夫が成されていないが、全編に漂う不穏な空気は緊張感を呼び込む。興味深かったのが、現地の風習だ。葬儀の際には身内の者が棺桶を担いで街中を練り歩き、埋葬時には鳩を飛ばすのが慣わしになっている。セリムたちは葬儀用の鳩の飼育をして生計を立てているのだが、日本の鳩とは違って足まで羽毛に覆われているのが面白かった。

 こういった移民ばかりのエリアがイスタンブールには数多くあり、そこでは出身地域の生活習慣などがそのまま持ち込まれているという。当然、各セクト同士の軋轢も激しいものがあるのだろう。トルコという国の実相を垣間見たような気がした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近購入したCD(その20)。

2010-09-11 06:28:24 | 音楽ネタ
 最近、古いロックが聴きたくなり、何枚か買い求めている。その中で印象に残ったものを挙げてみたい。まず、イギリスのプログレッシヴ・ロック系のバンド“ルネッサンス”が73年に発表した「Ashes Are Burning 」(邦題は「燃ゆる灰」)。ルネッサンスは元を辿ればエリック・クラプトンら三大ギタリストが在籍した伝説のバンド“ヤードバーズ”に端を発するのだが、オリジナルメンバーでの活動には早々に終止符が打たれ、そのコンセプトを受け継いだ別のスタッフによって72年に再結成される。本作はその第二期ルネッサンスのセカンド・アルバムだ。

 プログレッシヴ・ロックとはいっても、ピンク・フロイドとかイエスみたいな高踏的で難解な部分は少しもない。オーケストラをフィーチャーしたクラシカルでソフトな展開を身上としている。このアルバムは全ての曲のクォリティが高い。どのナンバーも優雅で美しく、それでいてキャッチーだ。これらの楽曲を現時点でCMやドラマの主題歌などに使用すれば、問い合わせが殺到するかもしれない。



 ルネッサンスはアニー・ハズラムという女性ヴォーカルをフィーチャーしている。今でこそ女性ロッカーは数多くいるが、当時はハズラム以外にはアメリカのスージー・クアトロぐらいしか第一線で活躍している女流ロック系シンガーはいなかった。とはいってもハズラムの声はロックの激しさとは無縁の、クラシックの要素を取り入れたサウンドに合致した澄み渡るソプラノ・ヴォイスだ。こういう持ち味のあるロック系ヴォーカリストは今でもあまりおらず、リリースから40年近く経った現在聴いても新鮮だ。また、このディスクは録音が素晴らしく良い。その意味でも聴く価値がある。

 次に紹介したいのが、イギリスのロックシーンで特異な地位を占めていたバンド“ウィッシュボーン・アッシュ”の3枚目のアルバム「Argus」(邦題は「百眼の巨人アーガス」)。リリースは72年である。ウィッシュボーン・アッシュの一番の特徴は、4人のメンバーのうちリードギターを務める者が2人もいたことだ。つまりはツイン・リードで、通常のリードギター&リズムギターという編成とは明らかにハーモニーが違う。メロディを重層的に積み上げる必要があるため、極めてアンサンブルの密度が高い。また、それを可能にさせるメンバーのテクニックが確かだったことは言うまでもない。



 本作はLPレコードでのB面に当たる「キング・ウィル・カム」から「剣を棄てろ」までの展開が最高だ。トラディショナル・フォークの香りがする極めて美しい旋律と、強力なリズム感が圧倒的である。特にリードギター同士のリフが絡み合う部分など、鳥肌が立つほどだ。また、ジャケット・デザインと歌詞の内容から醸し出される典雅な世界は、もろにヒロイック・ファンタジー(笑)。録音も良好で、英国の深い森の中の空気が漂ってくるようである。

 アメリカのハードロックバンド“マウンテン”のベスト盤も買ってみた。最初の発売は73年で、邦題は「栄光のマウンテン」。マウンテンはクリームのプロデューサーとして知られるフェリックス・パパラルディが、ギタリストのレスリー・ウエストと共に69年に結成した4人編成のグループ。このディスクはバンドが解散する72年までに出されたアルバムからピックアップされている。なお、その後マウンテンは再結成され、現在も活動中だ。



