見逃していた韓国映画「大胆な家族」(2005)のDVD、TSUTAYAにあったのを先月借りて観ましたが、感想がビミョーなのですぐには書けませんでした。
原題は<カンクンカジョク(간큰가족)>=キモがでかい家族です。
内容は、およそ次のようなものです。
末期の肝臓癌と告げられた父親は、北朝鮮出身。彼の宿願は祖国が統一し、北朝鮮に置いてきた妻と娘に会うこと。国が分断されたため別れ別れになり、韓国で別に所帯を持って数十年なのだ。
危篤状態に陥った老父のため、息子をはじめ家族は統一されたという嘘のニュース番組を作り父親に見せる。父親には、実は50億ウォンもの遺産があるが、朝鮮半島が統一された時のみ家族に遺産を相続し、統一されなかった場合は統一部に全額寄付してしまうという条件付。これが家族たちの<芝居>の背後にある。しかしこれを見た父親はうれしさのあまり病状が回復に向かう。さらに、偽の統一の記事を見た父親は、「統一チームの卓球の試合が見たい」等々いろいろ言い出して、家族のウソはどんどん大がかりなものになっていってしまう・・・。
・・・・ということで、「南北の分断をコメディタッチで描いた映画」なんですね。
この映画は、<「グッバイ、レーニン」の韓国版>ともいわれているようです。私ヌルボもドイツ映画「グッバイ、レーニン」は印象に残っています。
ただ、「グッバイ、レーニン」の方は、東ドイツに忠誠心を持っている老母が病気で倒れていた間に東西ドイツが統一してしまった、という現実を家族が隠そうとしたという設定ですから、「大胆な家族」の逆ですね。
で、私ヌルボが首をひねったのは、「グッバイ、レーニン」の方は虚構とはいっても<映画的なリアリティ>を感じさせる質の高い名作だったのに対して、「大胆な家族」の方はなぜ作り方だけでなく作品の質においても<典型的B級映画>にとどまってしまったのか、ということです。
皆さん、どんな感想を持ったのかな?と他のサイトを見てみると、たとえば「楽しく見られるのでお薦めです」とか、「統一に対する色々な思いが登場します。重たい政治的な話ではなく、普通の韓国人の色々な統一に対する思いが交差する映画です」とか「それが現実ではありませんが統一を作り出していく過程で、だんだん一致してくるんですね。最後の方ではボロボロ泣いていました」等々。
最後の方で多くの観客を泣かせる要素は家族愛です。
では、<南北統一>については、たとえばこの映画を観た韓国の人たちはどう思ってるのでしょう? 笑いや涙のネタに過ぎないんですか?とたずねたら怒りますか? 家族たちが大騒ぎするのも、父親のためというばかりではなく、遺産がらみというのは正直といえば正直かもしれませんね。
と見ると、この映画の中で真に統一を望んでいるのは年老いた北出身のお父さんだけのように思えます。
今の韓国にとって、「<統一>は<重たい政治的な話>にはならないのですか?」との映画の監督さんにも聞いてみたいと思いました。
北朝鮮の描き方もステロタイプです。冷麺で有名な平壌の玉流館を背景にしたニセ放送とか、「パンガプスムニダ」の歌が流されるとか・・・。実際に、自身の切実な問題として北朝鮮のことを考えるのなら、こういう風には作らないと思いますが・・・。
言葉をかえれば、それだけ韓国の人々にとって<統一問題>のリアリティが薄れてしまっている、ということを表しているのではないか、と思いました。
※南でも北でも歌われている「われわれの願いは統一(ウリエソウォヌントンイル)」という歌を聞くたびに、ヌルボは「本当に皆さんがそう望むのなら誰も止めないからぜひ統一してください!」と思います。止めるとしたら南北の両政府がまずあげられるでしょうが・・・。
東西ドイツの場合、統一から何年か経って、当時をふり返る「トンネル」のような秀作映画が作られています。
もし、南北朝鮮が統一するか、北朝鮮の体制が変わるとかして、この数十年の北朝鮮の実態とそこに生きる人たちを描いた映画が作られるとしたら、それはおそらく観る者の心に突き刺さるような作品になると思います。しかしそれは、いったいいつ作られるようになるのでしょうか?
まだ作られていないそのヌルボの想像の中だけの映画を思う時、また現在の北朝鮮の現実を思う時、この韓国映画は<おかしくても笑えない>映画といわざるをえません。
原題は<カンクンカジョク(간큰가족)>=キモがでかい家族です。
内容は、およそ次のようなものです。
末期の肝臓癌と告げられた父親は、北朝鮮出身。彼の宿願は祖国が統一し、北朝鮮に置いてきた妻と娘に会うこと。国が分断されたため別れ別れになり、韓国で別に所帯を持って数十年なのだ。
危篤状態に陥った老父のため、息子をはじめ家族は統一されたという嘘のニュース番組を作り父親に見せる。父親には、実は50億ウォンもの遺産があるが、朝鮮半島が統一された時のみ家族に遺産を相続し、統一されなかった場合は統一部に全額寄付してしまうという条件付。これが家族たちの<芝居>の背後にある。しかしこれを見た父親はうれしさのあまり病状が回復に向かう。さらに、偽の統一の記事を見た父親は、「統一チームの卓球の試合が見たい」等々いろいろ言い出して、家族のウソはどんどん大がかりなものになっていってしまう・・・。
・・・・ということで、「南北の分断をコメディタッチで描いた映画」なんですね。
この映画は、<「グッバイ、レーニン」の韓国版>ともいわれているようです。私ヌルボもドイツ映画「グッバイ、レーニン」は印象に残っています。
ただ、「グッバイ、レーニン」の方は、東ドイツに忠誠心を持っている老母が病気で倒れていた間に東西ドイツが統一してしまった、という現実を家族が隠そうとしたという設定ですから、「大胆な家族」の逆ですね。
で、私ヌルボが首をひねったのは、「グッバイ、レーニン」の方は虚構とはいっても<映画的なリアリティ>を感じさせる質の高い名作だったのに対して、「大胆な家族」の方はなぜ作り方だけでなく作品の質においても<典型的B級映画>にとどまってしまったのか、ということです。
皆さん、どんな感想を持ったのかな?と他のサイトを見てみると、たとえば「楽しく見られるのでお薦めです」とか、「統一に対する色々な思いが登場します。重たい政治的な話ではなく、普通の韓国人の色々な統一に対する思いが交差する映画です」とか「それが現実ではありませんが統一を作り出していく過程で、だんだん一致してくるんですね。最後の方ではボロボロ泣いていました」等々。
最後の方で多くの観客を泣かせる要素は家族愛です。
では、<南北統一>については、たとえばこの映画を観た韓国の人たちはどう思ってるのでしょう? 笑いや涙のネタに過ぎないんですか?とたずねたら怒りますか? 家族たちが大騒ぎするのも、父親のためというばかりではなく、遺産がらみというのは正直といえば正直かもしれませんね。
と見ると、この映画の中で真に統一を望んでいるのは年老いた北出身のお父さんだけのように思えます。
今の韓国にとって、「<統一>は<重たい政治的な話>にはならないのですか?」との映画の監督さんにも聞いてみたいと思いました。
北朝鮮の描き方もステロタイプです。冷麺で有名な平壌の玉流館を背景にしたニセ放送とか、「パンガプスムニダ」の歌が流されるとか・・・。実際に、自身の切実な問題として北朝鮮のことを考えるのなら、こういう風には作らないと思いますが・・・。
言葉をかえれば、それだけ韓国の人々にとって<統一問題>のリアリティが薄れてしまっている、ということを表しているのではないか、と思いました。
※南でも北でも歌われている「われわれの願いは統一(ウリエソウォヌントンイル)」という歌を聞くたびに、ヌルボは「本当に皆さんがそう望むのなら誰も止めないからぜひ統一してください!」と思います。止めるとしたら南北の両政府がまずあげられるでしょうが・・・。
東西ドイツの場合、統一から何年か経って、当時をふり返る「トンネル」のような秀作映画が作られています。
もし、南北朝鮮が統一するか、北朝鮮の体制が変わるとかして、この数十年の北朝鮮の実態とそこに生きる人たちを描いた映画が作られるとしたら、それはおそらく観る者の心に突き刺さるような作品になると思います。しかしそれは、いったいいつ作られるようになるのでしょうか?
まだ作られていないそのヌルボの想像の中だけの映画を思う時、また現在の北朝鮮の現実を思う時、この韓国映画は<おかしくても笑えない>映画といわざるをえません。