西方院 大阪府南河内郡太子町太1663 寺伝によれば、創立は(622年)、開基は三尼公(善信尼、禅蔵尼、恵善尼)。本尊は阿弥陀如来と十一面観音菩薩。
本堂
内陣
十一面観世音菩薩
鐘樓堂
西方院 三尼公(恵善、善信、禅蔵)御廟所) (西暦622年)に聖徳太子御薨去のあと、
月益(蘇我馬子の娘)・日益(小野妹子の娘)・玉照(物部守屋の娘)三姫は剃髪され、
その名も善信・禅蔵・恵善と称されて、太子御廟の前に一宇を建立して、太子の御遺髪を納め、太子御作の阿弥陀如来尊像を安置して、ひたすら弥陀の西方浄土を欣求されたとつたえられております
馬子塚 叡福寺前の西方院から左へ200m 馬子の塚 この層塔は江戸時代の「河内名所図絵のように記されている。 馬子大臣塚 西方院壱町計東の方 民家の前にあり
太子の墓 推古天皇の摂政として、十七条憲法や冠位十二階の制定、遣隋使の派遣などの進んだ政治制度や文化を取り入れ、政治改革を図った聖徳太子は、日本書紀によると推古29年(621)に亡くなり、磯長の地に葬られた。太子墓は径50メートル、高さ10メートルほどの円墳で、内部は精巧な切石を用いた横穴式石室。太子と母君の穴穂部間人皇后、妃の膳郎女の3人の棺が納められていると伝えられることから、三骨一廟と呼ばれている 空海、親鸞、日蓮など新仏教の開祖となった僧たちもこの寺に参篭したことが知られている。
中央の石棺に穴穂部間人皇女(母)が葬られ、東と西の乾漆棺(麻布を漆で貼り固めた棺)には東に聖徳太子、西に膳部菩岐々美郎女(妻)が葬られている 太子49歳
廟窟偈碑・びょうくつげひ 御廟窟内の西にある 江戸中 聖徳太子の遺書として流布された墓の前にある御廟窟内の西に、皇太子自ら彫刻した霊碑の二十句を埋納したと云われている石碑
大慈大悲本誓願 愍念衆生如一子 是故方便従西方 誕生片州興正法
我身救世観世音 定恵契女大勢至 生育我身大慈母 西方教主弥陀尊
真如真実本一体 一体現三同一身 片域化縁亦巳悉 還帰西方我浄土
為度末世諸衆生 父母所生血肉身 遺留勝地此廟窟 三骨一廟三尊位
過去七仏法輪所 大乗相応功徳地 一度参詣離悪趣 決定往生極楽界