元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」

2018-10-13 06:27:56 | 映画の感想(さ行)

 とても感銘を受けた。このような設定によくある“頑張れば何とかなるよ!”といったポジティヴ過ぎる方法論は完全に封印され、実に苦々しい達観(ある意味では正論)を全面的に展開させるという、作者のその覚悟が観る側にストレートに迫ってくる。少しでもコミュニケーションに苦労している多くの者にとっては、必見の映画だと言えよう。

 高校に入学したばかりの志乃は、上手く言葉を話せない。初日の自己紹介の時点で躓き、周囲から笑われて早くも完全に孤立してしまう。ある日、志乃は校舎裏で同じクラスの加代と言葉を交わす機会を得る。加代は音楽が大好きでギターも弾くのだが、歌が致命的に下手である。そこで彼女は一緒に過ごすようになった志乃に、バンドを組もうと提案する。志乃は会話は苦手だが、歌声はスムーズに出る。

 2人は秋の文化祭の出場を目指し。夏休みの間鍛練を積むが、やがて、志乃をからかった同級生の男子・菊地が強引にバンドに加入しようとする。彼が死ぬほど嫌いな志乃は動揺し、文化祭のライヴ出演も怪しくなってくる。押見修造の同名漫画の映画化だ。

 前半、加代が志乃にミュージシャン志望であることを明かすが、対して志乃は“一番の願いは普通の高校生活を送ること”だと答える。この認識の違いが、後半の筋書きの大きな伏線になる。

 志乃と加代が楽曲の練習をしながら仲良くなっていく様子は、甘酸っぱい描写が全面的に展開して普遍的な青春ドラマのルーティンを追っている。このまま文化祭でのライヴをクライマックスに設定しても何ら違和感は無く、そこそこ感動的な話に仕上がるはずだ。しかし、ここに菊地という異質なキャラクターを持ってくることによって、ドラマは一気に深さを増す。

 菊地は中学時代にイジメに遭い、心機一転して“高校デビュー”しようとするが、全然上手くいかない。志乃と加代の菊地に対する態度の違いは、そのまま人生観および世界観の相違に着地する。そのギャップは、いくら当事者同士が膝を突き合わせて話し合っても絶対に埋められない。菊地は志乃に謝罪してバンドに復帰することを嘆願するが、彼女が抱くのは嫌悪感だけだ。

 志乃が望む“普通の高校生活”には、いったい何が必要だったのか。それが明らかになる文化祭のシークエンスとそれに続くエピローグの扱いは、身を切られるほどに厳しい。そして、同時に共感してしまう。

 これが長編商業映画デビューになる湯浅弘章の演出は手堅く、まるでベテラン監督のような仕事ぶりを見せる。舞台を海沿いの町(静岡県沼津市)に設定し、時代背景を90年代前半に置いた足立紳の脚本も光る。主役の3人に扮した南沙良と蒔田彩珠、萩原利久の演技は大したものだ。特に志乃役の南は目を見張る熱演で、観る者を引き込む。本年度の新人賞の有力候補である。脇のキャストでは、志乃と加代を見守る公園管理人を演じた渡辺哲が儲け役だ。
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「太陽と月に背いて」

2018-10-12 06:24:00 | 映画の感想(た行)
 (原題:Total Eclipse )95年イギリス作品。19世紀のフランスを代表する天才詩人アルチュール・ランボーの新人時代を、その“恋人”のポール・ヴェルレーヌとの関係を通して描く。監督は「オリヴィエ・オリヴィエ」(92年)や「秘密の花園」(93年)などのポーランドの女流アニエシカ・ホラント。

 公開当時に私は本作をキャパ80席程度のミニシアターで観たのだが、朝一回目から超満員であった。それも9割以上が女性客で、年齢層も幅広い。もちろんこれはランボー役のレオナルド・ディカプリオが目当てで、しかも当時の若手アイドルスターが同性愛者を演じるという話題性の高さ所以である。ただし、客の多さと映画の質とは一致しないのも常識なのだ。



 感想はひとこと。“別にどうということのない凡庸な映画”であった。詩人に限らず名を成したアーティストってのは、程度の差こそあれアブノーマルな面があることが少なくないが、この映画は余人の考えの及ばぬ芸術家の生態を表面的になぞったに過ぎない。

 なぜ主人公たちは封建的な時代にあって同性愛に走ったのか。それが彼らの作り出す先鋭的な詩の世界とどう関わっているのか。そんな大事な部分は描かれず、切羽詰まった感情の流れも見られない(だいたい詩人の話なのに、肝心の詩そのものは紹介されていないのだから呆れる)。ここは彼らの詩の世界と映像をシンクロさせて畳み掛ける演出で見せきるべきだった。