 当時のハードロックの世界は完全にイギリス勢が優勢だった。米国ではマウンテンの他にはグランド・ファンク・レイルロード(GFR)ぐらいしか目立ったバンドはなく、アメリカ勢の巻き返しはエアロスミスなどが台頭する70年代後半を待たねばならない。マウンテンのサウンドはGFRのような泥臭さとは一線を画した、洗練されたメロディ・ラインと豪快なリズム展開を特徴とする。さらに伸びやかなスケール感もあり、今聴いてもまったく古くない。

 ラウドなロックといえば誰でもヘヴィ・メタルを思い浮かべるだろうが、マウンテンの楽曲はハードではあるが不必要にヘヴィではない。幅広い層に聴かせられる音楽であり、再評価されても良い素材だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「アパートの鍵貸します」

2010-09-10 06:29:02 | 映画の感想(あ行)
 (原題:THE APARTMENT )60年作品。その年のアカデミー賞を獲得し、ビリー・ワイルダー監督の代表作とされているコメディ映画だが、私が観るのは今回のリバイバル上映が初めて。感想だが、率直に言ってどこが面白いのか分からない。ワイルダー作品としても「お熱いのがお好き」や「情婦」等と比べても相当に落ちる。あの時代ではこの程度のものが評価されていたのだろうか。

 ニューヨークの保険会社に勤める若手社員のバドは、職場の近くにある自分のアパートを上役の情事のためにせっせと貸し出している。そうすることによって出世を狙っているらしいが、私なんかこの時点で“引いて”しまう。いくら60年ぐらいまでのアメリカは景気が良かったからといって、こんなお調子者が取り立てられるはずもない。



 それでも“いや、こんな奴がいるのだ”と強弁したいのならば、違和感のないようにコメディ・タッチでオブラートにくるんでもらいたいが、それが成されていない。肝心のギャグはすべてハズしっ放し。ちっとも弾まない微温的で平板な展開の連続で、上映時間も無駄に長く、観ていて眠くなってくる。

 人事部長が部屋に連れ込んでいたエレベーターガールがバドの意中の人だったという筋書きは、絶好のお笑いのネタであり、撮りようによってはいくらでも盛り上がるはずだが、本作はそんな気配はない。しかも、ジャック・レモンとシャーリー・マクレーンという芸達者を起用していながらこの体たらくだ。サラリーマンを主人公にした喜劇では、植木等の「無責任シリーズ」の方が遙かに優れている。

 唯一興味を惹いたのが、主人公が勤める会社の造型だ。広いフロアに大量に並べられた机。そこで働く多数の従業員は、一心不乱に職務に勤しむ。そして会社にエレベーターガールがいるのもビックリだ。人件費に潤沢な資金を投入し、それが十分にペイできた時代。幹部が異性関係にウツツを抜かそうが、それを御愛嬌として片付けてしまえる。職場の雰囲気は明るく、クリスマスは社員ぐるみでパーティが開催されたりもする。

 マイケル・ムーアの「キャピタリズム マネーは踊る」の中で、彼の父親の現役時代がいかに楽しく充実していたかを示すエピソードが紹介されるが、本作で描かれていることがまさにそれだと思う。現在の惨状を見るにつけ、70年代以降のアメリカの迷走を実感せずにはいられない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「六月の蛇」

2010-09-09 06:30:52 | 映画の感想(ら行)

 2002年作品。「東京フィスト」「バレット・バレエ」などで知られる異能・塚本晋也監督作だが、これはたとえばペドロ・アルモドヴァル監督の「トーク・トゥ・ハー」のような“軟弱変態映画もどき”など簡単に蹴散らしてしまう、正真正銘の“ド変態純愛映画”だ(笑)。

 淡泊で潔癖性の夫に倦怠感を抱く人妻が病的なストーカー男に“恥ずかしい写真”を撮られたことから“恥ずかしい行為”を強要されるという、昔のポルノ映画に散見されたシチュエーションから、イッキに至高の夫婦愛へと物語を強制着陸させてしまう、作者のその手腕は凄い。

 当初ストーカー男に翻弄されっぱなしだった人妻が、やがて逆に主導権を奪い、男の小賢しい企みを粉砕してゆく。注目すべきはそのプロセスにおいて、彼女の痴態を冷徹に追うだけのカメラが180度転換して惨めな男の素顔をさらけ出してゆくこと。被写体としての自分に目覚めるヒロインの心理と観客との共犯関係を強いるスリリングな作劇にはゾクゾクさせられた。

