25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

西郷輝彦

2017年12月17日 | 音楽 ポップス

 舟木一夫、橋幸夫の感想を書いたので、御三家とよばれた西郷輝彦についての感想を書いてみる。3年ほど前に「オリオン急行」という新曲をだしたので覚えて歌った思い出がある。たぶん今もカラオケで歌えるはずだ。テレビの懐メロに出ないのは舟木と同じだ。

 デビュー曲の「君だけを」はまさに普遍的にすべての人々に通じる歌だった。自分の気持ちを歌った歌だった。歌いかたも橋や舟木よりも特徴があった。いわばもっと現代的だった。

 西郷輝彦は見事に役者に転向した。あのつり上がった太い眉が映像に似合ったのだろう。今も人気のある大河ドラマ「独眼竜政宗」で、兄貴分であり、一番の家来であり、城主ともなる片倉小十郎を演じた。これがよかった。渡辺謙の良さもあったが、西郷輝彦がそれを支えた。青春期から老年期までを演じたのだった。「江戸を斬る」では主人公だった。刑事物でも主演を演じた。歌もときどきは歌っていたが、それはすでに5、6人のバックバンドで懐メロではなく、外国の歌を歌っていた(ような気がする)。古さを感じさせない人である。脚も長く、歌いかたも格好が良かった。

 九州から出てきて芽もでず、挫折した。自殺未遂らしきことをした、という話を覚えているが、自殺未遂というのは確信がない。

 御三家三人三様の生き方である。彼もファンに支え続けられている特別な歌手、俳優である。

 三人のなかで一番当時の現代風だった西郷輝彦。病気の再発で心配されているが、また大河ドラマに出てこないものか、と期待する。老刑事役でもいいよ。

 ぼくの知ってることはこのくらいだ。頑張れ、西郷輝彦!

 あなたの歌を聴きたい。


車社会の果て

2017年12月16日 | 社会・経済・政治

 地方のひとの収入は東京で仕事をもつ人の3割減と言われている。東京は土地も家の借り賃が高い。地方はその点では安い。

 東京では車を持たなくてもよいが、地方は必需品で、下手すれば一家に2台、3台要る。うちは1台であるが、車代がばかにできない。税金、維持費、燃料費、それに買い替えをしなければならないから、そに費用も取っておかなければならない。中古車を買ったとしても100万円ほどいる。中古車3年持たせるとしても月3万円をキープしなければならない。車検の費用もいる。すると約5万円くらいは車に使うのではないか。

 食費は4、5万円あれば十分である。電気、ガス、水道で2万円あればやれる。

 消費には絶対消費と選択消費がある。生きるに絶対に必要な消費の中に入り込もうと、サプリメントの会社が懸命になる。スマホもそうであり、今や電話料金は絶対消費になろうとしている。この種の物では電化製品がある。ちゃんと査定すれば、サプリもスマホもPCも家電も選択消費である。なくても生きていける。

 普通そんなわけにはいかないから、多くの人は絶対のように使っている。

 なんどもブログで書いているが、尾鷲に自由に乗り降りのできるミニバスがあちこちで走る商売が始まるとよい。規制緩和されてミニ走るようになれば、車を手離す人も多くなることだろう。1人100円。往復200円。どこで降りても、乗ってもよい。

 尾鷲は消滅都市候補にあがっている。若者世代がますます都会に吸収されていく。地方の人たちが作った都会のインフラ。このインフラのおかげで地方の若者が都会に労働者として吸収されるのは皮肉なことである。

 小さな田舎町はどう運営されねばならないか。とりあえず、車の要らない町つくりだろう。雇用が増えるのも間違いない。持っていたい人は持ったらよい。カーシェアリンググループを作るのもよい。そしてやっぱり尾鷲の中心地で津波の来ないところに高層住宅ができるとよい。

 思うに新しい未来のための都市計画が必要なのである。

 漫画やデザインができる人、プログラマー、プロデューサーなど4、5人のクリエーティブ集団がればいい。現在の尾鷲市にはその重要さをわかる政治家が見当たらない。4人学生がソニーの商品に勝てる時代になっているのだ。

 大胆に、発想は変わらなければならない。かつてのアメリカの若者くらいに大胆にである。

 町からひとつ、ふたつと店が閉じていくのを見ると、尾鷲がちょっとずつ沈んでいくように思えてくる。

 最近、ぼくの周りで四人の人が尾鷲を出て行った。それも沈んでいく尾鷲を実感させるのだ。もう時間はないと思う。


橋幸夫

2017年12月15日 | 音楽

  この前舟木一夫のことを少し書いたので、今度は橋幸夫について思っていることを書いてみようと思う。

 舟木一夫と橋幸夫の生き方はまるで違っていて、舟木一夫はファンに支えられて生きているように思えるが、橋幸夫には一ヶ月も公演できるほどの観客動員はできないように思う。おそらく「若い奴」でボクシング演技をしていた頃は股旅物に目はつぶっても、ある種の若者をを象徴していたのではないだろうか。舟木が「暗さ」であれば橋は「明るさ」だった。胸がキュンとするのは「暗さ」である。

 昭和37,8年頃にデビューした「潮来笠」という股旅物がデビューだったのがいけなかった。カッコイイという歌手に股旅物という意外性がテレビに受けただけのことで、同時代の青春期にある人々の気持ちを掴めなかったような気がする。出す歌もまるでバラバラ感があった。「江梨子」のようなブルース調もあれば、「舞妓はん」みたいなわけのわからない雰囲気調もあった。「白い制服」「赤いブラウス」「青いセーター」という衣類の色のシリーズもあった。するとまた股旅物に戻ったり、「リズム歌謡」というものまでヒットを飛ばした。

 明るい橋幸夫は作詞家に恵まれていなかったように思う。ぼくはこれが一番残念なことだと思う。佐伯孝夫という作詞家はあまりに古すぎた。明治生まれではないかと思ったこともある。時代を歌詞に入れこむことも、若者のこころに入り込むには若者の言葉ではあり得ない歌詞も多かった。幸運なことに吉田正の門下生の代表として橋幸夫はテレビにも多く登場する。「いつでも夢を」がレコード大賞を吉永小百合と取ったことも大きいことだった。しかしながら僕には今もなお歌うに恥ずかしい歌である。舟木の「高校三年生」も恥ずかしいが、そこにはある世代の青春が反映されている。「いつでも夢を」に何が包含されているのか。「明るさ」のみである。

 「雨の中の二人」「霧氷」で吉田正から脱皮したところが最頂点で、時々、「しとしとぴっちゃん・・・」という「子連れ狼」を歌ってヒットし、「今夜は離さない」というデュエットムード歌謡をヒットさせた。それはそれは舟木一夫も及ばないヒットソングの持ち主なのである。

 舟木一夫はコアなファンを掴んだが、橋幸夫はコアなファンを掴めなかったのではないかと思うのである。

 橋幸夫が性格としてもつ「明るさ」と「声のソフト性」は多くの客層をターゲットにすることもできるが、客が散らばってしまう感もあった。北島三郎のような土臭く、海臭い大御所にもならなかった。綺麗な歌が多かったこともあるのだろう。コアのファンを形成する意志もなく、母親の介護経験のことを本にしたりして素顔を見せ始めた。

 確かに橋幸夫は多くのヒット曲をだした。「懐かしのメロディー」になるとよく顔を見せる。特集もされる。でも、吉田正の歌は松尾和子やフランク永井あたりの曲が大人の歌として優秀なのではないかと思える。このような点からも橋の若い歌は、つまり吉田、佐伯コンビは、頂点を過ぎていた、とぼくは勝手に思っている。

 でもぼくらを西郷輝彦、三田明も含めて高度経済成長期の田舎少年少女をワクワクさせたことは確かである。


時の花

2017年12月14日 | 日記

  Goo からメールが来る。「去年の今日あなたが書いたブログ」を連絡してくるのである。それで時々覗くことをする。校正してないものもある。こんなことを考えてたのか、ということもある。今日は新しい小説を書き終え、校正をした。そして幾日か幾月か頭の隅のほうに置いておいて、醸成させる。きっと気になるところが出て来る。それを手直しする。

 別に人を楽しませたいからと書いているわけではない。自己慰安のひとつである。こういう作業を週日している。決まった時刻から時刻まで、土曜と日曜を除いて毎日。土曜と日曜は頭の中であれこれ考えている。次の作品のことも考える。ほぼ頭の中はそういうことで占められていて、外から見れば暇そうにコメダやマックにいて、のんびり買い物をしているように見えるが、実は脳の中はグツグツと煮込むように動いているのである。それは映画を見るときも、テレビドラマを見るときも同じで、セリフ、構成、などに注意を払いながら見る。ぼんやり見るときというのはない。何かを求めて見ている。

 やっとこのような時間が取れるようになったのだ、と思うと、人生を振り返ってしまう。そしてまだまだ時の花を咲かせなければとひそかに思っている。


鑑定士と顔のない依頼人

2017年12月13日 | 映画

ぼくにとって、20年以上ぶりくらいによい映画を観た。ずいぶん前の映画だから、今更と思う方もいるだろうが、ぼくにとっては初めてのことだ。

 「鑑定士と顔のない依頼人」という映画だ。観終わったあと、監督を調べたら、監督脚本はイタリアの人であった。イギリス映画だと思って観ていたのだが、どうやらユーロ映画というべきなのだろう。

 この映画の何が素晴らしかったかというと、老年期に入った主人公の権威ある鑑定士に若い女性から鑑定依頼の電話がある。この若い依頼人とともに物語は進んでいく。映画途中には収集した女性の肖像画もいっぱい出て来る。

 惜しむらくは、結末の意外さにびっくりと感動があるため、何度も観る映画にならないのではないか、と思ってしまうことだ。

 それにしてもよい映画だった。自分の中でベスト10の映画に入ってしまった。

 ドクトルジバゴ、ライアンの娘、ゴッドファーザー、砂の器、そしてこの映画。齢を重ねないとわかりにくい心理というものがある。すべてのことにそれを理解する前提がある。

 ぼくにはこの映画と出会い、良いと思ったのは脚本家の想像力が理解できる前提があったのだろう。顔を出さないパニック症候群の若い女性が初めて顔を見せる場面は圧巻であった。

 この前観た「プロメテウス」は「凄い」というものだった。アキ-カリウスマキの「ルアーブルの靴磨き」は「不思議な善良さ」だった。

 この頃映画をよく観るので、良い出会いもあるというものだ。


百坪時代

2017年12月12日 | 社会・経済・政治

 今年は台風も近くを通ったことで、渡利牡蛎がうまく育つったようだ。「オトト」には殻つき牡蛎が箱詰めで並んでいる。去年は「台風が来なんだんで、あかん」と養殖業者はこぼしていた。台風の波で湖の水が入れ替わるのが望ましいらしい。

 現在庭の山茶花の花は満開である。金魚とメダカは動かずにひっそりとしている。一度年内に水替えしておこうか、と考えているところである。

 人口減少時代が始まった。ひしめきあって家を建てる時代も終わった。むしろレンタルの時代になりつつある。一世帯の宅地が百坪もあれば上等で、広すぎる物、大きすぎるものが敬遠されている傾向である。

 百坪あれば野菜作りも庭でのバーベキューもできる。車もおける。これから土地を買う人も百坪くらいで買えればよいと思う。だんだんと地方はそうなっていくだろう。大都会ではとても効率的な家やマンションがレンタルされることだろう。家を建ててもいずれ誰かが壊さなければならない。次の代やその次の代に負の遺産となってしまう可能性がある。これはとても重要なことで、不動産が価値をもたず、また不動産に縛られない社会が現出しているということだ。

 銀行も不動産の価値で融資がしにくくなっていることだろう。

 いずれは尾鷲にも中層か高層の公のマンションができ、浦村の限界集落に住む人々が尾鷲駅あたりに集まる、という効率的な暮らしができるようになるのではないか。車も維持費は高いから、どこでも乗れてどこでもおりることができる交通網が出来上がることだろう。限界集落は新産業の基地とか、賃貸型別荘の村などになっていくのではないか。

 このような方向性作りは市民が決めていくことである。

 とにかく百坪もつことの意味は大きい。いざのときの自給自足の助けにもなる。それは安心感を与える。人間は「安心」の方向に流れると思うが、やはり政治や行政がしようとすることに反対も出てくるものだ。それをあきらめてはならない。理念があれば人間はその理念の方に方向づけるものだから。

 


政治制度

2017年12月11日 | 社会・経済・政治

 人間の安心、安全、幸、不幸、自由度は政治制度による。日本は先進国の一員として、どのように受け止められているのか、ぼくは知らないが、少なくとも自由民主党がほぼ独占の状態で政権を保ち続けている。地方組織もしっかりし、自民党はこっちの水は甘いぞ、と団体組織を支援者に引き込む。利権に群がる者もいるだろう。しかしこの強力さは国民の18歳以下の人口の半分もない。約65%から70%の人々が明確な支持をしていない。これは実は不思議なことだ。

 年収850万円以上の世帯に税金を上げるという。3歳児から5歳児までの認可保育園の保育料金を無償にするという。(今のところ認可外保育園は想定されていない。これは格差につながる由々しき問題である)。タバコ税を値上げする。出国税をとるようにする。

 経済がうまくまわり、財政規律も守られて国が運営されるなら、政府がここまでしなくてもすむはずで、法人税や累進課税などの税でやっていけるはずであるが、財源がないため、このようになる。ところが企業には内部留保のお金が300兆円あると言われている。国民んお総貯金は1500兆円に迫っている。国民を節約志向で、将来に獏とした不安感を抱えている。

 ところで宗教法人は無税であり、駐車場などの商売をしても軽減税率が適応される。これも制度によるものだ。全国にある神社をまとめ上げる不思議な宗教法人神社総庁は日本会議の幹部であり、別組織に神道政治連盟をもっている。これらの団体は自民党の支持母体でもある。とくに安倍首相の頭を撫で撫でしている。だから現代権は財源がないといいながらも宗教法人に税を課すことはない。

 病院の診療報酬が上がる。クリニックでは5分診療であるが今でも5分で5000円ほどである。これには参る。10分で1万円、1時間で6万円である。

 人間の豊かさの境界線は日本pでは500万円とされ、アメリカでは700万円というデータがでている。そして、それ以上の収入に特別な幸福度があがるわけではない、という研究を読んだことがある。

 政治制度をいかに設計するか。政党に問われるのはまさにこれである。自民党は多くの悲観的な人々を巧みに取り込んでいる。だから日本では大きなイノベーションは起こらず、ソニーのスマートウォッチがアメリカのたった4人で作ったスマートウォッチに負けてしまう。

 イノベーションを起こすのも政治制度である。

 


アルブミンと血管、筋肉

2017年12月10日 | 日記

 鶏胸料理が今年の一番料理に選ばれた。牛肉や豚肉を避けて鶏料理だけに固執するアホな女性がでてきやしないか。コラーゲンいっぱいなどとブームに左右される傾向が強い人間が多い。コンドロイチンも同じ。情報が氾濫するなかで、しっかりと見極める必要が出てくる。

 鶏の肉には重要なたんぱく質であるアルブミンが含まれていない。これは血管を丈夫にする成分である。血液検査表にも必ずある項目でもある。

 このアルブミンが少ないと栄養失調だと判断される。アルブミンは牛肉、豚肉、羊肉、赤身の魚、卵、大豆には含まれている。

 齢をとっても、健康な人は牛肉をよく食べるということも聞かれる。高質のたんぱく質が多いのだ。レバーなどは栄養素の塊である。

 これはぼくの知識である。この知識が本物であるかどうか、調べてみるとよい。

 情報は確かめてみるということが現代のネット社会では必要なことなのだ。

 ぼくの母親は92歳で、転倒した。もしかしたらもう杖だけでは歩けないかもしれない。筋肉の衰えをリハビリで頑張っいるが、はたしてどうなるか。交通事故から4年。自立生活ができるようになって安心していたが、やはり年齢が重なるにつれて筋肉の衰えが顕著になってきたと思った矢先だった。この間、栄養のバランスを考えて食事の献立を考えたつもりだった。しかしやはり運動不足まで手が回らなかった。口では言い、なるべく自分のことは自分でさせる、そうして身体を使うという風にしていたのだが、不覚にも転んでしまった。筋肉を増やすということは血管を増やすということでもある。血圧の上と下の差が通常より差がありすぎることも心配している。アルブミンが多いからまだ母親はもっているのか。わからない。

 ふくらはぎの運動は寝ていても足首の上下運動でできる。明日からは大腿四頭筋、大腰筋を鍛える方法を教えようと思っている。運動を意識してやったことがない人は理解しにくいのが、問題点ではあるのだが。

 


アキ カリウスマキの映画

2017年12月09日 | 映画

 アキ カウリスマキ監督の映画作品はどれもよい。フィンランドの映画監督である。「ル-アーブルの靴磨き」も秀作だcつた。見ていると、映像に違和感がある。たとえば、東条する人間はまばたきをしない。喜びや悲しみは表にださない。表情演技は抑制されている。小道具が時代とマッチしていない。このような違和感が独特な世界を作りだしている。

 現代世界の政治的テーマをあぶりだしながらも、映像が醸し出すのは悲喜劇であり、働くものの品位ある善意である。

 フランス北部の港町ル-アーブル。そこで妻に苦労をかけながら靴磨きの仕事をヴェトナム人の男とやっている主人公。その町にコンテナーに隠れたアフリカからの難民が発見される。その難民の子供一人がロンドンにいる母のもとにいくため、コンテナから逃げ出すことから二週間ほどの話が始まる。現実感と非現実感が縦糸と横糸で織られたような映像である。アキ カリウスマキ監督の個性溢れる判断。他人を真似ることのない独自の映像が堪能できる。ヨーロッパとアメリカはちがうのだ、ということもわかる。ノスタルジーも感じる。

 ぜひお奨めしたい映画である。明日は同監督の「過去のない男」を見るぞ。


猪瀬直樹、磯田道史、西尾幹二

2017年12月08日 | 社会・経済・政治

 

 貴ノ岩の復帰について、土俵以外での怪我被害者なのだから、特例として、番付を降格させないという救済方法がある。ぼくの考えはこうである。上記の特例を認めた上で、白鵬を含めたモンゴル力士が謝罪に出向き、激励をする。貴乃花親方にもする。その映像はモンゴルのテレビでも流してもらう。そういう風に、相撲協会が段取りをつける。

 このぐらいのことを相撲コメンテーターも言っていいと思うが、言う人がいない。聞いたこともない。貴ノ岩が早く稽古に出て、ガチンコで相撲がとれるように早くなってほしいものだなあ。

  さて、猪瀬直樹と磯田道史の対談本「明治維新で変わらなかった日本の核心」を読んで、面白かった。歴史の流れについては高校生程度のことは知っているものの、細部にわたって、長年の研究成果が出ていることを知るのは目からウロコ物もある。この対談本では平安、鎌倉、室町、戦国時代のいろいろなことが語られているが、特に江戸時代のことに多くのページを使っている。

 江戸期の武士はサラリーマンで、石高の多い武士でも、知行がまとまって一か所に与えられるのではなく、遠いところに100石、また別の場所に100石とかという風に分散されていたという。また譜代大名は石高が低く、その代わりに幕府の老中になれ、権威を与え、遠い外様大名には権威を与えず、財力を与えたが、その財力は徳川親藩を上回るものではなかったらしい。

 武士は総じて貧乏であるが、町人からも恭しくもてなされていた。百姓は自由な経済活動ができ、財力をもつものも輩出している。その点では、日本の農民は朝鮮やロシアのような農奴とは違う。識字率も高かった。読み書き算盤もできる農民も多かった。この農民の自由度と経済力があって、日本は資本制や競争経済への移行がスムースにできた、という。

 思えばマルクスが洞察した資本主義社会はイギリスが想定していた。それが農奴制のきついロシアで社会主義革命が起こってしまった。社会主義になる前の資本主義時代を経ることなく、ロシアはスターリンの独裁政治を作り出してしまい、彼の死後も、共産党独裁が続き、ついには社会主義国家建設が頓挫した。下支えするのが農奴から解放された人たちであったが、それは無理というものだ。

 対談本によると、徳川家康は戦争が二度と起こらないよう、綿密な構想を立てて、地方分権制を定着させた。天皇は戦国時代には官位を売って暮らしていたが、家康は1万石を与えた。そして二度、1万石を増加し、3万石とした。

 そんな家康にも250年後の日本はわからなかったのだろう。それはアメリカ、ヨーロッパ列強の技術力である。蒸気船でまさか外国から大砲を積んだ船がやってくるとは思わなかったのだろう。船造りを規制し、重要な川の橋を作らせず、戦争を無しとした江戸幕府はアメリカの大戦や医学などにびっくりしたのかも知れない。ヨーロッパでは着々と産業革命が起こっていた。

 この対談本から知らなかったいろいろなことがわかる。一反で獲れる米の量の変遷もわかる。武士の知行についても詳しくわかる。権力、財力を捨てた皇室についてもわかる。江戸期を賛美することもないが、この時代に我々の無意識も出来上がってきたのではないかと思わせる。またそれゆえの危なかしさもわかる。

 妖怪のごとくテレビ画面に出てきたプライムニュースでの西尾幹二の言説を聴いていて、オレは違うなあ、まるで反対の考え方以上に違うなあ、と思ったのだが、同じ日本列島で生まれ、育ったのに、どのようにしてこうも考え方が違うのだろう。この強い保守意識は何なんだろう。戦争のせいなのか。ぼくは戦争経験世代ではないためか。西尾幹二もはや82歳である。無念の内に幕を閉じてもおかしくない齢である。この真正保守を自認する彼は安倍政権への失望感を愚痴り、自衛隊の予算を今の3倍にして生物である日本人を守らなければならないと嘆きのごとく恨み節を言っていた。

 などと思って、また猪瀬と磯田の対談本を寝床で読んだのだった。そして「未来年表」をまた取り出して眺めることをした。

 

 


モヤモヤする

2017年12月07日 | 社会・経済・政治

 連日の相撲界へのマスコミのエネルギーをモリカケ問題に当てろよ、と言いたくなる。もっと訊かなければならないことがあるはずだ。佐川国税庁長官とか加計孝太郎を追いかけてほしいものだ。

 天皇退位の日についても、国会で取り上げてもらいたかった。やはり、分かりやすいのは12月31日で、新天皇が1月1日だと思う。なぜマスコミは政府の発表を待つだけで、街頭インタビューも、宮内庁と官邸のやりとりも報道しない。

 今上天皇が韓国を訪問したかった。安倍政権は許さなかった。それもなぜなのか知りたい。

 トランプ大統領がイスラエルが首都と希望するエルサレムに米国大使館に移ると宣言した。これは大事件である。もうひとつ、ロシアの選手がロシアとして冬季オリンピックに参加できなくなった。もうひとつある。

 中国では習近平国家主席を讃える立看板が立てられ、民衆が毛沢東を拝むようになされている。驚いたのは北京の人口を70万人減らすために、5万人も暮らす町が2、3日の間に瓦礫に変わっていることだ。

 独裁的な政権が3大国存在することになっている。この傾向をぼくは心配している。そこへエルサレムの問題である。ロシアはバルト三国を虎視眈々と狙っているように見える。中国は南沙諸島に基地を建設し、実効支配を進めている。

 なにか相撲報道をみていて、モヤモヤするのは、マスコミの態度である。

 

 


白鵬の高度な技

2017年12月06日 | 日記

 マスコミは貴ノ岩を追いかけまわさないで、しばらくじっとしていたらどうか。このままでは引退に追い込まれる。笑って、馬鹿話をしている。相撲に興味のないタレントやコメンテーターまで付き合わされている。みじめなものだ。貴乃花の相撲観と白鵬の相撲観などどうでも、お好きなように。

 大相撲を神事などという輩もいる。確かに地方の幾つかで、相撲は神事であるところもある。確かに東京場所の前々日に出雲大社の宮司が来て、儀式を行い、次の日には相撲祭りが行司によって執り行われる。それは形式的なものである。人は神事と思おうが、興行と思おうが、どちらでもよいことだとぼくは思っている。

 ただ、白鵬の取り口を品格に欠けるとか、横綱らしくない、というのには、ぼくは違う意見をもつ。

 栃煌山にめくらましをした。猫だましをした。カチ上げ、張り出しが多くなった。

 これはりっぱな技である。例えば急いで身体を移動したら、そこにカーテンがあると、衝立があるかのように思ってしまう。その時、移動者は瞬時身体が硬くなり、カーテンを避けようとする。相撲でいえば、カーテンをみせて、ヒョイとよけるだけだ。こんな技はできるものではない。たの力士でこの技ができるものはいないのである。

 カチ上げをどうのこうの言うのもいかがなものか。ぶつかりの技である。ただし、それは立ち合いによってかわすこともできるし、有利に横から突くこともできる。カチ上げてうる腕を逆手にとることもできる。

 白鵬は優勝回数に余裕がでてきてから、いろいろな技を試すようになった。ルール内である。

 相撲をスポーツだ、格闘技だ、相撲道だというのは勝手だと思うが、重心を崩すのと、力を伝える方法と、力を利用するということに本質的な特徴がある。白鵬はその本質を、ぼくらに見せてくれる。八槽跳びもかまわない。横綱の地位にいる限り、怪我をせず、勝ち続けるのは責務である。そして白鵬の技はとても高度であると言っておきたい。

 それが品格に欠けるというのなら、横綱相撲のルールを決めればよい。この高度な技が理解できる親方衆、協会幹部hしないと思う。古武術の技も白鵬は研究しているのかもぢれない。

 

 


貴ノ岩

2017年12月05日 | 社会・経済・政治

 貴ノ岩が引退するのではないか、という危惧を僕は抱いている。どう収めるのがよいのか、貴ノ岩が初場所に戻れる環境を作ってあげないといけない。もしも初場所が休場になれば彼は幕下に落ちることになる。幕内に戻るのに2年かかると言われる。その時かれは29歳になってしまっている。精神的ダメージも大きいだろう。貴乃花親方、相撲協会、モンゴル相撲協会がどこまで彼をケアできるかだ。

 マスコミも見張り、監視を一日、二日は無くし、病院にも行き、貴乃花と弁護士の付き添いで会見をして、復帰への準備を進めて欲しい。巡業にも出ず、稽古ができない状態で、巡業が終われば一月には初場所がくる。

 ぼくはきの事件はそこにいたものたちが日馬富士が殴るのを止めないで、デンモクで殴り、血が吹き出したときに、あわてて止めたのだと推測する。共同正犯的である。いわばリンチである。

 このどうしようもなく質の低い事件で、被害者の相撲人生が終わってはいけない。

 マスコミは貴ノ岩をいじらず、そっとしてやり、稽古に

集中できるよう世間に訴えるべきである。可哀想でならない。

 有望な力士であった。大関にはなるだろうと思っていた。貴乃花も立腹、憤慨、そして残念でならないだろう。


天皇退位で思うこと

2017年12月04日 | 社会・経済・政治

 天皇の退位日と新天皇の即位の日が発表されて、それが4月30、5月1日dsということでガックリした。ぼくらには12月31日、1月1日の方が分かりやすいからだ。

 天皇について現在では考えられないことをふと思った。バリ島ではバリアンという呪術師の力を強く信じられている。警察にいくよりバリアンに行かれることを罪を犯した者は恐れる。女性は髪の毛を盗まれることに用心をする。髪の毛を持って邪悪なバリアンに行かれると、その男に身体を奪われると信じている。雲は動かせると誰しも思っている。輪廻転生も当然であると思っている。宗教的儀式には素直に従い、お供え物は毎朝欠かさない。

 日本の天皇も昔は呪術師のようであり、村から村へとその権威は高まり、いくつもあった国を従えて行ったのだろう。科学が未発達の頃だ。天変地異があり、人には不幸が襲いかかる。怨霊も、祟りも信じられていた時代が長く続いた。天武天皇の時代に朝鮮半島との縁も切り、海に囲まれた日本は独自路線で歩むことになった。武力と宗教的権威が一体化した政権はやがて、武力を捨て、五穀豊穣を祈る宗教的権威だけを持ち、雲上の人となった。

 現在のような象徴的存在というよりも、呪術的な力を畏怖させる存在にいつの間にかなったのではないか。官位を与えるという律令制度も天皇の地位を維持させた要因ではあるだろう。戦国大名などは官位を買って、宮家は生計をたてていた、というから、貨幣よりも、名誉や地位という上下関係の欲望が意識化されていた。

 脈々と天皇家は続く。今上天皇は模索しながら現在の象徴としての天皇を世間に見せながら、ぼくらが知らないところでやはり宮中祭祀を行う。

 イギリス王室のようにはなかなかにならないだろう。膨大な時間、あらゆる時代を生き通してきた世界唯一の存在である。どうなっていくのだろう。



映画「プロメテウス」

2017年12月03日 | 映画

映画「プロメテウス」を観た。このSF映画の画像に圧倒され、どこか謎めいた、啓示のような言葉が時々あらわれる。この映画の続きがこの9月にロードショーとなったらしい。

物語からすると、これが「エイリアン」に繋がっていくようだ。創造主を探しにいく探査機、降り立った銀河系のある星。そこに、なんと人類と同じDNAをもつ生物がいた。人類らしきものは一人を残して絶滅していた。

 SFというと、「スタートレック」というイメージがある。ところがこのSFは現実的に可能性がある、と思わせる。つまり、技術も現在の技術の延長にありそうだし、アンドロイドも2089年や2090年にはあり得そうである。

 一回見て、次の日再度見た。わからないところがあって、それを確認したいからだった。それでも初めのシーンと終わりがつながらなかった。

 2094年がこの話の最後だった。もしかしたら、孫たちが生きているかもしれない。そう思うと興味津々だった。そしてまたこの映画は文学作品を読むようでもあった。想像力と同時に、人間というものの謎が深化されていくようだった。この星の人間たちはなぜ滅び、なぜ再び地球に戻ろうとしたのか。「創造するには破壊が必要だ」という言葉は作者の最も言いたかったことなのか。

 エンターテイメントと芸術が合体したような作品だった。惜しむらくは、ぼくがファンであるシャリーズ セロンはころさずに続編に繋いで欲しかった。見ていない方にはぜひお奨めしたい。