 その頃は美少年タイプだったディカプリオがオジサンと懇ろになるシーンにキャーキャー言う女性観客のメンタリティは、男である私には到底理解できない(笑)。ヴェルレーヌ役のデイヴィッド・シューリスは熱演だが、彼の精神的バックグラウンドに映画が言及していないため上滑りするばかり。ヴェルレーヌの妻役のロマーヌ・ボーランジェなんか完全なミス・キャストで、これじゃ誰がやっても同じだ。

 そもそも、フランスが主な舞台なのに皆が英語しゃべっていること自体がヘンだ。まあ、製作元が英国なので仕方が無いとも言えるのだが、ただ主人公が文学者なだけに、これは致命的な欠点だと思う。ヨルゴス・アルヴァニティスのカメラによる映像と、ヤン・A・P・カチュマレクによる音楽とカメラワークは何とか及第点に達している。
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「きみの鳥はうたえる」

2018-10-08 06:47:27 | 映画の感想(か行)

 本作で一番興味深いキャラクターは、柄本佑演じる“僕”の、バイト先での年上の同僚である森口だ。いわゆる“ケツの穴の小さい男”で、甲斐性も無いくせにヘンな正義感だけは旺盛。底の浅い“正論(らしきもの)”を堂々と披露するかと思えば、辛く当たられたことを根に持って狼藉に及ぶ。反面、依頼心が強くて上役には阿諛追従する。程度の差こそあれ、こういう下衆な性分を持ち合わせていると“自覚”している者(私も含む ^^;)にとっては、観ていて心に苦いものが込み上げてくる。演じる足立智充のパフォーマンスも万全だ。

 これに比べると、主人公3人の造型はあまり印象に残らない。ラストを除けば、捉えどころの無いフワフワとした関係性が漫然と提示されているだけだ。もっとも、これが当世風の若者気質なのかもしれないが、だとしてもあまり面白味のある展開とは思えない。

 函館市の書店でバイトとして働く“僕”は、小さなアパートで失業中の静雄と共同生活を送っている。ある日、ふとしたきっかけで“僕”は同僚の佐知子と懇ろになり、そのまま彼女は彼の部屋に居着いてしまう。3人は夏の間、夜ごと一緒に遊び回るが、静雄と佐知子が“僕”を残してキャンプに出掛けたことから、彼らの緩い関係は変化し始める。

 佐藤泰志の同名小説の映画化だが、過去の佐藤による小説の映画化作品である「海炭市叙景」「そこのみにて光輝く」「オーバー・フェンス」の3本に比べれば、本作は質的に落ちる。これは監督の力量によるものが大きいのかもしれない。

 三宅唱の演出は淡々としているがメリハリが無い。主人公3人の寄る辺ない日常が映し出されるだけで、展開のリズムが始終同じなので、観ていて眠気を覚えてしまった。

 それでも“僕”役の柄本佑と、静雄に扮する染谷将太は何とか持ち味を出していたと思う。残念なのは佐知子を演じる石橋静河で、有り体に言えば今のところ彼女は“大根”だ。母親(原田美枝子)の若い頃にはとても及ばない。だが、クラブやカラオケボックスの場面ではいくらか存在感が出てくる。このあたりは父親(石橋凌)の才能を受け継いでいるのかもしれない。

 足立以外の脇のキャストでは、渡辺真起子と萩原聖人が良かった。あと特筆したいのがHi’Specによる音楽で、洗練されたサウンドは耳に残る。
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「ヤンクス」

2018-10-07 06:50:02 | 映画の感想(や行)
 (原題:YANKS )80年作品。肌触りの良い映画だ。戦時中を舞台にして、いわゆる反戦テイストも盛り込まれているのだが、描写自体は静かである。声高な展開を望む向きには受け容れられないだろうが、これはこれで評価出来よう。

 連合国側が攻勢を強めた第二次大戦末期、ヨーロッパ戦線にも多数の米軍兵士が送り込まれた。イギリス北部のヨークシャー州ステーリーブリッジの町にも、他の町同様に米軍が進駐していた。彼らはもちろん“ヨーロッパの解放”という名目でやって来ているのだが、一般の市民は彼らをヤンクス(アメ公)と呼び、決して諸手を挙げての歓迎はしていない。それでも、米兵と現地の女性との間の色恋沙汰は存在した。



 アリゾナ出身の炊事兵マットは、雑貨屋の娘ジーンと知り合い恋に落ちる。彼女も戦地に赴いている婚約者がいるのだが、それでも身近に好いてくれる男がいれば気にせずにはいられない。夫を戦場に送り出した主婦ヘレンは、妻子を残して赴任している米将校ジョンと懇ろになる。マットの同僚ダニーとバス車掌のモリーとの仲も、日増しに深くなっているようだ。しかしやがて戦争が終わると、彼らは辛い現実に直面し、米兵も町を去ることになる。後に「炎のランナー」(81年)のシナリオを手掛けるコリン・ウェランドの原案によるドラマだ。

