元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「メランコリック」

2019-11-11 06:28:31 | 映画の感想(ま行)
 脚本には随分と無理がある。しかし、それを補って余りある展開の面白さ、キャストの大健闘、そして作者の意識の高さにすっかり感心してしまった。本年度の邦画を代表する痛快作だ。聞けば第31回東京国際映画祭の日本映画スプラッシュ部門で監督賞を獲得しているとのことだが、それも十分うなずける。

 主人公の鍋岡和彦は有名大学を卒業していながら、一度もマトモに就職せず、実家暮らしでアルバイトを転々としていた。ある晩、彼が風呂に入る前に母親が浴槽の栓を抜いてしまい、やむなく近所の“松の湯”に出掛ける。そこで偶然高校時代の同級生である百合と再会。それが切っ掛けで、和彦は銭湯で働くことになる。だが、その銭湯は店主が閉店後に、殺人と死体処理に貸し出していた場所だった。



 うっかりその現場を目撃した和彦は、その“作業”を毎夜手伝わされるハメになる。素人が荒仕事に荷担していることを知った殺し屋の元締めであるヤクザの田中は、口封じのために和彦を消す算段を始める。ピンチに陥った和彦は、懇意にしている同僚の松本(彼もまた殺し屋)と共に、危機突破を図る。

 わずか2,3人で死体を短時間で“完全処理”できるはずがなく、警察が勘付かないのもおかしい。田中はある程度大きな組織の幹部のはずだが、仲間が顔を出すことは無い。そもそも“松の湯”の店長の東と田中との関係は“借金がある”ということしか示されていないが、どう見ても東はカタギの者とは思えない。そのあたりの説明もスルーされている。

 しかし、キャラクターの練り上げ方と意表を突くストーリー、そして全編に漂うポジティヴな空気が観る者を捉えて離さない。鍋岡家のホノボノとした雰囲気と不器用だが憎めない和彦の言動。百合は決して美人ではないが、素晴らしくチャーミング。意外に“好青年”だったりする松本と、不気味で油断出来ない田中。そして田中の情婦アンジェラは自然体だ。

 和彦と松本が“軍事訓練”する場面の可笑しさや、人を食ったような終盤の処理など、楽しませてくれるモチーフも満載。これがデビュー作になる田中征爾の演出は達者で、適度なサスペンスと良い案配のホラーテイスト、さらにはバディムービーとしてのユーモアや、青春映画らしい爽やかさをも表現し、飽きさせることは無い。

 プロデューサーを兼ねる主演の皆川暢二をはじめ、磯崎義知や吉田芽吹、羽田真、矢田政伸などの出演者は演劇畑の者達であり全然馴染みはないが、皆名前を覚えたくなるほど上質なパフォーマンスを見せる。それから、銭湯の雰囲気が良く出ていたのも評価したい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「スペシャルアクターズ」

2019-11-10 06:17:21 | 映画の感想(さ行)
 脚本の詰めが甘い。「カメラを止めるな!」(2017年)で社会現象を巻き起こした上田慎一郎監督の劇場用長編第2弾だが、彼の身上であるシナリオの精度が斯様に低い状態では、いくら演出で引っ張ろうとしても映画は盛り上がらない。プロデューサーとしては、脚本のさらなるチェックが必要であった。

 主人公の和人は売れない役者。しかも、緊張すると気絶するという“持病”を抱えており、将来の見えない日々を送っていた。ある日、彼は数年ぶりに弟の宏樹と再会する。宏樹は“スペシャル・アクターズ”という俳優事務所に属しており、そこでは映画やドラマだけでなく、演じることを使った“なんでも屋”のような業務もおこなっていた。成り行きで同事務所に入った和人は、最初はぎこちなかったが、次第に仕事に慣れてゆく。



 ある時、一人の女子高生が事務所に駆け込んでくる。彼女の姉は両親が亡くなったことにより若くして老舗旅館を継いだが、弱みにつけ込んだカルト宗教にハマってしまい、旅館を教団に明け渡そうとしているという。アクターズの面々は悪徳教団の企みを打ち破るべく、プランを練って稽古に励む。だが、好事魔多し。実戦では想定外のトラブルが次々と発生。果たして彼らは目的を達成することが出来るのか・・・・という話だ。