 全編を覆う土砂降りの雨、35ミリ・スタンダード・サイズの高密度モノクロ画面、ヒロインの夫が遭遇する変態テイスト満載の幻想シーン等、映画の意匠には抜かりがない。主人公に扮する黒沢あすかの存在感は素晴らしいが、夫役の神足裕司の絵に描いたような“小市民的むっつりスケベ親父ぶり”は圧巻(爆)。2002年度ヴェネツィア国際映画祭審査員特別賞受賞。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「瞳の奥の秘密」

2010-09-08 06:40:08 | 映画の感想(は行)

 (原題:El Secreto De Sus OJos)強い求心力を持つ、実に見応えのある映画だ。第82回米アカデミー賞で外国語映画賞を獲得しているが、内容もそれ相応のハイレベルな仕上がりである。何より監督ファン・ホゼ・カンパネッラの芳醇かつ抑制されたドラマ運びに感嘆してしまう。

 2000年のブエノスアイレス、刑事裁判所を退官したベンハミンは現役時代に担当した事件を題材に小説を書き始める。74年に起こったレイプ殺人事件。政情不安な時期でもあり、警察はまったくアテに出来ない。地道な捜査によってやっと真犯人を挙げたのも束の間、事態は意外な方向に走り出す。

 映画は二つの縦軸を中心に進む。ひとつはベンハミンと彼の年下の上司である女性判事イレーネとの関係。そしてもう一方は、殺された女の亭主で犯人に対して強い復讐心を持つリカルドの行動だ。ベンハミンとイレーネは置かれた立場が違い、互いに思慕の念を抱いてはいても周囲の状況はそれが発展することを許さない。だが、二人には困難を乗り越える前向きな強さがあり、チャンスをいつまでも待ち続けられる時間が与えられている。対してリカルドには未来はない。彼にとっては亡き妻が全てで、鬱屈した感情を持ったまま日々を送るしか与えられた道はないのだ。

 この二つの軸はコインの裏表であり、強い恋愛感情が存在していることは共通しているものの、ちょっとした運命の行き違いより異なる様相を呈している。見逃せないのが、作者は双方を比較はしても決してシニカルな描き方をしていない点だ。愛情表現を映像に結実させるため、静かに対象に肉迫している。この覚悟の程は素晴らしい。

 横軸として挿入されるのは、アルゼンチンの政治状況だ。最初に挙げられた犯人は警察の不当な取り調べによる冤罪だったことは早々に明らかにされるが、真犯人の扱いに対しては不条理極まりない筋書きが用意されている。さらに魔の手はベンハミンら司法当局にまで及び、切迫したサスペンスを生み出す。

 この縦軸と横軸とが絶妙のタイミングでクロスし、ドラマに重層的な奥行きを与える。終盤の展開などは息をもつかせぬ迫力だ。そして幕切れの鮮やかさ。見事と言うしかない。

 ベンハミン役のリカルド・ダリンとイレーネに扮したソレダ・ビジャミルの演技は素晴らしく、特に25年という時の流れをメイクアップだけで違和感なく表現しているのには舌を巻いた。パブロ・ラゴやハビエル・ゴディノ、ホセ・ルイス・ジョイアといった他のキャストも、日本では馴染みがないが皆的確な仕事をこなしている。音楽と撮影は申し分ない。これは本年度の外国映画の収穫であると断言したい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ダウン」

2010-09-07 06:36:12 | 映画の感想(た行)
 (原題:DOWN)2001年作品。ニューヨーク・マンハッタンにある高層ビルのエレベーターがある日突然コントロール不能になり、事故を多発させる。整備士と女性記者が原因究明に乗り出すが、意外が事実が発覚していくというホラー編。

 「小さな目撃者」などのオランダ出身のディック・マース監督が、デビュー作「悪魔の密室」をセリフ・リメイクしたものだが、わざわざ二回も取り上げるネタかと思われるほど気の抜けた三流怪奇映画に終わっている。

 高層ビルのエレベーターが突然“意志”を持って暴れ回るというトンデモな設定なので、映画自体が安っぽくならないように展開はシリアス路線で通すべきだが、監督の腕が稚拙で話にならない。特にセリフ回しの素人っぽさは何とかしてほしかった。

 唯一の見所はキャストだろうか。ロン・パールマン、マイケル・アイアンサイド、ダン・ヘダヤという“強面三人衆”の揃い踏みは壮観で、ハッキリ言って“人食いエレベーター”よりもこいつらと一緒にエレベーターに乗る方が数段怖い(笑)。