 アメリカとイギリス、それぞれの国民性と、前線にいる者と銃後の守りにつく者達との格差の扱いが興味深い。ステーリーブリッジの住民が戦争で辛酸を嘗めるのは、決して米兵のせいではない。それでも親族を失った者は、米軍に八つ当たりする。その有様は観ていて辛い。

 戦闘シーンがあるわけではないが、戦争が一般国民の生活に入り込む不条理を過不足無く示しているのはポイントが高い。マットとジーンとの関係は良く描けており、特にラストの扱いは痛切だ。

 ジョン・シュレシンジャーの演出は丁寧で、余計なケレン味を抑えて淡々とストーリーを追っている。マット役のリチャード・ギアとジーンに扮するリサ・アイクホーンは、実に絵になる顔合わせだ。ヴァネッサ・レッドグレイヴやウィリアム・ディヴェイン、レイチェル・ロバーツといった面々もいい仕事をしている。そして特筆すべきはディック・ブッシュのカメラによる英国の風景。深い色合いで、とても美しい。味わいのある佳作である。
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「ザ・プレデター」

2018-10-06 06:30:55 | 映画の感想(さ行)

 (原題:THE PREDATOR)かなり雑な作りだ。レベルとしてはローランド・エメリッヒやマイケル・ベイの諸作と同程度の大味な内容。しかも、あまり予算が掛けられていないので、観た印象は実にショボい。劇場公開する必要は無く、ビデオリリースで十分とも思える出来だ。

 元特殊部隊員の傭兵クインがメキシコのジャングルで“仕事”に勤しんでいると、宇宙船の墜落現場に遭遇してしまう。中から現れたのは、過去何回か地球にやってきて狼藉をはたらいたプレデターだった。密かに宇宙船を追尾していた政府組織によってプレデターは連れ去られてしまうが、クインはその前に“遺留品”を拾ってメリーランド州の自宅に送りつける。

 家で父の帰りを待っていた天才的な頭脳を持つ息子のローリーは、いきなり送られてきた“遺留品”を開梱。装置を起動させると、シグナルが宇宙に発信されてしまう。すると、件のプレデターを追っているパワーアップした究極のプレデターまでもが地球に来襲する結果になる。政府に拘束されたクインは、そこで知り合った“はぐれ者軍団”と脱走を図り、女性生物学者のケイシーと協力してプレデターを追う。

 冒頭の、宇宙船が不時着するシーンの安っぽさを見せつけられた時点で、早々に鑑賞意欲が減退した。以下、全編に渡ってカネの掛かった部分は見当たらず、雰囲気はまるでテレビドラマだ。

 意匠の安普請ぶりと同様、筋書きもチープである。グレードアップ版のプレデターが地球に来た目的(らしきもの)は提示されるが、それをどのようにして達成するのか不明。そもそも、最初に現れたプレデターは人類に対して何をしようとしていたのか分からない。

 ローリーは誰にも習ったことが無いのに、宇宙船に出入りする方法を知っているばかりか、バリアの張り方も会得している(笑)。ケイシーは学者のはずだが、銃火器の使い方に長けており、プレデターと同じ速度で移動出来て、格闘のスキルもある(爆)。プレデターはわざわざ翻訳機を使い、人間の言葉を発して凄味を低減させてくれる(呆)。

 キャラクター設定も乱雑で、誰一人として共感出来る登場人物がいない。だいたい、子供の目の前で人殺しのシーンを平気で見せる父親などノーサンキューである。シェーン・ブラックの演出はいい加減で、シークエンスをスッ飛ばしてストーリーを追えなくなる箇所が散見される。かと思えば、残虐シーンだけは意味も無く大盛りサービスだ。

 主演のボイド・ホルブルックをはじめ、トレバンテ・ローズ、オリヴィア・マンといったキャストも魅力無し。続編が出来そうな幕切れだが、製作されてもたぶん観ない。
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「クリフハンガー」

2018-10-05 06:16:33 | 映画の感想(か行)
 (原題:CLIFFHANGER )93年作品。冒頭の、登場人物の女性が絶壁の間にかけられたケーブルに宙づりになった挙げ句、力尽きて谷底へ落ちていくシーンが凄い。絶壁に取り付けられた垂直下降式のエレベーター・カメラの効果も相まって、文字通り“真下に落ちる姿”を観客の視線になりかわって至近距離で見せていく。

 しかし、全編を観終わってこれ以上の見せ場に遭遇することは全然なく、それどころか眠気さえ催してしまった。それは、カネをかけた割りにはディテールのいい加減さが目立つからだ。