 ハッキリ言って、和人が事前にこの教団及び旅館のことをネット等である程度調べてしまうと、筋書き自体が成り立たなくなる。また、一時は起業していたという宏樹のことも、ネットで検索すれば状況は少しは掴めるはずだ。それを和人にさせないようにするために工夫する必要があるが、映画は完全スルーしている。

 教団の教祖は(表向きは)口がきけないという設定で、しかも極度の怖がりだ。こういう“攻めればすぐにでもボロが出そうなモチーフ”を付与するのも御都合主義の極みだろう。そもそも、教団の“教義”および“裏教義”があまりにもチープで、一般人が容易に引っ掛かるとは思えないのもマイナスだし、老舗旅館がターゲットになる理由も明確ではない。

 終盤には上田監督が満を持して考案したと思われるドンデン返しが用意されているが、そこまでの御膳立てが万全では無いのでインパクトは小さい。前作では効果的だったギャグも、今回は不発だ。主演の大澤数人をはじめ、オーディションで選んだキャストは馴染みが無いが(かろうじて知っているのは北浦愛と小川未祐ぐらい)、みんな的確には仕事をこなしている。それだけにシナリオの不出来は痛かった。上田監督には捲土重来を期待したい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岸田劉生展

2019-11-09 06:58:53 | その他
 前回のアーティクルで山口市に行ってきたことを述べたが、ちょうど山口県立美術館で岸田劉生展が開催されていたので、足を運んでみた。岸田劉生といえば重要文化財である「麗子微笑」(1921年作)は知っていたが、その生涯や他の作品についてはほとんど認識が無かった。それらを知ることが出来ただけでも、個人的には有意義なイベントだった。



 岸田は人物画だけではなく、風景画や静物画など多彩な題材を手掛け、またいろいろな分野から影響を受けていたことは興味深い。特に、これも重要文化財に指定されている風景画「道路と土手と塀」(1915年作)の存在感の強さには驚いた。それから、囲碁雑誌「棋道」の表紙も担当していたことも初めて知った。

 この美術館は山口市内の亀山公園の中にあるが、近辺の雰囲気は抜群である。接する通りの歩道は広く、敷地内は良く手入れされている。紅葉も始まっており、実に美しい。そういえば福岡市立美術館も立地は良いのだが、同市内の県立美術館も含めて、主要な美術展は福岡市を“素通り”しているような点は気になる(当然、岸田劉生展も福岡には来ない)。まあ、昨今では目ぼしい展覧会は太宰府市の国立博物館で開催されるようになったことも大きいのだろう。



 それにしても、山口市は街中でタクシーを拾うことが難しい反面(帰りは美術館からタクシー会社に電話して配車してもらった)、歩道をフルスピードで疾走している自転車なんかがほとんどいないのは有り難い。何より、自動車の交通マナーが良好だ。乱暴な運転をするドライバーが目につく隣県の福岡とは大違いである(苦笑)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山口市に行ってきた。

2019-11-08 06:30:06 | その他
 山口市に足を運ぶのは2回目だが、前回は二十数年前であり、しかも用事があったので名所旧跡などは一切見ていなかった。観光のために訪れたのはこれが初めてになる。山口県ならば下関市や萩市および北長門が観光地として有名だが、山口市は県庁所在地であるにも関わらず、観光スポットとしては地味な存在だと思う。だが、決して魅力には欠けていない。特に、市内香山町の瑠璃光寺にある国宝の五重塔は、絶対に見る価値はある。



 この塔は15世紀中頃に建てられ、五重塔としては日本で10番目に古いらしいが、その存在感は京都の醍醐寺や奈良の法隆寺のものに比べても、一歩もひけはとらない。その優美な姿はいつまでも眺めていたくなる。周囲の木々の緑と調和して、一種独特の世界観を創出しているようだ。夜間はライトアップされるとかで、その光景も素晴らしいだろうと想像させる。

