4月28日の記事で<イザベラ・バード「朝鮮紀行」を読む(予告編)>を書いてから2週間も経ってしまいました。
読書メモが散逸しないうちに本論に入らなければ・・・、ということで、初回はこの本の中で、近頃年のせいか滅多なことには驚かなくなってる私ヌルボが「さうだつたのか!」と吃驚した箇所をいくつか挙げてみましょう。
[オドロキその1]イザベラ・バードは閔妃と4度も会見し、その最後の会見の8ヵ月後閔妃は殺害された。
1895年1~2月、イザベラ・バードは2度目の朝鮮訪問をしています。
時代は日清戦争中で、朝鮮の王室・政府にとって非常に厳しい時局の真っ只中ですが、その短い間、彼女は閔妃からの内々の招きを受けて景福宮に行き、閔妃と高宗、皇太子と会ってるんですねー。さらにその後3週間の間にさらに3度も。「三度目は正式なレセプションで、四度目は厳密に内々の面会で一時間を超えた」とあります。

【イザベラ・バードの写真。閔妃に会った時は63歳でした。(この写真は何歳の時のものか不明)】
「心やさしく温和である分性格が弱く、人の言いなり」で、「気骨と目的意識に欠けていた」国王高宗の質問事項も興味深いです。(国と王室の財政が未文化だったようだし、立憲君主制の説明等は不可能とか・・・。)
また閔妃の溺愛を受けていた一人息子の皇太子は「だれの目にも完全に身体障害者であるという印象をあたえていた。・・・謁見中の大部分を母と息子は手をとり合ってすわっていた」。
閔妃については次のように描写されています。
「どのときもわたしは王妃の優雅さと魅力的なものごしや配慮のこもったやさしさ、卓越した知性と気迫、そして通訳を介していても充分に伝わってくる話術の非凡な才に感服した。」

【閔妃の肖像(?)[石版画]。歴史書や日本史の教科書によく載っていた写真は実は宮女という説も・・・。】
当時、閔妃は当時43歳。「国王の父の大院君をはじめとする敵に囲まれていた」とのことで、「毎日が闘いの日々」だったといいます。大院君が閔妃の実弟宅に時限爆弾入りの箱を送り、彼女の母、弟、甥等が殺害されたとのことです。(国の危機に、何をやっているのか・・・。)
最後の謁見の際に、閔妃が当時のイギリスのヴィクトリア女王について語った言葉が印象的です。
「あの方は望みのものをすべてお持ちです。偉大さも富も権力も。ご子息とお孫さんは王なり皇帝におなりだし、お嬢さまは女帝におなりです。栄光のなかにいらっしゃる女王陛下に哀れな朝鮮のことをお思いくださいとお願いするのはむりでしょうね。女王陛下は世のためになることをいっぱいなさっています。立派な人生を送っていらっしゃいます。女王陛下のご長命とご繁栄をお祈りします」。
イザベラ・バードは、この言葉について「かの古い歴史を持ちながらもぐらついている玉座の占有者からこのようなことばを述べられては、まさしく心に熱いものを覚えずにはいられなかった」と記しています。
2月5日にソウルを発った彼女は、その後中国(清)の南部・中央部を何ヵ月間か旅行し、夏には日本へ渡ります。10月長崎で閔妃暗殺のうわさを聞いて、彼女はソウルに直行します。
まさに激動の時代。またその中でイザベラ・バードのなんと行動的なことか。
およそ王室とかに対する思い入れは皆無といっても過言ではなく、また閔妃についてもかなり厳しい見解をもっている私ヌルボではありますが、上記の閔妃の本心を吐露したような言葉には涙が出そうになりましたねー。8ヵ月後の事件のことを思うとなおのこと・・・。
→ イザベラ・バード「朝鮮紀行」を読む(2) 朝鮮半島のトラ
→ イザベラ・バード「朝鮮紀行」を読む(3) この本は韓国で・・・
→ イザベラ・バード「朝鮮紀行」を読む(4) 断髪令が命取りとなった開化派政権
読書メモが散逸しないうちに本論に入らなければ・・・、ということで、初回はこの本の中で、近頃年のせいか滅多なことには驚かなくなってる私ヌルボが「さうだつたのか!」と吃驚した箇所をいくつか挙げてみましょう。
[オドロキその1]イザベラ・バードは閔妃と4度も会見し、その最後の会見の8ヵ月後閔妃は殺害された。
1895年1~2月、イザベラ・バードは2度目の朝鮮訪問をしています。
時代は日清戦争中で、朝鮮の王室・政府にとって非常に厳しい時局の真っ只中ですが、その短い間、彼女は閔妃からの内々の招きを受けて景福宮に行き、閔妃と高宗、皇太子と会ってるんですねー。さらにその後3週間の間にさらに3度も。「三度目は正式なレセプションで、四度目は厳密に内々の面会で一時間を超えた」とあります。

