福島第一原子力発電所の事故は、事故発生時の政府責任者である前・菅首相をして、原子力行政から尻尾を巻いて逃走させ、その国がどういう国であるかを決める国家の戦略物資であるエネルギー生産を、「脱原子力依存」という、国の責任者として最も安易、且つ、最も無思考の政策へと転換させることを、発想させるに至りました。
残念ながらこの発想には追随者がいて、ニュース等で私の知る限りでは、仙台市長の奥山恵美子氏、NHKニュースウオッチ9の男性キャスター・大越健介氏、連合会長・古賀信明氏等があります。
更に残念なことに、元首相の小泉純一郎氏も「大方の国民は、原発の依存度を下げて行くことに、関心と共感を持っている。政治が指導性をもってやれば、できる」(10月7日、産経新聞)と、上記の人々と若干のニュアンスに違いがあるものの、述べていらっしゃいます。
指導者たる者は、100年から少なくとも500年のスパンで、現在を語られる必要があります。
核エネルギーの開発と工業化には歴史があります。
それを最初に成功させたのはアメリカです。
日本はそれを中途で放棄してしまいました。
放棄させたのは国力の差だと言ってしまえば、それまでですが、指導者の歴史観(現在は未来に刻まれる歴史の序章であるという認識と責任の取り方)の相違でもあるように思えます。
日本が核エネルギーの開発に成功していれば、かくも無残な敗戦は無かったことでしょう。
そういう意味で、北朝鮮が核を放棄することはありません。
現在の日本の核エネルギーの工業技術はアメリカが譲ってくれたものです。
この技術に、地震と津波の国である日本の防災と除染の技術を付け加えて、安全な核エネルギーを国として開発し、世界に貢献するというスタンスが必要です。
加えて、自然エネルギーの利用も進めて行くのですが、核エネルギーの工業技術は絶対に失ってはなりません。これを放棄しようとする指導者は、先の大戦において過去の指導者たちが誤ったのと同じ轍を踏むことになります。
スクラップ、アンド、ビルドの経済効果の観点から見ても、自然エネルギー施設より核エネルギー施設建設の方が、その波及効果は高いものがあります。
今後、先進国では宇宙開発のようなスケールの大きいシステム建設に向かい、地上の開発も自然エネルギーの利用を含めて、現在の日本において行われているより、遥かに大規模、且つ、スマートな都市とシステム開発へと向かいます。
これは人間の文明が進歩する宿命のようなもので、経済学の用語を使用すれば、ヴェーム・バベルクの場合、「資本の迂回生産」が長い社会と言い、マルクスの場合、「資本の有機的構成」の高い社会と言います。
この時、核エネルギー施設は、セキュリティの観点から分散立地へと移行します。
先般、元総務相の増田寛也氏が、「日本創成会議」の名で「アジア大洋州の相互電力網の構築」を政策として提言されましたが、これとて日本が核エネルギーの工業技術を確保していてこそ、各国間のエネルギー安保として政策提言の意味を持つものの、日本が核エネルギーの工業技術を放棄してしまえば、将(まさ)にそれは、絵に描いた餅に終わります。
人間が歴史の中で得た技術を、私達はそれを発展させこそすれ、放棄してはなりません。
了
注 : 上記は私のホームページ・考凜館 の主張から転載致しました。
秋空下のススキ