 そして、瑠璃光寺の本堂も併せて無料で見学出来るのは実に良い。これが京都や奈良だと、千円以上の拝観料を取られることは必至だろう(笑)。ただし、後述する同市宮野の常栄寺もそうだが、交通の便はよろしくない。バスの本数は少なく、かといってJRの駅から歩くとかなりの時間を要する。レンタサイクル利用でも楽ではなく、駅からタクシーで行くのが一番かもしれない。



 その常栄寺には雪舟庭という日本庭園があり、これもなかなか見応えがあった。文字通り高名な画家の雪舟がデザインを担当したもので、枯山水と独特の立石の手法が際立っている。本堂に展示されていた水墨画もかなりのクォリティだ。

 他にも正宗山洞春寺や山口サビエル記念聖堂など、市内には見どころは少なくない。そして、最近の国内の観光地でよく見かける外国人客が、ここではほとんどいなかったのも印象的だった。まあ、それだけPRが足りていないという見方も出来るが、静かな風情を満喫する意味では申し分ない。なお、近郊の湯田温泉に宿泊したが、こちらはJR山口駅付近とは打って変わった賑わいだったのが面白かった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「イエスタデイ」

2019-11-04 15:43:36 | 映画の感想(あ行)
 (原題:YESTERDAY )突っ込みどころが少なからずあり、本来ならば評価しないシャシンなのだが、全編に網羅されているビートルズのナンバーと、それらが流れるタイミングの巧みさに、すっかり楽しんでしまったというのが本音だ。ダニー・ボイル監督作としても、これだけ音楽の使い方が上手くいっているのは「トレインスポッティング」(96年)以来だろう。

 イギリスの海沿いの小さな町に住むジャックは、売れないシンガーソングライター。幼馴染の中学校教師エリーがマネージャー役を買って出てライブをセッティングしてくれるが、いつも会場は閑古鳥が鳴いている。ある日、世界中が瞬間的に停電状態になる。ジャックはそのおかげで交通事故に遭い、気を失ったまま病院に担ぎ込まれるが、彼が目を覚ますとそこは“ザ・ビートルズが存在しない世界”だった。



 ジャックが試しにビートルズの曲を自作のナンバーと称して次々に披露すると、彼はたちまち世の注目を浴びる。ついにはエド・シーランが共演をオファー。メジャー・レーベルとの契約も実現する。だが、高まる名声とは裏腹に、ジャックは図らずも盗作をおこなったことを後悔し、リリーとの仲もおかしくなってくる。

 ビートルズがいなければ、エド・シーランをはじめ大多数の有名ミュージシャンが世に出ていないはずだ。だからジャックが入り込んだ世界には“ビートルズに代わる何か”が存在しなければならないが、それに関して映画は言及していない。せいぜい“ローリング・ストーンズはいるが、オアシスはいない”という一節でお茶を濁すのみ。

 劇中にはジャックと同様に“元の世界”から来た者が登場するが、彼らが何かアクションを起こすわけでもない。終盤近くのジャックの行動はヘタすれば訴訟ものだが、軽くスルーしてしまう。そもそも、風采の上がらないジャックが、エリーみたいなイケてる女子と付き合っていること自体、違和感がある(笑)。

 しかし、ビートルズの代表作が次々と演奏され、人々が驚愕と熱狂と共に受け入れる様子が映し出されると、多少の欠点など吹き飛んでしまうのだ。私はビートルズ世代ではないのだが、楽曲の良さに思わず酔いしれてしまった。たぶん、ビートルズのナンバーを全く知らない者が観ても、十分に楽しめるだろう。そしてビートルズゆかりの“あの人”の登場には、感動すら覚えてしまった。

 主演のヒメーシュ・パテルとリリー・ジェームズは好調。敵役のケイト・マッキノンも憎々しい快演だ。そしてエド・シーランが本人役で出てきて、大いに存在感を発揮しているのは嬉しくなる。同じ音楽ネタを扱った映画としては「ボヘミアン・ラプソディ」に比べれば話題になっていないが、個人的にはこちらの方が好きである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ジョーカー」