【イザベラ・バードの写真。閔妃に会った時は63歳でした。(この写真は何歳の時のものか不明)】
「心やさしく温和である分性格が弱く、人の言いなり」で、「気骨と目的意識に欠けていた」国王高宗の質問事項も興味深いです。(国と王室の財政が未文化だったようだし、立憲君主制の説明等は不可能とか・・・。)
また閔妃の溺愛を受けていた一人息子の皇太子は「だれの目にも完全に身体障害者であるという印象をあたえていた。・・・謁見中の大部分を母と息子は手をとり合ってすわっていた」。
閔妃については次のように描写されています。
「どのときもわたしは王妃の優雅さと魅力的なものごしや配慮のこもったやさしさ、卓越した知性と気迫、そして通訳を介していても充分に伝わってくる話術の非凡な才に感服した。」

【閔妃の肖像(?)[石版画]。歴史書や日本史の教科書によく載っていた写真は実は宮女という説も・・・。】
当時、閔妃は当時43歳。「国王の父の大院君をはじめとする敵に囲まれていた」とのことで、「毎日が闘いの日々」だったといいます。大院君が閔妃の実弟宅に時限爆弾入りの箱を送り、彼女の母、弟、甥等が殺害されたとのことです。(国の危機に、何をやっているのか・・・。)
最後の謁見の際に、閔妃が当時のイギリスのヴィクトリア女王について語った言葉が印象的です。
「あの方は望みのものをすべてお持ちです。偉大さも富も権力も。ご子息とお孫さんは王なり皇帝におなりだし、お嬢さまは女帝におなりです。栄光のなかにいらっしゃる女王陛下に哀れな朝鮮のことをお思いくださいとお願いするのはむりでしょうね。女王陛下は世のためになることをいっぱいなさっています。立派な人生を送っていらっしゃいます。女王陛下のご長命とご繁栄をお祈りします」。
イザベラ・バードは、この言葉について「かの古い歴史を持ちながらもぐらついている玉座の占有者からこのようなことばを述べられては、まさしく心に熱いものを覚えずにはいられなかった」と記しています。
2月5日にソウルを発った彼女は、その後中国(清)の南部・中央部を何ヵ月間か旅行し、夏には日本へ渡ります。10月長崎で閔妃暗殺のうわさを聞いて、彼女はソウルに直行します。
まさに激動の時代。またその中でイザベラ・バードのなんと行動的なことか。
およそ王室とかに対する思い入れは皆無といっても過言ではなく、また閔妃についてもかなり厳しい見解をもっている私ヌルボではありますが、上記の閔妃の本心を吐露したような言葉には涙が出そうになりましたねー。8ヵ月後の事件のことを思うとなおのこと・・・。
→ イザベラ・バード「朝鮮紀行」を読む(2) 朝鮮半島のトラ
→ イザベラ・バード「朝鮮紀行」を読む(3) この本は韓国で・・・
→ イザベラ・バード「朝鮮紀行」を読む(4) 断髪令が命取りとなった開化派政権