 ベテランのクライマーであるゲイブは、ロッキー山脈でレスキュー隊の仕事に就いていたが、友人の恋人の救出に失敗し、その自責の念から山を下りる。8か月後、レスキュー隊に遭難信号が入る。ゲイブは現場に復帰し、同僚や元恋人のジェシーと共に山に入るが、この信号はニセモノだった。クエイルンを首領とする犯罪組織が財務省造幣局の輸送機を襲ったが、機は不時着。大金の入ったトランクも山中に消えたため、クエイルンはレスキュー隊をおびき出してトランクを探すよう脅迫しようとしていたのだ。ゲイブ達は厳寒の山岳地帯で一味に戦いを挑む。

 主演はシルヴェスター・スタローンだが、いくら彼でも冬山をTシャツ一枚で動き回れるはずがない。大規模な雪崩でもザイル一本でひょいと横に跳べば避けてしまう不思議。シビアな場面になると唐突にロケ撮影からスタジオのセットになってしまったり、不必要な講釈を垂れてわざとピンチになる悪役がいたり、後半はどうやって谷底から主人公が生還できたのか説明しようともしない。

 斯様に話は行きあたりばったりに展開する。登場人物の背景や内面描写がほとんどないのは、「ダイ・ハード2」のレニー・ハーリン監督だから当然か。

 しかし最大の敗因は予告編だろう。その年の夏頃から流れていたこの映画の予告編は、それはそれは良くできたシロモノであった。モーツァルトの“レクイエム”をバックに、ハデな場面だけを次々と繋いでいく編集の切れ味は、絶対観たいと思わせる魅力にあふれていた。しかも夏場は「ジュラシック・パーク」の大当たりで、この予告編を観た人数はかなりのものだったろう。

 しかし結局本編は、予告編で観た場面以上のものがなく、ドラマにも面白味がないとくれば、落胆するのも当然ではないか。要するに、予告編だけ観ればそれで十分の映画だったのである。トレバー・ジョーンズの音楽は「ラスト・オブ・モヒカン」の2次使用でシラけてしまったし、敵役のジョン・リスゴーも意外と精彩が無い。
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「判決、ふたつの希望」

2018-10-01 06:34:55 | 映画の感想(は行)

 (原題:THE INSULT)観ていて引き込まれる。レバノンの複雑な民族問題や政治問題を背景にしていながら、エンタテインメント性を前面に出した良質の法廷劇に仕上がっている。緻密なプロットの積み上げと粘り強い演出により、幕切れのカタルシスも大きい。まさしくこれはプロの仕事である。

 ベイルートで自動車修理工場を営むキリスト教徒のレバノン人トニーは、住んでいるアパートのベランダで無造作に水を蒔いたため、下で住宅補修の作業に当たっていたパレスチナ難民のヤーセル達に頭から水を掛けてしまう。ヤーセルのキツい口調でのクレームに怒ったトニーは、工事済の水道管を破壊。その場は工事会社の社長の取りなしで何とか治まるが、後日トニーの元に謝りに行ったヤーセルに、トニーは侮辱的な言葉を浴びせ、ヤーセルは思わず相手を殴ってしまう。

 すぐさま警察沙汰になり、やがてこの件はに法廷へと持ち込まれるが、マスコミは“キリスト教徒VSパレスチナ難民”というセンセーショナルな構図で報道したため、やがて事態は国全土を巻き込む騒乱へと発展していく。

 オッサン同士の些細なケンカが、周囲の者を巻き込んで雪だるま式に大きくなり、ついには本人達を置き去りにして深刻な事態に陥る様子を、畳み掛けるような筆致で綴る監督ジアド・ドゥエイリの力量に瞠目させられる。

 ドゥエイリ自身とジョエル・トゥーマによる脚本がまた見事だ。筋書きが一直線ではなく、主人公2人の家族とその生い立ち、さらには双方の弁護士の思いがけない立場の違いなど、ストーリーラインが複線化されて、それがまた大きな一つのうねりとなって怒濤のラストに突入していく様子は、まさにスペクタクルである。

 それにしても、トニーの父親達が嘗めた辛酸の数々は、この地域が内包する深刻な問題を浮き彫りにして考えさせられる。しかも、その“事件”の真相はいまだ分かっていないのだ。彼らが真に平和な生活を送れる日は、果たして来るのだろうか。

 主役のアデル・カラムとカメル・エル=バシャをはじめ、カミーユ・サラメ、リタ・ハイエク、クリスティーヌ・シューイリ、ジャマン・アブー・アブードといった面々は馴染みが無いが、皆優れたパフォーマンスだ。特にエル=バシャは、第74回ヴェネツィア国際映画祭でパレスチナ人として初めて最優秀男優賞に輝いているだけあって、強い印象を残す。エリック・ヌヴーの音楽と、トマソ・フィオリッリによる撮影も申し分ない。
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