2019-11-03 06:25:18 | 映画の感想(さ行)
 (原題:JOKER )有り体に言ってしまえば、これはマーティン・スコセッシ監督の代表作「タクシードライバー」(76年)の劣化版だろう。本作の主人公も、ニューヨークの孤独なタクシー運転手同様に向う見ずな暴力行為に走るが、終盤には“支持”を得てしまう。だが、キャラクター設定と背景の描き方には、それこそ天と地ほどの違いがある。このことを“所詮アメコミの映画化だから、細かいことは言いっこなし”などと片付けてはならない。いやしくも第76回ヴェネツィア国際映画祭で大賞を獲得し、アカデミー賞も狙えるという世評は確定している以上、正面からの批評に曝されるのは当然のことだ。

 ゴッサム・シティの片隅に住むアーサー・フレックは、メンタル障害に悩みながらも、コメディアンとして世に出ることを夢見ていた。母親との2人の暮らしを大道芸人として支えているが、周囲からは冷たい反応が返ってくるのみ。さらに、無責任な同僚から手渡された護身用の銃によって仕事場でトラブルが発生し、仕事を失ってしまう。



 追い詰められたアーサーは、地下鉄内で横暴な証券マンたちを射殺したのを皮切りに、次々と犯罪行為に手を染める。そんなある日、テレビのトークショーの名物司会者マレー・フランクリンから出演の打診を受ける。アーサーはピエロメイクのキャラクター“ジョーカー”として、番組に出ることを承諾する。

 言うまでもなくジョーカーは「バットマン」シリーズの悪役であるが、映画版の「バットマン」における底の浅い世界観に呼応するかのように、この映画の造形も薄っぺらい。どうしてジョーカーが世間を揺るがすような大悪党になったのか、なぜカリスマ的な魅力を発するに至ったのか、本作は全然説明していない。アーサーの不幸な生い立ちや、彼が引き起こす突発的な犯罪だけでは、とてもカバー出来るような話ではないのだ。

 ジョーカーの存在が大きくクローズアップされるためには、それを受け入れる社会的状況を詳説する必要があるが、それがスッポリ抜けている。そもそも舞台が架空の都市であり、この状況でリアリティを感じろと言われても無理な注文だ、対して「タクシードライバー」にはベトナム戦争後の不穏な世相や、ニューヨークの混沌とした雰囲気が、主人公の言動にドラマ的な正当性を与えていた。

 奇しくもマレー役として出演しているのは「タクシードライバー」の主役だったロバート・デ・ニーロである。テレビ番組におけるアーサーとマレーの対話を通して、現実と非現実の乖離を焙り出して欲しかったが、両者の会話は突如打ち切られてしまう。「バットマン」ゆかりのウェイン家との関係も示されるが、まるで取って付けたようだ。

 トッド・フィリップスの演出は、可もなく不可も無し。主演のホアキン・フェニックスのパフォーマンスは大したものだが、今までの彼の業績を見れば、取り立てて高評価できるような演技でもない。他のキャストにも目立った面子は見当たらない。正直、個人的には観る価値を見い出せない映画だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「真実」

2019-11-02 06:29:03 | 映画の感想(さ行)
 (原題:LA VERITE )日本人演出家が撮った外国映画としては、目立った破綻も無く本場のフランス映画としても通用する“体裁”は整えていると思う。しかし、ストーリーが面白くない。さらにはこれが淡々と抑えたタッチで進行するため、観ている間は眠気との戦いに終始した。同じ話を、日本を舞台に国内キャストで作った方が、まだ興味は持てたかもしれない。

 国民的大女優ファビエンヌ・ダンジュヴィルが、自伝本「真実」を出版することになった。ニューヨークで脚本家として活動する娘のリュミールとその夫と娘、ファビエンヌのパートナーと元夫、長年彼女に寄り添った秘書らが祝いのためパリ郊外のファビエンヌの家に集まる。彼らの興味は自伝の中身だったが、そこには周囲の人間が期待するものとは違う内容であり、波紋が広がる。そんな穏やかならぬ空気の中、ファビエンヌは新作の撮影に入る。