 ただし、主演のジェームズ・マーシャルは力不足。ヒロインに扮するナオミ・ワッツも他の出演作のような魅力があまり感じられない。監督がイマイチならば、出演者のヴォルテージが下がるのも当然か。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ゾンビランド」

2010-09-06 06:35:07 | 映画の感想(さ行)

 (原題:ZOMBIELAND)数多いゾンビ映画の中で“史上最大のヒット”を記録したという触れ込みにもかかわらず、さっぱり面白くない。ストーリーに起伏があるわけでもなく、キャラクター設定はいい加減だし、ギャグはスベりっ放しで、中盤以降には眠気を抑えるのに苦労した。個人的には“ゾンビ映画史上に残る駄作”と断言したいほどだ。

 ゾンビウィルスにより、大半の人間がゾンビ化してしまったアメリカ合衆国。そんな中、テキサス州在住の引きこもり学生コロンバスは自分で策定した“生き残るための32のルール”を遵守することにより、何とか難を逃れていた。しかし、両親の消息をはじめどうしても他地域の状況を知りたくなった彼は、当て所もない旅に出る。道中で知り合ったのが武器オタクのマッチョおやじと、若い女詐欺師と、その妹である中学生。彼らは襲いかかるゾンビを次々と片付けながら、とりあえず目的地に設定した西海岸の遊園地を目指す。

 通常ヒーローになれない落ちこぼれが生き残っているという設定は、ティム・バートン監督あたりがすでに実行済で新味はない。コメディタッチのゾンビ映画としては「バタリアン」シリーズや「プラネット・テラー in グラインドハウス」「ブレインデッド」などには完全に負ける。ロードムービー仕立てにするのも“ありがちなパターン”でしかない。

 プロット面でも突っ込みどころが満載で、いくらゾンビウィルスが蔓延していても軍などの当局側が早々に無力化してしまうことは考えにくいし、世相に疎い引きこもり野郎が生存出来る可能性は低い。普通に考えれば、最初に隣人が襲ってきた時点でアウトだろう。後半、閉店状態の遊園地をわざわざ稼働させてゾンビの大群を呼び込んでしまうくだりなど、あまりのお粗末さに泣けてきた。

 主演のジェシー・アイゼンバーグをはじめ、ウディ・ハレルソン、アビゲイル・ブレスリン、エマ・ストーンという顔ぶれも微妙で、つまりは“悪くはないが、無茶をやらかしてくれるほどには濃くはない”といった程度に留まっている。ルーベン・フライシャーの演出はメリハリがほとんどなく、平板な画面が漫然と流れるのみ。特別ゲストとしてビル・マーレーも登場するが、大した見せ場もないうちに退場してしまったのには脱力した。

 この低調なシャシンが本国でヒットした本当の理由は分からないが、おそらくは“ゾンビ映画にしては全く怖くない”というあたりがウケたのではないかと想像する。マニア御用達のコアなネタも登場しないし、極度にグロいシーンも見当たらない。

 ボーッと画面を眺めているだけでヒマが潰せる、または仲間内でキャーキャー言いながら楽しめる(酒でも入っていればまた格別 ^^;)、ある意味便利な映画である点がアピールしたのだろう。当然、まともな面白さを求めて劇場に足を運んだカタギの映画ファン(?)にはお呼びでないシロモノだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「宣戦布告」

2010-09-05 06:47:00 | 映画の感想(さ行)
 2002年東映作品。麻生幾の同名小説の映画化で、朝鮮半島からのゲリラ部隊が潜入したことにより日本が戦争状態に突入するという筋書きを通し、日本の危機管理の欠陥を提示するセンセーショナルな作品。

 無名の監督と際物臭い雰囲気でさほど期待は持てなかったが、意外とマトモな出来だったのでホッとした。長大な原作を要領よくまとめ、演出テンポも妥当で、鼻白むイデオロギーの押しつけもなく、最後まで退屈することなく観ることが出来る。

 ただし、いかんせん予算不足だ。軍用ヘリのチャーターは無理だとしてもCG合成ぐらい使って欲しいし、議会や官邸でのシークエンスも人員が少なすぎる。原作ではイージス艦と工作船との交戦やP3C哨戒機と敵潜水艦の駆け引きまで描かれていたことを思うと物足りない。

 あと、石侍露堂は職人監督としてそれなりの腕を持っていると思うが、映画ならではのケレン味やキャラクター造形に関してはまだまだである。この点、原田眞人や押井守あたりの手練れが監督していたらどうだろうと思わずにはいられない(「独立愚連隊」みたいな型破りの面子を登場させてもよかった)。

 テーマの重大性に関しては公開当時からすでに多くの評論家から指摘されており、古谷一行扮する首相の“日本はいつからケンカもできない国に成り下がってしまったのか”というセリフがすべてを物語っている。終盤の、アッという間に軍事的緊張が東アジア全体を覆ってしまうくだりを観ると、国家的危機管理の重要さを痛感せずにはいられない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「カラフル」

2010-09-04 06:40:38 | 映画の感想(か行)
 原恵一監督の新作ということで期待したのだが、イマイチ煮え切らない出来だ。上映時間が長いわりに大事なところが描写されておらず、しかもそれをカバーするかのような説明的セリフに頼りっ放しである点が気に入らない。原作は森絵都の同名小説であるが、どうも脚色が上手くいっていないようだ。

 生前に重い罪を犯して輪廻できない魂の“ぼく”に天使のプラプラが話しかてくる。自分が何の罪を犯したかを思い出せば、もう一度現世に戻れるらしい。そこで“ぼく”は自殺を図った14歳の小林真の身体に数ヶ月間“ホームステイ”することになる。プラプラによると、そこで“修行”して生前のことを何か掴めば、道は開けるという。

 まず不満なのは、真が自殺しようとした動機が示されていないことだ。父親が頼りない、母親が浮気している、そして想いを寄せていたガールフレンドは援助交際している・・・・といった逆境が紹介されるが、ハッキリ言ってその程度で自殺するものなのだろうか。

 どうしても“それらが自殺の原因なのだ!”と決めつけたいのならば、背景をもっと描き込むべきだ。たとえば両親に対する鬱屈した心情を持っていたとか、好きな女の子に心酔しきっていたとか、いろいろと考えられるだろう。唯一納得出来そうだったのが“主人公はイジメに遭っていたらしい”というモチーフだが、ラスト近くにチラッと触れる程度にしか紹介されておらず、説得力はない。

 タイトルの意味は“人はひとつの色ではなく、いく通りもの色を持つ存在で良い”というテーマを現しているものだが、私なんか“そんなことが主題になり得るものなのか”と思ってしまう。日々能動的に生きていれば、人間の心は多様性を持っていることに誰でも思い当たるものだ。

 大事なのは“たくさんの色を持っているから、それで良い”ということではなく“たくさんある色の中から、どれを表に出すべきか”である。それを会得していくことが成長というものだ。内面がカラフルであることを“発見”しただけで満足してもらっては困る。しかも、それをさも重要であるかのように多量のセリフで粉飾するに及んでは、観ているこちらも盛り下がるばかりだ。

 しかし、本作には素晴らしい部分もある。それは、友人が出来ないと思い込んでいた主人公が、早乙女くんというクラスメートと仲良くなる場面だ。この早乙女くんの性格設定が最高で、とても優しく人当たりが良い。善良さを絵に描いたようなキャラクターである。真は彼と知り合うことにより、物事を前向きに考えるようになる。友達がたった一人出来るだけでも、人間はこうも変わるのだ。

 二人が廃線になった電車の路線を訪ねて歩いたり、安い靴屋に入ったり、夕日に照らされたコンビニの前で買ったばかりの菓子類をパク付くシーンなど、別にどうというシークエンスでもないのに観ていると胸が熱くなる。そして真が早乙女くんが志望する高校に自分も行きたいと家族に訴えるシーンは、涙なくしては観られない。

 これに比べれば、ハイライトであるはずの“主人公の生前の罪が判明するくだり”なんかどうでもいい。そしてプラプラの正体が分かる場面も蛇足でしかない。そんなオカルティックな仕掛けは、主人公の内面的変化を追ったリアルな展開の前では色あせてしまう。

 原監督らしい丁寧な絵作りは印象的で、声の出演も上手い。私のような手練れの映画ファンならば作劇面での欠点が目に付いてしまうが、十代の観客には観賞後得るものも多いだろう。なお、この原作は前に中原俊監督により実写映画化されている(99年)。出来ればそちらの方も見てみたいものだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする