「肉弾三勇士」といえば、かなりのお年寄りか、日本史に詳しい人ならご存知でしょう。
上海事変中の1932年2月22日、上海郊外の廟行鎮に築いた中国軍陣地の鉄条網に対して、点火した破壊筒をもって敵陣に突入爆破し、自らも爆死した工兵の、江下武二、北川丞、作江伊之助各一等兵3名のことです。(実は予定より早い爆発による事故死だったのですが・・・)
新聞等で「肉弾三勇士」(または「爆弾三勇士」)と称賛され、「肉弾三勇士」の歌が作られたり、映画化もされました。また東京・芝の青松寺には、破壊筒を抱えて突撃する三人の銅像も作られました。(下の写真)
ところが、戦後になって銅像は撤去され、三人の像も切り離され、青松寺には江下武二の像しか残ってなくて(下の写真)、それも一般には見せてもらえないようです。また北川丞伍長の銅像は故郷の長崎県佐々町の神社の境内にあるとのことです。
ところで最近、私ヌルボがソウルの戦争紀念館に行ったら、展示物中に「肉弾三勇士像」があることに気づきました。(下の写真) 今回がたしか4度目の見学ですが、韓国にも<肉弾三勇士>がいたことは今まで知りませんでした。
この<肉弾三勇士>は、1950年6月に始まる朝鮮戦争の<英雄>です。
場所は白馬高地。北朝鮮との国境近くの江原道鉄原の平野部を見下ろす高さ約400mの高地で、朝鮮戦争中もっとも激しかった激戦地として知られています。
※現在は、戦跡碑や記念館等の戦跡めぐりと、北朝鮮を臨む展望台・第二トンネル等の<安保ツアー>で観光客を集めています。
※<白馬高地>の名は、1952年10月、中国軍の攻撃で大決戦が10日間続き、砲弾30万発が炸裂する間、砲撃で草や木が消えただけでなく、岩も大きく削られて山容さえも変わってしまったのですが、そのようすがまるで白馬が倒れているように見えたことに由来しています。
やっと<肉弾三勇士>について。10月 12日その高地の最後の奪還作戦で、小隊長康承宇、少尉呉奎鳳、安永権の3人は決死隊に志願して、TNT手榴弾爆撃砲弾を身体にくくりつけて敵のトーチカに走り込み、壮烈に自爆して自軍の血路を開き、最後の勝利をもたらした、ということです。
安永権の故郷の全羅北道に彼を称える石碑があって、碑文の内容を関係サイトで見ると上述の説明の他に次のような記述がありました。
「政府では彼ら三勇士を三軍神と命名し、小学校教科書<正しい生活>に「白馬高地のはためく太極旗」という題目の文章で愛国・愛族・忠勇の鑑となった彼らの武勲を称え、民族の魂を永く喚起した。
祖国を守って散華した軍神安永権下士が全羅北道の生んだ誇るべき護国の英霊であることが遅ればせながら明らかになったことに、 あらためて驚きとともに惜しい気持ちを禁じえず、韓国の戦史に永く輝くその日の武勇談をあらためて思いつつ、かく赫赫(かくかく)たる戦功を受けて忠誠を尽くした300万道民と在郷軍人の志を集めて戦功記念碑を建て、その輝かしい武功を称えて、分断された祖国の中央、断たれた南北の道をつないで、わが代に必ずや平和統一を成就しよう」。
私ヌルボが気になったのは、まず何よりも<肉弾三勇士>という命名。戦後日本ではほとんど全否定された軍国主義日本の、国民精神鼓舞・煽動のための用語を、韓国は無批判にそのまんま用いてしまっているということ。
さらに上記の碑文にある<軍神>とか<護国>の<英霊>という言葉も同様。<赫赫(かくかく)たる>という戦時中にはけっこう使われたらしい言葉も、野坂昭如さんの本を読むまではヌルボも知りませんでした。
1945年8月15日の<光復>以前の日本を否定するところからスタートしたはずの戦後韓国が、近代的制度や機構だけでなく、国防意識の涵養等の面でも旧日本の遺産を引き継いでいるんだなあということを実感した次第であります。
韓国のサイトを調べると、<肉弾三勇士>とは別に<肉弾十勇士>というのもあったんですよ。
コチラは朝鮮戦争前の1949年。5月4日北韓軍に奪われた開城松岳山の3個高地を奪い返すため胸に爆弾を抱いて敵陣地に飛び込んで壮烈に散華した将兵たちのことだそうです。坡州(パジュ)市に忠魂塔があり、今年は60周年追悼式が開かれたようです。
☆蛇足かもしれませんが、ヌルボの感想は「すごいなー」とか「偉いなー、立派だなー」じゃなくて、「悲惨だなー・・・」、「やっぱり戦争は怖いなー・・・」です。
上海事変中の1932年2月22日、上海郊外の廟行鎮に築いた中国軍陣地の鉄条網に対して、点火した破壊筒をもって敵陣に突入爆破し、自らも爆死した工兵の、江下武二、北川丞、作江伊之助各一等兵3名のことです。(実は予定より早い爆発による事故死だったのですが・・・)
新聞等で「肉弾三勇士」(または「爆弾三勇士」)と称賛され、「肉弾三勇士」の歌が作られたり、映画化もされました。また東京・芝の青松寺には、破壊筒を抱えて突撃する三人の銅像も作られました。(下の写真)
ところが、戦後になって銅像は撤去され、三人の像も切り離され、青松寺には江下武二の像しか残ってなくて(下の写真)、それも一般には見せてもらえないようです。また北川丞伍長の銅像は故郷の長崎県佐々町の神社の境内にあるとのことです。
ところで最近、私ヌルボがソウルの戦争紀念館に行ったら、展示物中に「肉弾三勇士像」があることに気づきました。(下の写真) 今回がたしか4度目の見学ですが、韓国にも<肉弾三勇士>がいたことは今まで知りませんでした。
この<肉弾三勇士>は、1950年6月に始まる朝鮮戦争の<英雄>です。
場所は白馬高地。北朝鮮との国境近くの江原道鉄原の平野部を見下ろす高さ約400mの高地で、朝鮮戦争中もっとも激しかった激戦地として知られています。
※現在は、戦跡碑や記念館等の戦跡めぐりと、北朝鮮を臨む展望台・第二トンネル等の<安保ツアー>で観光客を集めています。
※<白馬高地>の名は、1952年10月、中国軍の攻撃で大決戦が10日間続き、砲弾30万発が炸裂する間、砲撃で草や木が消えただけでなく、岩も大きく削られて山容さえも変わってしまったのですが、そのようすがまるで白馬が倒れているように見えたことに由来しています。
やっと<肉弾三勇士>について。10月 12日その高地の最後の奪還作戦で、小隊長康承宇、少尉呉奎鳳、安永権の3人は決死隊に志願して、TNT手榴弾爆撃砲弾を身体にくくりつけて敵のトーチカに走り込み、壮烈に自爆して自軍の血路を開き、最後の勝利をもたらした、ということです。
安永権の故郷の全羅北道に彼を称える石碑があって、碑文の内容を関係サイトで見ると上述の説明の他に次のような記述がありました。
「政府では彼ら三勇士を三軍神と命名し、小学校教科書<正しい生活>に「白馬高地のはためく太極旗」という題目の文章で愛国・愛族・忠勇の鑑となった彼らの武勲を称え、民族の魂を永く喚起した。
祖国を守って散華した軍神安永権下士が全羅北道の生んだ誇るべき護国の英霊であることが遅ればせながら明らかになったことに、 あらためて驚きとともに惜しい気持ちを禁じえず、韓国の戦史に永く輝くその日の武勇談をあらためて思いつつ、かく赫赫(かくかく)たる戦功を受けて忠誠を尽くした300万道民と在郷軍人の志を集めて戦功記念碑を建て、その輝かしい武功を称えて、分断された祖国の中央、断たれた南北の道をつないで、わが代に必ずや平和統一を成就しよう」。
私ヌルボが気になったのは、まず何よりも<肉弾三勇士>という命名。戦後日本ではほとんど全否定された軍国主義日本の、国民精神鼓舞・煽動のための用語を、韓国は無批判にそのまんま用いてしまっているということ。
さらに上記の碑文にある<軍神>とか<護国>の<英霊>という言葉も同様。<赫赫(かくかく)たる>という戦時中にはけっこう使われたらしい言葉も、野坂昭如さんの本を読むまではヌルボも知りませんでした。
1945年8月15日の<光復>以前の日本を否定するところからスタートしたはずの戦後韓国が、近代的制度や機構だけでなく、国防意識の涵養等の面でも旧日本の遺産を引き継いでいるんだなあということを実感した次第であります。
韓国のサイトを調べると、<肉弾三勇士>とは別に<肉弾十勇士>というのもあったんですよ。
コチラは朝鮮戦争前の1949年。5月4日北韓軍に奪われた開城松岳山の3個高地を奪い返すため胸に爆弾を抱いて敵陣地に飛び込んで壮烈に散華した将兵たちのことだそうです。坡州(パジュ)市に忠魂塔があり、今年は60周年追悼式が開かれたようです。
☆蛇足かもしれませんが、ヌルボの感想は「すごいなー」とか「偉いなー、立派だなー」じゃなくて、「悲惨だなー・・・」、「やっぱり戦争は怖いなー・・・」です。