 自伝には別に驚くようなことは書かれていない。有り体に言えば“何が書かれていないのか”が問題なのだが、それはセンセーショナリズムを喚起するようなことではない。強いて挙げれば同じく女優であり、若くして世を去った妹サラに関して言及されていないことが問題になってくるが、そこからドラマを大きく盛り上げてくる仕掛けは見当たらない。全ては起伏が無く平坦に綴られるのみだ。

 ここで主演のカトリーヌ・ドヌーヴの姉であり、早世したフランソワーズ・ドルレアックの存在を彷彿とさせるような展開に持っていけば映画の求心力は高まったと思うのだが、作者にはそこまで踏み込んでいない。ファビエンヌが主役を演じるSF仕立ての新作の内容が、この自伝と大きくクロスするようで全然していないのも不満だ。

 監督の是枝裕和としては、何やらドヌーヴと娘役のジュリエット・ビノシュと仕事をしただけで満足しているような様子で、いつもの登場人物に対する深い内面描写が見られない。娘婿役のイーサン・ホークは手持ちぶさたの感があり、マノン・クラヴェルやリュディヴィーヌ・サニエといった脇の面子も機能しているようには思えない。

 もしもこれが樹木希林が主演で、娘の内田也哉子との関係性を匂わせるような作劇ならば面白くなったかもしれないが、残念ながら樹木希林はもういないのだ。ただ、エリック・ゴーティエのカメラによる映像はキレイだし、アレクセイ・アイギの音楽も悪くない。その点では存在価値はあるだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「雪の断章 情熱」

2019-11-01 06:33:20 | 映画の感想(や行)
 85年作品。ストーリー展開はそれほど特筆できるものは無いが、大胆極まりないカメラワークと優れた人物描写により、見応えのある作品に仕上がった。相米慎二監督としても、キャリア中期の代表作と言っても良い。

 迷子になった7歳の孤児・伊織は、親切な青年・広瀬雄一に救われる。やがて伊織は北海道の那波家に引き取られたが、そこで虐待を受けていたことが発覚し、雄一は彼女を保護して自分で育てる決心をする。17歳になった伊織の住む雄一のアパートに、那波家の長女である裕子が引っ越して来る。



 アパートの住人たちによって開かれた裕子の歓迎会の後、彼女は自室で謎の死を遂げていた。何者かが毒を盛ったらしい。伊織は重要容疑者として警察にマークされ、家政婦からは“雄一は伊織がひとりの女として成長する時を待っている”と告げられ、大きなショックを受ける。佐々木丸美原作の「雪の断章」の映画化だ。

 相米監督といえばワンシーンワンカット技法がトレードマークだったが、その手法は83年製作の「ションベン・ライダー」の冒頭“360度長回し”が最高傑作だと思っていた。しかし、本作の序盤はそれを超えている。何と“18シーンワンカット”だ。しかも、オールセットの風景で幻想的な雰囲気を横溢させている。改めてこの頃の相米の才気を感じずにはいられない。

 さらにはヒロインの心境を鮮やかに表現する場面がいくつもあり、そのたびに感心した。たとえば裕子と再会して相手の容赦ない物言いに傷つきながらも、彼女の蠱惑的なインド舞踊に魅せられていくシークエンスは目を奪われる。伊織が服のまま川に入って泳ぐシーンを、ロングショットで捉えたパートも強烈だ。また、伊織が電話でのやり取りで雄一に向かって“偽善者!”と叫ぶ場面は、他の相米作品とも共通する人間不信のモチーフが見て取れる。

 主演は斉藤由貴で、演技の幅の狭さばかりが感じられる昨今の彼女とは大違いの、瑞々しくもエッジの効いたパフォーマンスを披露していて圧巻だ。相手役の榎木孝明や岡本舞、寺田農、世良公則といった脇の面子も良い仕事をしている。五十畑幸勇による撮影も確かなものだ。なお、主題歌「情熱」は斉藤の歌唱によるが、いかにもアイドルっぽいその歌い方に“(尖がった外観にもかかわらず)これは一応アイドル映画だったのだ”ということに初めて思い当たる。80年代の邦画には、こういう意表を突いた(?)コンセプトの映画が少なくなかったようだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする