25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

買い物

2017年12月02日 | 文学 思想

 帽子を被りたいと思って、ためしにミラーの前に立って見る。学生時代イギリスで、ハンチング帽を離さなかった。ハンチング帽も何帽というのか知らないがツバのある帽子も試した。ミラーで自分の姿を見るたびにショックを受けることを忘れていた。帽子似合わない。それで諦めた。

 次に冬のコートを探した。ドラマ「相棒」で甲斐くんが着ていたような、長い襟付きのロングではなく、ショートコートである。探し当てたがサイズがどれもあわなかった。他のものと探したが、見つけられなかった。

 この頃知識として興味深い本を幾つか読んでいて、読書欲が旺盛なので、世界的に話題の「ホモサピエンス全史上-下」、その他2冊の新書を買った。

 買い物というのは気持ちよいものだとまた思う。ストレスを発散させるにはよい方法であるが、ぼくはそんなにストレスに鈍い方だから、気持ちがよいとしか言えない。日常の食品を買うの違って、どちらかというと節約してもいい、それがなくても生きていけるものを買うのが買い物の中毒になる要因なのだろう。

 村上春樹の「トニー滝谷」という小説の中で、愛する人と出会い、結婚したトニー滝谷の妻は素敵な服と靴を見ると、買わなくて気がすまない女性だった。服で大きな部屋がいっぱいになったとき、とうとうトニー滝谷は優しく妻に、もうやめないか、と言った。夫を愛する妻は自分の衝動についてよく知っていて、それを抑えることを約束した。ある日、車で出かけた彼女はウィンドウに飾ってある洋服に気を取られてしまった。そこは交差点だった。他の車と衝突をして彼女は死んだ。話は続くが、これで十分である。彼女は買い物症候群である。こころの内に何か隠された穴のようなものがあったのだろう。

 極端な話であるが、現実にありそうな話でもある。買い物で爽快な気分になって、この話を思いだした。

 現代人のこころの病のひとつである。


あきれる

2017年12月01日 | テレビ

 元検事という肩書で相撲協会に入り、理事会の記者会見の席で、危機管理委員会の中間報告を行った。ぼくはあきれた。報告書の内容に、主観と客観が混っている。「あやまっていればその先にいかなかったと思われますが」というようなことは憶測の主観に過ぎない。両親を早くになくした貴ノ岩を常日頃可愛がっていた、というのも報告でするべきことでもない。モンゴル力士会についても触れるべきではない。警察の調査に任せるべきことである。

 連日のニュースを見ていると、これはリンチのようなものだと思う。数秒か、十数秒、周囲のものは見ていたのである。ぼくに言わせれば、当たり所が悪ければ命の危機さえあったかもしれない。

 まず、日馬富士は悪いことをしたと思ぅていない。旭富士親方もたいした事件でもなかったのに、どうしてこんな大事になったのか理解できていない。これは先の元検事も、理事長も同様である。

 理事長の「断腸の思い」発言にもおどろいたが、ぼくはこの元検事の報告にはもっと驚いたのだった。

 日馬富士でも白鵬でも、32か33歳のにいちゃんである。ぼくの息子より年下である。礼儀がなってない、と殴る、「兄さん」ちか「兄貴」などと呼ぶのは今の日本では、映画のヤクザくらいのもではないか。

 なんであれくらいのことで、と他の力士も思っているようでは、やがて大相撲はモンゴル力士だけになる、いや、モンゴルの若い世代さえ、個人間の対等意識が増しているかもしれない。